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35. 眠れる薔薇の下に

グスタフに名を呼ばれて、ヨハンが表の通りから駆けてきた。


「ヨハン。今すぐ野営地へ戻って支度をしろ。エステリアの王宮へ向かえ。ステファンを追うんだ」


ヨハンは、理由を聞かなかった。グスタフの顔を見ただけで、ただごとではないと分かったのだろう。短くうなずいて、馬の手綱を取った。


グスタフは、その背中を見送りかけて、ふと動きを止めた。


王都の方角を見たまま、口の中で何かを数えるように、小さく唇を動かしている。近衛。軍の上の者。そこへ向かっているのは、ステファンひとり。


グスタフが、ジェフリーを振り返った。


「隊長。俺も行く」


いつもの、どこか投げやりで粗っぽい余裕が、その声からすっかり消えていた。


「数が多いかもしれねえ。相手がもし本当に近衛なら、ヨハンひとりじゃ足りない。俺とヨハンと、できればもう一人ほしい」


ジェフリーは、すぐに答えた。


「マティアスを――」


「いや、マティアスのおっさんは、ここにいたほうがいい」


グスタフは、首を横に振った。


「入れ違いで、近衛が野営地へ来るかもしれねえ。囲いの中には三十人いるんだ。いざってときに、あそこに腕の立つやつがいなきゃまずい」


グスタフは、表の通りへ目をやった。ディーターが、馬の首を撫でながら、こちらの様子をうかがっていた。


「ディーターをもらいたい」


足の速い者がほしいのだ。ディーターは目がいいだけではない。山道でも街道でも、息を切らさずに、どこまでも獲物を追っていく。


ジェフリーは、ひとつうなずいた。


「わかった。俺の馬を使え。おまえのより速い」


グスタフの目が、一瞬だけ見ひらかれた。隊長の黒馬は、隊の誰もが一目置く馬だった。その手綱を、隊長は迷いもせずに差し出している。


「恩に着ます、隊長」


「それから」


ジェフリーは、グスタフに身を寄せた。


「俺たちは今夜、ガストンが勧めた白猫の月亭に宿をとる。あの男の目が、どこまで届いているか分からない。こちらがあの男の言葉を真に受けている、と思わせておきたい。マティアスにも、そう伝えておけ」


「白猫の月亭、ですね。承知しました」


グスタフは手綱を受け取りかけて、思い出したように付け加えた。


「それと、アルベルトのやつが、さっき、気になるところがあると言って村のほうへ回りました。日が落ちる前に必ず戻れと言ってあります」


アルベルトが「気になる」と言ったのなら、何かある。ジェフリーは、村へ続く細い道のほうへ一度だけ目をやった。


「分かった。あいつのことは、俺が拾う」


グスタフはディーターの名を呼んだ。ディーターは、何も聞かずに馬へまたがった。


グスタフがジェフリーの黒馬に飛び乗ると、三頭の馬は、野営地のある川の方角へ駆けだしていった。蹄の音が、静まりかえった麦畑のあいだを遠ざかっていく。



アヤの手の中で、頭布が、すっかり形を失っていた。


さっきまで、耳の先まで赤くしてうつむいていた人だった。その赤みが、今はどこにも残っていなかった。唇が、かすかに震えている。


「ジェフリー様……」


アヤは、館の門のほうへ一度だけ目をやってから、ほとんど息だけの声で言った。


「エステリアの軍が、このような……」


その先が、続かなかった。


エステリアの兵を名乗る者たちが、賊と組んでいる。そこまでは、アヤも覚悟していたのだろう。それが、軍の上の者かもしれない。王宮で父のそばに仕え、父が信じて国を預けている者たちの、誰かかもしれない。


――大丈夫です。何も心配はいりません。


ジェフリーは、そう言いたかった。そう言えば、少しはこの人の顔から怯えが消えるかもしれない。


それでも、その言葉は出てこなかった。確かめてもいないことを、約束するわけにはいかなかった。


「アヤ様。まだ、何も分かっていません。これから確かめます」


「でも、ステファン様が」


「大丈夫です」


ジェフリーは、アヤの目をまっすぐに見た。


「彼も、黒騎士です。そう簡単に倒れたりはしません。それに今、ほかの者も向かわせました」


そう簡単に倒れたりはしない。


口にしながら、ジェフリーには、それが祈りに近い言葉だと分かっていた。


黒騎士は、ひとりで三人分の働きをする。それでも、相手がエステリアの軍だったら。それも、この国が誇る近衛が、数をそろえて取り囲んできたら。黒騎士だからといって、胸を張って安心していられる相手ではなかった。



********



白猫の月亭は、町の大通りから一本入ったところにあった。


セドリックが部屋を断られた、あの潮風に削られた宿とは、まるで違っていた。漆喰の壁は白く塗りなおされ、窓の木枠には、まだ新しい青い塗料がのっている。軒先に下がった看板には、月を見上げる白い猫の絵が描かれていた。痩せた麦畑と、戸を閉ざした家々が並ぶこの町で、そこだけが、どこか別の土地から運んでこられたように見えた。


ジェフリーはグスタフの残していった馬を降りると、アヤの手を取って、鞍から下ろした。うしろでは、セドリックとカスパーが、自分たちの馬の手綱をまとめている。


扉を開けると、甘い香の匂いがした。


帳場の奥から、女主人らしい中年の女が出てきた。胸もとの開いた服に、指輪をいくつもはめている。女はジェフリーとアヤを見るなり、にっこりと笑った。


「お待ちしておりました。ハルセリン様ご夫妻でいらっしゃいますね」


ジェフリーは、表情を変えなかった。


ハルセリン、という名を、この宿の誰かに告げた覚えはない。館を出てから、ここまで、どこにも寄り道をしていない。道を尋ねた相手もいない。宿の前で馬を止め、扉を開けた。それだけだった。


それなのに、この女は、夫婦の名をすらすらと口にした。お待ちしておりました、とまで言った。


この名を知っているのは、館で名乗った相手だけだ。


「二階の奥の、いちばんよいお部屋をご用意してございます。護衛の方々のお部屋も、そのお隣に」


女は、壁の釘から鍵をふたつ外して、ジェフリーに差し出した。


ジェフリーの背後で、セドリックがかすかに息を吐く気配がした。


ほんの昼過ぎに、町の宿で、鍵が一本残らず掛かったままの板壁を背に、部屋はないと突っぱねられた男だった。その同じ町で、今度は名乗る前から、部屋がふたつも用意されている。


館を出てから、まだいくらも経っていない。それでも、二人が門を出て、ゆっくりと馬を進めてくるあいだに、館から宿へ人を走らせることなら、十分にできる。ガストンは、白猫の月亭を勧めたその口で、もう宿に、客の名と部屋の支度を言いつけていたのだ。


「ありがとうございます。助かります」


ジェフリーは鍵を受け取り、愛想よく礼を言った。



二階の奥の部屋は、たしかに、この町でいちばんよい部屋なのだろうと思えた。


厚い絨毯。花模様の壁紙。窓には、房飾りのついた深い色の帳が下がっている。部屋の真ん中には、天蓋のついた大きな寝台がひとつ、据えられていた。


アヤの足が、敷居のところで止まった。


ジェフリーの目も、寝台の上で止まった。


二人とも、何も言わなかった。


扉の外の廊下を、宿の者らしい足音が、ゆっくりと通り過ぎていく。ジェフリーは、その足音が遠ざかるのを待ってから、少しだけ声を大きくした。


「ナナ。少し休んでいてくれ。護衛の者と、明日のことを話してくる」


アヤは一瞬だけ目を丸くして、ちゃんと答えた。


「はい、あなた」


ジェフリーは、隣の部屋の鍵を手に、廊下へ出た。



********



同じころ、川べりの野営地では、テオが草の上に一枚の布を広げていた。


布の上には、摘んできたばかりの草が、種類ごとに並べてある。葉の形も、色も、少しずつ違う。そのひとつひとつを、ノアが膝を抱えて、穴のあくほど見つめていた。


「これは、スイバ」


テオが、先のとがった細長い葉をつまんで、ノアに渡した。


「かじってみろ」


ノアは言われたとおりに、葉の端をかじった。とたんに、顔じゅうをくしゃくしゃにした。


「すっぱい!」


「だろ。生のままだと、たくさんは食えない。湯にくぐらせて、塩をひとつまみ振る。それなら、腹の足しになる」


テオは、次の草を手に取った。細い葉の根もとに、小さな白い玉のようなものがついている。


「これは、ノビル。食うのは、根っこの白いところだ。火のそばで、皮が焦げるまで焼く。焼くと、甘くなる」


「甘いの?」


「麦粥ほどじゃないけどな」


ノアは、ノビルの白い玉を指先でつまんで、鼻に近づけた。つんとした匂いに、また顔をしかめる。それでも、手放そうとはしなかった。


テオは、布のいちばん端に置いた草を、そっと持ち上げた。細かく切れこんだ、やわらかそうな葉だった。


「これは、絶対に食うな」


ノアの顔つきが変わった。


「セリっていう、食える草にそっくりなんだ。葉っぱだけ見たら、俺でも迷う。でも、根っこを割ると、中が竹みたいに、いくつもの部屋に分かれてる。においも違う。セリは青くさいにおいだけど、こいつは、なんか、いやなにおいがする」


テオは、ノアの目を見た。


「迷ったら、食わない。それが、いちばん大事だ」


ノアは、こくりとうなずいた。


「迷ったら、食わない」


小さな声で、くり返す。


「なんで、黒騎士はこんなこと知ってるの?」


「黒騎士だって、いつでも食い物があるわけじゃないからな。荷が尽きることもあるし、敵の土地で、火も焚けないこともある。そういうとき、知らなきゃ、腹をすかせて死ぬだけだ」


テオはそう言って、少しだけ言葉を探した。


「おまえも、この先、麦粥が食えない日が、また来るかもしれないだろ。そのときに、腹をすかせたまま、草を見てるだけってのは、もったいない」


ノアは、しばらく黙っていた。


腹の傷のことを、思い出していたのかもしれなかった。麦粥を食べられた日と、食べられなかった日のことを。


やがてノアは、布の上の草を、端からもう一度手に取りはじめた。スイバをかじり、ノビルのにおいを嗅ぎ、セリに似た毒の草の根を、テオに割ってもらってのぞきこむ。字の読めないノアは、ひとつずつ、においと味と手ざわりで覚えようとしていた。


「おいら、ぜったい忘れない」


テオは何も言わずに、ノアの頭を軽く押さえた。



少し離れたところでは、エミールが地面に掘った浅い穴の前にしゃがみこんでいた。


穴の底では、湿らせた木くずが、炎を上げずにくすぶっている。その上に、枝を組んで作った棚が渡してあり、鹿の肉が何切れも並べられていた。昨夜から塩と酒に漬けておいた肉を朝に引き上げ、水気を拭って、風に当てておいたものだった。


木くずから立ちのぼる白い煙が、肉のあいだを、ゆっくりと抜けていく。エミールは、ときおり穴の上にかぶせた生木の葉をずらしては、煙の具合を確かめていた。


香ばしい匂いが、川風に乗って、野営地じゅうに広がっていた。


囲いの前で見張りに立っていたマティアスが、その匂いに、鼻をひくつかせた。


「エミール。そいつは、いつ食える」


「まだです、副隊長。あと二、三時間です。日が落ちるころには食えます」


「そうか」


マティアスが、残念そうに肩を落とした、そのときだった。


街道のほうから、蹄の音が近づいてきた。


三頭。それも、ひどく急いでいる。


マティアスは、囲いから目を離さないまま、腰の大剣に手をかけた。馬の姿が木立のあいだから見えたところで、その手が止まった。


先頭の馬は、隊長の黒馬だった。


その背に乗っているのは、隊長ではなかった。


グスタフは、野営地の入り口で馬を止めると、鞍から飛び降りた。ヨハンとディーターが、すぐうしろに続く。


「副隊長」


グスタフは、マティアスの前まで大股で歩いてきた。


「隊長が、館でガストンの化けの皮をはがした。あの野郎、白い茶が何に使われるか、ちゃんと知ってやがったんです」


マティアスの顔から、表情が消えた。


「あんなもん、そこらの貴族が知ってていい話じゃねえ。軍の中で葉っぱの勘定をしてる、お偉いさんか近衛あたりが、こっそり教えてやったに決まってる。……で、ステファンは今ごろ、その近衛を引き連れて、こっちへ戻ってくる手はずになってるってわけです」


それだけで、マティアスには十分だった。


「おまえたちが追うのか」


「俺とヨハンとディーターで行く。隊長の許しはもらった」


グスタフは、黒馬の首を叩いた。


「入れ違いで、近衛がここへ来るかもしれねえ。囲いのやつらを引き取りに来た顔をしてな。そのときは、副隊長に任せる」


「隊長と、アヤ様は」


「ガストンが勧めた、白猫の月亭に宿をとった。あいつの目をごまかすためだ」


グスタフは、そこで口の端を少しだけ上げた。


「夫婦として、な」


マティアスの眉が、ほんのわずかに動いた。何か言いかけて、やめた。大きな手で首のうしろをかくと、囲いのほうへ目を戻した。


「ここは任せろ。近衛だろうが何だろうが、囲いには指一本触れさせん」


ヨハンは、もう水の袋に川の水を詰めていた。ディーターは、三頭の馬の蹄をひとつずつ持ち上げて、蹄鉄の釘を確かめている。黒騎士の旅支度に、言葉はほとんどいらなかった。


エミールが、燻しかけの棚から鹿の肉を何切れか取り分けて、大きな葉でくるんだ。


「グスタフさん。まだ燻しは浅いですけど、今日明日で食う分なら大丈夫です」


グスタフは包みを受け取って、においを嗅いだ。


「上出来だ」


ノアが、布の上の草を抱えたまま、駆け寄ってきた。


「どこ行くの?」


テオがあわててノアの腕を引こうとしたが、グスタフのほうが早かった。大きな手が、ノアの頭をくしゃくしゃにかきまわした。


「仲間を、迎えにな」


グスタフは黒馬にまたがった。ヨハンとディーターが、それに続いた。


傾きはじめた陽の中を、三頭の馬が、王都へ続く街道へ駆けだしていった。



********



白猫の月亭の、隣の部屋には、誰もいなかった。


セドリックとカスパーは、裏の厩で馬の世話をしている。宿の者に馬を任せる気には、どちらもなれなかったのだろう。


ジェフリーは、扉を閉めると、窓際の寝台の端に腰を下ろした。


腰を下ろしたとたん、両手で頭を抱えた。


何を、言った。


何を、した。


館の応接室でのことが、今になって、ひとつずつ押し寄せてきた。


ガストンの前では、何も考えていなかった。考えている暇がなかった。あの男の目が、アヤの顔の上で止まった。このままでは見抜かれる。そう思ったときには、もう腕が動いていた。


腕を回した腰は、思っていたよりも、ずっとやわらかかった。


胴着の紐の上から、てのひらに、その温かさがじかに伝わってきた。引き寄せた勢いのまま、アヤの重みが、自分の胸へあずけられた。肩が触れ、黒髪が顎の下をかすめた。リーナたちにはたいてもらったという粉の、かすかに甘いにおいと、野営の焚き火の煙のにおいが、その髪からした。


腕の中で、アヤの息が、浅く、速くなっていた。引き寄せた背中は、こわばったまま、ほんのかすかに震えていた。それが腕に伝わってくるたびに、自分の息まで、うまく吸えなくなっていった。


館の廊下でも、そうだった。応接室を出て、玄関の大扉へ向かう磨かれた石の廊下の途中で、アヤの耳が、自分の唇のすぐ先にあった。熱かった。息を吹きかけたとき、アヤが小さく息をのむのが分かった。肩が、腕の中で、ほんのわずかに縮こまった。


ジェフリーは、抱えた頭を、さらに深く膝へ沈めた。


それだけではない。


自分は、あの男の前で、何と言ったのか。


――あの晩、寝台の上で乱れた妻の顔は……誰にも、見せたくないほどでした。


そんな夜は、ない。あるはずがない。


あれは、十四で騎士団に入ったばかりのころ、宿舎の酒の席で耳にした言葉だった。年上の騎士たちが、娼館で過ごした夜のことを、互いに張りあうように話していた。どの女がどうだった、あの晩はどうだった、と。まだ少年だったジェフリーは、その輪の端で黙って杯を握りしめ、早く席を立つことばかり考えていた。


聞きたくもなかった言葉を、自分はまだ覚えていたのだ。それどころか、ガストンのような男の前で、今度は自分の口から、さも見てきたように語ってみせた。


あの男が、それを聞いて、何を思い浮かべたか。アヤの顔を見て、どんな目をしていたか。


考えただけで、胃の底が冷たくなった。


あの重たげなまぶたの奥で、アヤがどんな姿にされていたのか。それを思うと、今すぐ館へ引き返して、あの男の頭の中から、その姿ごと叩き出してやりたくなる。


そう思わせたのは、ほかでもない、自分の口だった。


白い茶のことを、どうしてもあの場で聞き出したかった。ガストンが、薄氷草のもうひとつの顔を、本当に知っているのかどうか。それを知ることでしか、あの男の手がどこまで伸びているのかを確かめる道はなかった。


それは、言い訳だった。


アヤに、あんな思いをさせた。商人の妻の顔を崩さずにいようと、膝の上の手を握りしめていた人を、あの男の目の前で、辱めるような言葉で飾り立てた。


ジェフリーは、しばらくそのまま動かなかった。


窓の外で、どこかの戸が閉まる音がした。


ステファンは、今ごろ、何をしているのだろう。グスタフたちは、どこまで駆けたのだろう。アルベルトは、日が落ちる前に戻ると言って村へ回ったきりだ。ガストンは、自分たちの話を、誰に、どう伝えているのか。


こんなところで、頭を抱えて座っている場合ではなかった。


ジェフリーは顔を上げると、両手で、自分の頬を一度、強く叩いた。


乾いた音が、部屋の中に響いた。


立ち上がる。外套を肩にかけなおし、剣帯を確かめる。セドリックを連れて、外へ出る。今夜のうちに、確かめなければならないことが、いくらでもある。


扉の取っ手に手をかけ、引いた。


扉のすぐ前に、アヤが立っていた。


ジェフリーは、取っ手を握ったまま固まった。


アヤは、うつむいていた。頭布を両手で握りしめて、胸の前に抱えている。ほどいた黒髪の編み目が、肩から前へ垂れていた。


いつから、そこにいたのだろう。


ノックの音は、聞こえなかった。


「……アヤ様。何か、ありましたか」


ジェフリーは、廊下の左右へすばやく目を走らせてから、声を落とした。


アヤは、首を横に振った。顔は、上げなかった。


「あの……」


頭布を握る指に、力がこもる。


「お芝居は……あそこまで、必要だったのでしょうか」


ジェフリーは、取っ手から手を離した。


扉を大きく開けて、一歩、脇へよけた。アヤは少しためらってから、部屋の中へ入った。ジェフリーは、扉を閉めた。


何から話せばいいのか、分からなかった。


それでも、話さなければならなかった。


「……ガストンが、薄氷草のことを、どこまで知っているのかを確かめたかったのです」


ジェフリーは、言葉を選びながら言った。


「あの葉は、娼館で使われるような使い方のほかに、もうひとつ、表には出せない使い道があります。軍が、任務のときにだけ、決められた手順を踏んで使うものです。その使い道を知っているのは、軍の中でも、ごく限られた者だけです」


アヤが、わずかに顔を上げた。


どのような使い道なのか、とは、アヤは尋ねなかった。ジェフリーも、それ以上は話さなかった。


「もしガストンがそれを知っているのなら、軍の中の誰かが、あの男に教えたことになります。……あの男の口から、それを言わせたかったのです。そうすれば、ガストンの手が、どこまで伸びているのか分かる」


ジェフリーは、そこで一度、息を吸った。


「そのためには、こちらが、あの葉を夜の楽しみにしか使っていない、ただの好き者の夫婦に見える必要がありました。だから、あんなことを口にしました。……アヤ様を抱き寄せたのは、あのとき、あなたの顔が、ガストンにはどうしても見せられない顔をしていたからです。あの男は、ずっとあなたの顔を見ていた。疑いの目で」


アヤの頬に、また少しずつ赤みが戻ってきた。


ジェフリーは、まっすぐにアヤを見た。


「ですが、あなたに恥ずかしい思いをさせました。申し訳ありません。……もう二度と、あなたをこのような役には使いません」


アヤは、しばらく黙っていた。


やがて、困ったように、首を少しだけかしげた。


「でも……明日も、ガストン殿のところへ、夫婦として参るお約束ですよ」


ジェフリーの口が、開いたまま止まった。


そうだった。


明日、またお邪魔しても、と言ったのは、ほかでもない自分だった。薄氷草の取引の話をする、と。夫婦そろって、あの応接室へ戻る約束を、自分の口でしてきたのだ。


二度と使わないと言ったその口で、何を言えばいいのか分からなくなった。


ジェフリーの顔を見ていたアヤの口もとが、ほんの少しだけほころんだ。


アヤは、手の中の頭布に目を落とした。指先が、しわになった布の端を、何度もなぞっている。


「たしかに、恥ずかしかったです。……とても」


小さな声だった。


「あんなことをおっしゃるなんて、思ってもいなかったものですから。どんな顔をしていればいいのか、分からなくなってしまって」


アヤは、そこで言葉を切った。


頭布をなぞっていた指が止まった。その指が、いつのまにか、ブラウスの襟もとへ上がっていた。襟の内側から細い鎖を探り当てて、その先の、針金の輪のあたりを、布の上からそっと押さえている。


アヤ自身は、そのことに気づいていないようだった。


「でも、いやでは、ありませんでした」


アヤは、顔を上げた。


「ですから、もしまた、わたくしがお役に立てるのなら……いつでも、ご一緒にお芝居をいたします。夫婦でも、なんでも」


ジェフリーは、何も言えなかった。


胸の奥のどこかが、熱くなった。目の前の人が、いとおしかった。頭布を握りしめ、まだ赤い頬のままで、いつでも一緒に、と言ってくれる人が。


それでも、と、ジェフリーは自分に言い聞かせた。


この人は、エステリアの第一王女だ。


ダリアの民のために、この国の王女として、自分にできることをしようとしている。お役に立てるのなら、とこの人は言った。夫の芝居の相手が誰であっても、この人はきっと同じことを言うのだろう。その言葉に、それ以上の意味を読みとるのは、自分の勝手でしかない。


ジェフリーは、ゆっくりと息を吐いた。


「……ありがとうございます、アヤ様」


アヤが、ほっとしたように笑った。


「今夜は、あちらのお部屋から、出ないでいただけますか。この宿は、ガストンの息がかかっています。扉の外には、見張りを置きます」


「ジェフリー様は?」


「少し、確かめてくることがあります。夜が更けるまでには戻ります」


アヤは、それ以上は何も聞かなかった。小さくうなずいて、扉のほうへ歩いていく。


ジェフリーが扉を開けると、廊下の向こうから、宿の者の足音が近づいてきていた。アヤはそれに気づくと、敷居をまたぎながら振り返り、ほんの少しだけ声を張った。


「いってらっしゃいませ、あなた」


それだけ言うと、アヤは頭布で顔を半分隠すようにして、隣の部屋へ戻っていった。


扉が閉まる音がした。


ジェフリーは、しばらくその場から動けなかった。


廊下を通りかかった宿の若い男が、扉の前に突っ立っている黒騎士の顔を見て、なぜか慌てたように目をそらし、足早に通り過ぎていった。



********



ジェフリーは、外套の襟を立てて階段を下りた。


帳場の女主人が、にこやかに会釈してくる。ジェフリーはそれに軽く応えて、厨房の脇の細い通路を抜け、裏口から宿の裏手へ出た。


裏の厩では、セドリックとカスパーが、ちょうど馬の飼い葉を替え終えたところだった。ジェフリーの足音に気づいて、二人がそろって振り返る。


ジェフリーは、厩の入り口で足を止めた。


「カスパー。アヤ様の部屋は、二階の奥だ。今夜は、扉の前から動くな。宿の者が何と言おうと、誰も中へ入れるな」


カスパーは、黙って大きくうなずいた。いちばん重い荷を、いちばん手際よく運ぶ男は、どんなに重い扉の前でも、朝まで立っていられる。干し草のついた手を払うと、カスパーは裏口から宿の中へ入っていった。


「セドリック。来い」


セドリックは何も聞かずに、剣帯を締めなおした。


二人は、宿の正面には回らず、厩の裏の路地へ抜けた。


しばらく黙って歩いたところで、セドリックがぽつりと言った。


「隊長。俺たちが宿に着いてすぐ、帳場の女が、下働きの子どもをひとり、館の方角へ走らせていました」


「ガストンなら、そのくらいの手は打っておくだろう」


ジェフリーは、前を向いたまま答えた。足を止めずに、そのまま続ける。


「明日の朝には、俺たちが一つの部屋に入ったことも、俺が隣の部屋へ移ったことも、あの男の耳に入っているはずだ」


「隣へ移ったのは、まずくないですか」


「護衛と明日の打ち合わせをしていた。ナナは、旅の疲れでひとりで先に休んだ。そう話は通る」


セドリックは、何か言いたそうな顔をした。結局、何も言わなかった。


かわりに、別のことを口にした。


「隊長。館で、隊長とアヤ様がガストンと話しているあいだ、俺はカスパーと館の西側を回っていました」


ジェフリーが、セドリックを見た。


「裏の垣根の外に、足跡がありました。片方の足を引きずった跡です。館の裏口から、海へ下りる小道のほうへ続いていました。……途中の茂みに、これが」


セドリックは、懐から布切れを一枚取り出した。汚れた細い布で、真ん中に、赤黒くこわばった古い血の染みが広がっていた。足に巻いていたものを、巻きなおしたときに捨てていったのだろう。


ジェフリーの足が、止まった。


片足を引きずる男。


「崖の洞窟から逃げた男か。右の足首に、ディーターがしるしをつけた」


「おそらく」


ジェフリーは、海のほうへ目をやった。


あの男は、館へ駆けこんでいたのだ。洞窟が見つかったことも、女たちが連れ出されたことも、ガストンはとうに知っていた。そのうえで、黒騎士の夫婦を館へ招き入れ、顔色ひとつ変えずに、にこやかに商いの話をしてみせた。


そして、知らせを持ってきた男は、館の裏から、海へ下りていった。


ジェフリーは、アルベルトの報告を思い返していた。洞窟の奥の穴の底から、塩辛い風が吹き上げていた、と。ディーターは、その風がどこかへ抜けている、と言ったという。そして、逃げた男は、船乗りのような身なりをしていた。


「傷を負った足を引きずってまで、あの男は、海へ向かった」


ジェフリーは、ぽつりと言った。


「海のほうに、まだ俺たちの知らない何かがあるのかもしれない。船で誰かに知らせに行ったのか。それとも、海の側に、ガストンが隠しているものがあるのか。……どちらにしても、今夜、館と海のあいだで、何かが動くかもしれない」


ジェフリーは、セドリックに向きなおった。


「館の裏から、海へ下りる道を見張りたい。人が通るか、荷が動くか。おまえの目がほしい」


セドリックは、短くうなずいた。


「その前に、アルベルトを拾う。日が落ちる前に戻ると言ったまま、まだ村から戻っていないはずだ」



町を出ると、麦畑の向こうに、陽が沈みかけていた。


館から村へ続く細い道を、ジェフリーとセドリックは、足音を殺して歩いた。


道の先に、人影がひとつ見えた。


ぶらりとした歩き方。それでいて、足音がほとんどしない。


アルベルトだった。


アルベルトは、二人の姿に気づくと、足を止めた。いつもの軽い調子で片手を上げかけて、途中でやめた。


「隊長。……どうして、ここに。グスタフは?」


「王都へ向かわせた。ヨハンとディーターも一緒だ。アヤ様は、ガストンが勧めた白猫の月亭にいる。カスパーをつけてある」


アルベルトは短くうなずくと、夕闇の中で、村のほうを振り返った。痩せた麦畑の向こうに、農家の屋根がいくつか、黒い影になって並んでいる。


「農家のうちのひとつに、気になるものがありました」


アルベルトは、そう言って、ジェフリーに向きなおった。


「隊長に、見てもらいたい」



********



アルベルトが案内したのは、村のいちばん外れにある、小さな農家だった。


母屋の脇に、古い納屋が建っている。母屋の窓からは、細い灯りがもれていた。アルベルトは母屋の戸口に向かって、軽く片手を上げてみせた。窓の向こうで、人影がひとつ、小さくうなずいたように見えた。


「話は、つけてあります」


アルベルトは、納屋の戸を引いた。


中に足を踏み入れたとたん、ジェフリーは思わず立ち止まった。


花だった。


梁という梁から、数えきれないほどの花の束が、逆さに吊り下げられていた。薔薇。名の知らない白い小花。青い花、黄色い花。どれも色が少しくすみ、かさかさに乾きかけている。床の上にも、藁を敷いた木箱がいくつも並べられ、その中に、摘んだ花が、山のように積み上げられていた。


乾いた花の甘いにおいと、藁のにおいが、納屋の中にこもっていた。


アルベルトが、梁から下がった花の束に、ランタンの明かりを向けた。


「若様……ルシアン殿が、ここの家に預けていったそうです。眠れる薔薇を、人の手で作ってみるための花だと。サルヴィアから戻ったら、試すから、それまで日陰で乾かしておいてくれ、と」


花祭りの日、ルシアンは、咲いた花を急な寒さで乾かせば、色も形も残るのではないかと話していた。その試しのための花なのだろう。


「この家は、若様から施しとしてパンを受け取っている家なんです。そして、若様はここの主人を信用していた」


アルベルトは、床に並んだ木箱のひとつの前にしゃがみこんだ。


「問題は、こっちです」


アルベルトは、木箱に積まれた花の山を、両手でそっとかき分けた。


花の下には、藁が敷かれていた。その藁を、さらにかき分ける。


ランタンの明かりの中に、鈍い光が浮かびあがった。


剣だった。


一本や二本ではなかった。藁の下に、鞘に収められた長剣が、何本も、ぎっしりと並べられていた。そのさらに下には、槍の穂先が、布にくるまれて重ねられている。


ジェフリーは、黙ってその前に膝をついた。


一本を抜き出し、鞘から半分だけ刃を引き出す。ランタンの明かりに、刃をかざした。


刃の根もとに、小さな刻印が打たれていた。山の形を三つ重ねた印だった。


ジェフリーには、見覚えがあった。


サルヴィアの北、鉱山のふもとの鍛冶の町で打たれる剣にだけ入る、印だった。黒騎士の剣の多くも、同じ町の鍛冶場から来る。


「サルヴィアの剣だ」


セドリックが、ジェフリーの肩越しに刃をのぞきこんだ。


「ソラスの手前の街道に、落ちていたという剣も……」


「おそらく、これと同じものだろう」


ジェフリーは、刃を鞘に戻した。


サルヴィアの剣が、エステリアの、それも国境の痩せた村の納屋に、花の下に隠されて眠っている。


アルベルトが、別の木箱を指さした。


「ほかの箱も、同じです。花の下は、全部、武器でした」


ジェフリーは、並んだ木箱を見渡した。


これだけの数を、ガストンは、何に使うつもりなのか。ダリアの騎士を名乗る荒くれ者たちに持たせるには、多すぎる。それに、あの者たちの得物は、刃の欠けた山刀や、錆びた剣ばかりだった。こんな上等な剣を、持たされてはいなかった。


使うためではない。


売るためだ。


ジェフリーは立ち上がろうとして、床の上の、何かに目を留めた。


木箱と木箱のあいだ、床板の継ぎ目に、白いものがいくつか挟まっていた。


しゃがみこんで、指先でつまみ上げる。


小さな粒だった。薄い茶色の、かさかさとした殻に包まれている。麦の粒よりも細長く、殻の表には、細かな筋が何本も走っていた。


ジェフリーは、その粒を親指と人差し指の爪のあいだにはさんで、ぐっと押しつぶした。


乾いた殻が、小さな音を立てて割れた。殻の中から出てきたのは、淡い飴色をした、細長い粒だった。表面はなめらかで、殻と同じように、うっすらと筋が残っている。


ジェフリーは、その粒をもう一度爪にはさみ、力をこめた。


粒が、ぱきりと二つに割れた。割れ目の内側は、白かった。粉をふいたような、乾いた白さだった。


「……米だ」


アルベルトとセドリックが、そろってジェフリーの手もとを見た。


ジェフリーは、床に目を走らせた。継ぎ目の奥に、同じ殻つきの粒が、まだいくつも挟まっている。木箱の陰にも。荷車の轍の跡らしい、床の土のくぼみの中にも。


米は、高い。


エステリアの中でも、水の豊かな一部の水田地帯でしか、まとまった量は作られていない。上等な米ともなれば、麦の三倍の値がつく。サルヴィアの寒い土地では、まったく育たない。


痩せた麦しか育たないダリアの、それも、パンを受け取らなければならないほど貧しい農家の納屋に、米がこぼれ落ちている理由がない。


ジェフリーの頭の中で、ばらばらだったものが、ひとつずつ並びはじめた。


王都からダリアへ、毎年送られていたという、荷馬車五十台分の麦。それが、民の手には、ほとんど届いていなかった。


剣の代金を、その麦で払ったらどうなるか。


ジェフリーは、財務を預かる父の書斎で、幼いころから聞かされてきた数字を思い出していた。


上等なエステリアの米は、サルヴィアでは、富裕な家の食卓にしか上らない。エステリアでは、一袋三十セラ。麦なら、同じ重さで十セラほどだ。ところがサルヴィアへ持ちこめば、上等米は一袋三十ゼルで売れる。麦は、一袋六ゼルほどにしかならない。


同じ三十ゼルを得ようとすれば、麦なら五袋いる。だが、エステリアで上等米一袋を買うために必要なのは、麦三袋分――三十セラほどの金で足りる。そのうえ、北へ運ぶ荷も、五袋から一袋になる。


王都から届いた麦をどこかで売り、その金で上等米を買う。その米を北へ運び、サルヴィアで売る。そこで得た金を、武器の仕入れに回す。


民の口に入るはずだった麦は、米に姿を変えて北へ運ばれ、武器に変わって南へ戻ってきていたのだ。


だから、剣のそばに、米の粒が落ちている。


「隊長」


アルベルトが、ジェフリーの顔を見ていた。


「王都から来た麦は、どこかで一度、米に化けている。……そういうことですか」


ジェフリーは、手のひらの白い粒を見下ろした。


「まだ、推測にすぎない。だが、そう考えれば、麦がどこへ消えたのかの説明はつく」


アルベルトは、ゆっくりと息を吐いた。


「館の裏に、潰れた鎧の山がありました。どこかに、それを打ちなおす工房があると思って、ここまで探しに来たんです」


アルベルトは、花の下の剣に目を落とした。


「工房は、ダリアにはないのかもしれません。潰した鎧は、鉄くずとして北へ送る。米と一緒に売って、その金を武器の仕入れに回しているのかもしれない。……打ちなおすのは、サルヴィアの鍛冶屋のほうだ」


ジェフリーは、アルベルトを見た。


「どうして、この納屋だと分かった」


アルベルトは、少しだけ口の端を上げた。いつもの軽さが、ほんのわずかに戻っていた。


「ここの主人と、話をしたんです。……少し、手間はかかりましたけど」



********



昼過ぎ、アルベルトがこの家の前を通りかかったとき、主人は、母屋の裏の井戸のそばで、途方に暮れたように立っていた。


井戸の釣瓶を引き上げる滑車が、壊れていたのだ。軸の木が割れ、縄が溝から外れて、桶は井戸の底に沈んだままになっていた。


黒い外套のアルベルトを見るなり、主人の顔がこわばった。母屋の戸口から顔をのぞかせた女房が、慌てて戸を閉めようとした。


アルベルトは、何も言わずに井戸のそばへ歩いていくと、外套を脱いで、壊れた滑車を見上げた。


「直していいですか」


主人は、答えなかった。答えられなかったのだろう。


アルベルトは、納屋の脇に転がっていた薪の中から、手ごろな太さの枝を一本選び出した。腰の短剣で、割れた軸とそっくり同じ太さに削っていく。削りながら、ときどき目を細めて、軸の穴に当ててみる。古い時計屋の作業台で、父がそうしていたのと同じ手つきだった。


新しい軸を通し、縄を溝にかけなおす。井戸の底へ鉤を下ろして、沈んでいた桶を引き上げた。


水の満ちた桶が、ぎい、と滑車を鳴らして上がってきた。


主人は、しばらく黙ってそれを見ていた。


「……あんた、何者だ」


「通りすがりの、時計屋の息子です」


主人は、何とも言えない顔をした。それでも、戸口の女房に向かって、白湯を持ってこいと言った。



白湯の椀を両手で包みながら、主人はぽつりぽつりと話した。


納屋の花は、若様から預かったものだということ。若様は、この家の働きぶりを買ってくれて、パンを届けるたびに、畑のことを親身になって聞いてくれたこと。


「若様に頼まれたものだ。誰にも触らせちゃならねえと思ってた」


主人は、そこで唇を噛んだ。


「なのに、そのうち、館の方々が来るようになった。若様の花を傷めないように、詰めの藁を運んでくるだけだと言ってな。夜に来て、夜のうちに帰る。納屋の奥の箱には手を触れるな、若様の大事な品だから、と」


館の方々は、ときどき、藁を積んだ荷車を一台、納屋に置いていった。また、夜のうちに、それを引いていった。


主人自身も、藁を積んだ荷車を一台持っていた。秋に刈った麦の藁を束ねて、ソラスの市へ売りに行く。この家にとっては、貴重な稼ぎだった。


数日ほど前のことだった。


納屋には、藁を積んだ荷車が、二台並んでいた。どちらも同じような古い荷車で、同じように藁が積まれていた。


その朝、主人は、まだ暗いうちに荷車を引いて、ソラスの市へ向かった。


「重いな、とは思ったんだ。去年の藁は、湿ってたのかもしれねえ、ってな」


主人は、白湯の椀の縁を指でなぞった。


ソラスまで、あと半日というところで、男たちに囲まれた。顔を布で隠した男たちだった。主人を殴り倒すと、何も言わずに、荷車ごと引いていってしまった。


「藁しか積んでねえ荷車だぞ。なんで、あんなもんを」


主人は、今でも分からないという顔をしていた。


男たちのひとりが、去りぎわに何かを落としていった、と、あとになって村長から聞いた。剣だったという。主人には、そんなことはどうでもよかった。売るはずだった藁が、荷車ごと消えた。そ冬を越すための稼ぎが、ひとつなくなったのだ。


腑に落ちないことが、もうひとつあった。


村へ戻ってみると、納屋には、自分の荷車がちゃんと残っていた。藁も、刈ったときのまま、手つかずで積まれていた。


なくなったのは、館の方々が置いていった荷車のほうだった。


「あの日の前の晩にな、館の方々が、納屋の外でぼやいてるのを聞いたんだ」


主人は、思い出すように目を細めた。


「今度も遅れたら、崖の下の船に置いていかれる。そうしたら、旦那に何を言われるか分からねえ、ってな」


崖の下の船。


それを聞いたとき、アルベルトの耳の奥で、あの音がよみがえった。


ドラゴンの爪あとの洞窟の底から吹き上げていた、ごうっという音と、塩辛い風。重い荷でも運べる滑車。泥のついた荷車が二台、置かれていた地下の広間。


あの洞窟の底は、海につながっている。そこに、船が着くのだ。


あの朝、藁の荷車は、本当は崖の洞窟へ運ばれるはずだった。それを、主人が自分の荷だと思いこんで、反対のソラスへ引いていってしまった。荷を待つ船が出てしまう前に、館の者たちは慌てて追いかけ、街道で荷車ごと奪い返した。そのとき、藁の中から、剣が一本、こぼれ落ちたのだ。



********



話し終えると、アルベルトは、花の下の剣に、もう一度ランタンの明かりを向けた。


ジェフリーは、黙って聞いていた。


ソラスの手前の街道で、農民が襲われ、サルヴィアの剣が落ちていた。その話を聞いたから、一行は遠回りを選び、ダリアへ立ち寄ることになったのだ。


ガストンの荷が遅れ、一台の荷車が取り違えられた。そのたった一本の剣が、黒騎士をここまで連れてきた。


崖の下には、船が着く。足を引きずった男が海へ下りていったのも、おそらく、そのためだ。


ジェフリーは、手のひらの米粒を、懐の布にていねいに包んだ。


「アルベルト。この納屋のことは、まだ誰にも話すな。ここの主人にも、今夜のことは誰にも言わないよう、念を押しておけ。……ガストンの手の者が、いつまたここへ来るか分からない」


アルベルトは、母屋の窓の灯りを振り返って、肩をすくめた。


「任せてください。あの親父さん、頑固そうですからね。それに、滑車を直してもらった恩ってのは、案外重いもんですよ。俺のほうから、もう一回、ちゃんと釘を刺しときます」


ジェフリーは、納屋の戸口から、海のほうを見た。


夕闇の向こうで、館の窓に、ぽつりと灯りがともっていた。



********



夜が明けたばかりのエステリア王宮では、近衛の詰所に隣りあう軍の食堂が、朝の支度の匂いに満ちていた。


ステファン・ベックが目を覚ましたのは、まだ夜の明けきらないころだった。泥の底から引き上げられるように目を開けると、窓の外の空が、ようやく白みはじめていた。


ひと晩、一度も目を覚まさずに眠ったのは、いつ以来だろう。


身支度を整えて客間を出ると、廊下で大法官オズワルドが待っていた。オズワルドは、ステファンの顔色を見て、ほっとしたように目もとをゆるめた。


「よくお休みになれたようですね。近衛の支度も、まもなく整います。それまでに、どうか何か召し上がってください。客人のための食堂へ、ご案内いたしましょう」


ステファンは、少し迷ってから、口を開いた。


「もしお許しいただけるなら、兵の方々の食堂へ、案内していただけませんか」


オズワルドが、少し驚いた顔をした。


ステファンは、寒村の貧しい家で育った。銀の食器と白い卓布に囲まれていると、どうにも喉を通らない。兵の食堂なら、サルヴィアの騎士団の宿舎と同じ匂いがするだろう。それに、近衛の詰所のそばなら、支度の様子も、誰よりも早く分かる。


「それに、近衛の方々の支度が整ったら、すぐに発てますから」


オズワルドはそれ以上何も聞かずに、軍の食堂へ連れてきてくれた。


長い卓の端で、ステファンは、湯気の立つ木の器を両手で包んでいた。


豆と、刻んだ野菜と、塩漬けの肉を煮こんだスープだった。ひと口すすると、温かさが、空っぽの腹の底まで落ちていった。思っていたとおり、どこの国でも、兵の食堂のスープは、同じ味がした。


隣の卓では、朝の当番を終えたらしいエステリアの兵たちが、黒い外套のステファンを、ちらちらと珍しそうに眺めていた。


食堂の入り口のあたりが、ふいにざわめいた。


兵たちが、一斉に椅子を鳴らして立ち上がる。


ステファンが顔を上げると、二人の少女が、食堂の中へ入ってくるところだった。


ひとりは、淡い色の巻き毛を美しく結い上げた、すらりとした少女だった。もうひとりは、それよりいくらか背が低く、両腕に、大きな包みを大事そうに抱えている。包みは、桃色の紙でくるまれ、口を大きなリボンで結んであった。


煤けた梁と、使いこんだ長い卓が並ぶ兵の食堂に、そこだけ、朝の光がまとめて差しこんだようだった。


アヤ殿下の三人の妹姫は、「エステリアの薔薇」と呼ばれている――ステファンも、そう聞いたことがあった。


二人とも、眠れずに夜を明かしたような顔をしていた。少しだけ赤くなった目もとで、食堂の中を、誰かを探すように見回している。それでも、その不安げな顔さえ、どこかで咲いたばかりの花のように見えた。兵たちが息をのんで立ちつくしているのも、無理はなかった。


ステファンが思い出したのは、別の顔だった。


野営の焚き火の前で、慣れない火打ち石を手に、黙って隊の若い騎士の手もとを見ていた人。この二人は、その人の妹なのだ。


身なりを見れば、誰なのかは分かった。


ステファンは、慌てて器を卓に置き、立ち上がって膝を折ろうとした。


「どうぞ、そのままで」


巻き毛の少女が、すっと手を上げてそれを止めた。


「お食事の途中に、ごめんなさい。わたくしは、第三王女のマリサ。こちらは、妹のリカです。……長い道のりを、休まずに駆けてくださったと聞きました。どうぞ、温かいうちに召し上がってください」


ステファンは、膝を折りかけたまま固まった。


王女の前で、座ってスープをすするわけにはいかない。それでも、王女に座れと言われて立ったままでいるわけにもいかない。


迷っているうちに、リカが、ステファンの向かいの長椅子に、ちょこんと腰を下ろしてしまった。


「ねえ。アヤ姉様は、元気?」


まっすぐな目だった。


ステファンは、ようやく腰を下ろした。


「はい。お元気でいらっしゃいます」


ステファンは、少し考えてから、言葉を足した。


「野営では、焚き火もご自分で起こされます。隊の若い騎士に、早く火を起こす方法を教えてくださったこともあります。夜には、皆に花のお茶を淹れてくださいます」


賊に囲まれたことも、溺れかけた騎士を岸へ引き上げたことも、ステファンは口にしなかった。


この幼い王女たちに、遠い空の下の姉を案じて、眠れない夜を重ねさせることはない。


リカの目が、まんまるになった。


「アヤ姉様が、火を?」


「はい。隊の誰よりも、手際がよろしいくらいです」


リカは、マリサの顔を見上げた。マリサは、口もとに手を当てて、笑いをこらえるような顔をしていた。それでいて、その目は、少しだけ潤んでいた。


リカは、抱えていた桃色の包みを、卓の上にそっと置いた。


「これ、アヤ姉様に渡して。日持ちのするお菓子なの。旅の途中でも、悪くならないように。アヤ姉様がいつも作ってたのを、真似して作ったの」


中に何が入っているのかは、言わなかった。包みは、思っていたよりも軽そうだった。


続いて、マリサが、腰に下げていた小さな布袋を外した。


「わたくしからは、これを。庭で育てたハーブを乾かしたものです。傷の手当てにも、眠れないときのお茶にも使えます。姉様なら、使い方はお分かりになるはずですから」


ステファンが、包みと袋に手を伸ばしかけた、そのときだった。


「マリサ殿下。リカ殿下」


食堂の入り口に立っていたオズワルドが、困ったように歩み寄ってきた。


「お気持ちは、よく分かります。ですが、この黒騎士殿は、荷運びのためにエステリアへいらしたのではありませんよ。これから、近衛とともに、また長い道を急いで戻られるのです」


リカの顔が、くしゃりと歪んだ。マリサも、手にした布袋を、そっと胸もとへ引き寄せた。


ステファンは、二人の王女の顔を見ていた。


故郷の、北の寒村のことを思い出していた。


休みをもらって家へ帰るたびに、母も、弟も妹も、何も持たせられるものなどないのに、何かを持たせようとした。干した木の実をひとつかみ。母が夜なべして繕った手袋。弟が川で拾った、きれいな石。そんなものを、軍へ戻る兄の荷に、こっそりと押しこんできた。


持たせる物の大きさではないのだ。遠くへ行ってしまう人に、自分のことを、少しでも思い出してほしい。無事でいてほしい。そういう気持ちを、手で渡せる形にしたものだった。


「大法官殿」


ステファンは、オズワルドに向かって軽く頭を下げた。


「どちらも、軽いものです。私が、アヤ様にお渡しします」


ステファンは、桃色の包みと、ハーブの袋を、両手で受け取った。


リカの顔が、ぱっと明るくなった。マリサは、何も言わずに、深く頭を下げた。王女が、他国の騎士に向けて下げる頭としては、ずいぶん深かった。


「必ず、お届けします」


ステファンがそう言ったとき、食堂の入り口に、また人の気配がした。


入ってきたのは、軍務卿ローレンス・エヴァレットだった。


ローレンスは、王女たちの姿に気づいて一礼すると、ステファンのほうへ向きなおった。


「ベック殿。近衛の支度が整いました。すぐにでも、ダリアへ発てます」


ステファンは、立ち上がった。


「ありがとうございます、閣下」


「此度は、事が事だけに、近衛の騎士団長が自ら隊を率いることになりました」


ローレンスは、どこか頼もしそうに言った。


「王家の紋を掲げ、エステリアの兵を騙る者どもが、民を苦しめている。身内の恥は、身内の手でそそぐべきだと、団長自ら名乗り出てくれたのです」


ローレンスの背後から、ひとりの男が進み出た。


磨きこまれた白銀の胸当ての上に、王家の紋を縫いとった深い青の外套を羽織った男だった。


背筋はまっすぐに伸び、表情には人を警戒させない穏やかさがあった。


男は、ステファンの前まで来ると、胸に手を当てて、丁寧に頭を下げた。


「エステリア近衛騎士団長、ロラン・ベルニエです」


ステファンも、慌てて頭を下げた。


「サルヴィアの黒騎士、ステファン・ベックです」


「書状を届けてくださったのは、あなたでしたね。たったひとりで、ダリアからここまで。……エステリアの民のために、ありがとうございます。心から、礼を申し上げる」


その声は、穏やかで、温かかった。


ロランは、ステファンに右手を差し出した。ステファンがその手を握ると、ロランは、もう片方の手を、その上からしっかりと重ねた。


ステファンの胸の奥で、張りつめていたものが、ほんの少しだけほどけた。


近衛の騎士団長が、自ら来てくれる。これで、ダリアの民に、ようやく麦が届く。囲いの中の三十人も、エステリアの法のもとで裁かれる。


「それで、ベック殿」


ロランは、穏やかな顔のまま尋ねた。


「ダリアには今、どなたが残っておられるのです?」


「ハルセリン隊長以下、黒騎士が十名あまりと、アヤ殿下です。川べりの野営地には、捕らえた賊が三十人、囲いに入れてあります」


ロランの目尻のしわが、ほんの少し深くなった。


「三十人も。それは、さぞご苦労なさったことでしょう」


ロランは、ステファンの腕の中の、桃色の包みとハーブの袋にちらりと目をやった。


「では、一刻も早く参りましょう。その者たちを、我々近衛が、責任をもって引き取らせていただきます」


ステファンは、深くうなずいた。


野営地に乗りこんできた、あの鎧の男たちのことを思い出していた。エステリアの兵を名乗りながら、アヤ様の名を聞いても、眉ひとつ動かさなかった男たち。名も名乗らず、礼もとらず、頭ごなしに言いつのっていた。


目の前の騎士団長は、まるで違った。他国の一騎士にすぎない自分に、深々と頭を下げ、手を重ねて礼を言った。


本物のエステリアの騎士とは、こういう人のことを言うのだろう。この人が来てくれるのなら、隊長も、きっと安心なさる。


ステファンは、ロランの青い外套の背中について、食堂を出た。



ロランは、振り返らなかった。


目尻のしわを少しも崩さないまま、前を見て歩いていた。外套の陰で、手袋をはめた指が、一本ずつ、ゆっくりと折られていく。


三十人。


その中には、ガルドもいるのだろう。ボリスも。ダリアの騎士だの、エステリアの兵だのと名乗らせて、ガストンのために畑を荒らさせてきた連中だ。黒騎士に捕らえられたのなら、口を割るのは時間の問題だった。いや、もう割っているかもしれない。


ガストンめ。崖の荷も守りきれずに、とうとう黒騎士を呼びこんだか。


引き取らせていただく、と、自分は言った。


三十人を、生きたままエステリアの法のもとへ連れていくとは、ひと言も言っていない。


ロランのうしろで、ステファンの腕の中の桃色の包みが、かさりと小さく鳴った。

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