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34. 館に隠れる小さなほころび

通されたのは、館の一階の奥にある、広い応接室だった。


高い天井から、古い燭台がいくつも下がっている。窓には厚い緞帳がかかり、壁には色の褪せた織物と、海を描いた油絵が一枚。床の絨毯は、もとは深い赤だったのだろう。ところどころ擦り切れて、織り目から白い糸がのぞいていた。部屋の中央に据えられた長椅子と卓だけが新しく、磨きこまれた卓の脚が、緞帳の隙間から差しこむ光を受けて、鈍く光っている。


外のまばらな麦畑を見てきた目には、その新しい家具だけが、どこか浮いて見えた。


アヤは長椅子の端に腰を下ろすと、頭布をほどいて、膝の上でそっとたたんだ。編んだ黒髪が、背中へ落ちる。隣では、ジェフリーが外套を肩から外し、腕にかけていた。二人をここへ案内した執事は、主人を呼んでまいります、と一礼して下がっていった。


扉が閉まると、部屋には二人だけが残った。


アヤは、たたんだ頭布の端を指先でなぞりながら、ここへ来るまでに二人で決めたことを、頭の中でもう一度順にたどった。


ナナ・ハルセリン。サルヴィアの街で、雑貨と薬を商う女。大きな商会には加わらず、自分ひとりの力で商いを大きくしたいと考えている。夫のジェフリー・ハルセリンは黒騎士で、今回は妻の行商に付き添い、エステリアの花祭りの見物がてら、二人でやってきた。


花祭りのことは、外せなかった。


この時期にエステリアにいる商人が、あれほどの祭りに足を運ばないはずがない。話がそこへ及べば、見たもの、食べたもの、歩いた通りのことを、自分の言葉で話せなければならない。


アヤは、膝の上の頭布を見下ろした。


炭火で焼いた山鳥の串。老婆に譲ってもらった花籠。空から降ってきた花乙女の花びら。人波の中で、腰に回された腕。


ジェフリーと歩いたあの日のことが、まさかこんなところで役に立つとは、思ってもいなかった。


「アヤ様」


隣から呼ばれて、アヤは顔を上げた。


ジェフリーが、扉のほうを気にしながら、こちらへ身を寄せていた。何か、念のために確かめておきたいことがあるらしい。


アヤは、その呼び方を聞くなり、ほんの少し頬をふくらませた。


「ナナです」


ジェフリーの口が、言いかけた形のまま止まった。


アヤは、まっすぐにジェフリーを見ていた。ここはもう館の中なのですよ、分かっていらっしゃいますか、と、その目が言っている。


「……ナナ」


ようやく、ジェフリーはその名を口にした。


「はい。なんでしょう、あなた」


アヤは、少しもためらわずに答えた。商人の妻が、夫に呼ばれて返事をするときの、気負いのない、やわらかな言い方だった。


あなた。


ジェフリーは、言おうとしていたことを、一瞬で見失った。


芝居だということは分かっている。この人は、自分で決めた役を、決めたとおりに演じているだけだ。分かっているのに、その一言が耳に入ったとたん、胸の奥のどこかが勝手に跳ねた。息を整えようとして、かえって息の吸い方が分からなくなる。剣を向けられたときでさえ、こんなふうに乱れたことはなかった。


落ち着け。ここは敵の館の中だ。


ジェフリーは、膝の上で一度だけ拳を握り、ゆっくりと開いた。


「……約束です」


ようやく出てきた声は、自分の耳にも、少しかすれて聞こえた。


「私が何を言っても、必ず、話を合わせてください」


アヤは胸の前で両手を重ねて、こくりとうなずいた。


任せてください、と言わんばかりの顔だった。その顔があまりにも頼もしくて、ジェフリーはそれ以上何も言えず、扉のほうへ目を戻した。



廊下に、足音が近づいてきた。


扉が開き、ひとりの男が入ってきた。


五十の坂にさしかかったくらいの男だった。白いものの混じった栗色の髪が、ゆるく波打ちながら後ろへ撫でつけられている。黒いビロードの上着には、襟から袖口まで金糸で蔓草の模様が縫いとられ、その下の胴着も、同じ黒と金の織物だった。喉もとには、たっぷりとした白い襟飾り。胸には金の鎖が重たげに垂れ、指には、深い青の石をはめた太い指輪が光っている。


ダリアの痩せた麦畑とは、まるで縁のない身なりだった。


やや肉づきのいい頬に、人当たりのいい笑みが浮かんでいる。まぶたの重たげな灰色がかった青い目だけが、その笑みとは別に、部屋に入ってきた瞬間から、二人の顔と身なりを隅々まで値踏みするように動いていた。


アヤとジェフリーは、そろって席を立った。


「大変、お待たせいたしました」


男は二人の前まで来ると、胸に手を当てて、丁寧に頭を下げた。


「当家の主、レオナールの弟の、ガストン・ヴァルモントと申します。兄が床に臥せっておりますので、代わってお話を伺います」


「ナナ・ハルセリンと申します。サルヴィアで、雑貨と薬を商っております。突然お訪ねしたにもかかわらず、お時間をいただき、ありがとうございます」


アヤは、膝を軽く折って頭を下げた。王宮で身についたカーテシーほど深くはない。それでも、背筋の通った一礼だった。


「夫の、ジェフリー・ハルセリンです。妻が世話になります」


ジェフリーが短く名乗ると、ガストンの目が、ほんの一瞬だけ、ジェフリーの胸もとの黒騎士の徽章に止まった。止まって、すぐに離れた。


「遠路はるばる、ようこそダリアへ。王都に比べれば、見るものも何もない田舎で、お恥ずかしいかぎりです。さあ、どうぞ、おかけください」


ガストンは手で長椅子を示し、自分も向かいの椅子に腰を下ろした。


アヤは座りなおすと、やわらかく微笑んだ。


「とんでもないことです。王都のように人の多いところでは、どこを見ても、もう誰かが目をつけたあとですもの。わたくしのような小さな商人には、こういう土地のほうが、かえって宝の山に見えるのです」


ガストンが、目を細めた。


「宝の山、ですか。この痩せた土地が」


「ええ。痩せた土地には、痩せた土地にしか育たないものがありますから」


ガストンは、声を立てて笑った。


「面白いことをおっしゃる。……それで、今日は、どのようなお話で」


アヤは、膝の上で両手を重ねなおした。


「実は、花祭りの日に、王都でルシアン・ヴァルモントさんというお若い方とお話しする機会がありまして」


ルシアン、と口にしたとき、ガストンの目がわずかに動いた。


「ルシアンさんは、眠れる薔薇を探していらっしゃると伺いました。サルヴィアの山奥に咲いて、咲いたまま凍り、色も形も残すという薔薇です。そのお話を伺ってから、わたくし、どうしても一度ダリアをお訪ねしたくなりまして」


「ほう」


「眠れる薔薇で、こちらと商いをさせていただけないかと思ったのです」


ガストンは、すぐには答えなかった。


椅子の肘掛けに肘をつき、頬に指を添えている。青い石の指輪が、こめかみのそばで鈍く光った。顔には、相変わらず人当たりのいい笑みが浮かんだままだった。


眠れる薔薇。


ガストンは、胸の内で鼻を鳴らした。


そんなものは、ありはしないのだ。


旅の商人の手を通して甥に見せた、花びらを開いたまま凍りついたあの一輪は、ガストンがあらかじめ、ひそかに作らせた硝子細工だった。遠くから腕のいい職人を呼び寄せ、本物の花びらの薄さと、霜をまとったような曇りまで写し取らせた。それらしく見せるために、とんでもない金がかかった。仕上がったあとで、ガストンはその職人を、遠くアジールの奴隷商人に売り渡した。あれが作り物だと知る者が、自分のほかにいては困るからだ。


眠れる薔薇は、サルヴィアの山奥に伝わる言い伝えにすぎない。その言い伝えを使って、甥をダリアから遠ざけておく。ガストンにとっては、ただそれだけのための薔薇だった。


その、ありもしない薔薇で商いをしたいと、目の前の女は言う。


「眠れる薔薇、ですか」


ガストンは、穏やかに言った。


「甥がその花に夢中になっているのは、存じております。ですが、正直に申し上げますと、私はあれを、山奥の言い伝えだと思っておりましてね。サルヴィアでも、実物を見たという者がとんと見つからないと、甥も嘆いておりました」


ガストンは、頬に添えていた指を離した。


「ナナさんは、ご覧になったことが?」


「ええ。何度か」


「それは、どちらで。サルヴィアの、どの山に咲くのです?」


声は、どこまでも柔らかかった。ただ、その目は、アヤの答えをひと言も聞きもらすまいとしていた。


アヤは、少しも慌てなかった。困ったように、小さく笑った。


「それをお話ししてしまったら、わたくしの商いはおしまいです」


ガストンは、何も言わずにアヤを見ていた。


「商人が仕入れ先を明かすのは、看板を下ろすときだけ。父に、そう教わりました。……どうか、お許しくださいませ」


アヤは、軽く頭を下げた。


「それに、実を申しますと、山に咲いているものをそのまま摘んでくるわけではないのです。山奥の眠れる薔薇は、ガストン様のおっしゃるとおり、言い伝えに近いほど珍しいもの。わたくしどもが扱っているのは、人の手で作る眠れる薔薇なのです」


「人の手で?」


「咲いている本物の薔薇に、とろりとした液の鉱石をかけて、咲いた姿のまま固めるのです。花びらの一枚一枚まで、色も形も、そのまま閉じこめて」


ガストンの目が、細くなった。


「エステリアにも、昔、よく似たやり方があったと聞いております。古い書物には、ルナエルという小さな光る虫を、生きたまま透きとおった液に封じ、固めて明かりにした技法が残っているそうです。眠れる薔薇も、それとよく似た仕組みで、咲いた花をそのまま閉じこめたものなのです」


ガストンは、しばらく黙っていた。


「……なるほど。では、その古い技法と同じやり方で作った眠れる薔薇を、ぜひ拝見したいものですな。お持ちなのでしょう?」


アヤは、申し訳なさそうに首を横に振った。


「それが、持ってこられなかったのです。液の鉱石で固めた花は、見た目こそ美しいのですが、とてももろくて。馬車の揺れひとつで、すぐにひびが入ってしまいます。サルヴィアからエステリアまでの長旅には、とても耐えられません」


アヤは、少しだけ身を乗り出した。


「ですから、ご相談に伺ったのです。花を固める鉱石は、もともとエステリアの古いやり方で使われていたもので、エステリアの土の中にも眠っていると聞きます。とても貴重なものではありますが、もしこのダリアで原料になる薔薇を育てて、エステリアで採れる鉱石を使えば、遠いサルヴィアで作って運ぶ必要はありません。ここで作って、ここから、たくさんの方に買っていただけます」


アヤは、にっこりと笑った。


「作ったその場から売るのでしたら、ひびの心配もいりませんもの」


ガストンは、椅子の背にもたれた。


本当なら、悪くない話だった。


言い伝えの薔薇を、本物として売れる。それも、甥が王都で吹聴してまわっている薔薇だ。甥が探して見つけられなかったものを、ダリアが作って売り出すことになれば、王都からの覚えもよくなるだろう。


悪くない。


それでも、ガストンはすぐには乗れなかった。目の前の女が、どうにも引っかかった。


言葉づかいは丁寧で、物腰はやわらかい。膝の上で重ねた手は白く、荒れたところがひとつもない。背筋はまっすぐに伸び、話しながらも、目が卑しく泳ぐことがない。どれも、商人の女として悪いことではなかった。悪いことではないが、良すぎた。


ガストンがこれまで見てきた女商人は、もっと手が荒れ、もっと目つきが鋭く、もっと値切りの駆け引きを楽しむ顔をしていた。


本当に、サルヴィアから来た商人なのか。


ガストンの頭に、ひとりの男の顔がよぎった。


以前、王宮から送られてきた調査員のひとりだった。


調査員が来るたびに、ガストンは王都から届いた物資を倉に積み上げて見せ、民の暮らしぶりも見せてきた。陽炎草でぼんやりと満ち足りた顔をしている民を、腹いっぱい食べて満足している民だと言いくるめた。たいていの調査員は、それで納得して帰っていった。


その男だけは、違った。


ひどく用心深い男だった。いったん王都へ帰ったふりをして、しばらくすると、旅の行商人の身なりでダリアへ戻ってきた。村を歩き、民と話し、本当のダリアを見て、それを書き留めていた。


ガストンは、その男が報告書を仕上げる前に捕らえた。夜のうちに、崖の上まで連れていった。


崖の下には、海しかない。男の身体は波にのまれて、二度と上がってこなかった。王都には、旅の途中で行方が知れなくなった、とだけ届いた。


もし、目の前のこの女が、あの男と同じだとしたら。


ガストンの目は、隣の男へ移った。


黒騎士の徽章をつけた、恐ろしく顔のいい男。ハルセリン、と名乗った。どこかで聞いた名だと思っていたが、ようやく思い出した。サルヴィアの財務を預かる侯爵家の名だ。その家の息子が、黒騎士の隊長を務めていると、北から来る商人に聞いたことがある。


夫婦だというのに、二人の指には、指輪がひとつもなかった。


ガストンの視線に気づいたのか、女が自分の胸もとに手をやった。襟の内側から細い鎖を引き出すと、その先で、小さな銀色の輪が、緞帳の隙間の光を受けてきらりと光った。


「旅のあいだは、失くしてしまうのが怖くて。こうして首にかけているのです」


女は照れたように笑い、輪をまた襟の内側へしまった。隣の男の首もとにも、同じ細い鎖がのぞいていた。


ガストンは、にこやかにうなずいた。


指輪など、どうとでも言える。任務のために外していると言われれば、それまでだ。それよりも、黒騎士の、それも隊長ともあろう男が、わざわざ妻の行商についてくるというのが、どうにも腑に落ちなかった。


夫婦は、本当に夫婦なのか。女は、本当に商人なのか。


ガストンは、もう少しだけ、この女の素性を探ってみることにした。


「眠れる薔薇のお話は、よく分かりました。……ところで、ナナさん。ほかには、どのような品をお扱いで?」


アヤの顔が、ぱっと明るくなった。待っていました、と言わんばかりだった。


「ご覧いただけますか」


アヤは足もとの鞄を膝にのせ、中から小さな布袋をいくつも取り出して、卓の上に並べていった。どの袋にも、口に木札がくくりつけてある。


「わたくしの店では、旅の方のための品を、手広く扱っているのです。とくに力を入れているのが、旅の途中で口にするものです。軽くて、日持ちがして、それでいて、食べると疲れがほとんど残らない」


アヤは並べた袋のひとつに指を添えて、少しだけ声をひそめた。


「実はこれ、サルヴィアの黒騎士の方々が、遠征のときにお使いになっているものなのです。サルヴィアの軍が、長い遠征でもなぜあれほど強いのか。その秘密のひとつが、ここにあるのですよ」


ガストンは、卓の上の小袋を見下ろした。


「ほう。具体的には?」


アヤは、にっこりと笑った。


「お言葉で申し上げるより、召し上がっていただいたほうが早いと思います。器とお皿をいくつかと、熱いお湯を、貸していただけませんか?」



********



エステリア王宮。国王の執務室の扉を、誰かが叩いた。


「入れ」


書類から顔を上げたレグナードの前に、大法官オズワルド・ベルクールが進み出て、一礼した。


「陛下。龍の涙を探索しておりますサルヴィアの黒騎士がひとり、ただいま王宮へ到着いたしました。アヤ殿下から書状を預かってきたとのことです」


レグナードの手から、ペンが離れた。


「アヤから?」


「はい。殿下のご命令により、陛下の御手に直接お渡ししたいと申しております。門番が預かると申し出ても、頑として譲らなかったそうで」


レグナードは、しばらく黙っていた。


あの娘が、そこまで念を押した。


旅に出てから、まだ日も浅い。ただの近況を知らせるだけなら、門番に預ければ済む話だ。


「通せ」


ほどなくして、黒い外套の若い騎士が、執務室へ通されてきた。


外套の裾にも、編み上げの靴にも、旅の埃が白くこびりついている。頬はこけ、目の下には濃い影が刻まれていた。それでいて、机の前に片膝をついたその背筋だけは、少しも曲がっていなかった。


「サルヴィアの黒騎士、ステファン・ベックです。アヤ殿下より、書状をお預かりしてまいりました」


ステファンは外套の内側から、油紙の包みを取り出した。包みを開き、三通の書状を両手で捧げ持つ。


「一通は、陛下へ。一通は、軍務卿閣下へ。もう一通は、第二王女ミエ殿下へとのことです」


レグナードは自ら席を立って、書状を受け取った。


封の上に、見慣れた字があった。行の頭がきちんとそろい、ひと文字ずつが同じ大きさで、ほんのわずかに右へ傾いている。王宮図書館の机で、夜更けまで何かを書き写していた娘の字だった。


レグナードは自分宛ての封を切り、その場で目を通した。


読み進めるうちに、王の顔から、少しずつ表情が消えていった。


書状には、ダリアの有様が、娘らしい落ち着いた筆で、ひとつずつ記されていた。荒れた麦畑のこと。飢えた民のこと。エステリアの兵を名乗りながら、王家の名さえ知らなかった男たちのこと。村から金や女を取り立てていた賊のこと。そして、王都から送り続けてきたはずの支援の物資が、民の手にほとんど届いていないらしいこと。


問題は、別のところにある。


かつて、ミエの前でそう言ったのは、自分だった。


何度調べさせても、見つからなかった。届いた報告書はどれも、物資は民に行き渡っていると告げていた。その報告書の束が、今も机の引き出しにしまってある。


レグナードは書状を最後まで読み終えると、ゆっくりと折りたたんだ。


「オズワルド」


「はっ」


「軍務卿を、すぐにここへ呼べ。それから、ミエもだ」


「かしこまりました」


レグナードは、ステファンに目を移した。


「ステファン、と言ったな。遠いところを、よく届けてくれた。オズワルド、この者が休める部屋を用意してやってくれ」


ステファンが、弾かれたように顔を上げた。


「陛下、ありがたいお言葉ですが、私は休んでいるわけにはまいりません。近衛の方々とともに、一刻も早くダリアへ戻らなければ」


「書状にある近衛のことは、すぐに手配させる」


レグナードは、折りたたんだ書状を指先で軽く叩いた。


「それでも、人を集め、馬と荷を揃えるには、多少の時がかかる。その間くらいは、休んでいけ」


「ですが」


「そなたの顔を見れば分かる。ここへ来るまで、ろくに眠っておらんのだろう」


ステファンは、言葉に詰まった。


「そなたが途中で倒れでもしたら、ダリアへ近衛を連れていく心強い騎士が、ひとり減ることになる。それは、私の望むところではない。……アヤも、望まぬだろう」


ステファンは、しばらく王の顔を見上げていた。やがて、深く頭を垂れた。


正直に言えば、身体はとうに限界だった。執務室に通されてからずっと、床についた膝が、細かく震え続けていたのだ。


「……陛下のお心遣いに、心より感謝いたします」


レグナードはうなずくと、口を開きかけ、ほんの少しだけ迷ってから、尋ねた。


「アヤは、息災か」


ステファンは顔を上げた。王の顔は、先ほどと何も変わらないように見えた。


「はい。お元気でいらっしゃいます。野営の火も、ご自分で起こされます」


レグナードの口もとが、ほんのかすかにゆるんだ。


「……そうか」


それきり、王は何も言わなかった。



オズワルドに連れられて、ステファンは王宮の客間へ通された。


オズワルドは使用人を呼ぶと、寝台を整えること、熱い茶を運ぶことを、てきぱきと言いつけた。そうしておいて、ステファンに向きなおった。


「騎士殿。食事は、とられましたか」


「いえ。……ですが、もしお許しいただけるなら、先に眠らせていただきたいのです」


飾り気のない、正直な答えだった。


オズワルドは、目の前の若者をしばらく見ていた。サルヴィアの騎士が、エステリアの民のために、ここまで身を削ってくれている。大法官の胸に、言葉にしがたいものがこみ上げた。


「分かりました。近衛の支度が整いましたら、必ずお声をかけます。それまでは、どうか、ゆっくりお休みください。目が覚めましたら、食堂へご案内いたしましょう」


「ありがとうございます」


使用人に案内されて寝台の前まで来ると、ステファンは外套を脱ぐのがやっとだった。剣帯を外し、枕もとに置く。編み上げ靴の紐をほどく指が、何度も結び目をつかみそこねた。


柔らかな寝具に身体が沈んだ瞬間、ステファンの意識は、そのまま泥の底へ引きこまれるように落ちていった。


運ばれてきた茶は、卓の上で、誰にも口をつけられないまま冷めていった。



********



館の門の外では、グスタフたちが馬の番をしていた。


少なくとも、そう見えるようにしていた。


行商の夫婦の護衛が、主人の商談が終わるまで、手持ちぶさたに館のまわりをぶらつく。それ自体は、べつに怪しまれることではない。ディーターとヨハンが表の通りを、セドリックとカスパーが館の西側を、それぞれ馬に飲ませる水を探すふりをしながら歩いていた。打ち合わせどおりだった。


アルベルトは、館の裏手へ回っていた。


厨房の煙突から、細い煙が上がっている。裏口のそばには水がめが並び、その先に、厩と、古い納屋がいくつか続いていた。


納屋の陰に、それはあった。


はじめは、薪の山かと思った。古い帆布がかけられ、その上から縄が渡してある。風にめくれた帆布の端から、鈍い色の金属がのぞいていた。


アルベルトは、あたりに人の目がないことを確かめてから、帆布の端を持ち上げた。


盾だった。


その下に、鎧の胸当てが重なっていた。肩当て、籠手、兜。どれもひどく潰れていた。槌で何度も打ちつけたように歪み、縁はめくれあがり、留め具はちぎれている。胸当てのいくつかには、刃物で削り取ったような傷があった。紋章を消したあとだろう。


武器は、ひとつもなかった。


アルベルトは帆布を戻しかけて、手を止めた。


なんで、こんなものが。


ガルドたちは、ダリアの騎士を名乗っていた。偽の兵たちは、エステリアの兵の鎧を着て、盾まで提げていた。彼らに渡すための装備を、ここに置いているのだろうか。


それにしては、妙だった。


ここまで潰れていては、もう身につけることはできない。盾として構えることも、鎧として着ることもできない。使い物にならない鉄の塊を、わざわざ帆布をかけ、縄で縛り、人目につかない納屋の陰に積み上げておく理由がない。


まるで、どこかへ運び出されるのを待っている、荷のように。


荷。


アルベルトは、もう一度帆布をめくった。


装備として見れば、ただのがらくただ。でも、これを鉄として見たらどうだろう。溶かして打ちなおせば、別の鎧になる。盾にもなる。剣にだって、なる。


壊れたものでも、作りなおせる場所さえあれば。


アルベルトの耳の奥に、父の言葉がよみがえった。


サルヴィアの古い時計屋の、狭い店先だった。父は、動かなくなった時計を安く買い取ってきては、作業台に広げて、ひとつずつばらしていた。錆びた歯車、折れたぜんまい、ひびの入った文字盤。幼いアルベルトが、それはもう壊れているのに、と口をとがらせると、父は笑って、小さなねじを指先でつまんでみせた。


――物はいつか壊れる。でも、壊れたら、別の命にかえてやればいいんだ。


ばらされた時計の部品は、また別の時計の中で、何事もなかったように時を刻みはじめた。


アルベルトは、帆布の上から、潰れた盾の縁をそっと押さえた。


これが鉄として使われるなら、それを打ちなおす工房が、どこかにあるはずだ。


アルベルトは納屋の陰から顔を上げ、あたりを見回した。館の屋根の向こうに、まばらな麦畑と、村の家々の屋根が続いている。


どこだ。どこにある。


館の敷地には、それらしい煙も、鉄を打つ音もない。だとすれば、外だ。この領地のどこかに、ガストンの息のかかった者がいて、ひそかにこの鉄を作りなおしているのかもしれない。


ガストンが裏で糸を引いているのは、エステリアの兵だけではないのかもしれない。


アルベルトは帆布をもとどおりにかけなおし、縄の結び目も、もとの形に戻した。何食わぬ顔で、門のほうへ戻っていく。


門の前で馬の手綱を取っていたグスタフが、アルベルトの顔を見て、片方の眉を上げた。


「グスタフ。ちょっと、ほかのところを回ってきたい」


グスタフは、すぐには答えなかった。


持ち場を離れることを、グスタフは好まない。隊長と奥方が館の中にいる今、外に残った者の数が減れば、それだけ何かあったときの動きが鈍る。


「理由は」


「ちょっと、気になるところがある」


アルベルトは、いつもの軽い調子で言った。ただ、その目だけは笑っていなかった。


グスタフは、アルベルトの顔を見た。


この男は、斥候のセドリックとはまるで別の角度から、ものを見る。人の顔色、物の置かれ方、帳面の数字の並び。誰もが素通りするようなところで、ふと足を止める。そして、この男が「気になる」と口にしたときは、これまで必ず何かがあった。


「……日が落ちる前に、必ず戻れ」


「了解」


アルベルトは片手を軽く上げると、館の裏手から村のほうへ続く細い道へ、ぶらりと歩いていった。



********



応接室の卓の上には、いくつもの器と皿が並んでいた。


執事が運んできた湯差しから、白い湯気が立ちのぼっている。アヤはその湯差しを手もとに引き寄せると、小袋の口をひとつずつほどいていった。


「まずは、こちらから」


アヤは浅い皿に、じゃがいもの粉を匙で三杯すくって入れた。乾いた、白っぽい粉だった。そこへ粉のバターをひとつまみ、脱脂した粉のミルクをほんの少し。熱い湯を少しずつ注ぎながら、匙でゆっくりと混ぜていく。


粉は、湯を吸うたびにふくらんでいった。ぼそぼそとしていたものが、まとまり、やがてなめらかになって、湯気の中でつやを帯びはじめる。最後に塩をひとつまみ振り入れて、アヤは底からすくうように、もう一度混ぜた。


皿の上に、こんもりとした、淡い黄色の山ができあがった。


バターの香りが、ふわりと部屋に広がった。


「どうぞ」


アヤが皿と匙を差し出すと、ガストンは半信半疑の顔で、ひと匙すくって口へ運んだ。


ガストンの手が、止まった。


「……これは」


もうひと匙。


舌の上でほどける、なめらかな口当たり。バターのこく。ほどよい塩気。屋敷の料理人が、ゆでたじゃがいもを丁寧に裏ごしして作るものと、ほとんど変わらなかった。


「旅先で、これほどのものが食べられるとは」


「湯を沸かす火さえあれば、野営でも作れます。馬の背に積んでもかさばりませんし、重くもありません」


アヤは次に、取っ手のついた杯を手もとに寄せた。


熱い湯を注ぎ、全粉乳を匙に二杯。よく溶かしたところへ、別の袋から、赤みがかった茶の葉をひとつまみ落とす。サルヴィアでよく飲まれている、香りの強い茶葉だった。


アヤは杯の上に小皿をかぶせて、しばらく待った。


小皿の縁から、湯気がにじみ出る。やがて小皿を取ると、杯の中は、とろりとした淡い茶色に染まっていた。アヤは浮いた茶葉を匙で丁寧にすくい取り、持ってきた砂糖を、ほんの少しだけ溶かした。


「こちらも、どうぞ」


ガストンは、杯を口に運んだ。


ひと口飲んで、目を見開いた。


乳のやさしいこくと、茶の香り。屋敷の厨房で、鍋で牛の乳を温め、茶葉を煮出して作る飲み物と、まるで変わらなかった。


「牛の乳など、どこにもないというのに」


「この粉が、乳のかわりになるのです」


アヤは、全粉乳の袋を軽く持ち上げてみせた。


ガストンは杯を卓に戻すと、並んだ小袋と、湯気の立つ皿と杯とを、順に見回した。厨房で手間ひまかけて作る料理が、粉と湯だけで、野営の焚き火の前で作れてしまう。長い遠征でも、兵が腹をすかせず、力を落とさずにいられる。


なるほど、サルヴィアの軍が強いわけだ。


「こういう品を、わたくしは店先に並べて、旅の方にお売りしているのです」


アヤは、少しだけ肩を落とした。


「ただ、仕入れの値が少々張るものですから。旅の方にお売りするにしても、そう多くは買っていただけなくて」


アヤは、隣のジェフリーにちらりと目をやった。


「それで近ごろは、黒騎士の隊長をしている夫に口を利いてもらって、在庫を少し、分けていただいているのです」


ジェフリーは、何も言わなかった。否定もしなかった。


ガストンは、ゆっくりとうなずいた。


軍の在庫を、黒騎士の隊長が、妻の店へ回している。この夫婦、二人そろって、金にはずいぶんと目がないらしい。


そうと分かれば、話はしやすい。


それでも、ガストンはこの話に、すぐには乗れなかった。


品はどれも魅力的だった。ただ、これを軍に売るとなれば、話は別だ。軍に品を納めるには、それなりの伝手がいる。そして、その伝手はすでに、ほかの誰かが握っている。


近ごろのエステリアで、何かと幅をきかせているのは、レノックス商会だった。王都の大通りから一本入ったところに大きな構えを持ち、異国の荷を山のように扱っている。軍の品にまで手を伸ばしているという噂も、ガストンの耳に入っていた。こういう品にも、おそらく、もうとっくに手をつけているだろう。あの商会を相手に、新しく割って入れる気はしなかった。


「どれも、素晴らしい品です」


ガストンは、杯をそっと押しやった。


「ですが、軍を相手にとなると、すでに大きな商会が入りこんでおりましてね。正直、勝てる気がしません。……もう少し、ほかの品はございませんか。たとえば、ナナさんのお店でしか扱っていないようなものは」


アヤは、すぐには答えられなかった。


頭の中で、荷の中身を次々にたどる。干した果物、干し肉、塩漬けの魚、香辛料。どれも、ここまで見せたものと似たようなものばかりだった。ガストンの目を引くような品を、今この場で差し出すことができない。


アヤの沈黙が、ほんの少しだけ長くなった。


その沈黙を待っていたかのように、隣でジェフリーが口を開いた。


「店では扱っていませんが」


ガストンの目が、ジェフリーへ移った。


「特別な客を相手にするときだけ、扱っている品があります」


ジェフリーは上着の内側から、小さな革の袋をひとつ取り出した。袋の口をほどき、中から、何かをつまみ出す。


一枚の、乾いた葉だった。


手のひらほどもある、大きな葉だった。からからに乾き、ところどころが茶色く縮れている。葉脈だけが、白く浮きあがって見えた。


ジェフリーはその葉を卓の上に置き、ガストンのほうへすべらせた。


ガストンは、葉をつまみ上げた。光にかざし、裏を返し、鼻先へ近づけて、匂いを嗅いだ。


その目が、見開かれた。


ほんの一瞬のことだった。ガストンはすぐに目を伏せ、何でもないような顔で、葉を眺めなおした。


ジェフリーは、その一瞬を見逃さなかった。


知らない葉を見る目ではなかった。見覚えのあるものに、思いがけないところで出くわした者の目だった。


「薄氷草(うすらいそう)というものを、ご存じですか」


ジェフリーが尋ねた。


ガストンは、葉から目を上げた。ジェフリーの顔を、用心深く見る。この葉を知っていることを、相手に知られたくない顔だった。


「……さて。初めて耳にしますな」


「サルヴィアでしか採れない草です」


ジェフリーは、表情ひとつ変えずに続けた。


「少し、特別なことに使う葉でしてね。もしよろしければ、これを商いの品として、扱ってみるおつもりはありませんか」


ガストンは、葉を指先でもてあそびながら、探るように言った。


「特別なこと、とは。この草は、どのようなことに使うのです?」


「特別な客に渡すときは、それなりの使い方をします」


「その、特別な客というのは」


ガストンの言葉に、はっきりと興味の色がにじんだ。


ジェフリーは、さらりと答えた。


「たとえば、娼館の女たちです」


アヤの肩が、ほんのわずかに動いた。


思わず、隣のジェフリーの顔を見そうになった。見そうになって、ぐっとこらえた。


――私が何を言っても、必ず、話を合わせてください。


この部屋でガストンを待っていたとき、ジェフリーはそう言った。アヤは、膝の上で重ねた手にそっと力をこめた。顔だけは、何も知らない商人の妻のまま、穏やかに微笑んでいた。


ガストンは、ジェフリーの顔をしげしげと見た。


この生真面目そうな騎士の口から、娼館などという言葉が出てくるとは。人は見かけによらないものだ。もっとも、これだけの顔だ。黙っていても、女のほうから寄ってくるだろう。この顔で、これまで何人の女と夜をともにしてきたのか、知れたものではない。


それにしても、とガストンは手の中の葉を見下ろした。


鼻の奥に残った匂いを、ガストンは知っていた。乾いた草の青い匂いの奥に、ほんのかすかに、煙の匂いがまじっている。ただ乾かしただけの薄氷草に、この匂いはない。


以前、あの男の伝手で、一度だけ見せてもらったことがあった。小指の先ほどの、燻した葉のかけらだった。それを濃く煮出すと茶が白く濁り、ただの薄氷草とは比べものにならないほど強く効く。男はそう言って、ガストンの目の前で、白い茶を一杯だけ淹れてみせた。


ガストンは、譲ってくれと頼んだ。男は首を縦に振らなかった。一枚ずつ帳面で数えられている葉だ、かけらひとつでも外へ出したことが知れれば首が飛ぶ、と。


その燻した葉が、手のひらほどの大きさで、今、目の前にある。


ガストンの頭に、執務室の棚に置いた木箱が浮かんだ。陽炎草の、最後のひと箱だった。


次の荷は、まだ届かない。届くあてさえ、怪しくなってきている。それなのに、領民が草を求める間隔は、少しずつ短くなっていた。


陽炎草だけでは、もう足りない。だが、これを混ぜたらどうだ。


薄氷草は、身体の感覚を研ぎ澄ます。陽炎草がもたらす身体の軽さも、空腹を忘れさせる心地よさも、ほんのひとつまみで、何倍にも感じられるようになるはずだ。燻した葉なら、なおさらだろう。そうなれば、陽炎草は今の半分、いや、それよりずっと少なくて済む。


これを、安く、まとまった量で手に入れられたなら。


その葉を、この男は、商いの品として回したいと言うのだ。


「娼館の女が、特別な客だとおっしゃるが」


ガストンは、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。


「その……使い方は」


「この葉に期待できるのは、多感薬としての効き目ですから」


ガストンが言い終える前に、ジェフリーは答えた。


「肌の感覚を、研ぎ澄ます。そういう使い方です」


ガストンは、もうひと押しした。


「ご自分で、お使いになったことは?」


「もちろん、あります」


ジェフリーは、ためらわなかった。


「ここにいる、妻にも」


アヤの頭の中が、真っ白になった。


「ほう」


ガストンの目が、面白そうに光った。


「それは、どのような目的で」


「感覚を研ぎ澄ます薬を使う目的など、ひとつしかないでしょう」


ジェフリーは、ガストンから目をそらさなかった。


「あの晩、寝台の上で乱れた妻の顔は……誰にも、見せたくないほどでした」


アヤは、とうとうジェフリーの顔を見てしまった。


嘘だということは分かっている。分かっているのに、口が勝手に開いたり閉じたりした。何をおっしゃっているのですか、と言いたいのに、声にならない。頬から耳の先まで、一気に熱が駆け上がっていくのが、自分でも分かった。


ジェフリーは、そのアヤに目を向けた。


「あの夜のあなたは、とても美しかった」


言うなり、ジェフリーの腕が、アヤの腰に回った。


ぐい、と引き寄せられる。


長椅子の上で、アヤの身体がジェフリーのほうへ傾いた。肩が彼の胸に触れ、顔が彼の首もとのすぐそばにくる。黒い上着から、かすかに革と、焚き火の煙の匂いがした。


アヤの心臓が、破裂しそうなほど大きく鳴った。


いったい、この方は、何を。


ジェフリーの腕に、さらに力がこもった。アヤの顔が、ガストンの目から隠れるように。真っ赤になって口をぱくぱくさせている妻の顔を、向かいの男に見せないように。


傍目には、照れてうつむいた妻を、夫が抱き寄せてかばっているようにしか見えなかった。


ガストンは、たまらず声を立てて笑った。


「いや、これは失礼。なるほど、奥様より、旦那様のほうがよほど商い慣れしていらっしゃる。品をどう使うのか、実演していただくより、よほどよく伝わりましたよ」


ガストンは、卓の上に置いた葉を、あらためて指先でなぞった。


「それにしても、こんなに立派な薄氷草は、初めて見ました」


ジェフリーの目が、すっと細くなった。


「以前にも、ご覧になったことが?」


ガストンの指が、葉の上で一瞬止まった。


それでも、しまったという顔はしなかった。ガストンは、何でもないことのように笑った。


「ここまで立派なものではありませんがね。知り合いの伝手で、一度だけ」


ジェフリーは、アヤの腰を抱いたまま、黙ってその言葉を聞いていた。


さっき、ガストンは「初めて耳にする」と言った。その舌の根も乾かないうちに、見たことがある、と言う。


「黒騎士の隊長ともなると、やはり、こういう葉を多くお持ちで?」


「必要に応じて」


「あなたも、人が悪い」


ガストンは、ジェフリーの腕の中で小さくなっているアヤに、ちらりと目をやった。


「奥様は、この葉が世の中でどのように使われているか、ご存じないご様子だ。……いや、知らないほうが、夢が壊れずにすむというものですな」


ジェフリーは、ガストンを見た。


もう一歩だ。


この男が、この葉の本当の使い道まで知っているのかどうか。その確かな手ごたえが、あとひとつほしかった。


ジェフリーは、もうひとつ罠をかけることにした。


「よろしければ、その葉は差し上げます。お望みなら、もっと大きなものを、もっと多く」


ガストンの顔に、わずかな驚きが浮かんだ。


まだあるのか、と。


「……どれほど、お持ちなのです?」


ジェフリーは、少しだけ間を置いた。


「妻と楽しむのに要る量より、ずっと多く」


ガストンは、手にしていた葉を、卓の上にそっと置いた。


長い息を、ひとつ吐いた。


多感薬として使うなら、この葉一枚で、五日はゆうにもつ。ガストンは、それを知っていた。旅がどれほど長いのかは知らないが、十日かかったとしても、二枚あれば足りる。それを、この男は、まるでいくらでも持っているかのような口ぶりで話す。


夫婦の夜を楽しむためだけに、それほどの量が要るはずがない。この男は、もっと別の使い道のために、燻した葉をまとまった数で持っているのだ。


ガストンの胸の内で、欲が頭をもたげた。


「……仮に、まとめて譲っていただくとしたら」


ガストンは、世間話のついでのような顔で言った。


「一枚、いかほどで?」


「数によります」


ジェフリーの答えは短かった。


「少しなら、少しなりの値を。まとめてお求めなら、まとめてなりの値を。お望みの数を伺ってから、決めさせていただきます」


まとめてなりの値。ガストンは、その言葉を胸の内で転がした。どれほどの数を、どれほどの値で出すつもりなのか。それを確かめずに、この話を手放す気にはなれなかった。


ガストンは、ジェフリーの顔を見た。


「黒騎士の隊長ともあろうお方が」


ガストンの口もとに、薄い笑みが浮かんだ。


「薄氷草を、多感薬としてしか、お使いにならないのですか」


ジェフリーは、表情を変えなかった。


その胸の内で、ひとつの答えが、はっきりと形を結んでいた。


この男は、知っている。


薄氷草が、多感薬のほかに、もうひとつの顔を持っていることを。


薄氷草は、そのままでも、少し口にすれば肌の感覚を研ぎ澄ます。娼館の客や、金を持てあました者たちが、夜を楽しむために手を出すこともある。ただ、それだけなら、ただの葉にすぎない。


薄氷草に、人の口を割らせるほどの強い力を持たせるには、乾かすだけでは足りないのだ。厳重に管理された別の薬草とともに、時間をかけて燻す。そうして作った葉を濃く煮出すと、茶は白く濁る。


その燻した葉と、濁った茶を、軍では「白い茶」と呼んでいる。


自白の薬であることを、外に漏らさないための呼び名だった。


薄氷草だけでは、白い茶にはならない。そして、燻した葉は、サルヴィアからエステリアへ、商会の手を一切通さず、国と国とのあいだでしか受け渡されない。どの軍の誰が、いつ、何のために使ったのかまで、すべて帳面に記して管理されている。一般の兵が手にすることなど、まずない。


それほど厳重に管理された葉の、表に出してはならない使い道を、軍籍すら持たない地方貴族が知っている。


しかもこの男は、見たことがある、と言った。


誰かが、この男にその葉を見せ、その使い道を教えたのだ。そして、その誰かは、少なくともエステリア軍の中枢か、それに近いところへ手を伸ばせる者だった。


ジェフリーは、あえて尋ねた。


「ガストン殿は、ほかの使い方を、ご存じなのですか」


ガストンは、その問いを、別の意味に受け取ったらしかった。


奥方の前では、本当の使い道を口にしたくないのだろう。夜の楽しみに使っているこの葉の、もうひとつの顔を、妻には知られたくないのだろう、と。


ガストンは、気を遣うように声を落とした。


「あなたも、人が悪い。黒騎士なら、この葉の本当の使い道は、よくご存じのはずだ」


ガストンは、ジェフリーの腕の中のアヤに、もう一度目をやった。


「ですが、今日は奥様もいらっしゃる。これ以上はやめておきましょう。……怖がらせてしまうような使い方ですからな」


決まりだった。


ジェフリーは、ひと言も、自白とは口にしていない。それなのにこの男は、本当の使い道が別にあること、それが人を怖がらせるようなものであることを、自分の口で認めた。


ジェフリーは、腕の中のアヤの頭に、そっと顔を寄せた。黒髪に口づけるような仕草だった。唇は、髪には触れていなかった。


「ナナが、すっかり縮こまってしまいました」


ジェフリーは、ガストンに向けて、少し困ったように笑ってみせた。


「薄氷草のことは、あらためて取引の話をさせてください。今日は、町で宿をとりたいのです。……旅のあいだ、妻とふたりきりで眠れる夜が、なかなかなかったものですから」


アヤの身体が、腕の中で、さらに小さくなった。


ガストンは、肩を揺らして笑った。


「たしかに、日を改めたほうがよさそうだ。奥様の品も魅力的でしたが、正直に申し上げれば、この薄氷草の話を先に詳しく伺いたい。お持ちの分をすべて、とまでは申しませんが、できるかぎりまとまった数を。値は、明日ゆっくり決めましょう。宿でしたら、こちらでご用意しますよ」


ジェフリーは、アヤの腰を抱いたまま席を立った。


「いえ。外に、護衛の黒騎士を待たせています。あの者たちも休ませたいので、宿はこちらで探します。明日、またお邪魔しても?」


「もちろんですとも」


ガストンも立ち上がり、にこやかにうなずいた。


ジェフリーは、すっかりうつむいてしまったアヤを支えて立たせた。腰に腕を回したまま、扉のほうへ歩いていく。


扉の取っ手に手をかけたときだった。


背中に、ガストンの声がかかった。


「今夜お楽しみになるのでしたら、町の白猫の月亭がよろしいでしょう。女も置いておりますし、あそこは、壁が厚い」


ジェフリーは、振り返らずに答えた。


「お気遣い、痛み入ります」


扉が、閉まった。



廊下に出ても、ジェフリーはアヤの腰から腕を離さなかった。


磨かれた石の床に、二人の足音が響く。玄関の大扉までは、まだ少し距離があった。


アヤはうつむいたまま、唇をほとんど動かさずに言った。


「ジェ、ジェフリー様……さすがに、あのような、はしたないお芝居は……」


ほとんど息だけの声だった。それでも、ひどく焦っているのが分かった。


ジェフリーが、足を止めた。


アヤの耳もとに、顔を寄せる。まるで、廊下の真ん中で、妻の耳に口づけでもするかのように。


吐息が、耳にかかった。


「まだです」


ジェフリーの唇は、耳に触れるか触れないかのところで止まっていた。


「まだ、屋敷に目があります」


アヤは、息をのんだ。


ジェフリーは何事もなかったように顔を上げると、アヤの腰を抱いたまま、ふたたび歩きだした。アヤは、熱くなった耳を押さえることもできずに、その歩みに合わせた。


二人の背中が、廊下の角を曲がっていく。


その背後で、応接室の扉が、指一本ほどの幅だけ、音もなく開いていた。


扉の隙間の暗がりから、ガストンの目が、遠ざかる二人をじっと見送っていた。



********



館の大扉が開き、ジェフリーとアヤが石段を下りてきた。


門の外で馬の手綱を取っていたグスタフは、その姿を見て、思わず手綱を握りなおした。


偽の夫婦を演じるとは聞いていた。それにしても、隊長が奥方の腰をしっかりと抱き寄せて、館から出てくるとは思っていなかった。奥方のほうは、ほどいた頭布を手に持ったまま、耳まで赤くしてうつむいている。


ずいぶん、仲のよろしいことで。


軽口のひとつも言いかけて、グスタフは口をつぐんだ。


ジェフリーの目が、鋭かった。


館に入る前の、どこか硬いだけの顔ではなかった。獲物の足跡を見つけた者の目だった。


ジェフリーは、門をくぐって館の者の目が届かないところまで来ると、ようやくアヤの腰から腕を離した。グスタフのほうへ、身を寄せる。


「ヨハンを王都へ向かわせろ。ステファンの後を追わせる」


グスタフの顔から、表情が消えた。


「何があったんです」


ジェフリーは、まわりに目を走らせた。表の通りには、相変わらず人の姿はない。それでも言葉は、グスタフとアヤにしか届かないほどに抑えた。


「黒幕のひとりは、エステリアの軍の中にいる。軍を預かる上の者か、近衛か。少なくとも、白い茶の帳面に手の届くところだ」


アヤが、息をのんだ。


手にしていた頭布が、指のあいだで、くしゃりと潰れた。


近衛を遣わしてほしいと、軍務卿に宛てて書いたのは、ほかでもない自分だった。


「ステファンは、早ければ今ごろ、王宮に着いているころだ」


ジェフリーは、来た街道の、そのはるか先の方角へ目をやった。


「あの書状が陛下に渡れば、近衛が動く。そしてステファンは、その近衛を連れて、ここへ戻ってくることになっている」


アヤの唇から、血の気が引いていった。


ジェフリーは、言った。


「ステファンが、危ない」


グスタフは、何も聞き返さなかった。すぐに振り返り、表の通りにいたヨハンの名を呼んだ。

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