33. 薄紅をさす、秘密の奥方
街道の先に、見覚えのある白い城壁が見えてきたのは、川べりの野営地を発って二日目の日が、西へ傾きはじめたころだった。
その間、ステファン・ベックはほとんど眠っていなかった。途中で足を止めたのは、馬に水を飲ませ、脚を休ませるときだけだった。そのあいだも、自分は鞍を外した馬の脇に座りこみ、蹄を一本ずつ持ち上げては、石が挟まっていないかを確かめていた。目を閉じてしまえば、そのまま朝まで起きられなくなる気がしたのだ。
気がかりなことは、いくつもあった。
野営地の囲いには、三十人もの賊が押しこめられている。急ごしらえの丸太の柵が、いつまでもつかは分からない。隊長たちならうまくやるだろうと分かっていても、縄の擦れる音を思い出すたびに、手綱を握る指に力が入った。
もうひとつは、ダリアの民のことだった。
ステファンは、北の国境に近い寒村の、ひどく貧しい家に生まれた。冬になると畑は雪の下に眠り、蓄えの麦は日ごとに減っていく。母は自分の分の粥を、こっそり弟たちの器へ移し、自分は湯ばかりを飲んでいた。腹が空いて眠れない夜の、胃の底がきりきりと縮んでいくような感覚を、ステファンは今でもはっきりと覚えている。
兵に志願したのは、給金が出るからだった。黒騎士を目指したのは、もっと多くの金を家へ送れるからだった。故郷の弟や妹たちに、一度でいいから、腹いっぱい食べさせてやりたい。その一心で剣を振り、馬の世話を覚え、選抜を勝ち抜いてきた。
だから、ノアの身体を見たとき、胸の奥で何かが騒いだ。
浮き出たあばら。棒のように細い腕。焚き火のそばで、麦粥の器を両手で抱えこんでいた小さな背中。あの子は、まだ十歳だという。腹の足しになるなら、盗みにでも何にでも手を出さなければならない暮らしがどんなものか、ステファンには手に取るように分かった。
ダリアには、ノアのような子どもが、きっとまだ何人もいる。
だから、一日でも早く、王宮へ。
この書状が陛下のもとへ届けば、エステリアから物資が送られてくる。今度こそ、近衛の手で、確かに民のもとへ。
ステファンは、前かがみになって黒馬の首を叩いた。
「あと少しだ。もう少しだけ、走ってくれ」
手綱につないだ替え馬が、隣で荒い息を吐いた。二頭とも、首筋に白い汗の筋を幾本も浮かべていた。
王都の大門をくぐり、花祭りの飾りがまだあちこちに残る大通りを抜けて、ステファンはエステリア王宮の正門の前で馬を下りた。
地面に足をつけた瞬間、膝がわずかに揺れた。ステファンは鞍の縁をつかんでそれをやり過ごし、門番の前へ進み出た。
「サルヴィアの黒騎士、ステファン・ベックです。龍の涙の探索隊より、書状を届けにまいりました」
胸もとの徽章を示すと、門番の顔つきが変わった。
数日前の夜明け、この門から黒い騎馬の列が出ていったことを、覚えていたのだろう。門番は徽章とステファンの顔を見比べて、ひとつうなずいた。
「書状でしたら、こちらでお預かりして、陛下のもとへお届けいたします」
差し出された手に、ステファンは首を横に振った。
「申し訳ありません。これは、陛下の御手へ直接お渡しするよう、言いつかっているものです」
門番の眉が、わずかに寄った。
「どなたから、そのように」
「アヤ殿下です」
三通の書状を油紙で包む前に、アヤは封をひとつずつ確かめてから、ステファンの目をまっすぐに見て言ったのだった。必ず、陛下の御手に直接お渡しください。たとえ相手が誰であっても、途中でほかの方に預けないでください、と。
なぜそこまで念を押すのか、アヤは詳しくは話さなかった。
それでも、ステファンにはその理由が分かっていた。
あの日、野営地に乗りこんできた鎧の男たちは、エステリアの兵を名乗っていた。それなのに、アヤが「アヤ・ソヴェール」と名乗っても、その名に眉ひとつ動かさなかった。エステリアの兵の鎧を着こみ、白金の花と王冠の紋が入った盾まで提げていながら、男たちは王家の名を知らなかったのだ。
あの鎧も盾も、どこかから手に入れたものだろう。だとすれば、それを渡した誰かが、本物のエステリア兵の中にいるのかもしれない。
ステファンは、目の前の門番の顔を見た。人のよさそうな、四十がらみの男だった。おそらく、何の関わりもない、ただの門番なのだろう。
それでも、口にすることはできなかった。誰が、どこで、何とつながっているのか。今はまだ、何ひとつ分からないのだ。
「急ぎの書状です。お手数をおかけしますが、陛下にお取り次ぎを願えませんか」
門番は、しばらくステファンを見ていた。旅の埃にまみれた黒い外套、目の下に濃く刻まれた影、それでいて少しも揺らがない目。
やがて門番は、脇に控えていた若い兵に目で合図を送った。
「ご案内いたします。こちらへ」
ステファンは深く頭を下げ、背後の二頭を振り返った。
「すまないが、馬に水をやって、休ませてやってくれないか。……ここまで、ずいぶん無理をさせてしまった」
門番は二頭の様子を見て、眉を下げた。首を垂れた黒馬の脚は、遠目にも分かるほど震えていた。
「お任せください。厩舎の者に、よく世話をさせます」
ステファンは、黒馬の鼻面に一度だけ手を当てた。黒馬は目を細め、ステファンの手のひらに、ぶるると温かい息を吹きかけた。
********
川べりの野営地では、朝の支度があらかた終わろうとしていた。
幌馬車のひとつの中で、アヤは膝の前に小さな布を広げていた。
その上に、いくつもの器が並んでいる。白い陶器の小壺。銀の蓋のついた丸い入れ物。細い筆が何本かと、柔らかな毛の刷毛。薄い貝殻を二枚合わせたような紅入れ。
旅に出る前、侍女が荷に詰めてくれた化粧品の一式だった。
王宮で使っていたものを、すべて持ってくることはできなかった。それでも、旅の途中、第一王女としてあらたまった場に出なければならないことが、もしかするとあるかもしれない。そのとき恥ずかしい思いをなさらないように、と、侍女は小さな箱にきちんと収めて持たせてくれたのだ。
まさか、王女ではなく、商人の妻として人前に出るために使うことになるとは、あの子も思っていなかっただろう。
今日、アヤはサルヴィアの女商人として、ダリアの領主の館を訪ねる。
道中、アルベルトから聞いた話では、商人が外で交渉や商いをするときには、相手に侮られないよう、ある程度は身なりを整えるものなのだそうだ。サルヴィアの街の古い時計屋で育ったアルベルトは、子どものころから、そういう大人たちが店に出入りするのを見てきたのだという。
「ただ、今回はサルヴィアからわざわざエステリアまで来たってことになってますからね。長旅の途中だと思えば、そこまで着飾る必要はないですよ。かえって飾りすぎたら、どこで着替えたんだって思われます」
アルベルトはそう言って笑っていた。
それでも、女として、たしなむ程度の化粧はしておくべきだろう。アヤはそう考えて、こうして器を並べてみたのだった。
並べてはみたものの、アヤの手はそこで止まってしまった。
どれから使うのだったかしら。
王宮にいたころは、化粧のほとんどを侍女がしてくれた。鏡の前に座って目を閉じていれば、いつのまにか終わっている。何を、どの順番で、どれくらい使っていたのか、アヤは一度もきちんと見ていなかったのだ。
白い小壺の蓋を開けては、閉じる。丸い入れ物を手に取っては、また置く。細い筆を一本持ち上げて、これは目もとに使うものだったか、眉に使うものだったかと首をかしげる。
「アヤ様?」
幌の入り口から、声がした。
振り向くと、リーナが顔をのぞかせていた。昨日アヤが用意した替えの衣を着て、髪はまだ少しもつれているものの、櫛を通したあとがある。顔色も、昨日よりいくらか血の気が戻っていた。
リーナは、アヤの前に並んだ器を見て、目をまるくした。
「お化粧を、なさるのですか?」
「ええ。今日は商人として、お客様にお会いしますから。……ただ、恥ずかしいことに、どれから使えばいいのか分からなくなってしまって」
アヤが困ったように笑うと、リーナは膝をついて、幌の中へ入ってきた。そして、アヤの顔をまじまじと見た。
「でも、アヤ様は、お化粧なんてなさらなくても十分にお肌がおきれいです。こんなに白くて、すべすべで」
アヤは少し驚いて、自分の頬に手を当てた。
肌のことを褒められたのは、いつ以来だろう。
「エステリアにいたころは、ほとんどお化粧をしていなかったのです。し――」
城では、と言いかけて、アヤは口をつぐんだ。
「……仕事柄、それほど人にお会いすることがなくて」
「調査員のお仕事は、あまり人にお会いにならないのですね」
リーナが不思議そうに言った。
調査員なら、あちこちへ出かけて、人に話を聞いてまわるものではないのか。そう思ったのかもしれない。アヤは膝の上で両手を重ねた。
「わたくしの仕事は、もっぱら、ほかの方が調べてきたことを、結果として書物にまとめることなのです。ですから、一日じゅう机に向かっていることのほうが多くて」
嘘ではなかった。王宮図書館の、夜更けまで灯りの消えない机の前で、アヤはずっとそうしてきたのだから。
リーナはなるほどというようにうなずくと、並んだ器のひとつひとつに目を移していった。銀の蓋の細工。紅入れの貝殻の、内側に光る真珠色。刷毛の柄に彫りこまれた、小さな花の模様。
「それにしても、ずいぶんと高価そうなものばかりですね。まるで、お城のお姫様がお使いになるみたい」
アヤの背中が、ぎくりとこわばった。
「こ、これは、旅に出るときに、父が持たせてくれたものなのです。旅先で困らないようにと」
とっさに出た言葉だった。
もっとも、まるきりの嘘というわけでもない。この一式を侍女に用意させたのは、きっと母だろう。そして母がそうするのを、父は黙って許したのだ。
リーナの表情が、ふっとやわらいだ。
「素敵なお父様ですね。娘さん思いの」
「……ええ。少し、過保護なくらいに」
王宮の正門の前で、最後まで手を振らずに立っていた父の姿が、ふと目に浮かんだ。
アヤは、並んだ器を見下ろして、小さく息をついた。
「せっかく用意してもらったのに、使い方が分からないなんて。父に申し訳ないですね」
すると、リーナが器のひとつに手を伸ばした。白い小壺を手に取り、蓋を開けて香りを確かめる。
「これは、たぶん、最初にお肌に塗るものです。お肌を整えるための。こちらは、その上にのせる粉ですね」
リーナは、丸い入れ物の蓋を指先で軽く叩いてから、アヤを見た。
「よろしければ、わたしがお手伝いしましょうか? 村の娘の婚礼で、花嫁さんの支度を手伝ったことがありますから。こんなに上等なものは、触ったこともありませんが」
アヤの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか? ぜひ、お願いします」
そのやりとりが聞こえたのか、幌の入り口から、もう二つ顔がのぞいた。昨日、リーナと一緒に助け出された二人だった。
「わあ……」
ひとりが、並んだ器を見て声をもらした。もうひとりも、身を乗り出して紅入れをのぞきこんでいる。
「なんて、きれいな色」
「あなたたちも、どうぞ入って。一緒に見てください」
アヤが手招きすると、二人はおずおずと幌の中へ入ってきた。
そこからは、ずいぶんとにぎやかになった。
リーナがアヤの頬に白い練り物を薄くのばし、ひとりが刷毛で粉をはたき、もうひとりが紅の色を指先で確かめては、これは濃すぎる、アヤ様の肌にはもう少し薄いほうが合う、と真剣な顔で言う。眉の筆をどちらへ動かすかで三人の意見が分かれ、アヤは目を閉じたまま、笑いをこらえるのに苦労した。
「アヤ様、動かないでください。曲がってしまいます」
「ごめんなさい。でも、くすぐったくて」
幌の中に、女たちの笑い声が満ちた。
アヤは、目を閉じたまま、その声を聞いていた。
昨日、天幕の中で身体を拭いたとき、この人たちは触れられるたびに肩を跳ねさせていた。その同じ手が、今はアヤの頬に、そっと粉をのせている。笑いながら、ああでもない、こうでもないと言いあっている。
まぶたの裏が、少しだけ熱くなった。せっかくの化粧が崩れてしまうので、アヤはそのことを、誰にも言わなかった。
その賑やかな声を背にして、幌馬車から少し離れた草地では、ノアが棒切れを振りまわしていた。
相手をしているのはエミールだった。
エミールも、同じような棒切れを一本手にしている。ノアが打ちこんでくるたびに、その棒をちょうどノアの棒の高さに合わせて差し出し、かつん、かつんと受け止めていた。
「とりゃあっ!」
ノアが頭の上から思いきり振り下ろす。かつん。
「てやっ!」
今度は横から。かつん。
足もとを狙っても、背伸びをして肩を狙っても、エミールの棒は必ずそこにあった。エミール自身は、ほとんど足を動かしていない。手首をわずかに返すだけで、ノアの渾身の一撃を、ことごとく受け止めてしまう。
「ずるいぞ! なんで全部わかるんだよ!」
「おまえが、打つ前に、打つところを見るからだ」
「見なきゃ当たんないだろ!」
「だから、見る前に打てるようになれってことだ」
ノアは、むっと頬をふくらませた。
もう一度、棒を振りかぶる。振りかぶったまま、ふいに棒を横へ放り投げると、そのままエミールの胸めがけて、身体ごと飛びかかった。
「うわっ」
エミールは笑いながら声を上げた。
「それは反則だぞ、ノア!」
飛びのってきたノアの勢いに押されて、エミールは草の上へ仰向けに倒れた。倒れながらも、両腕はちゃんとノアの身体を受け止めていた。自分の背中で地面の衝撃を受けて、ノアの身体は胸の上にしっかりと抱えこんでいる。
「やった! 勝った! おいらの勝ちだ!」
「勝ってない。反則負けだ」
「騎士は、勝てばいいんだろ!」
「どこで覚えたんだ、そんなこと」
ノアはエミールの胸の上で得意げに笑い、エミールはノアの脇腹をくすぐった。ノアのはじけるような笑い声が、川べりに響いた。
まわりで見ていた黒騎士たちが、たまらず噴き出した。馬の脚を見ていたヨハンが肩を揺らし、天幕の綱を確かめていたキリアンまでが、口もとをゆるめている。
草の上でじゃれあう二人は、どこから見ても兄と弟だった。エミールは、もうすっかり、ノアの兄貴分の顔をしていた。
ジェフリーは、その声を背中で聞きながら、木箱の前で手を動かしていた。
木箱の上には、手のひらに収まるほどの小さな布袋が、いくつも並んでいた。領主の館へ持っていく、軍の食料の見本だった。粉のミルクに、粉のバター。干したじゃがいもを砕いた粉に、塩漬けの肉を細かく刻んだもの。どれも、ほんのひとつまみずつ。商人が見本として差し出すのに、ちょうどいい量だった。
隣では、マティアスが袋の口を紐で縛っては、木札をくくりつけていた。木札には、中身の名がアヤの字で書かれている。
「長いこと黒騎士の野営にいますが、今日みたいに明るくて賑やかな野営は、初めてですよ」
マティアスが、手を止めずに言った。
ジェフリーは、匙を持つ手を止めて、草地のほうへ目をやった。ちょうど、エミールの胸の上から転がり落ちたノアが、また棒切れを拾って構えなおしているところだった。
「ノアは、強いな」
ぽつりと、ジェフリーは言った。
マティアスが顔を上げた。
「あいつは、腹にあれだけの傷を負わされている。目の前で母親を連れていかれて、自分は賊の手足として使われていた。……それでも、ずっと笑っている」
ジェフリーは、ノアの小さな背中を見ていた。
自分があれくらいの年だったころ、いったい、どれほど笑えていただろうか。
ちょうど、あの年ごろだった。冬の高熱病で、母を亡くしたのは。
母が逝ったあと、ハルセリンの屋敷はずいぶん広く、ひっそりとしてしまった。冬の陽は窓の奥までは届かず、廊下も、食堂も、父の書斎も、いつもどこか灰色に沈んでいた。父と二人で向かいあう夕餉の席で、言葉が交わされることはほとんどなかった。
あの灰色の屋敷で、自分が笑っていた日のことを、ジェフリーは思い出せなかった。
母が生きていたころには、屋敷のどこかに、いつも母の笑い声があった。母が笑えば、自分も笑った。母がいなくなってから、笑う理由そのものが、屋敷から消えてしまったのかもしれない。
ノアには、母親がいる。昨日、ようやく取り戻した母親が。
だからこそ、あの母親がノアのそばにいるうちに、ダリアのことは何としても片をつけてやりたい。そう思った。
ダリアで起きていることは、龍の涙の探索とは、直接の関わりはない。
それでも、ジェフリーにはまるきり別のことのようには思えなかった。冬が来るたびに、サルヴィアでは親が子を残して逝き、子が親を残して逝く。龍の涙を求めるのは、それを終わらせたいからだ。子どもが親と、親が子と、明日も同じ食卓につけると信じて眠れるように。
ダリアの民が奪われているのも、それと同じものなのではないか。
「おまたせしました。こちらの準備は整いました」
背後から声がして、ジェフリーは振り返った。
そこに、アヤが立っていた。
昨日の夜、リーナたちと縫い上げたサルヴィアの商人の服を着ている。生成りのブラウスに、焦げ茶の胴着。赤茶と墨色を重ねたスカートに、赤い小花を散らした前掛け。肩には房飾りのついた灰色の肩掛けを羽織り、長い黒髪は赤茶の頭布の中にまとめていた。
服は、今朝見たものと同じだった。
違っていたのは、顔だった。
もともと白い肌に、ほんのりと血の色がさしたように見えた。目もとには細く影が引かれ、そのせいで黒い瞳が、いつもよりも深く見える。唇には、淡い紅がのっていた。花びらを一枚、そっと重ねたような色だった。
濃い化粧ではない。むしろ、アヤの顔立ちの中にもとからあったものを、少しだけ表へ引き出したような化粧だった。
アヤはジェフリーの前で立ち止まると、少し恥ずかしそうに目を伏せた。そして、ジェフリーにだけ届くくらいに声をひそめた。
「あひるの姫も、多少は、ましになりましたでしょうか?」
昨夜、幌馬車の荷台の上で、ジェフリーがこぼした「無理がある」という言葉を、まだ気にしているのだろう。頭布からこぼれた黒髪のひと筋を、アヤは指先で、そっと耳にかけた。
その仕草を見た瞬間、ジェフリーは動けなくなった。
何か言わなければならない。そう思った。
こういうとき、どんな言葉を返せばいいのか。これまで、数えきれないほどの令嬢に、着飾った姿を見せられてきた。そのたびに形ばかりの礼を返して、何も感じないまま背を向けてきた。それは簡単なことだった。何も感じていなかったのだから。
今は、言葉がひとつも出てこなかった。
似合っている、では足りない。美しい、と言えば、この人はきっとお世辞だと思って笑うだろう。頭の中で言葉を探しては捨て、捨てては探しているあいだに、時間だけが過ぎていった。
ジェフリーが何も言わないので、アヤの顔に、少しずつ不安の色が浮かびはじめた。
見かねて口を開いたのは、マティアスだった。
「いや、驚きました。どこから見ても、サルヴィアの商人の奥方ですよ。これなら館の連中も、まず疑いはしないでしょう」
マティアスは、本当に感心したようにうなずいた。
「それに、顔色がいいと、それだけで商いの話も明るく進むものですからね。景気のいい商人に見えます。こいつは、うまくいきますよ」
アヤの肩から、ふっと力が抜けた。
「よかった……。自分から言い出したことなのに、実は、少し不安だったのです。着慣れない服で、うまくやれるかどうか」
アヤは胸の前で両手を重ねて、にっこりと笑った。そして、ジェフリーのほうへ向きなおった。
「ジェフリー様は、ご準備はいかがですか?」
ジェフリーは、ようやく我に返った。
自分が、アヤの顔を見つめたまま、ずっと黙っていたことに気づく。
「……いま、館へ持っていく食料の見本を、袋に分けていたところです。すぐに終わらせます」
そう言うなり、慌てて木箱に向きなおった。手もとにあった袋を傾けて、匙で白い粉をすくい、小さな布袋に入れようとする。
その手首を、横から大きな手がつかんだ。
「隊長。それは全粉乳の袋です」
マティアスだった。
「じゃがいもの粉は、こっちの袋ですよ。そっちの小袋には、もう全粉乳が入ってます」
ジェフリーは、匙の上の白い粉と、マティアスの顔とを見比べた。袋の木札を見る。たしかに、アヤの字で「全粉乳」と書いてあった。
「……ああ。すまない」
ジェフリーは、匙の粉をもとの袋に戻した。
マティアスは手首から手を離すと、しばらく黙って、ジェフリーの横顔を見ていた。
この隊長の下について、もうずいぶんになる。
サルヴィアでは、どれほど美しい令嬢に言い寄られても、この人は顔色ひとつ変えなかった。腕を取られても、贈り物を差し出されても、涙を見せられても、ただ丁寧に礼を言って背を向ける。
戦場ではなおさらだった。まわりで誰が倒れようと、敵がどれほど迫ろうと、この人の手は迷わず、目は少しも揺らがなかった。
氷の騎士。人がそう呼ぶのも無理はないと、マティアス自身も思っていた。
その氷の騎士が、匙ひとつまともに扱えずにいる。粉の袋を取り違え、耳の先をうっすらと赤くして、それを悟られまいと、必要以上に真剣な顔で小袋の口を縛っている。
マティアスは、口もとがゆるむのを、どうにかこらえた。
氷だ氷だと言われてきたが、この人の中にも、案外ちゃんと血が通っているらしい。
「あーっ!」
草地のほうから、大きな声が飛んできた。
ノアだった。こちらに気づいたらしく、棒切れを放り出して、一目散に駆けてくる。そのあとから、背中に草の切れ端をくっつけたエミールが、のんびりと歩いてきた。
ノアはアヤの前で足を止めると、口を大きく開けたまま、アヤの顔を見上げた。
「すっげえ……。おねーさん、すごく、きれいになった!」
「まあ、ありがとう、ノア」
アヤが笑いかけると、ノアはうんうんと何度もうなずいた。そして、さも当たり前のことのように言った。
「やっぱり、おひめさまだ」
その場の空気が、凍りついた。
アヤの笑顔が、そのまま固まった。マティアスの指が、紐を結びかけたところで止まった。ジェフリーの手から木札がひとつ、木箱の上へ落ちた。エミールは、歩きかけた足を宙に浮かせたまま、立ち止まった。
気づかれているのだろうか。
いつ。どこで。
偽の兵たちが野営地へ乗りこんできたとき、アヤは自分の名を名乗った。あのとき、ノアは幌馬車の中にいたはずだ。あの声が、聞こえていたのだろうか。
誰も、何も言えなかった。
その沈黙を破ったのは、リーナの笑い声だった。
ほかの二人と一緒に、幌馬車のほうから歩いてきたところだったらしい。リーナはノアのそばまで来ると、その頭をくしゃりと撫でた。
「この子ったら。こんな田舎に、お姫様なんて来るはずがないでしょう。いったいどこで、そんなお世辞を覚えてきたの」
アヤは、すぐにその言葉にのった。
「そうですよ、ノア。わたくしは、エステリアの調査員ですもの。お姫様ではありません」
「そうなの?」
ノアは首をかしげると、アヤを見て、まわりの黒騎士たちをぐるりと見回した。
「だって、みんな、おねーさんのこと、アヤさま、アヤさまって呼ぶからさ。すっごくえらい、おひめさまなのかと思った」
黒騎士たちが、そろって目をそらした。
リーナが、くすりと笑った。
「アヤ様は、えらい学者様なのよ。だから、皆さん、そうお呼びになるの」
「ふうん」
ノアはまだどこか納得のいかない顔をしていたが、やがて、まあいいや、という顔になった。
「でも、きれいなのは、ほんとうだよ。かあちゃんの次くらいに」
「まあ」
リーナが困ったように笑い、アヤもつられて笑った。凍りついていた空気が、ようやく溶けた。
ジェフリーの隣で、マティアスがゆっくりと息を吐いた。そして、ジェフリーにだけ聞こえるように、大きな身体をかがめた。
「隊長。我々は、互いの呼び方について、今後よくよく考えねばなりませんね」
ジェフリーは、黙ってうなずいた。
子どもの耳は、大人が思うよりもずっとよく聞いている。そして、大人が思うよりもずっと、まっすぐにものを考える。
今日これから向かうのは、子どもの耳よりはるかに用心深い男の館だった。そこで、アヤを「アヤ様」と呼ぶわけにはいかない。
ジェフリーは、木箱の上に落ちた木札を拾い上げた。そこには、アヤの字で「じゃがいもの粉」と書かれていた。
********
ダリアの領主の館の奥、執務室のカーテンは、今日も閉じられたままだった。
ガストン・ヴァルモントは、机の向こうに立つ男を、睨むように見ていた。
男は、昨日もこの部屋に来ていた。崖下の荷を見張らせている者のひとりで、海の上で暮らしてきたような、日に焼けた身軽な男だった。昨日の夕方、男は息を切らして裏口から転がりこんでくるなり、荷が消えたと告げたのだった。
洞窟の奥の穴倉に閉じこめておいた女が三人、縄だけを残していなくなっていた。そのうえ崖の上の洞窟では、ガルドの手下どもが八人そろって縛り上げられ、見張りまでついていたという。男はその見張りに見つかって追われ、どうにか逃げ帰ってきた。
昨日、この男から聞けたのは、そこまでだった。
「昨日ご報告した、逃げた荷のことで、新たに分かったことがあります」
男は、そう切り出した。
ガストンは、男の顔から目が離せずにいた。
昨日はなかったものが、そこにあった。
男の左の頬の、半分ほどが、赤みがかった緑色に染まっていたのだ。痣のようにも見えるが、打ち身の色とはまるで違う。熟れきらない果実の皮のような、どこか毒々しい色だった。その色の真ん中に、細い切り傷が一本、斜めに走っている。
そして男は、部屋に入ってきたときから、右の足を引きずっていた。
「昨日、追われたときに、これを投げつけられました」
男は懐から布の包みを取り出すと、机の上に置いて、包みを開いた。
中から出てきたのは、指ほどの長さの、小さなナイフだった。
「頬のほうは、かすっただけです。こいつは、右の足首に刺さったのを、逃げる途中で引き抜いたものです」
ガストンは、ナイフに手を伸ばしかけて、やめた。刃の根もとに、乾いた血がこびりついている。そのまわりに、男の頬と同じ赤緑のしみが、うっすらと残っていた。
「昨日は、ただの切り傷だと思っていました。それが今朝起きたら、このありさまで」
男は、自分の左の頬を指さした。
「足首も同じです。傷のまわりが、同じ色に変わっています」
男は、机の上のナイフを見下ろした。
「船乗り仲間から、聞いたことがあるんです。サルヴィアの黒騎士は、取り逃がした相手に、こういう小さなナイフで印をつける。刃に塗った毒で肌の色が変わって、ひと月は消えない。その色を目印に、どこまでも追ってくる、と」
男は、顔を上げた。
「これを使えるのは、サルヴィアの黒騎士です。荷を逃がしたのは、黒騎士たちです」
ガストンは、何も言わなかった。言えなかったのだ。
とうとう、黒騎士が動きだした。
黒い外套の一行がダリアの町の手前で引き返していったという話は、数日前に聞いていた。若様がまた新しい護衛を雇ったのではないかと、町の者たちが騒いでいるという話も。
そのときは、ただの旅の一行だろうと聞き流していた。北の国の騎士たちが、龍の涙だの何だのという伝説を追ってエステリアをうろついているという噂も、耳には入っていた。どうせ、その連中が道を間違えたのだろう、と。
それが、ガルドたちの消息が途絶え、荷が消え、そして、この印だ。
ガストンの目が、机の上で裏返しにしておいた書状へ向いた。
約束の荷が、遅れている。
遅れているどころではなかった。荷そのものが、黒騎士の手に渡ってしまったのだ。
あの女たちが、何を見て、何を聞いていたか。洞窟の奥に何があり、そこで誰が、どんな船を待っていたか。そしてガルドの口が、どこまで固いか。
ひとつでも明るみに出れば、この半年あまりをかけて組み上げてきたものが、すべて崩れる。何があっても、あの荷のことだけは知られるわけにはいかなかった。
ガストンの額に、じわりと汗がにじんだ。
そのとき、扉を叩く音がした。
ガストンの肩が、びくりと跳ねた。
「……入れ」
扉を開けたのは、白髪の執事だった。執事は男の頬の色にちらりと目をやったが、何も言わずに一礼した。
「ガストン様。表に、お客様がお見えです」
「誰だ。今は、それどころでは――」
「サルヴィアからいらした商人の、ナナ・ハルセリン様と申される方です。ご夫婦でお越しで、眠れる薔薇の商いのことで、ぜひ当家とお話がしたいとのことです」
執事は、そこでわずかに言いよどんだ。
「それと……黒騎士の方々が、数名ご一緒です。奥様の護衛だとか」
ガストンは、思わず椅子から立ち上がっていた。椅子の脚が床をこすって、嫌な音を立てた。
黒騎士。眠れる薔薇。サルヴィア。
ハルセリン。どこかで聞いた名だった。どこで聞いたのかを思い出すより先に、ガストンは、机の向こうの男と目を合わせていた。
男の左の頬の、赤緑の色が、目に焼きついた。
ガストンは、執事に向きなおった。
「……少し、お待たせしろ。応接間にお通しする支度をしておけ」
執事が一礼して下がり、扉が閉まった。
ガストンは、机の上に両手をついて、男のほうへ身を乗り出した。
「今すぐ、ロランに知らせろ。黒騎士どもに気づかれた、とな。荷のことも、洞窟のことも、全部だ」
「陸を行きますか」
「船を使え。そのほうが速い。……少しでも早く、ロランの耳に入れるんだ」
男はうなずくと、右の足を引きずりながら部屋を出ていった。
男は、館の裏口から外へ出た。
厨房の裏を抜け、垣根の陰を伝って、海へ下りる小道のほうへ向かう。右の足首が、一歩ごとに鈍く疼いた。
小道へ出る手前で、男は足を止めた。
垣根の切れ目から、館の正面の門が見えたのだ。
門の前に、一行が立っていた。
いちばん前に、背の高い男がいる。黒い外套を肩から長く垂らし、腰には一本の長い剣。淡い金の髪が、潮風にかすかに揺れていた。その隣には、赤茶の頭布をかぶり、房飾りのついた肩掛けを羽織った女がいる。女は男の顔を見上げて、何かを話しかけていた。
その少し後ろに、黒い服の男たちが何人か、馬の手綱を取って控えていた。
男の目が、そのうちのひとりで止まった。
遠くからでも分かる。あたりの様子をひとつ残らず拾い上げていくような、あの目。
あいつだ。
昨日、崖の上で、自分を追ってきた男だった。夕闇の中を足音ひとつ立てずに迫ってきて、振り向きざまにナイフを放ってきた、あの黒騎士。
左の頬の傷が、どくりと脈打った気がした。
男は垣根の陰に身を沈めると、見つからないよう、少しずつ後ろへ下がっていった。門の前の一行が見えなくなったところで背を向け、足を引きずりながら、海へ下りる小道を急いだ。
崖の下では、船が待っている。
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門の前で、アヤは館を見上げていた。
ダリアの領主の館は、思っていたよりも大きかった。灰色の石を積んだ二階建てで、正面には古い紋章を彫りこんだ門柱が二本、立っている。ただ、その壁のところどころには、海から吹きつける塩気のせいだろう、白い粉を吹いたようなしみが浮いていた。門の鉄の格子も、あちこちが赤く錆びている。
ここへ来るまでの道の両側には、麦畑が続いていた。
続いていた、と言うには、あまりにもまばらな畑だった。痩せた麦が、ところどころで心細げに穂を垂れ、そのあいだから乾いた土が大きくのぞいている。畑の向こうの家々は、どこも戸を閉ざしていた。道を歩いているあいだ、すれ違う者は誰ひとりいなかった。
アヤは、隣に立つジェフリーを見上げた。
今日のジェフリーは、黒騎士の旅装の上に、黒い外套を肩から長く垂らしていた。胸にも腰にも幾重にも革の帯が走り、腰には長い剣が一本。手には黒い革の手袋をはめている。商人の夫というより、やはりどこから見ても騎士だった。
それでいいのだ、とアヤは思う。過保護な夫が、騎士の務めを休んでまで、妻の行商についてきた。そういう筋書きなのだから。
ジェフリーは、まっすぐに前を向いていた。その横顔が、いつもよりいくらか硬いように見えた。
「ジェフリー様」
アヤが小声で呼ぶと、ジェフリーの目だけが、ちらりとこちらへ動いた。
「館の中では、わたくしのことを、なんとお呼びになりますか?」
ジェフリーの口が、わずかに開いて、閉じた。
どうやら、まだ決めていなかったらしい。
ジェフリーが何か答えるより先に、門の向こうで、重い閂の外れる音がした。錆びた鉄の格子が、ぎい、と軋みながら開いていく。
門の内側から現れたのは、白髪をきれいに撫でつけた老人だった。館の執事らしい。執事は、二人の前で深々と頭を下げた。
「大変お待たせいたしました。ハルセリンご夫妻でいらっしゃいますね」
「はい。突然お訪ねして、ご迷惑ではなかったでしょうか」
アヤが、商人の妻らしく、愛想よく微笑んで答えた。
「とんでもないことでございます。あいにく当家の主は長く床に臥せっておりまして、お目にかかることがかないません。主の弟にあたりますガストン様が、代わってお会いになるとのことです。どうぞ、こちらへ」
執事は、二人を門の内側へ招き入れた。
後ろに控えていたグスタフたちは、門の外に残った。馬と、鞍に積んだわずかな荷の番をする、商人の護衛として。アルベルトが、すれ違いざまに、ジェフリーにだけ分かるように片目をつぶってみせた。
ジェフリーは、それを見なかったことにした。
石畳の前庭を、執事のあとについて歩きながら、ジェフリーは、ここへ来る道中のことを思い返していた。
野営地を発ってしばらくしたころ、アルベルトが馬を寄せてきたのだ。
「隊長。今さらですけど、本当にいいんですか? ハルセリンの名前を使って」
前を行くアヤに聞こえないよう、アルベルトは声をひそめていた。
「サルヴィアじゃ、隊長は有名ですよ。誰の求婚も受けない、氷の男だって。その隊長に妻がいるなんて話、誰かの耳に入ったら、えらい騒ぎになりますよ」
「サルヴィアの黒騎士の隊長は、三人しかいない」
ジェフリーは、前を向いたまま答えた。
「ガストンが黒騎士のことを少しでも知っているなら、偽りの名を名乗るほうが、かえって怪しまれる。調べればすぐに分かることだ」
「それはそうですけど。じゃあ、結婚のことは?」
「内々の妻ということにすればいい。わけあって、まだ式は挙げていない。サルヴィアでは誰にも知らせていない。そういうことにしておけば、話の辻褄は合う」
アルベルトは、しばらく黙っていた。そうして、まじまじとジェフリーの顔を見た。
氷の男で通っているジェフリー・ハルセリンが、実はサルヴィアで式も挙げずに、ひとりの妻を隠していた。それも、わざわざ行商の旅にまでついてくるほど、その妻を大事にしている。
辻褄は、たしかに合う。
合うだけに、それを本当らしく見せるには、隊長自身がそういう男になりきらなければならない。妻を大事にするあまり、仕事を放り出してでもそばを離れられない男に。
この人に、そんな芝居ができるのだろうか。
アルベルトの頭に、今朝の木箱の上の、いびつな針金の輪が浮かんだ。粉の袋を取り違えたときの、隊長の赤い耳の先も。
「……隊長。せめて、奥方のことをどう呼ぶかくらいは、決めておいたほうがいいですよ」
あのとき、アルベルトはそう言った。ジェフリーは、そうだな、と答えた。
答えたきり、結局、決めていなかった。
館の玄関の大扉が、目の前に迫っていた。
執事が、扉の取っ手に手をかける。
ジェフリーは、隣を歩くアヤを見た。アヤも、ジェフリーを見上げていた。紅をさした唇が、小さく動いた。声には出さなかったが、ジェフリーには、何と言ったのかが分かった。
――よろしくお願いします、旦那様。
大扉が、ゆっくりと開いた。




