32. 二人分の指輪
翌朝、野営地の木箱の上には、地図も紙の束も広げられていなかった。
かわりに置かれていたのは、荷箱の継ぎ目を補強するのに使う、細い金属の帯が二本と、ひと巻きの針金だった。足もとには、荷箱の修理に使う小さな工具箱が、蓋を開けたまま置かれている。ジェフリーはその前に腰を下ろし、金属の帯を指先で慎重に曲げては小さな輪にし、継ぎ目を別の針金でくるくると巻きとめていた。
アルベルトは、その向かいに立って夜の見張りの報告をしていた。囲いの中の二人は、明け方になってようやく声がやみ、今は泥のように眠っていること。縄の結び目は夜のうちに二度確かめ、ゆるんだものは一つもなかったこと。崖のほうから人が近づく気配もなかったこと。
ジェフリーは手を止めずに、そのひとつひとつにうなずいていた。
いつもの朝なら、この木箱は報告を聞くための机だった。地図を広げ、書きつけに目を通し、指で道筋をたどりながら耳を傾ける。それが今朝は、同じ木箱の上で、隊長が何やら細かな工作に没頭している。
報告を終えても、アルベルトはその場を離れなかった。どうしても気になって、とうとう口をひらいた。
「隊長……何を作っているんですか」
「指輪だ」
「なんの指輪です?」
「結婚指輪」
アルベルトは、自分の耳を疑った。
サルヴィアにいたころ、ジェフリーのもとには、令嬢たちからの手紙が毎日のように届いていた。黒騎士の隊長に任じられたころにはもう、お付き合いの申しこみだの、縁談だのが山のように積まれていたのだ。そのほとんどを、この人は封も切らずに引き出しへしまいこんでいた。直属の上官が見かねて持ちこんだ縁談にさえ、首を縦にふらなかった男である。
その隊長が、こんな辺境の川べりで、結婚指輪を作っている。しかも、指輪と呼ぶにはあまりにもお粗末な、針金の輪を。
何かの間違いだと思った。
「隊長、結婚するんですか?」
「する」
「なんで?」
「ダリアのためだ」
もう、わけがわからなかった。
細い金属の帯は、思うように丸くならないらしい。針金を巻くたびに輪がゆがみ、ゆがみを直そうとすると、今度は継ぎ目がずれる。そのたびにジェフリーの眉間の皺が深くなっていくのを、アルベルトはなんとも言えない思いで眺めていた。
ジェフリーは手を止めないまま、昨夜のことをアルベルトに話しはじめた。
もちろん、そのとき自分が何を思っていたのかには、ひとことも触れずに。
********
昨夜、幌馬車の荷台の縁に並んで腰かけていたとき、アヤから「結婚しましょう」と告げられて、ジェフリーは手にしていた紙の束を、足もとの草の上にばらまいてしまった。
拾い上げた紙を握りしめたまま固まっているジェフリーを見て、アヤもようやく、自分の言葉がどう聞こえたのかに気づいたらしい。あっと小さく声をもらし、慌てて付け足した。
「もちろん、本当に結婚するのではありません。結婚したふりで構わないのです。……驚かせてしまって、ごめんなさい」
結婚したふり。
まあ、そうだろうとは思っていた。思っていたし、本当にこの人と結婚できるはずなどないことも分かっていた。相手は一国の王女で、自分はただの騎士だ。
それなのに、そう考えたとたん、胸のどこかを細い針でつつかれたような感覚があった。これまで、どんな縁談を断っても、どんな令嬢の涙を見ても、感じたことのない痛みだった。
アヤは、そんなジェフリーの胸の内など知る由もなく、膝の上で両手を重ねて話を続けた。
「殿様は、床に臥せっていらっしゃるのでしょう。でしたら、実際にわたくしたちと会うのは、殿様の代わりに館を預かっているガストン殿のはずです。そのとき、わたくしはエステリアの調査員ではなく、サルヴィアから来た商人としてお会いしたいのです」
アヤはそう言って、月明かりの中でジェフリーを見た。
「ルシアン殿から聞いた眠れる薔薇の話をもとに、商いを持ちかけるふりをして、相手を探るのです」
「なぜ、サルヴィアの商人なのですか?」
ジェフリーが尋ねると、アヤは当たり前のことのように答えた。
「ジェフリー様が、一緒に来てくださるからです」
ガストンは、ルシアンがサルヴィアの山奥に咲くという眠れる薔薇を追っていることを知っている。サルヴィアの事情にそれなりに通じているのなら、サルヴィアの黒騎士がどういう者たちなのかを知っていても、おかしくはない。
そこへ、前触れもなく黒騎士が訪ねてくれば、何をしに来たのかを察して、身を隠してしまうかもしれない。
だから、黒騎士がそこにいてもおかしくない、別のはっきりした理由がいる。
「そこで、ジェフリー様には、わたくしの旦那様になっていただきたいのです。過保護な夫が、わがままな妻の行商を心配して、護衛としてついてきた。そういうことにすれば、怪しまれません」
ジェフリーは、すぐには返事をしなかった。
「しかし、ガストンが本当に黒騎士を知っているのなら、黒騎士が何をする者たちなのかも知っているはずです。黒騎士が、ひとりの行商の護衛を引き受けるとは考えにくい」
黒騎士の仕事は、騎士と名がついていても、華やかな表の務めとはほど遠い。国の命を受けて少ない人数で動き、国境を越えて敵地へ入りこむ。
表に出せない書状や薬を、誰にも知られずに運ぶ。賊の根城をひと晩で潰す。人の目の届かないところで、要人をひそかに守り、ときには逆に、誰かを捕らえて連れ帰る。
そういう、名前の残らない仕事のほうが、ずっと多いのだ。
そんな者が、商人の荷を守って町から町へ歩くなど、知っている者が聞けば首をかしげるだろう。
アヤは、それにもうなずいた。
「ですから、過保護な夫になってほしいのです。愛する妻が、わざわざサルヴィアからエステリアまで行商に出る。道中の危険を思うと、誰か他の者に任せる気にはなれない。だから、夫である自分が、黒騎士の務めを休んででもついてきた。……そういうお芝居を、していただきたいのです」
アヤは、まっすぐにジェフリーを見ていた。
その目が真剣であればあるほど、ジェフリーは自分の息の仕方が分からなくなった。剣を向けられても乱れたことのない呼吸が、今はひとつも整わない。
この人を、特別に思っていることは、もう分かっている。それは自分でも認めている。ただ、その想いは、ようやく芽を出したばかりのものだった。いくつもの段を飛び越えて、いきなり「結婚」という言葉の前に立たされるなど、考えたこともなかった。
まるで、どれほど手を伸ばしても届かないはずの花が、急に自分の手の中へ落ちてきたような気分だった。
それを平然と抱えたまま、何食わぬ顔で夫の芝居をするなど――。
「……無理がある」
ぽつりとこぼれた自分の声に、ジェフリーはぎくりとした。
「無理がありますか?」
アヤが、心配そうにこちらの顔をのぞきこんでいた。
ジェフリーは慌てて首を横にふった。
「いえ、そんなことはありません」
否定したにもかかわらず、アヤの顔から不安の色は消えなかった。重ねた指先を、落ち着かなげに組みかえている。
「あまり、無理はしてほしくないのです。ジェフリー様ほどの方でしたら、本当は、もっとふさわしい方が奥様になるはずですもの。たとえお芝居でも、わたくしが妻では……」
「いえ、無理はしていません。それに、私に妻はおりません」
「でも、やっぱり……わたくしは、あひるの姫ですから」
アヤは、少しだけ目を伏せた。
「隣にいるのが、わたくしのような者では、かえって不自然かもしれません。ほかのどなたかに夫の役をしていただいたほうが――」
「そこは、問題ありません」
自分でも驚くほど、強い言い方になっていた。
「俺がやります」
アヤは、ぱちりと瞬きをした。
まっすぐに向けられた青い目に、さっきまでの遠慮はどこにもなかった。
あまりにも真剣な声に、こぼれかけていた不安が、行き場をなくしてしまったようだった。しばらくぽかんとジェフリーの顔を見ていたアヤは、やがて、肩の力を抜くようにふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます、ジェフリー様。やっぱり、お優しい方ですね。ダリアのために、あひるの姫の夫の役を、嫌な顔ひとつせずに引き受けてくださるなんて」
頼りにしております、とアヤは言った。
その笑顔に、ひとかけらの疑いもなかった。ジェフリーが、ダリアのために、自分の気持ちを押し殺してまで夫の役を演じようとしている。アヤは本気でそう思っていた。
本気なのは、確かだった。
ただ、それはアヤの思っているような意味ではない。もし、これが芝居でなかったなら。本当に、この人を自分の妻と呼べたなら――。
その先は、胸の内でさえ、言葉にしなかった。
********
ジェフリーがアルベルトに話したのは、昨夜決まったことだけだった。
アヤが、サルヴィアの女商人としてガストンに会うこと。その夫として、自分が護衛を兼ねて同行すること。そのために、夫婦らしく見える何かが要ること。
話を聞き終えたアルベルトは、しばらく黙って、ジェフリーの手もとの歪んだ輪を眺めていた。
「隊長、その……夫婦の芝居って、できます?」
「やってみないと分からない」
アルベルトは、顎に手をやって少し考えた。
「自信がないなら、その役、俺がやりましょうか。そういうのは、隊長より慣れてますよ」
「俺がやると言っている」
即座に返ってきた答えに、アルベルトは目を瞬いた。
つい昨日、アヤ様たちの気を散らせと命じたとき、おまえはそういうのが得意だろう、と言ったのは隊長だ。女性の相手をさせるなら、自分よりアルベルトのほうが向いている。隊長は、それをよく分かっているはずだった。
その隊長が、夫婦の芝居ができるかどうかも分からないと言いながら、夫の役だけは頑として譲らない。
――これは、ひょっとして。
そう思いかけて、アルベルトはすぐに打ち消した。
この人が、これまでどれほどの縁談や手紙や、正面からの申しこみをはねのけてきたか。そのせいで、氷の騎士という呼び名にどれほど拍車がかかったか。いちばん近くで見てきたのは、ほかでもない自分だ。
その隊長が、よりによってエステリアの第一王女に、そんな想いを抱くはずがない。たぶん、任務に責任を感じているだけなのだろう。アルベルトはそう納得することにした。
納得したところで、目の前の輪がまた一つ、針金の巻きすぎでいびつに膨らんだ。
見ていられなかった。
「隊長。夫婦の芝居はできても、指輪のほうはできてないですよ。ちょっと貸してください。俺なら、もう少しましに作れますから」
ジェフリーは手を止めて、アルベルトの顔を見た。
この男は、細かい仕事になると妙に指がよく動く。ジェフリーは少しのあいだ迷うように手の中の輪を見下ろし、いかにも渋々といった様子で、それをアルベルトに渡した。
受けとった輪を光にかざしながら、アルベルトが尋ねた。
「で、これ、どっちの指輪なんです?」
答えたのは、ジェフリーではなかった。
「二人分です」
振り向くと、そこにアヤが立っていた。
いつもの青と白の旅装ではなかった。
生成りの長袖のブラウスの袖口と襟もとに、赤い小花の刺繍が細かく散っている。その上に焦げ茶の胴着を重ね、胸の前で交差させた紐をきゅっと締めていた。腰には見慣れた幅広の革帯を巻き、赤茶と墨色の布を幾重にも重ねたスカートの上に、生成りの前掛けを下げている。前掛けの裾にも、赤い花の模様が縫いとられていた。
肩には房飾りのついた濃い灰色の肩掛けをゆったりと羽織り、長い黒髪は編んで、赤茶の頭布の中へまとめている。肩から斜めに提げた革の鞄と、足もとの濃い茶色の編み上げ靴だけが、王宮を発った朝と同じだった。
旅をする学者ではなく、荷を積んで町から町へ渡り歩く、商いの女の姿だった。
ジェフリーが何か言うより先に、アルベルトが口をひらいた。
「アヤ様、そのお召し物はどうしたんです? いつもと、まるで違いますね」
「上に着るものだけ、サルヴィアの商人が旅をするときの服を思い浮かべて、こしらえてみたのです」
アヤは少し照れくさそうに、前掛けの裾をつまんでみせた。
「荷の中にあった布と、わたくしの替えの衣を組み合わせたのです。旅に持ってきた針と糸で、リーナさんたちにも手伝っていただいて、ゆうべのうちに縫いあげました。これまでの旅装のままでは、どうしてもエステリアの調査員に見えてしまいますから。……どうでしょう。それらしく見えますか?」
サルヴィアの女が着るにしては、色がずいぶん明るい気もした。北の国の旅装は、雪や泥に紛れる地味な色のものが多い。それでも、エステリアに憧れて南の色を好む商人だと思えば、べつにおかしくはないだろう。アルベルトはそう判断して、にっこり笑った。
「悪くないですよ。むしろ、いつもより表情が明るく見えて、とてもいい。さっき隊長から聞いたんですけど、サルヴィアの女商人ってことでダリアに入るんですよね」
「そうなのです。うまくできるかどうか、まだ分かりません。でも、こうして違う服を着て身分を偽るなんて、少しわくわくしてしまいますね」
「ああ、分かりますよ、それ。俺も任務で潜りこむことがありますからね」
アルベルトは、いつもの調子で肩をすくめた。
「でも、こんなにかわいらしい奥様なら、任務じゃなくたって、俺が旦那の役をやりたいくらいですよ」
その瞬間、木箱の上に、重いものが置かれる音が響いた。
ジェフリーが、足もとの工具箱を持ち上げて、アルベルトの目の前に据えたのだ。
「指輪を作る道具だ。これを使え」
それだけ言うと、ジェフリーは腕を組んで黙りこんだ。
アルベルトは、工具箱と隊長の顔を交互に見た。
何がどうして急に機嫌が悪くなったのか、さっぱり分からない。ご婦人が慣れない服を着て、似合うかどうかと尋ねてきたのだ。よく似合っていると、思ったとおりに伝えて安心させる。それくらいの気づかいは、男として当たり前のことではないか。
首をかしげながら、仕方なく工具箱の蓋を開けた。
アヤはといえば、そんな二人のやりとりを不思議そうに眺めながらも、肩掛けの房を指先でもてあそんでいた。新しい服が、よほど気に入っているらしかった。
********
結局、指輪は二つともできあがったものの、どちらも指には合わなかった。
アヤの指には大きすぎ、ジェフリーの指には小さすぎた。アルベルトがもう一度作りなおすと言ったが、それを待つ時間はない。二つの輪には細い鎖を通し、それぞれ首にかけておくことになった。
もし誰かに指輪のことを訊かれたら、旅の途中で失くしてしまわないよう、今回は鎖に通して首にかけているのだと答える。そう口裏を合わせた。
ジェフリーが自分の鎖を首にかけ終えて顔を上げると、アヤが、胸もとに下がった針金の輪を指先でつまみ、朝の光にかざしていた。
輪をくるりと回しては、継ぎ目の巻きつけた針金のところで手を止め、少し離してまた眺める。光の当たり方によって、針金の輪がどう見えるのかを確かめているらしかった。
「こうして少し離れて見ると、銀の指輪に見えなくもありませんね」
アヤは、真面目な顔でそう言った。
「でも、近くで見られたら、きっと継ぎ目で分かってしまいます。ふだんは胸もとの内側にしまっておいて、鎖だけが少しのぞくくらいにしておきましょう。訊かれたら、そのときだけ出してお見せすればいいのです」
アヤは、輪を襟の内側へすべりこませた。生成りのブラウスの襟もとに、細い鎖だけが光っていた。
商人の妻として人前に出る以上、作り物だと見抜かれるわけにはいかない。アヤが気にしているのは、どうやらそのことだけのようだった。
ジェフリーは、自分の胸もとに下がった、アヤのものよりさらにいびつな輪を見下ろした。そして、それをそっと上着の内側へ押しこんだ。
領主の館へ向かう顔ぶれも決まった。
館の中へ入るのは、ジェフリーとアヤの二人だけだ。行商の夫婦が商いの話をしに訪ねるのに、護衛をぞろぞろと引き連れて館へ上がりこんでは、かえって怪しまれる。
グスタフ、アルベルト、セドリック、ディーター、ヨハン、カスパーの六人は、サルヴィアの商人の荷を守る護衛という名目で、館の外に残る。鞍に積んだわずかな旅の荷と馬の番をしているふりをしながら、二人がガストンと話しているあいだに、それとなく館のまわりを見てまわる手はずだった。
マティアスをはじめ残りの黒騎士は、野営地で囲いの中の賊を見張りながら、リーナたち三人とノアを守ることになった。
ガストンのもとへ届いたという「荷」が、もし彼女たちのことだったなら、村へ帰したとたんに、また誰かの手が伸びてくるかもしれない。今はまだ、黒騎士の目の届くところに置いておくほうがいい。
顔ぶれが決まると、アヤは、それではさっそく、という顔で計画を話しはじめた。
「わたくしとジェフリー様は、わたくしがサルヴィアの眠れる薔薇を商品にしようと考えている、という前提でガストン殿にお会いします。そして、眠れる薔薇を、ダリアでも作れるようにしたいと持ちかけるのです」
マティアスが、太い腕を組んだまま尋ねた。
「眠れる薔薇の作り方は、お分かりなのですか? アヤ様は、その薔薇をご存じで?」
「いいえ、そんな薔薇は存じません」
アヤは、少しも悪びれずに答えた。
「でも、知らなくてもよいのです。作り方はサルヴィアの秘密で、商いの話がまとまるまでは詳しくお話しできない、ということにします。持ちかけるのは、ダリアでその薔薇を育てること。そのために、まずダリアの土地を詳しく見せていただきたい、とお願いするのです」
なるほど、とセドリックが小さくうなずいた。
視察を理由にダリアの領内へ入り、実際には、どこかへ消えている王都からの支援物資を探す。そういうことなのだろう。
「もし、それでも断られたら?」
アルベルトの問いにも、アヤは心配いらないという顔をした。
「まず、わたくしたちの話し合いを、できるだけ長引かせます。そのあいだに、ほかの皆さまに、それとなく領内を探っていただきたいのです。ただ、ガストン殿の気を引いておけるのにも限りがありますから、広い範囲を調べるのは得策ではありません。むしろ、そのときにしか調べられない場所を調べていただきたいのです」
「つまり、館の近く、ということですか」
セドリックが言うと、アヤはうなずいた。
「はい。本当に大事なものは、誰でも自分の目の届くところに置いておきたがりますから」
アヤは、皆の顔をひとわたり見回した。
「それでも視察を断られたら、今度はこう申し上げます。せっかく夫婦でエステリアまで来たのだから、二、三日ダリアに滞在していきたい、と。わたくしたちは町の宿をとります。そして、ガストン殿にお願いするのです。町を案内してください、と」
旅の途中の夫婦としてダリアにとどまり、ガストンに町を案内させる。そうしてガストンの目と足を、できるかぎりアヤとジェフリーのほうへ向けさせておく。その間に、ほかの黒騎士が動く。
ジェフリーが、そこで口をひらいた。
「ただの町の案内では、ガストンは引き受けないかもしれません」
「そこも、考えてあります」
アヤは、ジェフリーのほうへ向きなおった。
「そこで、ジェフリー様には、悪い黒騎士になっていただきたいのです」
ジェフリーは、思わずアヤの顔を見返した。
どういう意味だ、と言いかけたのを察したのか、アヤは野営地に並ぶ幌馬車のほうへ目をやった。
「眠れる薔薇がダリアで作れなくても、ダリアの町をもとに、別の商いをしたい。その話を、ジェフリー様のほうから持ち出していただきたいのです。売るものは、軍の旅の食料です」
アヤの話はこうだった。
サルヴィアの遠征で当たり前のように使われている粉のミルクやバター、干した食料、海のものを混ぜた馬の飼い葉。その多くは、エステリアの軍ではまだ使われていない。黒騎士たちの荷を間近で見てきたアヤには、それがよく分かっていた。
それを、兵を相手に売りさばく商いとして、ガストンに持ちかけるのだという。
「もちろん、品をそっくり持っていくわけではありません。粉のミルクも、バターも、干した食料も、小さな袋に少しずつ分けて、見本としてお見せするのです。商人が売りこみに行くのに、品をすべて荷車に積んでいく者はおりませんもの」
見本の袋なら、鞍の脇の荷袋にいくつか収まる。夫婦の旅の荷と合わせても、行商の小さな一行に見える程度の量で済むだろう。
「ダリアでは、エステリアの兵を護衛として雇っている。それが、ガストン殿のこしらえた建前でしょう。その建前を、今度はこちらが使わせていただくのです」
アヤは、改めて膝の上で両手を重ねた。
「捕らえた者たちの話では、ルシアン殿が、エステリアの兵を護衛に雇ったことになっているのですよね。ですから、わたくしたちは、眠れる薔薇の話をルシアン殿から聞いたとき、ダリアでは騎士を護衛に雇っているという話も、いっしょに聞いたことにします。そして、そのダリアの護衛の騎士を通して、兵を相手にした商いをしたい。……その話を、ジェフリー様には、悪い黒騎士として持ちかけていただきたいのです」
「つまり」
ジェフリーが、アヤの言葉を引きとった。
「相手には、こちらも若様と同じように、ダリアの騎士を本物だと信じたうえで話をしている、と見せるわけですね」
「そうです。そのとき、ジェフリー様には、相手の顔をよく見ておいていただきたいのです。もちろん、わたくしも見ています。ただ、兵を相手にした話なら、わたくしよりジェフリー様のほうがずっとお詳しいはずですから。わたくしが見落としたものを、拾っていただけるかもしれません」
まず、こちらから鍵になる話を差し出して、相手がどう動くかを見る。それがアヤの狙いだった。
ジェフリーにも、アヤのやりたいことはおおよそ分かった。
ガストンが探していると思っている眠れる薔薇を、売りたい女商人。その女商人についてくる夫は、サルヴィアの黒騎士。その黒騎士は、軍の荷を裏で横に流そうとしている。そういう筋書きで、相手の腹を探る。
理屈は通っていた。それでも、ジェフリーにはひとつ引っかかるところがあった。
「アヤ様。悪党というのは、悪事の話を持ちかけられたとき、いつでも乗ってくるとは限りません」
アヤが、首をかしげた。
「ガストンのような男は、自分のしていることが悪事だと、よく分かったうえでやっています。だからこそ、相手のほうから持ちこまれた悪事の話には、ひどく用心する。罠かもしれないと、まず疑うはずです」
「では……ほかに、やり方があるのですか?」
ジェフリーは、少しのあいだ、木箱の上に残った針金の切れ端を見ていた。
「悪党が気をゆるめる時というのは、いくつかあります。そのひとつは、いったん身構えたあとで、思いもよらないことが起きたときです。用心して固めた構えが、横からふいに崩される。その一瞬だけは、どんな人間でも僅かな隙ができる」
アヤには、それがどういう場面のことなのか、すぐには思い浮かばなかった。
ジェフリーは、アヤのほうへ向きなおった。
「商いの話が、何をどう売るかというところまで進んだら、私が途中で割って入ります。食料の話は、アヤ様が商人として進めてください。私はその途中で割って入り、私ひとりの腹づもりで、別の品の話を持ち出します」
青い目が、まっすぐアヤを見ていた。
「そのとき、私が何を言っても、どんなことを持ち出しても、アヤ様は必ず話を合わせてください。……できますか?」
アヤは、迷わなかった。
「もちろんです。やります」
その答えを聞くと、ジェフリーはひとつうなずき、野営地の奥へ顔を向けた。
「イェンス」
薬の木箱のそばで帳面をつけていたイェンスが、すぐに顔を上げた。
「白い茶の葉は、あとどれくらい残っている?」
********
昨日の昼過ぎに川べりの野営地を発ってから、ステファン・ベックは、ほとんど休まずに馬を走らせていた。
夜のあいだも、星明かりで道の見える開けた街道を選んで進んだ。黒馬の脚がわずかでも重くなれば、手綱につないだ替え馬に乗り換え、また走る。止まるのは、馬に水を飲ませるときと、蹄に石が挟まっていないかを確かめるときだけだった。
馬に無理をさせていることは、誰よりもよく分かっていた。
それでも、手綱をゆるめる気にはなれなかった。外套の内側、胸のポケットには、油紙で包んだ三通の手紙がある。一刻も早くこれをエステリアの王宮へ届け、すぐに近衛を連れてダリアへ戻らなければならない。
野営地に急ごしらえした丸太の囲いは、あくまでいっときのしのぎにすぎない。三十人もの賊を閉じこめておけるのは、どれほど長くても七日がいいところだろう。日がたてば、縄はこすれて傷み、杭はゆるむ。見張りに立つ者の疲れも、少しずつ積もっていく。どこかに小さなほころびが生まれれば、そこから一気に崩れることもある。
隊長なら、うまくやるだろう。
そう思っても、胸の奥の落ち着かなさは消えなかった。あの野営地には、アヤ様がいる。リーナたちがいて、ノアがいる。崖の洞窟の地下には、まだ姿の見えない男たちがいる。
ステファンは、前かがみになって黒馬の首を軽くたたいた。
「すまない。もう少しだけ、がんばってくれ」
黒馬は、耳をひとつ動かして、また前へ前へと土を蹴った。
********
その頃。
北の国境を越え、エステリアへ向かう乗合馬車に、ルシアン・ヴァルモントが揺られていた。
板張りの座席には、行商人らしい男や、里帰りらしい母子がぎゅうぎゅうに詰めこまれている。ルシアンは隅の席に身を縮め、膝の上の革鞄を抱えたまま、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
眠れる薔薇の手がかりは、ひとつも見つからなかった。
サルヴィアのあちこちを、思いつくかぎり歩いた。叔父のガストンが勧めてくれた山の村にも、峠の町にも足を運んだ。宿の主人に訊き、市場の花売りに訊き、山で暮らす年寄りに訊いた。
冬に咲き、咲いたまま凍って色を残す薔薇。
そう話すと、誰もが首をかしげた。そんな薔薇は見たこともないし、聞いたこともない、と。
ルシアンには、それが不思議でならなかった。眠れる薔薇がサルヴィアの山奥に咲くのなら、なぜ、サルヴィアの人間が誰ひとりとして知らないのだろう。
たしかに、自分はこの目で見たのだ。叔父が紹介してくれた旅の商人が、大切そうに布にくるんで持っていた、花びらを開いたまま凍りついた一輪を。
ルシアンは、膝の上の鞄に目を落とした。
鞄の脇には、もうひとつ、頑丈な木の箱がくくりつけてある。しっかりと錠がかけられていて、中を見ることはできない。サルヴィアへ発つ前に、叔父から預かったものだった。
――サルヴィアの鉱山の近くに、鍛冶屋がある。ついでに、これを届けてくれないか。
言われたとおり、ルシアンは山あいの鍛冶屋を訪ねた。それなのに、出てきた男は箱を見るなり顔をしかめ、受けとろうとしなかった。
「これ以上、荷は作れない。そう伝えてくれ」
男はそれだけ言うと、戸を閉めてしまった。
いったい何のことなのか、ルシアンにはさっぱり分からなかった。叔父は、ダリアの鉄具を直してもらうための注文だと言っていたはずだ。とりあえず、この箱は持ち帰って叔父に返すしかない。
窓の外には、少しずつ南の景色が広がりはじめていた。雪の残る山肌が遠のき、かわりに青い麦畑と、ところどころに咲く野の花が目に入るようになる。
今ごろエステリアでは、花祭りが終わったばかりだろう。王都やその近くの町は、まだ祭りの余韻の中にあるはずだ。祭りのあとは、土産物の店がここぞとばかりに品を並べ、通りはしばらく賑わいが続く。
帰りに、領地の民へ何か買って帰ろうか。
そう思ってから、ルシアンは懐の財布の軽さを思い出した。旅の費用はできるだけ切りつめてきたつもりだったが、それでも、ずいぶん心もとない。
それでも、子どもたちにキャンディをひとつずつ配るくらいなら、なんとかなるのではないか。
ふと、ひとりの男の子の顔が浮かんだ。
そういえば、ノアには、しばらく会っていない。
母親とふたりで畑を耕し、いつも泥だらけになって走りまわっていた子だ。騎士になるのだと胸を張って、自分の後ろをついてまわっていた。あの子の笑い声を聞いていると、こちらまで元気をもらえるような、本当に明るい子だった。
ノアには、いちばん大きなキャンディを買ってやろう。
ルシアンはそう決めて、少しだけ口もとをゆるめた。
乗合馬車は、がたがたと車輪を鳴らしながら、ダリアへ続く南の道を下っていった。




