31. 遠回りなやり方
※この話には、性的被害を想起させる表現があります。直接的な描写は避けていますが、苦手な方はご注意ください。
鉄鍋の中で、鹿の肉がまたひとつ、じゅうっと音を立てた。
川べりの焚き火のまわりでは、もうひととおり食事が行き渡っていた。リーナたち三人は、落ち葉で焼いたパンを膝に乗せ、温かいスープを少しずつ口へ運んでいる。月の花茶のカップは、どれも半分ほど減っていた。
ノアは、いちばんうまいところをとっくに平らげて、今は二枚目のパンに肉を挟もうと必死になっていた。肉汁が垂れるとエミールが何度言っても、聞く気配はなかった。
アヤは、鍋の中の肉をひとつずつ返していた。
焼き色のついた面を上にして、香草をひとつまみ。塩を少し。脂の具合を見ながら、焦がさないように火から少し離す。
ここで焼いている肉は、ここにいる者たちの分だけではなかった。
柳の木立の向こう、野営地にはジェフリーたちがいる。
捕らえた賊の見張りに、今も何人もの黒騎士が立っているはずだった。昼から、ろくに腰を下ろす暇もなかっただろう。
アヤは焼き上がった肉を、大きな葉の上に並べていった。リーナが焼いたパンも、布に包んでそばに置く。
両手で抱えられるだけの量をまとめて、立ち上がりかけたときだった。
「どこへ行くんです、それ」
アルベルトだった。焚き火の向こうで、パンを片手に座っていた。
「野営地の皆さまに、お届けしようと思いまして。冷めないうちに」
「俺が持っていきますよ」
アルベルトは、パンを口に押しこんで立ち上がった。
「アルベルト様は、どうぞこちらでお肉とパンを召し上がってください。ずっと動きどおしでいらしたでしょう。わたくしが、皆さまにお届けしますから」
「いやいや」
アルベルトは、もごもごと口を動かしながら、アヤの腕から葉の包みをひょいと取り上げた。
「俺はもう、十分いただきましたから。それに、こんなに重いものをアヤ様に運ばせたなんて知れたら、隊長に叱られるのは俺のほうです」
「金色の騎士さま、怒るとこわいの?」
焚き火の向こうから、ノアが身を乗り出した。
「こわいぞ。怒鳴りもしないで、黙ってにらむだけなんだがな。あれがいちばんこわい」
ノアが、肉を挟んだパンを抱えたまま、くすくす笑った。
アルベルトは笑って、パンの包みも小脇に抱えた。
「それに、アヤ様までいなくなったら、寂しくなりますよ。ノアや皆さんと一緒にいてください」
アルベルトの目が、ほんの一瞬だけ、焚き火のそばの三人に向いた。
リーナが、スープの器を両手で包んでいた。残りの二人も、肩を寄せるようにして座っている。食事を口にしてはいても、誰の背中も、まだどこか固かった。
アヤは、空になった手を、そっと下ろした。
たしかに、今夜はこの人たちと同じ火に当たっているほうが、ずっと大事なのかもしれなかった。
「……では、お願いいたします」
「お任せを」
アルベルトは包みを抱え直すと、柳の木立のほうへ歩いていった。
その背中を見送りながら、アヤは小さく息を吐いた。
ジェフリー様に、温かいうちに召し上がっていただけるといいのだけれど。
そう思ってから、アヤは自分で少し可笑しくなった。野営地の皆さまに、と言ったはずだった。
********
しばらくして、木立の向こうから足音が近づいてきた。
戻ってきたのは、アルベルトだけではなかった。マティアスと、カスパーもいる。三人とも、両腕にいっぱいの荷を抱えていた。巻いた天幕の布、束ねた杭、毛布の山。
マティアスが、川べりの平らなところに荷を下ろした。
「アヤ様。今夜は、少し離れたこちらで天幕を張って、休んでいただけますか」
アヤは、荷の山とマティアスの顔を見比べた。
「こちらで、ですか。野営地には戻らずに」
「ええ」
「何か、あったのですか?」
マティアスは、大きな手で首の後ろをかいた。
「捕まえた連中が、どうにも騒がしくてですね。縄をほどけだの、ここから出せだの、さっきからわめき通しなんですよ。ああいう声を夜通し聞かされたら、あの方々も怖がるでしょうから」
マティアスの目が、焚き火のそばのリーナたちに向いた。
アヤは、はっとした。
肉を焼きはじめたばかりのころ、木立の向こうで誰かが叫んだような気がした。
あれは、捕らえた男たちの声だったのだ。
「……そうでしたか。それでしたら、こちらのほうがよろしいですね」
アヤが言うと、マティアスはほっとしたように表情をゆるめた。
アルベルトが、ほんの一瞬、マティアスと目を見交わした。アヤは、それには気づかなかった。
天幕は、あっという間に張られた。
アルベルトとマティアスが杭を打ち、カスパーが布を引き、エミールとテオが綱を張る。柳の根もとから少し離れた、平らで水はけのいい場所に、天幕が三つ並んだ。ひとつはリーナたち三人に。ひとつはアヤに。もうひとつは、見張りの者が交代で休むためのものだった。
「今夜、こちらの見張りは、カスパーとエミールとテオでまわします」
マティアスが言った。
「俺とアルベルトは、隊長に呼ばれていましてね。このあと、向こうへ戻ります」
その話を聞いていたのかいないのか、ノアは天幕のまわりを、ぐるぐると走りまわっていた。
「すげえ! 今日はここで寝るの? かあちゃんと一緒に?」
ノアは、リーナたちの天幕の中へ頭を突っこみ、すぐに引っこめ、今度はアヤの天幕をのぞきこんだ。
「かあちゃん、見て! 毛布がふかふかだよ!」
リーナが、焚き火のそばから小さく笑った。
「ノア。お行儀よくしなさい」
「してるよ!」
ノアには、これが楽しい野営にしか見えていないらしかった。母親と同じ天幕で眠れる。それだけで、今夜はもう十分だったのだろう。
アヤは、その様子をしばらく眺めていた。
それから、マティアスに向き直った。
「マティアス様。今夜のうちに、どうしてもジェフリー様にお話ししておきたいことがあるのです」
マティアスの手が、綱を締めかけたところで止まった。
「今朝、お話ししそびれたことです。ダリアについて、父がどう考えているのか。それを、ジェフリー様にお伝えしておかなければと思いまして」
マティアスは、すぐには答えなかった。
アルベルトが、天幕の杭を確かめるふりをしながら、こちらへ顔を向けた。
今、アヤを野営地へ戻すわけにはいかなかった。
囲いの中の二人は、白い茶の痛みに苦しんでいる。痛みの波は、一度で終わらない。次の波が来れば、また声が上がる。その声を、この人に聞かせたくはなかった。それに、白い茶をどう使ったのかを、この人に知られたくもなかった。
「隊長は、今、少し手が離せません」
マティアスは、言葉を選ぶように言った。
「明日の朝では、いけませんか?」
「明日では、遅いのです」
アヤは、まっすぐマティアスを見上げた。
「明日、ダリアの殿様にお話を伺いにまいります。そのために、どうしても今夜のうちに、ジェフリー様とお話ししておかなければならないことがあるのです」
マティアスとアルベルトは、もう一度、目を見交わした。
どちらも、はっきりとは答えなかった。
アヤは、その沈黙を返事として受け取るつもりはなかった。
やがて、マティアスが観念したように息を吐いた。
「……わかりました。一度、隊長に確かめてまいります。アヤ様は、このままこちらでお待ちください。すぐに戻りますから」
「はい」
アヤがうなずくと、マティアスとアルベルトは、柳の木立の向こうへ戻っていった。
********
野営地の焚き火は、川べりのそれよりもずっと小さかった。
ジェフリーは、囲いから少し離れた木箱に腰を下ろしていた。
膝の上に、紙の束が載っている。
囲いの前で男たちを問いただしたのは、ジェフリー自身だった。ジェフリーが問い、男たちが答える。そのあいだ、イェンスはそばに膝をついて、男たちの口から出た言葉を一つ残らず書きとめていった。
その書きつけを、ジェフリーは今、読み返していた。
一枚目を読み、二枚目を読み、また一枚目に戻る。同じところを、もう何度も目で追っていた。
身体が重かった。
剣を振ったわけではない。走りまわったわけでもない。
白い茶を二度使い、囲いの前で、男たちの口から話を吐かせ続けていた。
それだけなのに、肩から背中にかけて、昼間の戦いのあとよりも重いものが残っていた。
囲いの中には、二人の男が横になっていた。
ひとりは、ガルド。
もうひとりは、昼間、エステリアの兵の鎧を着て野営地に乗りこんできた、髭の濃い男だった。名をボリスというらしい。鎧ははがされ、汚れた肌着のまま、地面に頬をつけて目を閉じている。
二人とも、口に湿らせた布を噛まされていた。
今は静かだった。白い茶の、口を割らせる効き目が切れたあと、最初の痛みの波が身体を襲い、二人はひとしきり声を上げて叫んでいた。その痛みに疲れ果て、今はほとんど気を失いかけている。
ジェフリーは、紙の上に目を戻した。
一枚目のいちばん上には、イェンスの字で、こう記されていた。
――ガルド。
その下に、ガルドの話が、行をそろえて並んでいる。ところどころで字が乱れているのは、男の口から次々に出てくる言葉を、書きとめる手が追いきれなかったからだろう。
――雇い主は、ロラン。エステリアの兵を名乗っている。ダリアの領主から、直に領地の護衛を頼まれたと言っていた。
――ロランからの言いつけは、護衛ではなかった。畑を荒らせ、と言われた。
――ガルドたちが、ならず者として村を襲う。そこへロランと、兵を名乗る男たちが駆けつけ、ならず者を捕らえる。砦の牢へ連れていくと言って、村人の前で引き立てる。実際には牢へは入れず、ねぐらへ帰すだけ。
――芝居のあとで、ガルドたちが村の護衛として村人の前に出る。ならず者を追い払ってやった礼をよこせと言い、村人から金を取る。払えない家からは、女を連れていく。
――取り上げた金と女は、すべてロランに差し出す。ロランはその中から、手当としていくらかをガルドたちに戻す。女も、気に入った者を一人だけ。
ジェフリーは、次の行へ目を移した。
その名が出たのは、白い茶を飲ませて、しばらくしてからだった。ジェフリーが問うより先に、ガルドは自分から口にした。
「ガストンの旦那だ」
――ロランの上にいるのは、ガストン・ヴァルモント。ダリアの領主、ルシアン・ヴァルモントの叔父。
――ヴァルモント家の当主、ルシアンの父は、長く床に臥せっている。ガストンは兄のかわりに、執政としてルシアンのそばにいる。
――ガストンが酒に酔って、ロランに、自分が兄を口説いてルシアンを領主に据えさせたと話しているのを聞いた。ルシアンは要領の悪い男だから、ちょうどいいのだと。
ジェフリーは、その行の上で、しばらく目を止めた。
「若様は、要領の悪い男だ、ってよ」
ガルドは、そう言って喉の奥で笑っていた。
ジェフリーは、先を読んだ。
――ガストンが、ロランを雇った。
――ロランの手の者が畑を荒らす。困った領民は、領主になったばかりのルシアンに助けを願い出る。そこでガストンが、ルシアンに護衛を雇うよう勧める。
――ガストンが、ガルドたちをルシアンに引き合わせた。ガルドは、ガストンに言われたとおり、もとはエステリアの騎士だと名乗った。ルシアンは、それを信じた。
ここを話したときのガルドの顔を、ジェフリーは思い出していた。
「若様、あっさり信じやがった」
ガルドは、囲いの上に広がる夜空を見上げて、笑っていた。
――騎士の日と、ならず者の日。ガルドの一味と、もう一つのならず者の一味が、交代で役を務める。片方がならず者として村を襲い、もう片方が騎士として追い払う。
――動くのは、ルシアンが領地を留守にしているときだけ。ルシアンには知らせない。
――騎士として村を守った日には、その村から礼の金を取る。それとは別に、月に一度、村ごとに決まった額を取り立てる。
――月に一度の支払いは、ガストンのもとへ集められる。ガルドたちへの手当は、そこから渡される。
――手当だけでは足りず、騎士として村を守るたびに、金品を巻き上げるようになった。
――金品が足りないときは、女を連れていった。なるべく若い女を。ロランの指示。
――ロランは、女たちを奴隷商人に売る。その金は、ロランが七、ガルドたちが三。
最後の行の横に、イェンスの字で、小さく書き添えてあった。
――ここで激昂。
ジェフリーは、そのときのガルドの声を思い出した。
「汚ねえ仕事は全部こっちにやらせといて、七だぞ」
縛られた身体をよじって、ガルドは囲いの柵に向かって吠えた。
ガルドの書きつけは、そこで途切れていた。
その先、ガルドは何も言わなくなった。白い茶の効き目が、少しずつ薄れはじめたのだ。
ロランが受け取ったものが、そこからどこへ行くのか。ガルドは、それを知らなかった。
だから、白い茶をもう一度使うことになった。
ジェフリーは、紙をめくった。
二枚目のいちばん上には、こう記されていた。
――ボリス。鎧の男。ロランの手の者。
――ロランの下で、エステリアの兵の鎧を着ていた。ガルドたちが村を襲えば、ロランとともに駆けつけ、ならず者を捕らえるふりをする。
ジェフリーは、その一行で目を止めた。
このくだりを話したとき、ボリスは、白い茶に浮かされた目で、へらへらと笑っていた。
「芝居だよ。全部、芝居だ」
その声が、まだ耳に残っていた。
昨日、セドリックは、村の娘を襲っていた四人を捕らえ、巡回兵に引き渡した。巡回兵たちは、縛られた四人を馬に乗せて、国境の砦へ連れていくと言った。
その先にあったのは、砦ではなく、ドラゴンの爪あと、と呼ばれている洞窟だった。
アルベルトの報告では、洞窟で縛り上げた八人のうち四人が、手首や鼻や腕や脇腹にまだ新しい傷を負っていたという。
セドリックが、その手で傷を負わせた四人だった。
ジェフリーは、最後の行へ目を移した。
――ガルドたちに手当を戻した残りの金と、女を奴隷商人に売った代金は、ロランが館へ運ぶ。誰に渡しているのかは、知らない。
「ロランの旦那が、館へ持っていくのさ。誰に渡してるのかまでは、俺は知らねえ」
そう言うと、ボリスは大きくあくびをするように口を開けて、目を閉じた。
ボリスが知っていたのは、そこまでだった。
書きつけは、そこで終わっていた。
ジェフリーは、紙の束を膝の上に下ろした。
焚き火の中で、薪がひとつ崩れた。
畑を荒らし、芝居で守り、守ってやった礼を取る。足りなければ、女を売る。
どれも、ひどいやり方だった。それなのに、その手間の多さに比べて、手に入るものがあまりにも小さい。
ならず者を二組も抱え、エステリアの兵を名乗る者まで間に入れ、若い領主の目を盗んで芝居を続ける。そうして領民から受け取ったものを、わざわざ人の手を何度も通して、館へ納めさせる。
なんとも、回りくどいやり方だった。
ダリアは、貧しい土地だ。
その貧しい土地から、さらに搾り取る。それだけのために、これほど手のこんだ仕掛けを組むものだろうか。
私腹を肥やすためにしては、あまりにも効率が悪い。
ガストンという男が、本当は何をしようとしているのか。ジェフリーには、まだ、その形が見えなかった。
「アヤ様、お待ちください!」
アルベルトの声が、木立のほうから響いた。
ジェフリーは、顔を上げた。
焚き火の明かりが届くぎりぎりのところを、青と白の旅装が、つかつかとこちらへ歩いてくるのが見えた。
アヤだった。
そのすぐ後ろを、アルベルトが追いかけてくる。
どうやら、アヤは二人が戻るのを待ちきれず、自分からこちらへ来てしまったらしい。途中で気づいたアルベルトが、あとを追ってきたのだろう。
ジェフリーは、紙の束を木箱の上に置いて立ち上がった。
すぐ後ろに、囲いがある。
縛られた男たちが、その中で横になっている。そのうちの二人は、今は疲れ果てて静かにしている。それでも、白い茶の痛みの波は、一度で終わらない。また来る。そのたびに、二人は声を上げることになる。
湿らせた布を噛ませてあるとはいえ、それで声を完全にふさげるわけではなかった。
ジェフリーは、アヤの行く手に立った。
囲いとアヤのあいだに、自分の身体を置くようにして。
アヤは、ジェフリーの前で足を止めた。
急いで歩いてきたのだろう。額に、うっすらと汗がにじんでいた。
「ジェフリー様。どうしても、今夜のうちにお話ししておきたいことがあるのです」
ジェフリーは、アヤの顔を見た。
この人は、待てと言われて待つ人ではない。そのことを、自分はもう、知っていたはずだった。
「……ここは、捕らえた者たちの近くです」
ジェフリーは、静かに言った。
「あちらで、お話を伺います。支度が整ったら、私もまいりますので」
それから、アヤの肩越しにアルベルトを見た。
「アルベルト。アヤ様を、幌馬車のところへお連れしろ」
「了解」
アルベルトが、アヤのそばへ寄った。
「こちらへどうぞ、アヤ様。足もとが暗いですから」
アヤは、ジェフリーの顔をもう一度見上げた。
何か言いかけて、やめた。それから小さくうなずき、アルベルトに促されるまま、野営地の端の幌馬車のほうへ歩いていった。
ジェフリーは、その背中が十分に離れたのを確かめてから、振り返った。
「イェンス」
囲いの脇で、イェンスが顔を上げた。
「熱さましの薬草は、あとどれくらいで効くようになる?」
「白い茶を飲んで、六時間は経っていないと効きません」
イェンスは、囲いの中の二人に目をやった。
「まだ、三時間しか経っていません。今飲ませても、ほとんど効き目は望めないかと」
ジェフリーは、囲いの中を見た。
ガルドの唇が、布の下で、ひくりと動いた。
「アヤ様に、あいつらの声を聞かせるのはまずい」
ジェフリーは言った。
「次に痛みが来たら、あの二人に飲ませてやれ。痛みは引ききらないだろうが、多少はましになるかもしれない」
「承知しました」
イェンスが、薬草の袋のほうへ離れていった。
入れ替わるように、マティアスがジェフリーのそばへ来た。
「アヤ様をお止めしたんですがね。どうしても、隊長にすぐ話したいと」
「だろうな」
ジェフリーは、小さく息を吐いた。
「今朝、話したがっていたのを、待たせたんだ」
ジェフリーは、もう一度、囲いのほうを振り返った。
白い茶で苦しむ男たちの声を、アヤに聞かせたくない。リーナたちにも。もちろん、ノアにも。
だから、今夜は囲いからずっと離れた川べりに、天幕を張らせたのだ。
その思惑が、アヤにだけは通じなかった。
ジェフリーは、木箱の上の紙の束を拾い上げ、懐にしまった。
********
幌馬車のまわりには、いくつかのランタンが掛けられていた。
今夜は、月がきれいだった。
雲ひとつない空に、丸みを帯びた月が高く昇っている。その明かりとランタンの灯りとが重なって、幌馬車のまわりだけが、夜にしてはずいぶん明るかった。
幌馬車の幕は、高く巻き上げられていた。
アヤは、その荷台の縁に腰をかけて待っていた。
ジェフリーが近づいていくと、そばに立っていたアルベルトが軽く片手を上げた。
「俺、ちょっとノアたちの様子を見てきます」
そう言うと、返事も待たずに、川べりのほうへ歩いていった。
ジェフリーは、アヤの前に立った。
アヤは、荷台の縁に腰かけたまま、ジェフリーを見上げた。それから、自分の隣の板の上に、そっと手を置いた。
ここに、と言うように。
ジェフリーは、一瞬、迷った。
それでも、促されるまま、アヤの隣に腰を下ろした。荷台の板が、小さくきしんだ。
肩と肩のあいだに、拳ひとつ分の隙間があった。
アヤは、ジェフリーのほうへ身体を向けた。まっすぐに目を見ながら、話しはじめた。
「明日、わたくしは領主の館へまいります。民の皆さまが殿様と呼んでいらっしゃる方に、お会いするつもりです」
「わかりました」
ジェフリーは、すぐに答えた。
「私も、一緒に行きます」
アヤは、小さくうなずいた。
それから、少しだけ目を伏せた。
「ただ……領主様は、エステリアから来た調査員としてのわたくしとは、お会いにならないかもしれません」
「では、また王女として、お会いになりますか?」
アヤは、首を横に振った。
「いいえ。第一王女として会いに行くのは、もっといけません」
その言葉に、ジェフリーの視線がわずかに止まった。
「そうすれば、肝心の殿様は、かえって隠れてしまうと思います」
ジェフリーには、すぐにはその意味がわからなかった。
調査員では会ってもらえない。王女として行けば、隠れてしまう。
ならば、どうやって会うというのか。
アヤは、ジェフリーの顔に浮かんだ問いに気づいたのだろう。膝の上で、両手を重ねなおした。
「ジェフリー様が、初めて謁見の間にいらした日のことを、覚えていらっしゃいますか?」
「……はい」
「あの日の夜のことを、お話しします」
アヤは、月を見上げた。
********
その夜、エステリア王宮の国王の執務室には、遅くまで灯りがともっていた。
レグナードは、机に向かって書類に目を通していた。昼間、サルヴィアの黒騎士の隊長を謁見の間に迎え、青の部屋へ降り、評議室で探索の段取りを話し合った。長い一日だった。
扉を叩く音がした。
入ってきたのは、二人の娘だった。
アヤと、ミエ。
レグナードは、書類から顔を上げた。二人の顔を見比べて、ほんのわずかに眉を寄せた。
ミエの目が、まだ少し赤かった。
アヤは、妹の一歩うしろに立っていた。
「お父様」
先に口を開いたのは、ミエだった。
「もう一度だけ、聞いていただきたいのです。ダリアのことを」
レグナードは、ペンを置いた。
「昨日、話したはずだ」
「わかっております。それでも、もう一度」
ミエは、机の前まで進み出た。
「ダリアとアジールとの交易の決まりを、見なおしてはいただけませんか。せめて、ダリアにだけでも、特例を」
「今のダリアに、これ以上してやれることはない」
レグナードの返事は、昨日と同じだった。
ミエは、唇を噛んだ。それでも、引き下がらなかった。
「今日、ルシアンから、新しい交易の話を聞きました」
ミエは、王宮のロビーでルシアンが広げた地図の話をした。
サルヴィアの山奥に咲く、眠れる薔薇のこと。咲いたまま凍って、色も形も残すという花のこと。その仕組みを学んで、エステリアの花を枯らさずに遠くへ運べるようにしたいということ。まずはサルヴィアとエステリアとのあいだで花を売り、その利益で、いずれアジールまで道を延ばしたいということ。
ミエが話し終えるまで、レグナードは口を挟まなかった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「アジールとの交易の決まりが、なぜ今も変わらないのか。ミエ、おまえはその理由を考えたことがあるか」
ミエは、答えなかった。
「アジールには、エステリアにとって魅力のある品が、たしかにある。金。宝石。それに、アジールにしか育たない草木の中には、我が国の医術で薬として重宝されているものもある。だからこそ、交易そのものは続けている」
レグナードは、机の上で指を組んだ。
「だが、同じように、アジールには、エステリアがけっして受け入れられないものもある」
「……受け入れられないもの?」
「たとえば、陽炎草のような、人の心と身体を蝕む草だ。それから、人を売り買いする決まり。アジールでは、それが当たり前のこととして行われている」
ミエは、わずかに息を呑んだ。
「アジールとの交易は、サルヴィアとの交易よりも、はるかに厳しく見張っていなければならない。少しでも綻びができれば、そこから、そういうものが国の中へ流れこんでくる。そうなれば、エステリアは、外から攻められるより先に、内側から崩れていく」
レグナードは、ミエをまっすぐに見た。
「これは、国の秘密でも何でもない。政に関わる者なら、誰でも知っていることだ」
ミエは、何か言い返そうとして、言葉を探した。
レグナードは、続けた。
「ダリアからは、これまでにも何度も、交易の決まりを見なおしてほしいという願いが届いている。そのたびに、許すことはできないと答えてきた」
レグナードの声が、少しだけ硬くなった。
「あれだけの物資を送ってなお、民が飢えている。それほどまでに、あの土地は治まりきっていない。そこへ交易の決まりをゆるめて、エステリアにふさわしくないものが外から入りこむ穴を開けるわけにはいかん」
「ルシアンは、そんなことのために交易をしたいのではありません!」
ミエの声が、高くなった。
「あの人は、ダリアの民を救いたいだけです。お父様は、ルシアンのことを何もご存じないから――」
「知らぬから、許さぬのではない」
「では、なぜです! 飢えている民がいるのに、なぜ道を閉ざしたままにしておくのですか!」
「道を開ければ、飢えより悪いものが入ってくるからだ!」
レグナードの声も、強くなった。
ミエの目に、また涙が浮かんだ。
アヤは、一歩前へ出た。
「お父様」
穏やかな声だった。
ミエとレグナードが、同時にアヤを見た。
「ミエの申しているダリアの有様が、本当であるなら」
アヤは、妹の肩にそっと手を置いた。
「そして、お父様のおっしゃるとおり、これ以上は交易の決まりを変えることができないのであれば」
アヤは、レグナードに向きなおった。
「ダリアへ調査の者を遣わしてはいかがでしょう。まずは、送った支援の物資が、どのように扱われているのか。どこへ、どれだけ届いているのか。その内訳を、確かめるべきだと思います」
レグナードは、しばらくアヤの顔を見ていた。
それから、小さく首を横に振った。
「それなら、すでにやっている」
アヤの手が、ミエの肩の上で止まった。
「交易の決まりに関わる調査の者と、近衛の兵を遣わして、確かめさせた。一度や二度ではない」
レグナードは、机の引き出しから、紐で綴じた書類の束を取り出し、机の上に置いた。
「領主が物資をため込んでいるという事実も、私腹を肥やしているという事実も、見つからなかった」
レグナードは、書類の表紙に手を置いた。
「民には、支援の物資がきちんと行き渡っている。――届いた報告は、どれも、そういうものばかりだった」
********
そこまで話すと、アヤは、月から目を下ろした。
「調査の者が、何度ダリアへ行っても、何も見つからなかったのです」
アヤは、膝の上の手を見ていた。
「でも、わたくしたちは、この目で見ました。荒れた麦畑も、飢えている民も。ノアのお腹の傷も。リーナさんたちが、どこに閉じこめられていたのかも」
アヤは、ジェフリーを見た。
「父のもとへ届いた報告と、ここで起きていることは、まるで違います。それなのに、調査の者には何も見えなかったのです」
アヤは、ひと呼吸おいて続けた。
「ですから、わたくしが調査員として領主の館へまいっても、おそらく同じように、うまく隠されてしまうと思うのです」
ジェフリーは、黙って聞いていた。
聞きながら、ひとつのことに気づいていた。
アヤは、ダリアの貧しさの根を、領主の家に見ている。
ルシアンは今、眠れる薔薇を追ってサルヴィアへ向かっている。花祭りの日に、本人がそう話していた。ならば、館を預かっているのは、民が殿様と呼ぶ当主――ルシアンの父だろう。物資の行方も、その殿様が知っているはずだ。アヤは、そう考えているのだ。
イェンスの書きつけが指している先は、そこではなかった。
ジェフリーは、懐から紙の束を取り出した。
「アヤ様。今日、捕らえた者たちから、話を聞きました」
アヤが、紙の束に目を落とした。
ジェフリーは、どこまでを話すべきか、少しだけ考えた。
白い茶のことは、言わなかった。
「彼らに直接指示を出していたのは、ロランという男です。ただ、そのロランを雇い、裏で動かしていたのが、ガストン・ヴァルモントでした」
「……ガストン・ヴァルモント?」
アヤが、その名をくり返した。初めて聞く名のようだった。
「ルシアン殿の、叔父にあたる男です」
アヤの目が、見ひらかれた。
「ルシアン殿の父上――民が殿様と呼んでいるヴァルモント家の当主は、長く床に臥せっているそうです。ガストンは、その兄のかわりに、若いルシアン殿を支える執政として、そばについている」
ジェフリーは、紙の束をめくった。
「ならず者に畑を荒らさせ、困った領民がルシアン殿に助けを求めれば、護衛を雇えと勧める。そして、自分の手の者を、護衛としてルシアン殿に引き合わせる。……ルシアン殿は、何も知らずに、それを信じていたようです」
アヤは、何も言わなかった。
「殿様は、床に臥せっておられる。若様は、何も知らされていない」
ジェフリーは、紙の束から顔を上げた。
「ダリアが貧しさから抜け出せずにいるのは、領主の家のせいではないのかもしれません。その陰で糸を引いているのは、ガストンなのではないかと、私は考えています」
ランタンの炎が、風に揺れた。
「ガストンは、自分のしていることを、ルシアン殿や、その父上になすりつけているのかもしれません。何かが明るみに出れば、悪いのは領主の家だということになる。……そのために、自分は表に立たずにいるのだと」
アヤは、しばらく黙っていた。
膝の上で重ねた指が、ゆっくりと組み変わる。
月明かりの中で、その目だけが、わずかに動いた。
何かと何かが、頭の中でつながったらしい。
ジェフリーは、アヤが何かを言いだすのを待った。
やがて、アヤは顔を上げた。
ジェフリーのほうへ、まっすぐに向きなおった。
「ジェフリー様」
いつもと同じ、穏やかな声だった。
「今すぐ、わたくしたち、結婚しましょう」
ジェフリーの手から、紙の束がすべり落ちた。
足もとの草の上に、ばさりと散らばる。
「……は?」
自分でも驚くほど、間の抜けた声が出た。
「い、今……何と、おっしゃいましたか?」
「結婚しましょう、と申しました」
アヤは、少しも言いよどまなかった。
ジェフリーは、散らばった紙を拾おうと身をかがめて手を伸ばし、同じ一枚を二度つかみそこねた。ようやく拾い上げた紙は、上下が逆さまだった。
「そ、それは……その……」
何か言わなければならない。それなのに、口から出てくるのは、意味のない音ばかりだった。
「アヤ様、いくらなんでも、それは急すぎ……」
「急ぎませんと、明日に間に合いません」
「明日!?」
声が裏返った。
ジェフリーは、思わずあたりを見回した。
幌馬車のまわりには、誰もいなかった。見張りの騎士たちは、ずっと向こうの焚き火のそばに立っている。今の声がそこまで届いた様子はなかった。
ジェフリーは、握った拳の背を口もとに当てて、ひとつ咳払いをした。
何事もなかったような顔をしようとして、少しもうまくいかなかった。
「……アヤ様。なぜ、急に、そのような」
アヤは、ジェフリーの手から逆さまの紙をそっと受けとると、向きを直して返した。
「ダリアのためです」
「ダリアの……ため」
くり返した自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「はい。ダリアの皆さまのために、わたくしと結婚してください」
ダリアのため。
その言葉の意味を、考えなければならないはずだった。この人がこんなことを言いだすからには、何か理由がある。いつもの自分なら、まずそれを尋ねている。
それなのに、頭の中に残ったのは、最後のひと言だけだった。
わたくしと、結婚してください。
返された紙を受けとった指が、紙の端をつかんだまま動かなかった。




