30. 月の花茶と、しるし
※本話には、一部きつい尋問描写があります。苦手な方はご注意ください。
ダリアにあるヴァルモント男爵の館では、日差しが庭を明るく照らしていたが、執務室のカーテンは閉じられたままだった。
厚い絨毯の上を、靴音が行ったり来たりしている。
窓ぎわまで歩いては引き返し、扉の前まで来てはまた引き返す。同じところばかり踏まれた絨毯は、そこだけ毛足が寝てしまっていた。
ガストン・ヴァルモントだった。
ヴァルモント男爵家の主、レオナール・ヴァルモントの弟である。兄の一人息子、ルシアン・ヴァルモントから見れば、叔父にあたる。
兄のレオナールは、もう長いこと床に臥せっていた。
医者は何人も呼んだ。誰もが脈をとり、舌を診て、薬湯を変えた。それでも最後には、同じように首をかしげた。原因が、わからないという。
医者がそう言うたびに、ガストンは神妙な顔でうなずいてみせた。
原因なら、わかっている。
わかっているからこそ、誰にも言うつもりはなかった。少なくとも、今の事業が軌道に乗るまでは。
甥のルシアンは、北の山奥に咲くという眠れる薔薇を追いかけて、このところ館を留守にしがちだった。ダリアのためになると信じて、あの若者は脇目もふらずに走りまわっている。
ガストンが頭を痛めているのは、その薔薇のことではなかった。
ガストンには、ガストンだけの商いがあった。
机の上を見下ろすと、一枚の書状が置いてあった。
今朝、届いたものだった。何度読み返しても、書いてあることは変わらない。
――約束の荷が、遅れている。
短い文面だった。
ガストンが扱う荷は多い。
はじめのうちは、ガストンひとりの才覚で十分にまわせた。だが、商売相手の求めるものは、季節がめぐるたびに少しずつ増えていった。数も、質も、届ける速さも。
やがて、ガストンひとりの手には負えなくなった。
だから、人を雇った。
エステリアの兵に金をつかませ、ならず者を集め、それぞれに役目を与えた。どこで何を集め、どこへ運び、誰の目をどうごまかすか。すべてガストンが考え、組み立てた。
その仕組みは、よくまわっていた。
それが今、少しずつ崩れはじめている。
金の集まりが遅れる。金が遅れれば、品をそろえるのが遅れる。品が遅れれば、約束の日に荷が間に合わない。歯車がひとつ狂えば、その先の歯車も、次々に狂っていく。
なんとかしなければ。
ガストンは、机の脇の棚に目をやった。
木箱がひとつ、蓋をずらしたまま置いてある。中に詰まっているのは、乾いた草の束だった。かすかに甘い、土埃のような匂いがする。
陽炎草。
床に臥せった兄の名を借りて、ガストンが領民に配っている草だった。
ほんの少し口にすれば、疲れが嘘のように消え、身体が軽くなる。畑仕事のつらさも、腹の空き具合も、しばらくは忘れていられる。領民たちは、殿様からの賜り物だと信じて、ありがたがった。
そして、少しずつ、それなしではいられなくなっていった。
ガストンにとっては、領民を意のままに動かすための、都合のいいものだった。
ただし、安くはない。
棚の木箱は、最後のひと箱だった。その蓋をあけたのは、つい先日のことだ。しかも、領民が草を求める間隔は、少しずつ短くなっている。
このままでは、また足りなくなる。
足りなくなれば、不満が出る。その矛先は、草をくださる殿様――兄へ向かう。
兄への不満が大きくなれば、ガストンにとっても都合が悪かった。
例の商売が、やりにくくなる。
ガストンは、こめかみを指で強く押さえた。
そこへ、扉を叩く音がした。
「……入れ」
思った以上に、尖った声が出た。
扉をあけて入ってきたのは、館の執事だった。白髪をきれいに撫でつけた、物腰のやわらかな老人である。主の弟の不機嫌には慣れているのか、眉ひとつ動かさずに一礼した。
「ガストン様に、お客様がお見えです。なんでも、ガストン様から仰せつかっている荷のことで、急ぎお伝えしたいことがあると」
ガストンは、目を見ひらいた。
荷のこと。しかも、急ぎ。
また、新たな問題か。
もともと渋い顔を、ガストンはいっそう渋くした。机の上の書状を裏返し、椅子の背に手をかけた。
「通せ」
********
野営地のいちばん奥、川上の柳の木陰に、天幕がひとつ増えていた。
ドラゴンの爪あとから助け出された三人の女性のために、アヤがジェフリーへ頼んで張ってもらったものだった。
黒騎士ばかりの野営地で、男たちの目を気にせずに休める場所が、どうしても要ると思ったのだ。ジェフリーはアヤが理由を言い終える前にうなずいて、すぐにイェンスとキリアンに天幕を張らせた。
天幕の入り口の前には、湯気の立つ桶が二つ、並べて置かれていた。
エミールが運んできたものだった。焚き火で沸かした湯を川の水で少しぬるめ、桶になみなみと満たしてある。エミールは天幕の中へは一歩も入らず、入り口に桶を置くと、外から声だけをかけていった。
「足りなければ、また汲んできます」
それきり、足音が遠ざかった。
天幕の中は、薄暗かった。
垂れ幕の隙間から、日の光が細く差しこんでいる。その光の中で、三人の女たちは毛布にくるまり、肩を寄せあって座っていた。
アヤは、桶の湯に布を浸した。
固く絞り、湯気の立つうちに、まず手の甲にそっと当てる。それから腕へ、肩へ。
「温かいでしょう。……少しずつ、拭いていきますね」
ひとりずつ、順に身体を拭いていった。拭きながら、アヤは女たちの身体の具合を、ひとつひとつ確かめていった。
手首には、縄の痕が赤く残っていた。皮がすりむけて、ところどころに血がにじんでいる。
肌は、どこもかさかさに乾いていた。髪は泥と潮風でもつれて固まり、指を入れようとしても途中で止まってしまう。櫛など、とても通りそうになかった。
腕も、首も、驚くほど細かった。鎖骨の下に、くっきりと影ができている。
まともなものは、何ひとつ口にさせてもらえなかったのだろう。
顔色は、三人とも紙のように白い。初夏の日差しが一日じゅう照りつけていたというのに、毛布の下の身体は小刻みに震えていた。
――なんて、有様。
アヤは、胸の内でだけ、そうつぶやいた。顔には出さなかった。
目立った傷は、手首の縄の痕くらいのものだった。肌そのものには、殴られたような痣も、切り傷も見当たらない。
それなのに。
アヤが背中に布を当てると、女の肩が、びくりと跳ねた。
脇腹に触れれば、息をのむ。首すじに触れれば、身体が固くなる。布の温かさに慣れたかと思うと、次に触れたところで、また跳ねる。
身体に傷は見えなくても、身体のほうが、何かを覚えている。
よほどつらい目にあったのだと、アヤは思った。
アヤは、布を持つ手を止めた。
それから、触れる前に、ひとつずつ声をかけることにした。
「背中を拭きますね」
「次は、右の腕です」
「髪は、あとでゆっくり梳かしましょう。今日は、お湯で少し湿らせるだけにしておきますね」
ひとつずつ声をかけてから触れると、身体の強張りが、ほんの少しだけ小さくなった。
拭きながら、アヤは頭の中で、これから要るものを数えていた。
まずは、食事だ。
長いあいだ、ろくに食べていなかった身体だ。いきなり固いものや脂の多いものを入れれば、かえって身体を痛めてしまう。麦粥よりも、もっと柔らかく、もっと身体にやさしくて、それでいて滋養のあるものを用意しなければ。
エミールがさばいた鹿の骨を、長く煮出してスープにしたらどうだろう。肉は細かくたたいて、麦はそのスープでくたくたになるまで煮て――。
それから、もうひとつ。
旅の荷の中に入っている、女性のための花の茶。
月妃花という薬草をもとに作られている。正式な名で呼ぶ者はあまりおらず、女たちのあいだでは、ただ「月の花茶」と呼ばれていた。
毎月一度めぐってくる女性の日を、つらくさせない。そして、女性の身体をつくるのに欠かせないものを、いつも身体の中に保っておく。そういう効き目があるのだという。
アヤも、子どものころからずっと飲んできた。王都に残っている妹たちも同じだった。
朝に一杯。夜に一杯。
飲み続ければ女性らしい美しさを保てるともいわれている。薔薇とうたわれる王女たちが飲んでいる茶なのだから、王都で人気が出ないはずもなかった。
ただし、使われている花の中には、たいそう値の張るものもある。国中の誰もが、気軽に手に入れられる茶ではなかった。
それでも旅へ出るとき、侍女は惜しげもなく用意してくれた。
アヤの荷には、大きな茶缶がいくつも収められている。どの缶にも、月の花茶がたっぷりと詰められていた。
アヤは、侍女に言われたとおり、旅のあいだも朝と夜に欠かさず飲んでいる。
ただ、侍女には、念を押されたこともあった。
「殿方が飲むと、子をつくる力が落ちると言われております。騎士団の方々にお出しするのは、もうひとつの、ふつうの花茶にしてくださいませ」
一度ではない。荷を用意しているあいだ、何度も言われた。
アヤが、自分でよいと思ったものは何でも周りへ振る舞ってしまうことを、侍女はよく知っていたのだろう。
実のところ、旅に出てから一度だけ、二つの缶を取り違えかけたことがある。気づいたのは、黒騎士たちのカップに湯を注ぐ寸前だった。
あのときの侍女の顔が、今でもまぶたに浮かぶようで、アヤはそっと首をすくめた。
今この人たちにこそ、あのお茶が必要だ。
アヤは、そう思った。
「あとで、お食事と一緒に、月の花茶もお持ちしますね。心も身体も、落ち着きますよ」
拭く手を止めずに言うと、三人は顔を見合わせた。
月の花茶。
何のことかわからない、という顔だった。
無理もない、とアヤは思った。王都でさえ、誰もが飲めるお茶ではないのだ。ダリアでは、名前を聞いたことすらないのかもしれない。
アヤはそれ以上は何も言わず、布を桶の湯にくぐらせた。
しばらく、湯の跳ねる音と、布を絞る音だけが天幕の中に続いた。
やがて、ひとりの女が口を開いた。
ノアの母親だった。
洞窟の穴倉で、明かりのほうへ這い出てきた女。野営地でノアを抱きしめたまま、いつまでも離さなかった女だ。
「あの……」
かすれた声だった。
「黒い騎士様方が……わたしたちを、助けに来たとおっしゃっていました」
女は、毛布の端を両手で握りしめていた。
「それは……ダリアの村を、助けてくださる、ということでしょうか」
アヤは、別の女の背を拭きながら答えた。
「そうです。困っている皆さまを、見過ごすことはできません」
「……なぜ、でしょうか」
アヤの手が止まった。
顔を上げると、ノアの母親がこちらを見ていた。
嬉しそうな顔ではなかった。ほっとした顔でもない。ひどく不安そうな、何かを恐れているような顔だった。
「わたしたちは……もう、長いこと苦しんでまいりました」
女は、ゆっくりと話しはじめた。
「村も町も、ならず者に何度も襲われて……そのたびに、殿様にも、若様にも、お願いに上がりました。どうか助けてください、と。何度も、何度も」
女の声が、かすかに震えた。
「でも、誰も、助けてはくださいませんでした」
アヤは、黙って聞いていた。
きっと、この人だけではないのだろう。村の者が、町の者が、入れ替わり立ち替わり領主の館の門を叩いたのだ。畑を荒らされるたびに。家の物を奪われるたびに。
そして、そのたびに、願いは聞き届けられずに終わった。
この土地の人たちにとって、助けると言う者は、助けてくれない者のことだったのかもしれない。
アヤは、布を桶の縁にかけた。
ノアの母親の手に、自分の手をそっと重ねた。
毛布を握りしめた指は、冷たく、細かく震えていた。
「安心してください」
アヤは、ゆっくりと言った。
「もう、大丈夫です。ここにいるわたくしたちが、皆さまが安心して暮らせるようになるまで、かならずお助けします」
「……殿様も、助けてくださらなかったのに」
女は、重ねられたアヤの手を見下ろした。
「どうして、見ず知らずの方が、そこまで……」
アヤは、微笑んだ。
「サルヴィアの黒騎士の方々は、ある探し物をしていらっしゃるのです。わたくしは、その探し物をお手伝いしている、ただの学者でございます」
アヤは、少しだけ肩をすくめてみせた。
「たまたま、ここを通りかかりました。それで、見過ごせなかった。……それだけのことです」
女の目から、また涙があふれた。
頬を伝って、重ねた二人の手の上に落ちた。温かかった。
「……学者様の、お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「エステリアで国外調査員をしております、アヤと申します」
女は、何度もうなずいた。
涙を拭おうともせずに、震える声で名乗った。
「リーナと、申します。……アヤ様」
リーナは、毛布の中から両手を出して、アヤの手を包みこんだ。
「ノアを……わたしたちを、助けてくださって、ありがとうございます」
そのとき、天幕の外で、小さな声がした。
「かあちゃん、まだ?」
「まだだ。……おまえ、さっきから同じことを何回聞くんだ」
エミールの声だった。水を汲み足しに来て、そのまま入り口の見張りをさせられているらしい。
リーナが、涙に濡れた顔のまま、ふっと笑った。
アヤがこの天幕に入ってから、この人が笑うのを見たのは、それが初めてだった。
********
ドラゴンの爪あとの崖の上では、西の空が赤く染まりはじめていた。
潮風が、昼間よりも冷たい。
洞窟の入り口近くの岩に、ディーターが腰を下ろしていた。
そのすぐそばには、縛られた男が八人いる。
崖沿いの道から、蹄の音が近づいてきた。
ディーターが顔を上げる。
先頭の馬に乗っているのは、アルベルトだった。
「遅くなっちまって悪いね」
アルベルトが馬を下りながら言うと、ディーターは岩から立ち上がった。
アルベルトの後ろから、マティアスが続いた。ヨハンがいる。それに、カスパーまでいた。隊の中で、いちばん重い荷を、いちばん手際よく運ぶ男だ。
ディーターは、四人の顔を順に見た。
アルベルトとヨハンは、隊でも指折りの足の速さだ。マティアスとカスパーは、腕っぷしでは誰にも引けをとらない。そこに、自分がいる。
逃げる者には追いつき、暴れる者は押さえこむ。
隊長は、ここにいる賊をひとりも逃がしたくないのだ。
ディーターには、それがよくわかった。
わかるだけに、口にしにくいことがあった。
ディーターが黙っていると、アルベルトが顔をのぞきこんだ。
人の顔色を読むことにかけては、隊でこの男の右に出る者はいない。
「どうした? 何かあったか?」
ディーターは、一度うつむいた。
それから、顔を上げてアルベルトを見た。
「……逃げられた」
アルベルトは、すぐには何も言わなかった。
目だけを動かして、縛られた男たちを数えた。一人、二人、三人……八人。ちゃんといる。結び目も、昼間に縛ったときのままだった。
「誰に?」
ディーターは、滑車のある洞窟のほうへ視線を向けた。
「さっき、男が一人、上がってきた。……たぶん、俺たちが下で見たやつだ」
「船乗りみたいな格好をしてたやつか」
ディーターは、うなずいた。
「走って追いかけた。崖の道の途中で、見失った」
そこまで言うと、ディーターは腰の革袋に手を入れた。
取り出したのは、指ほどの長さの、小さなナイフだった。
「でも、印はつけた。二本」
ディーターは、自分の頬を指でなぞり、それから右の足首を示した。
「頬と、右の足首。頬は、かすっただけだ。でも、足首は、間違いなく刺さった」
それは、黒騎士が敵を追うときに使う、「しるし」と呼ばれるナイフだった。
刃には、人の肌の色を変える毒が塗ってある。命を奪うような毒ではない。ただ、刃が肌を裂けば、その周りがじわじわと赤みがかった緑色に変わり、ひと月は消えない。打ち身や切り傷でできる痣の色とは、はっきり違う。
その色を目印に、一度取り逃がした相手を、あとから見つけ出すのだ。
「頬と足首か。ずいぶん目立つところに描いてやったもんだ」
マティアスが、ディーターの肩越しにナイフをのぞきこんで言った。
「足を引きずって、頬に妙な色をつけた男なんぞ、そうそういるもんじゃない。探す手間が省けるぞ」
アルベルトも、ディーターの背中を軽く叩いた。
「深追いしてここを離れちまったら、今度はこっちの八人が逃げてたかもしれないしな。……おまえは、よくやったよ」
ディーターは、何も言わなかった。
ただ、ナイフを革袋にしまう手つきが、少しだけ軽くなった。
マティアスは、縛られた八人の前に立った。腰に手を当てて、端から端までじろりと眺める。
「これで、捕らえた賊は全部で三十人か」
それから、大きな手で首の後ろをかいた。
「早く戻って、こいつらの家をこしらえてやらんとな。野営地の隅に並べておくにも、限りってもんがある」
ヨハンとカスパーが、縛られた男たちの腕を取って、ひとりずつ立たせていった。
足首の縄を、歩ける長さまで緩める。腰の縄を、前の男と後ろの男につなぎなおす。カスパーの手にかかると、八人はあっという間に一本の縄でつながれた。
「さあ、歩け。日が暮れる前に帰るぞ」
マティアスの声に押されるようにして、男たちがのろのろと歩きだした。
アルベルトは、列のいちばん後ろについた。
歩きだす前に、一度だけ、崖の道の先を振り返った。
道は、海沿いに大きく曲がりながら、もう夕闇の中に沈みはじめていた。
あの道の先のどこかを、頬に毒の色をにじませた男が、右の足を引きずりながら歩いている。
********
ドラゴンの爪あとから賊を連れて戻ったときには、マティアスの言う「家」は、もうほとんど出来上がっていた。
川から少し離れた草地に、丸太の囲いが立っていた。
切り出した木を地面に打ちこみ、外側から横木を渡して、縄で締めてある。そのすき間を埋めるように、柳のようによくしなる枝が編みこまれて、柵をさらに固くしていた。
出入り口は、一か所だけ。
太い閂が掛けられ、その前に黒騎士が二人、立っていた。
捕らえた男たちは、数人ずつ手首を縄でつながれたまま、その中へ入れられていた。
半日もかからず、これだけのものを作ってしまう。黒騎士たちは、これまでにも何度も、こうして捕らえた敵を一時的に収容してきたのだろう。
最後の八人が縛られたまま囲いの中へ押しこまれると、その前にジェフリーが立った。
隣にいたマティアスに、目だけで合図を送る。
マティアスは、小さくうなずいた。
囲いのそばでは、ノアが柵の隙間に顔を押しつけるようにして、中をのぞきこんでいた。マティアスは、その小さな身体を小脇に抱えあげた。
「おっちゃん、何すんだよ!」
「ここから先は、子どもの見るもんじゃない」
じたばたするノアを抱えたまま、マティアスはアヤとリーナたちのほうへ歩いていき、囲いから離れた焚き火のそばまで皆を連れていった。
マティアスが戻ってくるのを待って、ジェフリーは囲いの前へ進み出た。
「この中に、ロランという名の者はいるか」
誰も答えなかった。
うつむく者。目をそらす者。薄笑いを浮かべて、柵の外のジェフリーを見返す者。
アルベルトが、ジェフリーのそばへ寄って耳打ちした。
洞窟の地下で見かけた船乗り風の男が、上へ上がってきたこと。ディーターが追ったものの、逃がしたこと。そのとき、男の頬と右の足首に、しるしをつけたこと。
ジェフリーは黙って聞き、うなずいた。
それから、もう一度、賊たちへ向かって言う。
「おまえたちは、数日のうちにエステリアの兵に引き渡される」
静かな声だった。それでも、囲いの奥まではっきりと届いた。
「それまで協力的であれば、今より穏やかに扱ってもらえるよう、口を利いてやってもいい」
囲いの中が、しんとなった。
仲間を売れ。ジェフリーは、そう言っているのだった。
やがて、賊のひとりが鼻を鳴らした。
「エステリアの兵、ねえ」
男は、にやにやしながら柵の外を見た。
「そいつらが、いったいどっちの味方でいてくれるかね」
ジェフリーの目が、細くなった。
「イェンス」
「はい」
「白い茶を用意しろ」
イェンスは、思わずジェフリーを見た。
「……エステリアに引き渡す前ですが、よろしいのですか?」
「構わん。責任は俺がとる」
氷のような青い目が、冷たく光っていた。
イェンスはそれ以上は何も言わず、一礼してその場を離れた。
白い茶。
その言葉を聞き、周囲にいた黒騎士たちの顔が、わずかに強張った。
「アルベルト」
「……はい」
返事をしたアルベルトの声から、いつもの軽さが消えていた。
「アヤ様とダリアの女性たちを、ここからなるべく遠くへ連れていけ。ノアもだ」
「遠くって……どこまでです」
「こいつらの声が、届かなくなるところまで」
ジェフリーは、囲いから目を離さずに言った。
「それと、なるべく気を散らせ。おまえ、そういうのは得意だろう」
アルベルトは何か言いかけたが、やめた。
「……了解」
それだけ言うと、アルベルトは焚き火のほうへ歩いていった。
「マティアス、ヨハン、カスパー。おまえたちで押さえろ」
名を呼ばれた三人が、ジェフリーのそばに集まった。
ジェフリーは閂を外させ、囲いの中へ入った。
まっすぐ、ひとりの男の前まで歩いていく。
ガルドだった。ダリアの騎士を名乗り、ノアを使って村から取り立てていた大男だ。
ジェフリーは腰の短剣を抜くと、ガルドと数人がまとめてつながれていた縄を、ひと息に断ち切った。手首と足首の縄は、そのままにした。
ガルドの襟首をつかみ、一度その場に立たせる。
それから、囲いの入り口の、少し広く空いた場所へ放り出した。
大きな身体が、地面に転がった。
待ちかまえていたマティアスとヨハンとカスパーが、すぐにガルドを座らせ、押さえこんだ。マティアスが右の肩を。ヨハンが左の肩を。カスパーが、後ろから頭を。
ちょうどそこへ、イェンスが戻ってきた。
両手で、木の器をひとつ持っていた。器から、かすかに湯気が立っている。
ジェフリーは、それを受け取った。
「あとは、俺がやる」
器を手にしたまま、ガルドの前へしゃがみ、同じ高さまで目線を下げた。
「ロランという名前は、確か、おまえから聞いた」
ジェフリーは、器を少しだけ持ち上げてみせた。
中には、白く濁った液体が入っていた。とろみはなく、水のようにさらさらしている。焚き火の明かりを受けて、表面が鈍く光った。
「知っていることを話すなら、これは使わない」
ガルドは、器を見た。
「ロランというエステリアの兵は、今どこにいる」
ガルドは、ジェフリーを睨みつけた。
「……ロランがエステリアの兵だってことしか、知らねえ」
「そもそも、ロランは本当にエステリアの兵なのか?」
ガルドの顔に、質問の意味がわからないという色が浮かんだ。
ジェフリーは、ガルドの顔から目を離さずに続けた。
「今日、ここにいるエステリア兵が、ある女性の名前を聞いても、その名を知らないと言ったそうだ。エステリア兵なら、必ず知っている名を」
ガルドの身体がよじれた。
押さえこまれた肩をひねって、囲いの奥を振り返ろうとする。
その目の先に、鎧をはがされた男が座っていた。昼間、エステリアの兵を名乗って野営地に乗りこんできた、あの髭の濃い男だった。男は、苦いものを噛んだような顔をして、ガルドから目をそらした。
「俺は……ロランって男が、エステリアの兵だって言うから、そう言ったんだ!」
ガルドが叫んだ。
「本当だ! 嘘じゃねえ!」
「では、ほかに知っていることを話せ」
ほかに。
ガルドは、何かを思い出そうとするように目を泳がせた。口が、ひらいたり閉じたりする。言葉は出てこなかった。
いや、話せることなら、ある。
ガストンの旦那のこと。
それから、旦那が気にしている荷のこと。
しかし、どちらも話せば終わりだ。
たとえここを生きて出られても、次はガストンに消される。ガルドは、固く口を閉ざした。
「これは」
ジェフリーは、手の中の器に目を落とした。
「話をさせることに、よく効く茶だ。俺たちは、白い茶と呼ぶ」
それから、ガルドの顔へ目を戻した。
おまえは、これを知っているはずだ――そう言わんばかりの目だった。
「この白い茶には、自白とは別の作用がある。こっちのほうが、よく知られている。……多感薬だ」
ガルドの顔色が、変わった。
知っている顔だった。
ロランが、ガルドに仕事を言いつけたときのことだ。小さな包みを指先でつまんで、ロランは下卑た笑いを浮かべていた。
これはな、多感薬っていうんだ。女に飲ませりゃ、身体が火照って、どんな女でも言いなりになる。少し触っただけでも、身体が弓のようにしなる。
その声が、今になってガルドの耳によみがえった。
ジェフリーは、ガルドの顔に浮かんだものを、黙って見ていた。
青い目が、さらに冷えた。
「楽しむために飲むだけなら、こんなに白くはしない」
ジェフリーは、器の中の白い液体を、ゆっくりと揺らした。
「ここまで白く濁るほど使えば、聞かれたことを隠せなくなる。だが、それで終わりではない。自白の効き目が切れ始めるころ、今度は、骨の髄まで痛みが走る」
ジェフリーは、空いているほうの手でガルドの頬をつかんだ。
指に力をこめる。ガルドの口が、無理やりこじあけられた。
「しゃべりたくないなら、話せるようにしてやる」
ガルドは身じろぎした。
だが、三人にしっかり押さえられていて、逃げられない。声も、もう言葉にならなかった。
「話し終えて、しばらくすると、痛みが身体じゅうを駆けめぐる」
ジェフリーは、器をガルドの口もとへ傾けた。
「今夜、おまえは眠れない」
白い茶が、ガルドの口の中へ流しこまれた。
********
野営地から遠く離れた川べりで、鹿の肉を焼く支度が進んでいた。
アルベルトが選んだのは、川がゆるく曲がって、岸に平たい石が並んでいる場所だった。柳の枝が水面すれすれまで垂れていて、野営地のほうは、木立にさえぎられてもう見えない。
石の上に調理板を置いて、エミールが鹿の肉を切り分けていた。
昼間にさばいたときよりも、包丁の運びがずっと滑らかだった。筋にそって刃を入れ、ひと口で食べやすい厚さに、手早くそろえていく。
そのすぐ横に、ノアが張りついていた。
「なあなあ、いちばんうまいとこ、どれ? おいらのはどれ?」
「……これだ。だから、手を出すな。指を切るぞ」
エミールは、背のあたりの柔らかな肉を、ひと切れだけ別の葉の上によけた。ノアは葉の前にしゃがみこんで、もうそこから目を離そうとしなかった。
アヤは、柄のついた浅い鉄鍋を焚き火の上にかけた。
荷の中から、油紙でくるんだ小さな塊を取り出す。包みをひらくと、蝋燭のように白い油が出てきた。夏の暑さの中でもあまり溶けずに形を保つ、旅向きの油なのだという。
その塊を、熱くなった鍋の底に落とした。
白い油は、すぐに縁から透きとおりはじめ、鍋の底をなめるように広がっていった。
エミールが、切り分けた肉を、ひと切れずつ鍋に並べた。
じゅうっ、と音が立った。
脂のはぜる音といっしょに、香ばしい匂いが、川風に乗って広がっていく。
そのときだった。
どこか遠くで、誰かが叫んだような気がした。
アヤは、顔を上げた。
木立の向こう、野営地のほうだろうか。耳を澄ませてみたが、聞こえるのは川の音と、鍋の中で脂がはぜる音ばかりだった。
気のせいだったのだろうか。
アヤが辺りを見回していると、その様子に気づいたアルベルトが、すぐに声をかけた。
「アヤ様、肉の旨味が一番よくなるように、味付けをお願いしてもいいですか?」
アヤが鉄鍋へ目を戻すと、アルベルトは片目をつぶってみせた。
「俺たちがやると、塩をひとつかみ放りこんで終わりなんで。せっかくの鹿が泣きます」
アヤは、思わず笑った。
「では、少しだけ」
塩と胡椒を振る。
そのあと、香草を加えると、焼けた肉と脂の匂いに、爽やかな香りが混じった。
先ほど聞こえた気がした声のことも、すぐに頭から消えていった。
「アヤ様、パンが焼けました」
振り向くと、リーナが布にくるんだものを胸に抱えて、こちらへ歩いてくるところだった。
天幕で身体を拭いたあと、少しでも横になっていてほしいと頼んだのだ。それなのにリーナは、何かさせてほしい、手を動かしていたほうが落ち着くのだと言って、聞かなかった。
リーナは、布をアヤの前で広げてみせた。
丸く、薄く伸ばされたパンが、何枚も重なっていた。ところどころに、焦げた葉の形がうっすらと残っている。
「あそこの落ち葉で、焼きました」
リーナは、柳の根もとの、まだくすぶっている落ち葉の山を指さした。
「へえ。これが、落ち葉の中で焼くっていう、エステリアのパンですか」
アルベルトが、丸く薄いパンをまじまじと見る。
「すげえ、うまそうだ」
「ここに、お肉を乗せて食べるのですね」
アヤが言うと、リーナはうなずいた。ほんの少しだけ、照れたような顔だった。
「はい。ダリアでは、昔からこの食べ方なんです」
「やったあ!」
ノアの楽しそうな声が聞こえた。
アヤは、その様子に頬を緩めた。
すぐ近くの焚き火では、テオが鉄鍋を火にかけ、スープをかき混ぜていた。
「こっちも、そろそろできあがりそうです」
鹿の骨を煮出した汁に、細かくたたいた肉と麦を入れて、くたくたになるまで煮たスープ。洞窟に捕らわれていた彼女たちの身体を驚かせないように、アヤが用意したものだった。
アヤは、湯を沸かした小鍋の脇に、缶を二つ並べた。
ひとつは、ふつうの花茶。もうひとつは、月の花茶。
蓋に手をかける前に、アヤは缶の側面をよく確かめた。それから、もう一度確かめた。
月の花茶の葉をポットに入れて湯を注ぐと、淡い紅色が、ゆっくりと湯の中にほどけていった。
そのカップを、リーナと二人の女たちの前に、ひとつずつ置いた。
野営地の喧騒は、ここまでは届かなかった。
川辺には、焼けた鹿肉と香草、それから焼きたてのパンの匂いが、いっぱいに満ちていた。




