29. ソヴェールの名
ドラゴンの爪あと――その洞窟の外は、まだ明るかった。
崖の縁を渡る潮風が、入り口に垂れた草をしきりに揺らしている。その風の中で、アルベルトは腕を組み、足もとに並べた男たちを見下ろしていた。
八人。
親指を革紐でひと巻きにされ、手首と足首を縛られて、洞窟の床に転がっている。いびきをかいている者もいれば、ようやく目を覚まして、自分の置かれた有様にうめいている者もいた。
縛るのは、簡単だった。
厄介なのは、ここからだった。
馬は二頭しかいない。八人を数珠つなぎにして野営地まで歩かせるにしても、道中で一人でも暴れれば、残りの七人まで騒ぎだすだろう。かといって、長くここに置いておけば、仲間が戻ってきて縄をほどくかもしれない。
「さて、どうしたもんかね」
アルベルトがひとりごとのようにつぶやいたとき、洞窟の奥から、ディーターが戻ってきた。
松明の火が、ディーターの頬の片側だけを橙色に照らしていた。
「アルベルト」
ディーターは、いつものように、ぼそりと言った。
「入り口を、見つけた」
アルベルトは、床に転がる八人の縄をもう一度確かめた。自力でほどける結びではない。長くは離れられないが、まずは奥を確かめるしかなかった。
ディーターが案内したのは、さきほどの穴のすぐ脇だった。
ごうっ、と低い音が、相変わらず穴の底から吹き上がってくる。冷たく、塩辛い風だった。その音に気を取られていたせいで、さっきは見落としていたのだろう。穴の右手の岩壁に、人ひとりがようやく身を横にして通れるほどの、細い脇道が口を開けていた。
身をかがめて、その中へ入る。
岩肌に肩をこすりながら十歩ほど進むと、ふいに天井が高くなった。
小さな部屋ほどの広さの、岩の空洞だった。
そのいちばん奥に、薄い板が何枚も壁に立てかけてあった。
アルベルトは、ディーターと目を見交わしてから、板を一枚ずつ、音を立てないように脇へどけた。
板の陰から現れたのは、太い木の梁に据えつけられた、大きな滑車だった。
滑車には腕ほどもある太い縄が掛けられていて、その縄は、足もとの床にぽっかりとあいた四角い穴の中へ、まっすぐに垂れ下がっていた。
滑車の脇に、木のハンドルがついている。
ディーターがハンドルに手をかけ、ゆっくりと回した。
ぎし、ぎし、と梁がきしむ。
やがて、穴の底の闇から、何かがせり上がってきた。
板張りの、大きな箱だった。
大人が三人、四人は楽に入れるだろう。底が抜けないように、四方の縁が、ていねいに鉄の帯で囲ってある。
アルベルトは、ディーターの手から松明を借りると、その火をかざして、あらためて滑車の前にしゃがみこんだ。
細かな仕掛けを見るときの目で、梁の組み方を見る。縄の掛け方を見る。歯車の噛み合わせを見る。
「……坑道で、石を運ぶやつに似ているな」
どうやらこの箱は、上からでも下からでも、昇り降りさせられる仕組みになっているらしい。
つまり、下にも、これを動かす誰かがいるということだった。
アルベルトは、ハンドルの付け根に松明をかざしたまま言った。
「かなり重いものでも、運べるようにできてる」
ディーターは、箱の鉄の縁を指先でなぞっていた。
「人間……しかも、複数人を同時に」
「そうだな」
アルベルトは、膝を払って立ち上がった。
ディーターの指が、箱の角で止まった。
鉄の縁に、小さな鉤が打ちつけてあって、そこにランタンがひとつ、ぶら下がっていた。煤で曇った硝子の中に、使いかけの蝋燭が残っている。
ディーターは、それを指先でアルベルトに示した。
アルベルトは、うなずいた。
箱には、人が乗ることを想定した明かりまで用意されている。
この下には、まだ何かがある。
「俺が、先に下りる」
アルベルトは、そう言って箱の縁をまたいだ。
ディーターは、何も言わずにうなずき、ハンドルを握った。
箱は、がたがたと揺れながら、ゆっくりと闇の中へ沈んでいった。
頭の上の四角い口が少しずつ小さくなって、やがて闇に溶けた。湿った岩壁が松明の火に照らされて、すぐ目の前を上へ上へと流れていった。潮の匂いが、だんだん濃くなった。
やがて、箱の底が、どすん、と何かに当たった。
アルベルトは松明をかざして、あたりを見回した。
上の空洞より、ずっと広い場所だった。
壁ぎわに、荷車が二台。車輪の泥は、まだ乾ききっていない。床には、太い縄の束がいくつも投げ出されていた。そのひとつを拾い上げると、切り口が白く新しかった。木箱を引きずったような跡が、床の砂の上に、奥へ向かって何本も続いている。
つい最近まで、ここで何かが運ばれていた。
箱の脇には、上で見たものとよく似た木のハンドルがあった。
アルベルトは松明を近づけ、巻き上げの仕組みを確かめた。やはり、下からでも箱を動かせる。
ほどなく、また縄が鳴った。ディーターは綱をたどって滑るように降りてきた。
床へ降りるなり、ディーターは箱を振り返った。
「これで、もとの位置だ。上の板も戻してきた」
アルベルトは、その肩を拳で軽く小突いた。
壁には、鉄の松明受けがいくつか打ちこまれていた。どれにも火は入っていなかった。
アルベルトの手の松明だけが、地の底から吹き上げる風にあおられ、ゆらゆらと揺れていた。
闇が、ひと回り濃くなったように思えた。
アルベルトは松明を掲げて、木箱の引きずり跡をたどった。
奥へ、奥へ。
岩の通路は、ゆるやかに下りながら、海のほうへ曲がっていく。ごうっ、という音が足もとの岩を伝って、身体の芯に響いてくる。
ふいに、アルベルトが足を止めた。
すぐ後ろを来ていたディーターが、どうした、という目でアルベルトを見た。
アルベルトは答えなかった。
耳を澄ませていた。
波の音。風の音。その底に、ほんのかすかに、別の音がまじっている。
規則正しい、こつ、こつ、という音。
足音だった。
「誰か来る。……隠れろ」
短く言うと、アルベルトはあたりを見回した。
通路の脇の岩のくぼみに、水が溜まっていた。
松明を消すなら、そこだ。
アルベルトは上着のポケットを探った。何か、布はないか。
指先に、薄い布の感触があった。
数日前に、アヤから渡された防護布だった。毒気や煙を吸わないように、鼻と口を覆うための布だ。この布がいつか顔にぴたりと沿うようにと、旅のあいだ、朝と晩に種類の違う軟膏を塗りつづけてきた。おかげで、口の下にあった髭は、根こそぎ消えた。
本来なら、鼻と口を覆うための布だ。
今は、水の正体を確かめるのに使う。
アルベルトは、防護布をくぼみの水に浸した。
引き上げて、指先でこする。においを嗅ぐ。
ぬめりはなく、油のにおいもしない。
油が浮いている水なら、火を近づけるのは危険だった。これは、ただの水だ。
アルベルトは松明を、くぼみの水に押しこんだ。
じゅっ、と小さな音がして、火が消えた。
白い煙が、ひと筋、闇に溶けていった。
二人は黒い外套のフードを目深にかぶり、通路の脇に積まれた木箱の陰に身を沈めた。
黒い外套は、闇の色だった。
二人の姿は、そのまま地の底の暗がりにのみこまれた。
足音が近づいてきた。
足音といっしょに、ゆらゆらと揺れる明かりが、岩壁を這うように近づいてくる。
通路の角から現れたのは、ひとりの男だった。
袖をまくった、身軽な服。腰には、太い縄を束ねて提げている。素足に近い、薄い革の靴。陸の人間というより、船の上で暮らしている者の身なりだった。
男は、アルベルトたちの隠れている木箱のすぐ手前で足を止めた。
手にしたランタンを高く掲げた。
黄色い光が、通路の岩肌をひと舐めした。
アルベルトとディーターは、息を殺した。
光が、木箱の上をかすめていった。
男はその場に立ったまま、あたりの様子をうかがった。
首をひねり、来た道のほうへ身体を返した。
からん。
男の爪先に、何かがぶつかった。
男が足もとを照らした。
濡れた松明が一本、転がっていた。
さっき、アルベルトが水に浸して消したものだった。
男は身をかがめて、それを拾い上げた。
拾い上げた手が止まった。
炭になった先から、まだ、ぽたりと水が滴っていた。
男は、濡れた先端に指で触れた。
かすかに、温かかった。
ついさっきまで、誰かがここで、これを燃やしていたのだ。
男の顔から、すっと表情が消えた。
ランタンが、もう一度掲げられた。今度は、さっきよりもゆっくりと。通路の右の壁。左の壁。天井。積まれた木箱のひとつひとつ。
木箱の陰で、アルベルトは剣の柄にそっと手を添えた。
隣で、ディーターも同じことをしていた。
光が、二人の隠れている木箱の縁に届きかけた。
そこで、男の手が止まった。
男は、黙って闇を見ていた。
松明を壁ぎわに放ると、くるりと向きを変えて、つかつかと通路を進んでいった。
十歩ほど先で、男は岩壁の前に立った。
壁に手を当てた。
がらがら、と木の擦れる音がした。
岩壁だと思っていたところの一部が、男の手で横へずらされていく。
木の板だった。岩肌に似せて泥を塗りこめた板が、壁の一角をふさいでいたのだった。
男は、板の奥の暗がりに半身を入れた。ランタンを中へ差し入れた。
何かを確かめているようだった。そこにあるはずのものが、ちゃんとそこにあるかどうかを。
やがて男は、納得したように身を引いた。
板を、もとどおりに戻した。
ランタンを提げ、来た道を戻っていった。来たときより、足取りが速い。
足音が遠くなっていく。
揺れる明かりが通路の角を曲がって、見えなくなった。
それでも、アルベルトは動かなかった。
足音がすっかり聞こえなくなり、波の音と風の音だけが、もとどおり地の底を満たすまで。
悠長にはしていられない。
ディーターが腰の袋から、火打ち石と火口を取り出した。
壁に打ちつけられた小さな燭台には、使いさしの獣脂蝋燭が一本残っていた。火口へ移した火を芯に近づけると、小さな炎がともった。
アルベルトは、その蝋燭を手に取り、ディーターと並んで、さっきの板の前に立った。
板の縁に指をかける。音を立てないように、少しずつ横へずらしていく。
隙間から、蝋燭の明かりを差し入れた。
岩をくり抜いた、狭い穴倉だった。
その奥に、人がいた。
三人。
薄汚れた衣をまとった女たちだった。互いに身を寄せあうようにして、岩壁に背をつけて座っている。手首に巻かれた縄が、壁に打ちこまれた鉄の輪に、一本ずつつながれていた。
蝋燭の明かりに、三つの顔がいっせいにこわばった。
誰も声を上げなかった。
三人とも身を寄せたまま、蝋燭の明かりと、見知らぬ二人の男をじっと見ていた。
アルベルトは蝋燭を少し下げ、自分の顔が見えるようにした。
唇の前に、指を一本立てた。
「静かに。……俺たちは、サルヴィアの黒騎士だ。あんたたちを、助けに来た」
女たちは動かなかった。
信じていいのかどうか、わからない顔だった。
アルベルトは、穴倉の中にそっと膝をついた。
「ひとつだけ、聞かせてくれ。この中に、ノアって子の、おふくろさんはいるか」
奥の暗がりで、ひとりの女が身じろぎをした。
縄が、鉄の輪の上で、かちりと鳴った。
女は膝をついたまま、のろのろと明かりのほうへ這い出てきた。
「……ノア」
かすれた声だった。
「ノアが……ノアが、いるの?」
蝋燭の明かりが、女の顔を照らした。
頬も額も煤と泥で汚れ、髪は乱れ、唇はひび割れていた。それでも、整った顔立ちは隠れなかった。
すがるようにアルベルトを見上げる目が、どこかノアに似ている、とアルベルトは思った。
三人の縄を切ると、アルベルトとディーターは下のハンドルで箱を動かし、ひとりずつ地上へ上げた。
洞窟の八人は、まだ縛られたまま転がっていた。ディーターが残って見張ると言い、アルベルトは二頭の馬を連れて野営地へ戻ることにした。女たちはひどく疲れていたため、歩ける者も途中で交代しながら馬に乗せた。
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野営地の川べりに、午後の日差しが斜めに落ちていた。
幌馬車の幕は、風を通すために高く巻き上げてある。
その中で、アヤは膝の上に革の手帳をひらいていた。
表紙の隅に、Ayaと刻まれた手帳だった。
旅に出る前、龍の涙について調べたことを書き留めていこうと決めていた。それなのに、いざ旅が始まってみると、龍の涙について新しく書けることは、まだ何ひとつなかった。
せっかくいただいた手帳なのに、白い頁のまま持ち歩いているのは、もったいない。
だから、アヤは城を出てから初めて知ったことを、ひとつずつ書くことにした。
焚き火の起こし方。乾いた枝と湿った枝の見分け方。水汲みの桶の運び方。馬の蹄の裏に詰まった小石の取り方。野営で、天幕の綱をどう張れば夜の風に負けないか。
小さな字が、頁を少しずつ埋めていた。
アヤは、新しい行にペンを走らせた。
――片付ける日は、麦粥を器に半分。全粉乳を混ぜる。ジェフリー様の分。
書き終えたところで、ペン先が止まった。
ジェフリー様は、ご無事でいらっしゃるだろうか。
今朝、野営地を発つときの後ろ姿を、アヤは思い出していた。
腰に、剣を一本。
それだけだった。槍も、弓も持っていかれなかった。賊を捕らえに行くというのに。
アヤは、ペンを持ったまま幌の外の空を見上げた。
そのとき、川のほうから、きゃっきゃっとはしゃぐ声が聞こえてきた。
ノアだった。
川べりの平たい石の上で、エミールがようやく鹿をさばき終えたところだった。肉の半分は、マティアスに言われたとおり、樽の中で酒と塩に漬けてある。今夜食べる分の肉は、大きな葉で一枚ずつくるんで、虫がたからないよう木箱にしまわれていた。
エミールは血のついた手を川で洗い、石の上にぐったりと座りこんでいた。
その周りを、ノアが跳ねるように回っていた。
「いちばんうまいとこ、おいらが食っていいんだって! マティアスのおっちゃんが、そう言ったんだよ!」
「わかった、わかったから。……もう三回も聞いた」
エミールが、うんざりしたように言った。それでも、跳ねまわるノアを追い払おうとはしなかった。
アヤは、思わずくすりと笑った。
片付ける日。
黒騎士の言葉で、敵をつぶす日のことだと、今朝マティアスが教えてくれた。
そんな物騒な日のさなかに、川べりでは、子どもが鹿の肉のことで跳ねまわっている。
アヤは、手帳の頁の上にそっと手のひらを置いた。
そのときだった。
「――この中に、責任者はおるか!」
野太い声が、野営地じゅうに響きわたった。
「ダリアの村で、人が殴られた! その下手人に、心当たりはないか!」
川べりで、天幕のそばで、馬のそばで、黒騎士たちがいっせいに声のほうを振り向いた。
アヤも手帳を閉じ、幌の外をのぞこうとした。
その目の前に、ふいに影が立ちはだかった。
エミールだった。片手でノアの腕をつかみ、引きずるように連れてきていた。
「アヤ様とノアは、この中に隠れていてください」
エミールは有無を言わせずノアを幌馬車の中に押しこむと、巻き上げてあった幕の紐をほどいた。
幕が、ばさりと下りてくる。
その閉じかけた隙間から、ほんの一瞬だけ、アヤの目に見えたものがあった。
声のするほうに立っている、男の腕。
その腕に提げられた、盾。
盾の真ん中には、白金の花と王冠をかたどった紋が描かれていた。
エステリアの紋章だった。
グスタフは、男たちの前にゆっくりと歩み出た。
四人。
揃いの鎧を着て、白金の花と王冠の紋が入った盾を提げている。先頭に立っているのは、首の太い、髭の濃い男だった。
グスタフは、男たちの盾と鎧と顔をひととおり眺めてから、口をひらいた。
「見たところ、エステリアの兵とお見受けするが」
「いかにも」
先頭の男は、胸を反らせた。
「我らは、この地の守りを任されたエステリアの兵だ」
「俺たちは、サルヴィアの黒騎士だ。遠征の途中で、ここに野営を張らせてもらっている」
グスタフが名乗ると、男は鼻で笑った。
「知っている。黒い騎士がこの川べりに居座っていることは、ダリアじゅうの者が知っておるわ」
男は、野営地をじろじろと見回した。
「ダリアの村から、苦情が出ておる。黒い騎士どもが、村人に手を上げたとな。村の者が大勢で、そのねぐらを叩きつぶしに行くといきまいておったのを、我らがなだめて、こうして代わりに来てやったのだ」
男は、もったいをつけるようにひと息置いた。
「ダリアの民は、日ごろから賊に畑を荒らされ、金品を奪われて、ほとほと疲れきっておる。そこへ、貴殿らのような得体の知れぬ騎士が現れたのだ。怯えるのも、無理はなかろう」
グスタフは、口を挟まずに聞いていた。
この男たちが、本物のエステリア兵なのかどうか、すぐには見きわめがつかなかった。鎧も盾も、それらしく見える。
ただ、もし本物だとすれば。
遠い国からやってきた騎士に向かって、名も名乗らず、礼もとらず、頭ごなしに言いつのる。兵として、あまりにも礼を欠いている。
グスタフが次の言葉を選んでいたとき、背後で幌馬車の床板が、きしりと鳴った。
振り返る間もなかった。
「アヤ様、だめです――」
エミールの押し殺した声が、背中で聞こえた。
青と白の旅装が、グスタフの脇をするりと抜けていった。
アヤだった。
アヤは、四人の兵の前にまっすぐ立った。
背筋を伸ばし、両手を身体の前で静かに重ねて。
「あなた方は、エステリアの兵で、間違いございませんか」
よく通る声だった。
張り上げたわけでもないのに、川べりの風の中で少しも揺らがなかった。
グスタフは、内心で舌打ちをしかけた。
まずい。
野営地で、それも、こんな得体の知れない連中の前で、アヤ様が前に出てくるのは、まずい。
先頭の男は、目の前に立った女を上から下まで無遠慮に眺めまわした。
旅の埃をかぶった、ふくよかな女。
その女が、まるで上から物を言うような口をきく。
「なんだ、おまえは」
男の目に、あからさまな侮りが浮かんだ。
「女が、偉そうに。名を名乗れ」
アヤは、ひと呼吸置いた。
少しも臆することなく、答えた。
「わたくしは、アヤ・ソヴェールです」
周囲の黒騎士たちの動きが、一瞬止まった。
グスタフの背中を、冷たいものが走った。誰もがアヤを見た。
エステリア王立学術評議院の国外調査員、アヤ・ラセル。
旅のあいだ、アヤはずっと、その名で通してきた。
けれど今、アヤはその名を使わなかった。
第一王女としての名を、自分の口で名乗った。
アヤは、静かに続けた。
「あなた方が、よくご存じの名前のはずです」
一瞬の沈黙があった。
四人の兵たちは顔を見合わせた。
そして、げらげらと笑いだした。
いったい何を言いだすかと思えば、目の前の女が、自分たちの知る名前だと言っている。男たちには、その意味がまるで通じていなかった。
「あんたが何者か知らんな」
先頭の男は、笑いすぎてにじんだ涙を指で拭った。
「女は、男の話に余計な口を挟むもんじゃない。引っこんでろ」
アヤは、男の顔をじっと見ていた。
笑われても、目をそらさなかった。
「ソヴェールの名を、お聞きになっても、何も思われないのですか」
「ソヴェール?」
男は、眉をひそめた。
「どこの家だか知らんが、それがどうした。だから何だというんだ」
話を聞いていたグスタフの中で、そのとき、ようやく全てが繋がった。
本物のエステリアの兵なら、たとえ第一王女の顔を知らなくても、ソヴェールと名乗られた時点で顔色を変える。膝を折らないまでも、少なくとも、こんな口はきかない。
この男たちは、眉ひとつ動かさなかった。
アヤ様は、身分が露見する危険を承知で、自分の名前そのものを、この男たちを試すために使ったのだ。
グスタフは、大きな一歩でアヤの前に出た。
その広い背中で、アヤの姿を男たちの目から隠すように。
「……おまえたち。エステリアの兵じゃないな」
グスタフの後ろで、エミールがアヤの腕を取った。引き戻すようにして、幌馬車のほうへ連れていく。
幌馬車の幕の隙間から、ノアの顔がひょいとのぞいた。
エミールは、アヤを幌の中へ押し上げると、ついでのようにノアの頭を手のひらでぐいと押しこんだ。
「顔を出すなって言っただろ」
「だって――」
「だってじゃない」
幕が、また下りた。
先頭の男は、もう笑っていなかった。
グスタフを睨みつけていた。
その手が、腰の剣の柄にかかった。
抜いた。
鞘走りの音が川べりに響いた、その刹那。
野営地じゅうで、同じ音が重なった。
天幕のそばで。馬のそばで。川べりの石の上で。そこにいた黒騎士の全員が、ひとり残らず剣を抜いていた。
四人だけなら、野営地に残っている九人の黒騎士のほうが多い。
そのはずだった。
先頭の男が、喉を反らせて叫んだ。
「出てこい、野郎ども! 黒い犬っころを、川に沈めてやれ!」
号令のような声だった。
川べりの葦の茂みが、ざわりと揺れた。野営地を囲む木立の陰から、土手の向こうから、男たちが次々に姿を現した。
手に手に、剣や斧や棍棒を握っている。
鎧は着ていなかった。継ぎのあたった上着に、汚れた革の胸当て。どう見ても兵ではなかった。
賊だった。
十人はいた。
鎧の四人と合わせて、黒騎士の数をはっきりと上回っていた。
グスタフは剣を構えたまま、野営地の隅々にまで届く声で言った。
「隊長からの命令は、全員、生け捕りだ。殺すなよ」
賊たちの何人かが、顔を見合わせた。
やがて、にやりと笑った。
殺す気がない、と、この騎士は言った。手加減をすると、敵の前で堂々と言ってのけた。
なめられている。
だとしても、こんなにやりやすい相手はいない。
賊たちは喊声を上げて、いっせいになだれこんできた。
最初に飛びこんできた賊の斧を、グスタフは剣で受けなかった。
振り下ろされる軌道の内側へ一歩踏みこみ、斧を持つ腕ごと脇に抱える。そのまま腰をひねると、賊の身体が半回転し、背中から地面へ叩きつけられた。
胸を片足で押さえたところへ、二人目の棍棒が横から来た。
グスタフは上体を引いて棍棒をやり過ごし、振り切った男の手首を左手でつかんだ。勢いの残った腕をそのまま引けば、男が前につんのめる。
そこへ、剣の柄頭を下から顎へ突き上げた。
二人目も、その場に崩れ落ちた。
「生け捕りってのはな」
グスタフは二人を見下ろして、息ひとつ乱さずに言った。
「殺すより、ずっと骨が折れるんだよ。……おまえらの骨がな」
野営地のあちこちで、同じことが起きていた。
黒騎士たちは、刃を深く入れなかった。剣の腹や柄頭を使い、足を払い、腕をねじり上げる。一撃で命を奪うより、相手の武器だけを奪って動きを止めるほうが難しい。それでも、誰ひとり命令を違えなかった。
背の高いカスパーは、ひとりの斬撃を外へ受け流し、その剣を隣の男の刃へぶつけた。二人がもつれたところへ肩から踏みこみ、まとめて地面へ倒した。
イェンスが、逃げようとした賊の襟首をつかんで、川の浅瀬に投げこんだ。
ステファンは、馬の綱を切ろうとした賊の手首を横合いから打ちすえた。
「馬に触るな。蹴られるぞ」
言うそばから、黒い馬が耳を伏せて後ろ脚を跳ね上げた。蹄が賊の腿をかすめ、男が体勢を崩す。ステファンはすぐにその腕を取り、地面へ伏せさせた。
その乱戦の中で、ひとりだけ、まったく別の場所を見ている男がいた。
鎧を着た兵のひとりだった。
男の目は、野営地の端の幌馬車に向いていた。
幌馬車の前に、ひとりの騎士が剣を構えて立っている。
見たところ、まだ十七か、十八。黒い外套を着ていても、肩幅も胸板も、まだ少年のそれだった。
あれくらいなら、やれる。
男は乱戦の輪を抜けて、幌馬車へ走った。
エミールは、近づいてくる男に気づいていた。
男の振り下ろした剣を、正面から剣で受けた。
重かった。
男の体重が、剣を通してまるごとのしかかってくる。踏ん張った足が、土の上を、ずず、ずず、と後ろへ滑っていく。背中が幌馬車の車輪にぶつかった。
男は、受けられた剣をそのまま力任せに押しこんできた。
エミールの腕が震えた。
男が、ふいに剣を引いた。
押し返そうと力をこめていたエミールの身体が、前へのめった。
その胸を、男の剣の柄が、どん、と突いた。
エミールの身体は、車輪の脇を転がって土の上に投げ出された。
男は、それを見届けもしなかった。
幌馬車の幕を乱暴にめくり上げた。
薄暗い幌の中に、さっきの生意気な女がいた。
子どもを胸に抱きかかえていた。自分の身体で、子どもを覆い隠すようにして。
女は、子どもを抱く腕に力をこめた。男から目をそらさなかった。
その目が、男の癇に障った。
「降りろ」
男は幌馬車の床に片膝を乗り上げ、女の腕に手を伸ばした。
その手が、女の袖に触れる寸前。
男の膝の裏に、後ろから何かが叩きこまれた。
蹴られたのだと気づいたときには、膝ががくりと折れていた。
次の瞬間、足首をつかまれた。
強い力で後ろへ引かれる。
男の身体は幌馬車の床板の上を滑って、そのまま外へ引きずり出された。背中から土の上に落ちた。
見上げると、そこにさっきの若い騎士が立っていた。
肩で大きく息をしていた。
額から汗が流れていた。
それでも、その手の剣の切っ先は少しも揺らがず、男の喉もとへまっすぐ向けられていた。
「――触るな」
エミールの声だった。
荒い息の中でも、その一言だけは、はっきりしていた。
男は、地面に転がったままエミールを見上げた。
男は、そういう目が何よりも嫌いだった。
誇りだの、誉れだの。そんなものを、腹の足しにもならないものを、さも大事なもののように振りかざして、いったい何になる。
男は獣のような声を上げて、跳ね起きた。
跳ね起きざまに、剣を真上から振り下ろした。
さっきと同じ、力任せの一撃だった。
エミールは、今度は正面から受けなかった。
剣を斜めに寝かせ、男の刃を自分の刃の上に滑らせた。
重さが刃の上を流れていく。逸らされた剣先が幌馬車の車輪へ落ち、木枠と輻のあいだに深く挟まった。
男が剣を引き抜こうとした。
抜けなかった。
その一瞬で、エミールは男の懐に踏みこんでいた。剣の柄頭が、男の兜のこめかみを横から打った。
鈍い音がした。
男は、剣の柄を握ったまま膝から崩れ落ちた。
エミールが倒れた男から目を上げるより早く、左右から鎧の音が迫った。
二人。
仲間が倒れたのを見て、兵の格好をした男たちが駆けつけてきたのだった。
エミールは、幌馬車を背にして剣を構えなおした。
まずは左右へ回りこませない。ここを抜かれれば、すぐ後ろにはアヤとノアがいる。
右の男が突いてきた。
それを外へ払ったところへ、左の男の剣が横薙ぎに来る。身体をひねってかわしたが、外套の袖が浅く裂けた。
もう一度、右から突き。次は左から斬撃。
二人の攻撃をさばくうちに、エミールは幌馬車の前から退かないまま、かわすために半歩、また半歩と前へ出ざるを得なかった。背中と車輪のあいだに、わずかな隙間ができる。
腕が重い。息も上がっていた。
それでも、ここは通せない。
そこへ、三人目が加わった。
三本の剣が、正面からエミールを囲む。
右の剣の高さ。左の足の向き。正面の男の肩の力み。どこから来る。どれを払って、どれをかわす。
三人へ意識を集中した、その隙だった。
鎧を着ていない別の賊が、幌馬車の反対側を回り、できたばかりの隙間へ入りこんだ。
剣が、エミールの背中めがけて振り上げられた。
振り下ろされる寸前、横から黒い影が踏みこんだ。
下から打ち上げられた剣が、賊の剣身を強くはじく。握っていた指が開き、剣はくるくると回りながら高く宙を舞った。
午後の日差しを一度だけ返し、川べりの土へ突き立つ。
賊が空になった手を見たときには、その男とエミールのあいだに、黒い外套が割って入っていた。
淡い金の髪が、風に揺れた。
エミールは振り返らなかった。振り返らなくても、その背中が誰のものか、わかった。
「よく守った」
背中越しに、静かな声がした。
ジェフリーだった。
賊は我に返って拳を振り上げた。
ジェフリーは半身を返してその腕を外へ流し、空いた鳩尾へ剣の柄頭を打ちこんだ。男は声もなく身体を二つに折り、その場に崩れた。
ジェフリーは、エミールの前に出た。
三人の兵の前に。
三人は一瞬ひるんだが、すぐに互いへ目を走らせ、ほとんど同時に動いた。
正面から突き。
ジェフリーは半身になって切っ先を外し、すれ違いざまに剣の腹で男の手首を打った。指が開き、剣が落ちる。その胸へ肩から踏みこんで、男を地面へ転がした。
身を沈めて刃の下をくぐり、低い姿勢のまま相手の前脚を払う。男が尻もちをついたところへ、胸当てに柄頭を打ちこんだ。息を詰まらせ、男はその場にうずくまった。
残ったひとりは、剣を構えたまま後ずさった。目だけが逃げ道を探している。
ジェフリーが一歩踏みこむ。
男が反射的に剣を振った。その刃を鍔元で外へ押し流し、空いた胴へ柄頭を突き入れる。
男の身体が折れた。ジェフリーはその手首を返して剣を落とさせ、そのまま地面へ伏せさせた。
立っているのは、ジェフリーとエミールだけだった。
いつのまにか、野営地は静かになっていた。
聞こえるのは、川の音と、そこかしこで地面に転がった賊たちのうめき声ばかりだった。
野営地の入り口のほうから、蹄の音と、引きずるような足音が近づいてきた。
マティアスたちだった。セドリックとヨハンとテオが、縄で数珠つなぎにした男たちを引いてくる。麦畑で捕らえた、ダリアの騎士とその手下たちだった。
マティアスは、野営地の有様を見回して頭をかいた。
「……ずいぶん、にぎやかな留守番だったようで」
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縛られた男たちが、野営地の隅にずらりと並べられた。
麦畑から連れてきた八人に、野営地を襲った十四人が加わった。捕らえた者は、これで二十二人になった。
ジェフリーは剣を収めると、まっすぐ幌馬車へ向かった。
幕を上げた。
薄暗い幌の中で、アヤがノアを抱きかかえたまま顔を上げた。
ジェフリーの顔を見た。
アヤの肩から、ふっと力が抜けた。
アヤはノアの背中をひとつ撫でてから、幌馬車を降りた。ジェフリーの前に立った。
「ジェフリー様。……お怪我は、ございませんか」
アヤの目が、ジェフリーの腕を、肩を、顔を、急いでたどっていった。外套の裾に泥がはねている。それだけだった。血の跡はどこにもなかった。
アヤは、ようやく小さく息をついた。
少し離れたところでは、エミールが肩で息をしながら剣を鞘に収めていた。アヤは、そちらへ向き直った。
両手を身体の前で重ねた。
「エミール様。守ってくださって、ありがとうございました」
エミールは顔を上げた。
何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。ただ、ぎこちなく頭を下げた。
その脇を、ノアが幌馬車から転がるように飛び出してきた。
「すげえ……すげえよ!」
ノアはジェフリーとエミールを、目をまるくして見比べた。
「おいら、見たよ! 本物の騎士の戦いだ! 金色の騎士さま、剣を振ったら、ぱーんって飛んでって! それに、エミールの兄ちゃんも、でっかいやつを、幌馬車から引きずり出して――」
興奮のあまり、言葉があとからあとから転がり出てくる。
ジェフリーは、ノアの頭に軽く手を置いた。
エミールのほうへ向いた。
エミールの外套の袖は裂けていた。剣を握る指が、まだ小さく震えていた。何人もの相手を、ひとりで幌馬車の前で止めつづけていたのだ。
ジェフリーは、その姿を見ていた。
「守りを、おまえに任せてよかった」
それだけを言った。
エミールは、目を見ひらいた。
氷の騎士と呼ばれる隊長が、自分に向けて言った言葉だった。
エミールは背筋を伸ばした。
胸の奥が熱くなった。その熱を、どう顔に出せばいいのかわからなかった。わからないまま、ただ、もう一度深く頭を下げた。
********
グスタフの報告は、短かった。
鎧の男たちが現れたときから、どこか妙だと感じていたこと。名も名乗らず、礼もとらない兵の振る舞いに、本物ではないのではと疑っていたこと。そして、アヤがソヴェールと名乗っても、男たちが王家の名だとまるで気づかなかったこと。
「アヤ様が名乗られるまでは、確信まではありませんでした。……正直に言えば、肝が冷えましたがね」
ジェフリーは、ひとつうなずいた。
縛られて並べられた男たちを、ひとりずつ見ていった。
「ここに来たのが、全員とは限らない。まだ、どこかに潜んでいる仲間がいるかもしれない」
ジェフリーは、グスタフに向き直った。
「見張りを、二人ずつ交代で立てろ。縄の結び目は、日が沈むまでに一度、全部確かめなおせ。……一人も逃がすな」
「はっ」
川べりの風が、少し冷たくなりはじめていた。
アヤは、幌馬車のそばでジェフリーを待っていた。
ジェフリーが近づいてくると、アヤは両手を前で重ねて、深く頭を下げた。
「ジェフリー様。……申し訳ございませんでした」
ジェフリーは足を止めた。
「わたくしが、自分の名を名乗ってしまったせいで、皆さまにご心配をおかけしました。身分を伏せて旅をすると、お約束していましたのに」
アヤは、顔を上げなかった。
ジェフリーは、アヤのつむじを見下ろした。
責める言葉は、ひとつも浮かばなかった。
浮かんだのは、さっき幕を上げたときの光景だった。薄暗い幌の中で、アヤはノアを胸に抱き、自分の身体で庇っていた。
「……アヤ様。顔を上げてください」
おずおずと顔が上がる。
「あなたがご無事で、本当によかった」
ジェフリーは、それだけを先に言った。
「怖い思いをさせてしまいました。申し訳ありません」
アヤが目を瞬いた。
ジェフリーは、その肩越しに幌馬車を見た。幕の端が風に揺れている。
今日は、エミールが守りきった。自分も間に合った。
この先は、どうだろう。
旅はまだ始まったばかりで、天に届く塔までは遠い。その先に何があるのかさえ、わからない。今日より危険な場所へ、この人を連れていくことになるかもしれない。
今からでも、エステリアへ帰したほうがいいのではないか。
幌馬車の枠に置いた手に、力がこもった。
「ジェフリー様」
アヤが、こちらを見上げていた。
「わたくしは今日、たしかに怖い思いをいたしました。でも、幌の中でノアを抱いているあいだ、外で剣の音がするたびに、皆さまが怪我をなさるのではないかと、そればかり考えておりました。……ジェフリー様のことも」
アヤは胸もとに手を置いた。旅装の内側、革の手帳を収めているあたりだった。
「旅にお供すると決めたときから、安全な毎日が当たり前ではないことは、わかっていたつもりです」
そこで、少しだけ息をついた。
「危ないことがあるのと、帰りたいと思うのとは、同じではございません。これからも、わたくしは皆さまを心配すると思います。きっと何度も。……でも、皆さまと一緒にいることを、不安には思っておりません」
アヤは、ジェフリーの目から視線を逸らさなかった。
ジェフリーは何も言わなかった。
幌馬車の枠を握っていた手から、ゆっくりと力が抜けた。
二人のあいだに、短い沈黙が落ちた。
やがて、アヤがひとつ息を吸った。
「ジェフリー様。お願いが、ございます」
「……何でしょう」
「エステリアの兵の鎧を着て、エステリアの兵を名乗る者たちが、賊と手を組んでいる。……このことを、一刻も早く、王宮にお伝えしなければなりません。エヴァレット卿に」
アヤは、幌馬車のほうを振り返った。
「手紙を書きます。丈夫な羊皮紙に。封をしたら、油紙で包んでください。道中で雨に降られても、できるだけ傷まないように」
アヤは、指を折った。
「一通は、お父様に。王都から送っている支援の物資が、賊に奪われているのだとしたら、ダリアの民は、今ごろひどく飢えているはずです。まずは、民のお腹を満たさなければ。すぐに物資を送ってくださるよう、お願いします。……それも、必ず近衛の手で届けさせてくださるように」
二本目の指が折られた。
「一通は、エヴァレット卿に。ここにいる者たちを法のもとで裁くために、近衛を遣わして、引き取りに来ていただくように」
三本目の指が折られた。
「それから、もう一通は、ミエに。ミエが、ルシアン殿について知っていることを、すべてお父様にお伝えするように。……この有様の裏で、誰が糸を引いているのか。それを調べなければなりませんから」
アヤは、折った三本の指をジェフリーの前に示した。
「この三通を、今すぐエステリアへ届けていただけませんか」
ジェフリーは、アヤの指を見た。
野営地を見渡した。
縛られた男たちの見張りに立つ者。倒れた天幕を張りなおす者。馬の脚を一頭ずつ確かめている者。
その最後のひとりのところで、ジェフリーの目が止まった。
「ステファン」
呼ばれたステファン・ベックが、馬の脚から手を離して顔を上げた。
隊の馬の世話を、誰よりも引き受けている男だった。ステファンは一頭ごとの癖も、その日の脚の状態もよく知っている。なかでも彼自身が乗る黒馬は、隊でいちばん足が速かった。
「アヤ様の手紙を、エステリアの王宮へ届けてくれ。……届けたら、必ず近衛とともに、ダリアへ戻ってこい」
ステファンは、一度だけ自分の黒馬の首を叩いた。
「承知しました」
アヤが幌馬車の中で羊皮紙にペンを走らせるあいだ、ステファンは黙々と旅の支度を整えていった。鞍を置き、腹帯を締め、水と干し肉と、替えの蹄鉄を袋に詰める。
道のりは長い。ステファンは自分の黒毛のほかに、隊の馬の中から脚のいちばん確かな一頭を選び、替え馬として手綱につないだ。途中で乗り換えれば、一頭に無理をさせずに距離を稼げる。
アヤが封をした三通の手紙を、ステファンは油紙で包み、胸の内側にしまった。
黒馬が、ぶるると鼻を鳴らした。
ステファンが馬上の人になり、蹄の音が川沿いの道を遠ざかっていくのを、野営地の皆が見送った。
ジェフリーは、振り返ってセドリックを見た。
セドリックは、縛られた男たちの列のそばに立って、結び目をひとつずつ確かめていた。夜通し馬を駆って偵察から戻り、そのまま休まずに麦畑へ出て、今また野営地の見張りに立っている。
「セドリック。今すぐ、休め」
セドリックの手が止まった。
顔を上げて、何か言いかけた。
ジェフリーは、ただ、その目を見返した。
セドリックは、言いかけた言葉をのみこんだ。
小さく頭を下げ、天幕のほうへ歩いていった。
「ジェフリー様」
アヤが、もう一度ジェフリーを呼んだ。
「ノアは、賊たちから麦粥を食べさせてもらっていたと言っていました」
ジェフリーは、アヤを見た。
「この土地の畑は荒れ果てています。それなのに、賊たちは子どもに麦粥を食べさせるだけの麦を持っていた。……どこかに、麦があるのです。それも、少しではない量の」
アヤは、ダリアの方角を見やった。
「王宮から送られた支援の物資が、どこかに隠されているのだと思います。それを、すぐに見つけださなければ。飢えている民に、一日でも早く食べさせなければなりません」
「探すのは、黒騎士でやります」
ジェフリーは言った。
アヤは、うなずいた。
「では、わたくしは」
アヤは、まっすぐジェフリーを見た。
「民が殿様と呼んでいるお方に、直接、お会いしてまいります」
ジェフリーは、言葉を失った。
「なりません」
「民の上に立つ方に、この有様をどう思っていらっしゃるのか、伺わなければなりません。……王家の者として、民の苦しみを見て見ぬふりはできません」
ジェフリーは、セドリックの報告を思い返していた。
黒い外套を見ただけで戸を閉ざす村人たち。部屋が空いているのに断られる宿。そして、宿の裏でささやかれていた、野営地に火をかけるという若者たちの企み。
今のダリアの民は、殺気立っている。
そこへ、この人をひとりで行かせるわけにはいかない。
ジェフリーは、ひとつ息を吐いた。
「……では、私も同行します」
そのとき、野営地の入り口のほうで見張りの声が上がった。
振り返ると、川沿いの道を、アルベルトが二頭の馬の手綱を引いてくるところだった。
鞍には、疲れきった女がひとりずつ乗っている。その脇を、もうひとりの女が、アルベルトに支えられながら歩いていた。
アルベルトはジェフリーの前まで来ると、軽く片手を上げた。いつもの、ふざけた調子の挨拶だった。顔だけが、いつもより少しくたびれていた。
「断崖の砦の件、報告します」
アルベルトは言った。
「砦は、ありませんでした。そのかわり、崖の洞窟に賊のねぐらがありました。八人。全員、縛り上げてあります。……それと、その洞窟の地下に、もうひとつ隠された場所がありました」
アルベルトは、後ろの三人の女を目で示した。
「この人たちが、そこに閉じこめられていました」
ジェフリーは、女たちを見た。
煤と泥に汚れた顔。縄の痕が赤く残った手首。
「地下には、まだ仲間がいます。船乗りみたいな身なりの男を、ひとり見ました。……ただ、この人たちを連れ出すのを先にしたんで、下に何人いるのかまでは、確かめていません」
「ディーターは?」
「洞窟に残って、縛った八人を見張ってます」
ジェフリーは報告を聞き終えると、アヤに向き直った。
「アヤ様。殿様のところへは、私も同行します。……ですが、その前に、洞窟の賊を、この野営地まで連れてこなければなりません」
アヤは、ジェフリーの顔を見てうなずいた。
ジェフリーは振り返った。
「マティアス」
「はい、隊長」
「ヨハンとカスパーを連れて、アルベルトと一緒に洞窟へ行け。縛ってある八人を、ここまで連れてこい。……夜が更ける前に、戻れ」
マティアスは、大きな手で首の後ろをかいた。
「夜が更ける前、なんて、悠長なことを言ってられませんよ。もっと早く戻ります」
マティアスは、川べりの木箱のほうを顎で示した。
「ノアに、鹿の肉を食わせてやる約束をしてるんでね。いちばんうまいところを」
そのときだった。
アルベルトの後ろにいた三人の女のうちのひとりが、よろめくように前へ出た。
さっき、洞窟の穴倉で、明かりのほうへ這い出てきた女だった。
「……ノア」
女の唇が震えていた。
「今、ノアと、おっしゃいましたか? ……ノアが、ここに、いるのですか?」
マティアスが口を開きかけた。
その前に、幌馬車の幕が内側から勢いよくはね上げられた。
小さな影が、転がるように飛び出してきた。
ノアだった。
ノアは幌馬車の前で、ぴたりと足を止めた。
女の顔を見た、煤と泥に汚れた、その顔を。
ノアの口がひらいた。
「……かあちゃん」
もう一度。
今度は、野営地じゅうに響くような声で。
「かあちゃん!」
ノアは走りだしていた。
女が膝をついた。両腕をひろげた。
ノアが、その腕の中に飛びこんだ。
女はノアを抱きしめた。小さな背中を、頭を、肩を、確かめるように、何度も、何度も、汚れた手でなぞった。
女の頬を涙が伝っていた。
煤と泥の上に、白い筋をいく本も引きながら。
「ノア……ノア……」
それしか、言葉にならなかった。
ノアは、母親の胸に顔をうずめて、声を上げて泣いた。




