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28. 地図にない砦

※この話には、暴力・虐待を想起させる表現があります。直接的な描写は避けていますが、苦手な方はご注意ください。

野営地を出てから、アルベルトとディーターは、ほとんど口をきかなかった。


川沿いの道を西へ下り、麦畑のあいだを抜けて、街道に出る。この街道を西へたどった先に、隊長が地図の上で指さした断崖がある。


隊長に言われたことは、二つだった。そこに砦があるなら、それが本当にエステリアのものなのかを確かめること。そして、エステリアの兵が、ならず者と組んでいないかどうかを確かめること。


地図の上で、その街道の行き着く先には、砦などどこにも描かれていなかった。


アルベルトは、手綱を握ったまま、街道の土に目を落とした。


乾いた土の上に、蹄の跡が残っていた。一頭や二頭ではない。踏み荒らされた跡が、何頭分も重なりながら、西へ、西へと続いている。


「五頭だ」


隣で、ディーターがぼそりと言った。馬の上から、ちらりと見下ろしただけだった。


「……見ただけで、わかるのかよ」


「蹄鉄が、五種類ある」


それきり、ディーターはまた前を向いた。


アルベルトは、小さく肩をすくめた。隊長が「目と足がいい」と言うだけのことはある。こっちは、跡がたくさんあるな、くらいにしか見えていなかった。


街道の両側から、少しずつ麦畑が消えていった。

かわりに、背の低い草と、白っぽい岩が増えていく。風に、塩の匂いがまじりはじめた。



********



日が、ずいぶん高くなったころ。


街道は、唐突に終わった。

その先には、何もなかった。


風に倒された草の原が、ゆるやかにのぼって、その向こうで、すっぱりと切れている。

切れた先は、空だった。足もとのずっと下のほうから、波の砕ける音が、腹に響くように聞こえてくる。


アルベルトは馬を降りて、あたりを歩いてまわった。


石垣の跡も、柱の穴も、焚き火の跡すらない。

見張りの塔どころか、雨よけの屋根ひとつ、建物と呼べるものは、何ひとつ見当たらなかった。


「……砦、ねえ」


アルベルトは、崖のふちに立って、草の原を振り返った。

海から吹き上げてくる風が、くすんだ金色の前髪を、ばさばさとかき乱していった。


「国境の砦ってのは、ずいぶん風通しがいいんだな」


ディーターは、答えなかった。


しゃがみこんで、草の根もとを見ていた。それから、黙って崖に沿った北のほうを指さした。


街道で見た蹄の跡が、ここで向きを変えていた。

草を踏み分けて、崖のふちをなぞるように、北へと続いている。


アルベルトは、懐から地図を取り出した。


出がけに、隊長が指で示した場所。ノアの小さな指が、ぎゅっと押さえていた場所。

この砦があるはずの断崖の、そのすぐ先だ。


アルベルトは、地図をたたんで懐に戻した。


「行こう」


蹄の跡を追って、崖沿いを北へしばらく進んだところで、ディーターが馬を止めた。

アルベルトも、手綱を引いた。


目の前で、崖が、大きくえぐれていた。


上から下へ。とてつもなく大きな何かが、爪を立てて、崖の肌を一気にかきむしっていったような形だった。えぐれた岩肌が、海のほうへ向かって、ぐうっと弧を描いて落ちこんでいる。


その弧の底のあたりに、黒い口が、ぽっかりとあいていた。


洞窟だった。


――崖がね、こう……下のほうに、まがってるんだ。


ノアが宙に描いてみせた弧が、そのまま岩になって、目の前にあった。


「ドラゴンの爪あと、か」


アルベルトは、小さくつぶやいた。


「うまいこと言うもんだな、大人ってのは」


二人は、馬を岩陰の窪みにつないだ。蹄の跡は、えぐれた崖の斜面を、洞窟の口のほうへ下りていた。

馬が通れる幅の、踏み固められた細い道が、岩のあいだを縫うようにつけられている。

何度も、何度も、人と馬が行き来した道だった。



********



洞窟の入口の脇で、アルベルトとディーターは、岩に背をつけて息をひそめた。


見張りは、いなかった。

中から、物音もしない。ただ、湿った風が、ゆっくりと外へ吐き出されてくるだけだった。


その風に、においがまじっていた。


酒の酸っぱいにおい。汗と、脂と、何日も洗っていない体のにおい。

それから、かすかに、甘く焦げたような、アルベルトの知らないにおい。


それに混じって、もうひとつ、聞こえてくるものがあった。


いびきだった。

ひとつではない。重なりあって、ごろごろと、洞窟の奥でこだましている。


アルベルトは、ディーターと目を合わせた。


日は、もうずいぶん高い。ノアの話では、この連中が目を覚ますのは、日がてっぺんにのぼったあとだ。

てっぺんまでは、まだ少しある。


ディーターが、身をかがめて、入口の陰から中をのぞいた。

しばらく、そうしていた。目が、奥の暗がりに慣れるのを待っているのだろう。


やがて、ディーターは顔を引っこめて、指を立てた。


片手に、五本。もう片手に、三本。


八人。


アルベルトは、腰の剣に手をかけかけて、やめた。


隊長の言いつけは、確かめてこい、だった。

それでも、敵がそろって酔いつぶれて眠っている、こんな機会はもう二度と来ない。目を覚ませば、この八人は八人のまま、どこへでも散っていく。ここで放っておくほうが、よほど危ない。


アルベルトは、自分の剣帯から、細く裂いた革紐の束を抜き出した。それを、半分ディーターに渡した。

ディーターは、黙って受け取った。


それで、話は決まった。


洞窟の中は、思っていたより広かった。


入口から差しこむ光が届くのは、ほんの手前だけだ。その先は、目が慣れるにつれて、ぼんやりと形が浮かびあがってくる。


岩の床に、汚れた藁がまかれていた。

その上に、男たちが転がっていた。


酒の甕が、いくつも倒れている。肉をかじったあとの骨が、そこらじゅうに散らばっている。

壁ぎわには、錆びた鎧が脱ぎ捨てられ、兜が逆さに転がっていた。その胸の紋章は、刃物で削り取ったように、ずたずたになっていた。


アルベルトは、足音を殺して、いちばん手前の男のそばにしゃがみこんだ。


口を半分あけて、よだれを垂らして眠っている。酒のにおいが、むっと鼻をついた。

アルベルトは、男の両手を、そっと腹の上に重ねさせた。

それから、左右の親指どうしを、革紐でひと巻きにした。


アルベルトの指は、こういう細かい仕事になると、妙によく動いた。

小さな結び目を、音もなく、きつく締める。

親指さえ結んでしまえば、人の手は、ほとんど何もつかめなくなる。手首と足首を縛るのは、そのあとでいい。


男は、ううん、と小さくうなって、寝返りを打とうとした。

アルベルトは、男の肩にそっと手を置き、寝返りの勢いだけを殺した。

男は、また、いびきをかきはじめた。


洞窟の反対側で、ディーターも、同じように動いていた。音が、まったくしない。

岩の上を、まるで影が這うように、ひとりから、次のひとりへ移っていく。


二人目。三人目。


四人目のところで、アルベルトの手が、一瞬止まった。


大きな男だった。藁の上に、仰向けに、手足を投げだして眠っている。


その右の手首が、汚れた布で、ぐるぐる巻きにされていた。

添え木がわりに、折った枝が二本、布の下からのぞいている。布の上には、黒ずんだ血がにじんでいた。巻いた布からはみ出した指が、赤黒く、ぱんぱんに腫れあがっていた。


隣で眠っている男は、鼻が、ぐしゃりと横につぶれていた。

その向こうの男は、片腕を、妙な角度で胸に抱えこんでいた。

もうひとりは、脇腹をかばうように、海老のように体を丸めていた。


四人。そろいもそろって、ひどい怪我だった。


アルベルトは、大男の手首に巻かれた布の端を、指先でそっとめくった。


傷は、新しかった。腫れの具合からして、せいぜい昨日のうちだろう。手当ても、手当てと呼べるようなものではない。そこらの枝を折って当てて、布を巻きつけただけだ。


誰に、どこでやられたのかは、わからなかった。


アルベルトは、黙って大男の顔を見下ろした。


それから、洞窟の入口のほうを振り返った。

街道から続いていた五頭分の蹄の跡は、この洞窟の口まで、まっすぐに下りてきていた。


――砦と称して、ならず者のねぐらになっている可能性もある。


出がけに聞いた隊長の言葉が、耳の奥でよみがえった。崖の上に、砦はなかった。かわりに、ここがあった。


アルベルトは、ゆっくりと息を吐いた。


布を巻かれた大男の手首では、さすがに親指どうしを結べなかった。かわりに、肘の上を、きつく縛った。


大男が、うっすらと目をあけた。

酒と痛みでにごった目が、ぼんやりと宙をさまよい、それから、アルベルトの顔の上で止まった。

口が、ひらきかけた。


声が出るより先に、アルベルトの手のひらが、男の口をふさいでいた。もう片方の手の、指の関節が、男の耳の下の、ちょうど一点を打った。


大男の目が、白く裏返った。


アルベルトは、男の口から手を離して、その口に、男自身の汚れた布切れを押しこんだ。


「……いい夢、見てくれよ」


ほとんど声にならない声で、アルベルトはつぶやいた。


八人を縛り終えるまで、それほど長くはかからなかった。

最後のひとりの足首を締めたディーターが、立ち上がって、手についた藁を払った。


アルベルトは、洞窟の中を、ぐるりと見まわした。


縛られて転がっている男が、八人。倒れた甕。散らばった骨。脱ぎ捨てられた鎧。


それだけだった。


奪われた麦の袋も、王都から送られてきたはずの物資の箱も、何もない。金を貯めこんだ壺も、武器を積んだ棚もない。


そして――。


アルベルトは、洞窟の隅から隅まで、もう一度、目を凝らした。


女は、どこにもいなかった。

ノアの母親の姿も。ほかの、誰かの姿も。



********



洞窟の奥は、入口の明かりがまったく届かなかった。


アルベルトは、壁ぎわに転がっていた獣脂の燭台に火を移して、奥へと足を進めた。ディーターが、半歩うしろからついてくる。


岩の床は、ゆるやかに下っていた。


奥へ進むにつれて、空気が変わった。酒と汗のにおいが薄れ、かわりに、冷たく湿った、潮のにおいが強くなっていく。燭台の炎が、どこからか吹いてくる風に、しきりに揺れた。


そして、音がした。


ごうっ――。


低く、長い音だった。


岩の奥の、ずっと深いところから、何か大きなものが息を吐いているような。いや、息を吸いこんでいるのかもしれない。耳を澄ますと、その音は、途切れずに、ゆっくりと大きくなったり小さくなったりしていた。


アルベルトは、燭台を前に差しだした。

炎の光の先で、床が、ふいに消えていた。


穴だった。


人がふたり並んで通れるほどの幅で、岩の床が、ぽっかりと口をあけている。縁から先は、はじめのうちは、なだらかな坂になっていた。濡れた岩肌が、燭台の光をぬらりと照り返している。


それが、少し先で、急に向きを変えていた。


なだらかな坂が、ある一点を境に、まるで断ち切られたように、下へ、下へと傾いていく。その先は、燭台の光が届かず、ただ黒い闇が口をあけているだけだった。


ごうっ――。


あの音は、その闇の底から、のぼってきていた。


崖をえぐった、大きな爪の跡。


その爪が、岩の奥まで、まだ深く、深く、食いこんでいる。


アルベルトは、足もとの小石をひとつ拾って、坂のほうへ転がした。


小石は、濡れた岩の上を、ころころと転がっていった。燭台の光の届くあたりまでは、軽い音を立てていた。その先で、坂が傾きを変えたところで、ふっと、音が消えた。


いつまで待っても、小石が底に当たる音は、聞こえてこなかった。

聞こえるのは、ただ、あの、ごうっという音だけだった。


アルベルトは、坂の縁に、片足をそっとかけてみた。

岩は、苔と水気で、ぬるりとしていた。体重をかけた瞬間、靴底が、わずかにすべった。


アルベルトは、すぐに足を引いた。


気を抜けば、そのまま、あの闇の中まで持っていかれる。


「……ここは、やめとこう」


アルベルトは、燭台を少し引き寄せた。


「縄もなしに下りたら、帰ってこられる気がしねえ」


うしろで、ディーターが、穴の奥をじっと見ていた。

炎の光を映した目が、闇の底を、何か確かめるように見すえている。


「風が、外へ抜けてる」


ディーターは、ぽつりと言った。


「……どこかに、つながってる」


アルベルトは、もう一度、穴の奥の闇を見た。


ごうっ――。


岩の底から吹き上げてくる風は、冷たく、そして、ほんのりと塩辛かった。



********



二人は洞窟を出て、まわりを確かめてまわった。

えぐれた崖の斜面。岩のあいだにつけられた細い道。馬をつないでいたらしい杭が、何本か。

それ以外には、ほとんど何もなかった。


ただ、洞窟の口から少し離れた岩陰に、小さな小屋が、ひとつだけ建っていた。


小屋と呼ぶのもためらうような代物だった。流木と、どこかの古い舟板を寄せ集めて立てかけ、すきまに枯れ草を押しこんだだけの、粗末な囲いだ。海からの風が吹きつけるたびに、板がかたかたと鳴った。


戸口には、扉もなかった。垂らしてある汚れた布を、アルベルトは指でそっとめくった。


中は、暗く、狭かった。

大人がひとり横になれば、それでいっぱいになるほどの広さしかない。


床の隅に、藁が敷いてあった。その藁が、人の形に、浅くくぼんでいた。誰かが、ここで、体を丸めるようにして眠っていたのだろう。くぼみは、大きくはなかった。洞窟の男たちの、誰の体よりも小さかった。


藁のそばに、木の器が、ひとつ転がっていた。


縁が欠けて、黒ずんだ、小汚い器だった。拾い上げてみると、底に、粥のかすが、うっすらとこびりついていた。


アルベルトは、器を手にしたまま、小屋の中を見まわした。


小屋のまんなかに、屋根を支える柱が、一本立っていた。


その柱の、ちょうど人が座りこんだときの腰の高さのあたりに、ぐるりと、何かがこすれたあとが残っていた。


縄のあとだった。


木の肌が、そこだけ、白っぽくすり減っている。毛羽立った縄の繊維が、ささくれに、いくつも引っかかっていた。一度や二度、縛りつけたくらいでは、こうはならない。何日も、何日も、同じところで、縄が柱をこすり続けたあとだった。


アルベルトは、その柱の前に、しゃがみこんだ。

ささくれに引っかかった繊維を、指先でつまんだ。


ここに、誰かがいた。


この柱に縛りつけられて、あの藁の上で体を丸めて眠り、この欠けた器で、粥のかすのようなものを与えられていた誰かが。


洞窟の男たちとは、別の誰かが。

アルベルトの頭に、ノアの顔が浮かんだ。

地図の上で、迷いなくこの場所を押さえた、あの小さな指が浮かんだ。

アルベルトは、指先の縄の繊維を、じっと見ていた。


小屋の中には、もう、誰もいなかった。


縄も、なかった。

藁のくぼみと、欠けた器と、柱のすり減ったあと。

それだけを残して、ここにいた誰かは、どこかへ連れていかれていた。


戸口の布が、海からの風にあおられて、ばさりと鳴った。

うしろに立っていたディーターが、黙って、小屋の外の、崖のほうを振り返った。


えぐれた崖の向こうで、海は、昼の光を受けて、何ごともなかったようにきらめいていた。


ごうっ――。


洞窟の奥から、あの音が、まだ、かすかに聞こえていた。



********



ダリアの騎士。


その大男は、そう呼ばれていた。


もっとも、そう呼ぶのは、ダリアの麦畑で痩せた麦を刈る農民たちくらいのものだった。男の名は、ガルドといった。


ガルドは、面倒くさそうに肩を回しながら、麦畑のあいだの細い道を歩いていた。腰には刃の欠けた山刀を差し、手には樫の棍棒をぶらさげている。うしろには、同じような荒くれ者が七人、だらだらと続いていた。


昼を過ぎた日差しが、乾いた麦の穂を白っぽく照らしていた。


ガルドは、舌打ちをした。


昨夜のうちに、ノアに支払いを持ってこいと言いつけてあった。それが、昼になっても戻らない。

見張りに立たせても、盗みに入らせても、多少のしくじりは大目に見てきたつもりだった。支払いが遅れたことも、これまでに何度かある。そのたびに殴ってしつけはしたが、働いた分の麦飯は、ちゃんと食わせてきた。


それなのに、今回に限って、麦ひと粒も持ってこようとしない。


しかたなく、ガルドが自分で村まで取り立てに行くことになった。ついでに、ノアも引きずって帰らなければならない。せっかく拾った、便利な子どもだった。


あれだけ、昨日が期限だと言い聞かせたのに。

どうも、最近、甘やかしすぎたのかもしれない。


ガルドは、棍棒で自分の肩を叩いた。


ノアが戻ったら、また、あのときのように、ぐつぐつと煮立った麦粥を、あいつの腹に直にかけてやるしかない。あのときは、ずいぶん静かに言うことを聞くようになったものだ。


そんなことを考えながら歩いていると、麦畑の向こうに、人影がひとつ見えた。


黒い服を着た誰かが、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。


ダリアの農民には見えなかった。町をうろつく商人にも見えなかった。


ガルドたちの足音が聞こえれば、このあたりの者は、みんな麦のあいだに身を伏せるか、家に逃げこんで戸を閉める。


その人影だけは、逃げなかった。


歩く速さも、変えなかった。


「おい、そこの」


ガルドが、荒っぽく声を投げた。

黒い服の人影が、ぴたりと足を止めた。


ガルドも、うしろの仲間たちも、思わず息をのんだ。


淡い金の髪が、乾いた風にかすかに揺れていた。その下に、冬の湖のような青い目があった。これまで見たこともないほど、整った顔だった。


一瞬、女かと思った。

よく見れば、男だった。


背の高い、美しい男が、たったひとりで、麦畑の真ん中に立っていた。


その目は、ガルドたちを見ているのに、まるで何も映していないように冷たかった。


ガルドは、腹の底で、勘定をはじいた。


女ではない。それでも、こいつは、とんでもない上玉だ。奴隷船の商人に売れば、相当な値がつく。近ごろは、女や子どもでなくとも、見目のいい若い男を欲しがる物好きな金持ちがいると聞く。


この半年ほど、ガルドの仕事は、ダリアの村から金や麦を巻き上げることだった。もとをたどれば、本職は人さらいだった。


その血が、ひさしぶりに騒いだ。


「兄さん、こんな片田舎で、何をしてる」


ガルドは、にやにやと笑いながら、一歩、前へ出た。


「今夜の宿を探してるなら、俺たちが世話してやるぜ。寝床なら、いくらでも用意してやる」


うしろの男たちが、下卑た声で笑った。


美しい男は、まるで何も聞こえなかったような顔をしていた。


ガルドではなく、ガルドの肩の、さらにうしろのほうへ目をやって、言った。


「マティアス。剣は振るなよ」


「こんな連中を相手に、剣なんて要らないでしょう」


ガルドたちの背後で、別の声がした。

男たちが、いっせいに振り返った。


いつのまにか、道のうしろに、もうひとり男が立っていた。金髪の男よりも、さらに頭ひとつ大きい。銀灰色の短い髪の大男が、鞘に入ったままの大剣を、天秤棒のように首の後ろに担いでいた。


「念のために持ってきたんですがね。置き場に困っているところですよ」


大男は、のんびりとそう言って、肩をすくめた。


ガルドの背中を、冷たいものが走った。


挟まれた。


それから、すぐに、鼻で笑った。

なんだ。たった二人じゃないか。

こっちは八人いる。金髪のほうは、見たところ、手に何も持っていない。腰に剣は下げているが、抜く気配もない。気をつけるべきは、うしろのでかいほうだけだ。


ガルドは、そう計算した。


「おい、聞いたか。剣は要らねえとよ」


ガルドは、棍棒を手のひらに打ちつけた。


「ずいぶん、なめられたもんだな。兄さん、その綺麗な顔に傷がついたら、値が下がっちまう。おとなしくついてくりゃ、痛い思いはさせねえ」


「値、か」


金髪の男が、初めてガルドの顔をまともに見た。


「このあたりの村から、人をさらって売っているのは、お前たちか」


「さあな。売られたいやつが、勝手についてくるだけさ」


「麦畑の村から、子どもを使って、麦と金を巻き上げているのも」


ガルドの眉が、ぴくりと動いた。

子ども。

ノアのことを、言っているのか。


「……兄さん、どこで、何を聞いてきた」


「答えろ」


声は、大きくなかった。

それなのに、麦畑の乾いた空気が、ひやりと冷えたような気がした。


ガルドは、それが気に入らなかった。


ダリアでは、自分が声を出せば、誰もが黙った。黙らせる側は、いつだって自分のほうだった。


「うるせえ」


ガルドは、棍棒を振り上げて、地面を蹴った。


樫の棍棒が、金髪の男の頭めがけて、うなりを上げて振り下ろされた。


当たる、と思った。


次の瞬間、棍棒は、空を切っていた。


金髪の男は、半歩、横にずれただけだった。振り下ろした勢いのまま前へつんのめったガルドの手首を、黒い手袋の手が、すっとつかんだ。


つかまれた、と思ったときには、手首が、ありえない方向へひねられていた。


「ぐあっ」


棍棒が、手から落ちた。


体が、手首を追いかけるように、勝手に回った。足もとを、何かに払われた。地面が、ぐるりと回って、目の前に迫ってきた。


顔から、乾いた土に叩きつけられた。

背中に、膝が乗った。

ねじり上げられた腕が、肩ごと抜けそうなほど痛んだ。


ガルドは、土の味を噛みながら、目だけを動かした。


金髪の男は、ガルドの背に片膝をついたまま、息ひとつ乱していなかった。腰の剣は、鞘から一寸も抜かれていなかった。


「マティアス」


短く、それだけ言った。


「はいよ」


ガルドのうしろで、仲間たちの悲鳴が上がった。


銀灰色の大男が、首に担いでいた大剣を、鞘ごと横なぎに振るったのだった。いちばんうしろにいた二人が、まとめて胴を払われて、麦の中へ吹っ飛んでいった。


残りの男たちが、あわてて得物を抜こうとした、そのときだった。


道の両脇の麦が、ざわりと揺れた。


右の麦の中から、黒い影が、地を這うように低く飛び出してきた。黒髪の、細身の男だった。いちばん手前の男の膝の裏を蹴りつけて崩し、倒れかかった首に腕を巻きつけて、そのまま地面に押さえこんだ。


左の麦からも、もうひとつ、黒い影が飛び出した。まだ少年の面影が残る、若い黒い髪の騎士だった。山刀を振りかぶった男の懐に、体ごと飛びこんで、その腰にしがみつくように足をすくった。男が尻もちをついたところへ、手首を踏みつけて、刃を奪った。


「テオ、右うしろ!」


「わかってます!」


若い騎士が、振り向きざまに、奪った山刀の峰で、背後から殴りかかってきた男の腕を打ち払った。


黒髪の男が、押さえこんでいた男の首から腕を外して、立ち上がった。逃げだそうとした最後のひとりの足もとに、拾った棍棒を投げつけた。棍棒は、男の足首にからまるように転がりこんで、男は顔から麦の中へ倒れた。


ほんの、いくつか数えるあいだのことだった。


麦畑の真ん中の道に、八人の荒くれ者が、ひとり残らず転がっていた。

四人の黒い服の男たちは、誰ひとり、剣を抜いていなかった。

ガルドは、土に頬を押しつけられたまま、その光景を見ていた。


黒い服。


金の糸の刺繍。


どこかで、聞いたことがあった。北の国の、いちばん強い騎士たちの話を。



********



ガルドも、仲間たちも、それぞれが縄で縛り上げられた。

黒髪の男、セドリックと呼ばれていたその男が、縛り上げた男たちの顔を、ひとりずつ確かめて歩いた。

それから、金髪の男のそばへ戻って静かに報告した。


「昨夜、エステリア兵に引き渡したやつらとは、ちがいます。見た顔は、ひとりもいません」


「くそっ、ほどけ!てめえら、どこの犬だ!」


縛られた男のひとりが、わめいた。

銀灰色の大男、マティアスが、そいつの脇腹を靴の先で軽く蹴った。男は、うめいて、黙った。


「やはり、ほかにも仲間がいるようですね、隊長」


マティアスが、そう言った。


隊長。


ガルドは、ひきつった顔で、金髪の男を見上げた。


この、女みたいな顔をした若造が。


金髪の男、ジェフリーは、縛られて地面に座らされたガルドの前に、ゆっくりとかがみこんだ。

目の高さが、同じになった。


近くで見ると、なおさら、作り物のように整った顔だった。そして、なおさら、その青い目には温度がなかった。


「ノアの母親は、どこにいる」


「あ?ノア?」


「お前たちが、支払いだと言ってさらっていった母親のことだ。どこにいる」


ガルドは、口の端をゆがめた。


わかった。

こいつらは、ノアが呼んできたのだ。あのガキ、恩を仇で返しやがって。

絶対に、許さねえ。


ガルドは、黙って、地面に唾を吐いた。


「……そうか。言わないのか」


ジェフリーは、そう言うと、すっと立ち上がった。


次の瞬間、ガルドの肩を、靴の裏で蹴り飛ばした。


縛られたままの体が、横ざまに地面へ倒れた。起き上がろうとした頭を、黒革の編み上げ軍靴が、上から踏みつけた。


頬が、乾いた土にめりこんだ。


「ぐっ……」


頭の上に、重みがかかった。

ゆっくりと、少しずつ、重くなっていく。

こめかみの骨が、きしむ音が、自分の耳の内側で聞こえた。


「が……あ、あ……っ」


「もう一度聞く」


頭の上から、声が降ってきた。

怒鳴り声ではなかった。息ひとつ、乱れていなかった。


「ノアの母親は、どこだ」


「し……しらねぇよ……」


重みが、また増した。

ぎしり、と、骨が鳴った。


「ほ……ほんとうに……しらねぇ……っ」


しばらく、そのままだった。

麦畑を渡る風の音と、ガルドのうめき声だけが、続いていた。


やがて、ふっと、頭の上の重みが消えた。


ジェフリーは、足を下ろして、体を起こした。

ガルドは、土の上で、荒い息をついた。助かった、と思った。


「俺は、サルヴィアの黒騎士だ」


ジェフリーが言った。


「エステリアの兵ではない」


鞘走りの音がした。


ガルドの目の前に、銀色の光が走った。


抜き放たれた剣が、ガルドの鼻先、指一本分も離れていない地面に、深々と突き立てられた。


刃が、ガルドの目に映った。


「本来なら、このまま、お前たちをエステリアの兵に引き渡すのが筋だ。だが」


ジェフリーは、突き立てた剣の柄に、片手を置いた。


「戦いのさなかに、相手の腕を斬り落としてしまった、という話は、よくあることだ。賊の体の一部が、多少足りなくなっていたところで、誰も不思議には思わないだろう」


青い目が、ゆっくりと動いた。


ガルドの右の肩。肘。手首。

それから、左の膝のあたりで、止まった。

どこから斬るかを、選んでいる目だった。


その意味がわからないほど、ガルドも愚かではなかった。


「わ、わかった!」


喉が裂けるような声が出た。


「わかった、全部話す!話すから、待ってくれ!」


ジェフリーは、黙ってガルドを見下ろしていた。


それから、剣の柄を握ったまま、もう一度、ゆっくりとしゃがみこんだ。

ガルドの目を、のぞきこんだ。


近くで見たその目は、底の見えない冬の湖だった。


冷たかった。人をさらって売ることも、子どもの腹に煮えた粥をかけることも、何ひとつ恐ろしいと思ったことのなかったガルドの背筋が、ぞくりと凍った。


これが、人を見る目なのか。


「あ……あの女は、もう、昨日のうちに、いねぇんだ」


声が、勝手に震えた。


「だから、俺たちは、ほんとに知らねぇ。ロランの旦那が、ほかの女と一緒に連れていっちまった」


「ロラン?」


「エ、エステリアの兵士の旦那だよ。副業だっつって、アジールに女や子どもを売り渡してる。俺たちだって、ロランの旦那ににらまれたら、このあたりじゃ生きていけねぇ。見逃してもらうかわりに、金か女を、用意しなきゃならねぇんだ」


ジェフリーは、しばらく黙っていた。


それから、地面から剣を引き抜いて、鞘に収めた。

怯えて縮こまるガルドを見下ろしたまま、立ち上がった。


セドリックが、麦畑の向こうに目をやりながら、低くつぶやいた。


「領主の館に、エステリアの兵……。ダリアの闇は、思っていた以上に深いですね」


ジェフリーは、目を細めた。


この土地のエステリア兵は、もう、信用できない。


昨夜、引き渡した男たちも、本当に牢に入れられたのかどうか、わかったものではなかった。この荒くれ者たちを、このあたりの兵に預けるわけにはいかない。


エステリアの兵を、エステリアの中で裁ける者。

そうなると、頼れる人は、ひとりしかいなかった。


ジェフリーは、来た道のほう、野営地のある川の方角を黙って見やった。

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