27. 片付ける日
※この話には、暴力・虐待、および性的被害を想起させる表現があります。直接的な描写は避けていますが、苦手な方はご注意ください。
「あいつらは、おひさまがてっぺんにのぼったあとにしか起きてこないよ。ずっと夜まで、お酒のんでるから」
ゆうべ、焚き火のそばでノアが言った言葉だった。
ダリアの騎士は、昼過ぎまで寝ている。
話を聞けば聞くほど、それが騎士などではなく、ただの荒くれ者だということがはっきりしていった。
夜が明けるころには、ジェフリーはもう身支度を終えていた。
幌馬車の脇に積んだ木箱の上に、一枚の地図をひろげる。ゆうべのうちに、ノアの話をもとにマティアスが書き起こしたものだった。村の位置、荒くれ者たちが通る道、見張りの立つ場所。インクのにじんだ線を、ジェフリーは指でたどっては止め、また別の線をたどった。
そのとき、地図の端に、ことりと木の杯が置かれた。
湯気が、細く立ちのぼっている。花の茶の、やわらかな香りがした。
顔を上げると、アヤが立っていた。
「おはようございます、ジェフリー様。昨夜は、ちゃんとお休みになられました?」
ジェフリーは、思わず苦笑しそうになった。
マティアスとの打ち合わせを終えて寝床に横になったところまでは、覚えている。次に目を開けたときには、もう空が白みはじめていた。横になった瞬間に、眠りに落ちていたらしい。
「……はい。よく眠りました」
「それはよかったです」
アヤは、ほっとしたように微笑んだ。
「ところで、朝はもう何か召し上がりました? まだでしたら、麦粥をお作りしましょうか」
アヤの肩ごしに、幌馬車のそばで、ノアが木のたらいの水で顔を洗っているのが見えた。眠そうに目をこすり、水を跳ねかしては、ぶるぶると首を振っている。
おそらく、ノアの朝食を用意するついでに、声をかけてくれたのだろう。
「そうですね。では、麦粥にミルクをまぜていただけますか。量は、器の半分でかまいません」
「ミルク……ああ、粉のミルクですね。そういえば、ありましたわ。わかりました、すぐに用意いたします」
アヤは小さくうなずいて、食料の木箱が積んであるほうへ歩いていった。
ジェフリーは、地図の端に置かれた器を手に取った。
口もとまで運びかけて、手が止まった。
――女性から差し出された杯を、こうして口にするのは、いつ以来だろう。
ずいぶん昔のことのように思える。
かつて、ある女性から杯を受け取ったことがあった。何の疑いもなく、それを飲んだ。中には、体の自由を奪う薬が入っていた。自分を陥れるための杯だった。
あの日から、「氷の騎士」という名が、ジェフリーの背中についてまわるようになった。
それ以来、女性から個人的に差し出される飲み物や食べ物は、どんなものであれ、手をつけないようにしてきた。礼を欠くとわかっていても、断ってきた。
ただ、例外があった。
エステリアの王宮で口にした、あの蜂蜜のスコーン。そして今、手の中にあるこの花の茶。
アヤが差し出すものには、はじめから、そういう禍々しいものが入りこむ余地がない。
理由はわからない。ただ、そう感じる。それが、自分でも不思議だった。
「……俺も、ずいぶん変わったものだな」
誰にともなく、小さくつぶやいた。
朝の支度のざわめきを聞きながら、ジェフリーはゆっくりと花の茶を飲んだ。
温かさが、喉の奥から胸へ、静かに落ちていった。
********
麦粥の鍋を火にかけながら、アヤはつくづく感心していた。
黒騎士たちと旅をするようになって、驚いたことがある。幌馬車に積まれている食料の多さと、その種類だ。王宮の図書館であれほど本を読んできたアヤでさえ、知らないものがいくつもあった。
乾かした麦はもちろん、乾かしたとうもろこしに、野菜に、果物。薄いパイ生地のような、干した芋まである。バターやミルクまでもが、粉にして袋に詰められていた。
それだけではない。塩で干した肉や魚があり、壺に詰めた練りものの調味料があり、香辛料が山のようにある。まるで、軍の厨房をそのまま干からびさせて、幌馬車に詰めこんできたかのようだった。
馬の飼い葉にも、工夫があった。
最初の野営の晩、馬の餌桶から嗅ぎなれない匂いがして、馬の世話をしている黒騎士に訊いてみたことがある。いつもの飼い葉に、亜麻の種と塩、それに海のものを干して砕いた粉がまぜてあるのだという。馬の様子を見ながら、干し草を多めにしたり、豆の粉や塩を足したりもする。
「馬も、俺たちと同じだけ大事な仲間ですから」
その黒騎士は、当たり前のことのようにそう言った。
人の体を立て直すのは、薬ではなく、よい食事と眠りだ。エステリアでも、それは誰もが知っていることだった。それを遠征の先々で、ここまで当然のように守り通している軍があるとは、アヤは思ってもみなかった。
サルヴィアの軍は、なぜあれほど強いのか。
長い遠征のあいだも刃の鋭さを落とさずにいられる、その秘密のひとつは、こういうところにあるのかもしれない。
アヤは、鍋の中の麦粥をゆっくりとかきまぜながら、そう思った。
「さて、粉のミルクは、どれだったかしら……」
粉をすくうための木の匙を手に、食料の袋をひとつずつ確かめていたアヤの足が、止まった。
「あら。二種類もあるわ」
木箱の陰に、膝の高さほどもある大きな麻袋が、二つ並んでいた。ひとつの袋の口には「脱脂粉乳 / Skim Milk Powder」、もうひとつには「全粉乳 / Whole Milk Powder」の札が下がっている。
ジェフリーの言っていたミルクは、どちらなのだろう。
二つの袋の前にしゃがみこみ、札を見比べながら、アヤが首をかしげていると――
すぐ後ろで、どさり、と重いものが落ちる音がした。
振り向いて、アヤは息をのんだ。
マティアスが、肩にかついでいた雄鹿を、地面に下ろしたところだった。二、三歳ほどの、まだ若い雄鹿だ。立派に伸びはじめた角が、朝の光を受けて鈍く光っていた。
「見回りをしていたら、森からはぐれたのか、街道に出てきていましてね。せっかくなので、若い連中に食わせてやろうと思いまして」
マティアスは、背中に負っていた弓を軽く持ち上げてみせた。
「マティアス様は、弓もお使いになるのですね」
「騎士とはいっても、剣だけが武器ではありません。たいていの者は、剣のほかにもう一つ、二つは使えます」
そう言ってから、マティアスは、ただし、と付け加えた。
「中には、剣一本でじゅうぶんに強い騎士もおりますがね」
マティアスの視線の先を、アヤも追った。
木箱の上の地図の前で、ジェフリーが、ほかの騎士の報告を聞いていた。うなずきながらも、目は地図から離れない。ときおり指で線をたどっては、何かを考えるように、その指を止めている。
アヤは、しばらくその横顔を見ていた。それから、足もとの二つの麻袋のことを思い出した。
「あの、マティアス様。ひとつ、おたずねしてもよろしいでしょうか」
「はい、なんなりと」
「実は、ジェフリー様から、朝の麦粥に粉のミルクを入れてほしいと言われておりまして。でも、ここには二種類あるのです。わたくし、こういったものには詳しくなくて……こういう場合は、どちらを入れればよろしいのでしょう」
マティアスは、二つの麻袋の札を、見比べた。
「隊長は、麦粥をどのくらいよそうようにと?」
「ええと……たしか、器に半分ほど、と」
それを聞いて、マティアスはひとつ、うなずいた。
「それでしたら、全粉乳のほうです。量を抑えても、腹を重くせずに力がつきますから。……今日は、片付ける日ですからね」
アヤは、まばたきをした。
片付ける日。
野営の片付けのことだろうか。それなら、なぜ食事の量の話につながるのだろう。
アヤの顔に浮かんだ問いに気づいたのか、マティアスは、ああ、そうか、という顔をした。
「片付ける日、というのは、まあ……敵をつぶす、という意味です。我々黒騎士の、隠語のひとつでして」
アヤの指が、木の匙の柄を、きゅっと握った。
――そうだった。
彼らは、黒騎士なのだ。
ここまでの旅のあいだ、彼らは水を汲み、火を起こし、馬の世話をし、アヤとともに龍の涙の手がかりを追ってきた。だから、つい忘れそうになっていた。その同じ手で、剣を取る人たちなのだということを。
騎士というからには、血の流れる戦いのほうが、ずっと多いのだろう。
そして、その先頭に立つのは、隊長であるジェフリーだ。あの人の性分を思えば、誰かをかばって、一番危険な場所へ自分から立とうとする姿は、たやすく目に浮かんだ。
いつか、青の部屋で見た、ジェフリーの顔を思い出す。
あのときアヤは、この青年は、大切なものを守るためなら、いつでも自分の命を差し出してしまう人なのだと感じた。
今日も、無事に帰ってきてくれればいいのだけれど――
匙を握るアヤの手が、少しだけ白くなっていた。
マティアスは、そんなアヤの顔をしばらく見ていた。それから、大きな体に似合わない、やわらかな声で言った。
「ご安心ください、アヤ様。あなたに危害がおよぶようなことには、なりません。ここでノアと一緒にいてくだされば、我ら黒騎士が必ずお守りいたします」
アヤが何か答えようとした、そのときだった。
「うわあっ!」
甲高い子どもの声が、野営地に響いた。
「すっごい、シカだ! ねえ、これ、もう死んじゃってるの?」
いつのまにか、ノアが雄鹿のそばにしゃがみこんでいた。顔を洗ったばかりの前髪から、まだ水がぽたぽたと垂れている。こわごわと、指先で鹿の毛並みをつついていた。
マティアスが、ノアのほうへ振り返った。
「そうだ。俺が、一発でしとめた」
「え!? おじさんが!?」
ノアの目が、まんまるになった。
マティアスは、ノアの頭に、大きな手をぽんとのせた。
「今夜はごちそうだぞ。今日一日、おとなしく、いい子にしていたら、いっちばんうまいところを食わせてやる」
「やったあ!」
ノアは、両手を突き上げて跳びはねた。
その姿を見ていたら、アヤの指から、すっと力が抜けた。握りしめていた匙の柄が、手のひらの中でゆるんでいた。
マティアスは、少し離れたところにいたエミールとテオを呼んだ。
「お前たち、鹿はさばけるか」
エミールとテオは、顔を見合わせた。
「一応、基礎の訓練で、教わりはしましたが……」
「よし。なら、これはお前たちに任せる。さばいたら、肉の半分は塩と酒に漬けておけ。明日、火を入れて燻製にする」
二人は、わかりました、と返事をして、鹿の脚をそれぞれ抱えた。
そのうしろから、ノアがちょこちょこと追いかけていく。
「ねえねえ、おいらも見ててもいい?」
「邪魔だけは、するなよ」
テオにぶっきらぼうに言われても、ノアはまったく気にしていなかった。二人のあいだに首を突っこむようにして、その後をついていった。
アヤは、全粉乳の袋の口をほどいて、木の匙でひとすくいした。それから、そっと笑って、麦粥の鍋のほうへ戻っていった。
********
地平線から日がすっかりのぼり、野営地に朝の空気が満ちてきたころ。
街道の向こうから、黒い馬が一頭、近づいてきた。
ジェフリーは、地図から顔を上げた。
昨日、ダリアへ偵察に出したセドリックだった。
セドリックは馬を下りると、まっすぐジェフリーの前まで歩いてきた。夜通し駆けてきたのだろう。馬の首には汗が白く浮き、セドリック自身の顔にも、疲れの色がうっすらとにじんでいた。
それに。
ジェフリーの目が、ほんのわずかに動いた。
セドリックは、黒騎士の外套を着ていなかった。
「予定より、早く終わりました。……え?」
報告しかけたセドリックの言葉が、途中で止まった。
その目が、ジェフリーの肩ごしの、ある一点に釘づけになっていた。
鹿をさばくエミールとテオのあいだで、見知らぬ子供が、何やらにぎやかにしゃべっていた。
「……子供?」
ジェフリーは、どこから説明したものかと、少しのあいだ考えた。考えたうえで、結局こう言った。
「まあ……いろいろあってな」
セドリックは、それ以上は訊かなかった。
「状況は」
「はい」
セドリックは、ノアから目を離して、ジェフリーに向きなおった。
「昨日、ダリアの町から離れたのは、正解でした。やはり、あのとき家の中からこちらを狙っていたのは、俺たちだったようです。……ただ、狙った理由が、妙です」
「理由とは」
「ダリアの護衛を、討つと。そう言っていました」
ジェフリーとマティアスが、顔を見合わせた。
その様子を見て、セドリックが眉を寄せた。
「……隊長たちは、何かご存じなのですか」
マティアスが、野営地の向こうのノアのほうを、顎で示した。
「昨日、あそこにいる子供……ノアが、隊の水桶を盗みにきた」
「水桶を? 何のために」
ジェフリーが、言葉を継いだ。
「ダリアの騎士が、護衛の支払い代として要求しているそうだ。ノアの話では、支払いの期限は昨日だった。払えなかった村には、今日、そいつらが取り立てに来る」
セドリックの目が、見開かれた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「それは……おかしいです」
「何がだ」
「隊長のおっしゃる騎士が、俺の見た連中と同じなら」
セドリックは、言葉を選ぶように、一度、息を吸った。
「そいつらは、昨日のうちに、俺がエステリアの兵に引き渡しています」
三人とも、黙りこんだ。
野営地の向こうで、ノアのはしゃぐ声だけが、場違いなほど明るく響いていた。
********
昨日、一行と別れたその足で、セドリックはダリアの村をいくつか回っていた。
誰ひとり、近づいてこようとはしなかった。
畑で鍬をふるっていた男は、セドリックの黒い外套が目に入るなり、鍬を放り出して家へ駆けこんだ。井戸端で話していた女たちは、水桶をその場に残したまま、ちりぢりに散っていった。道で遊んでいた子どもは、飛び出してきた母親に腕を引っぱられ、戸口の奥へ消えていった。
声をかけようにも、かける相手がいない。
セドリックは、小さく息を吐いた。村がだめなら、町だ。人の集まるところには、人の口がある。
ダリアの中心の町は、昼だというのに、しんと静まりかえっていた。
通りに人の姿はほとんどなく、どの家も窓を閉ざしている。宿屋の看板は潮風に削られて、描かれた文字がもうほとんど読めなかった。
セドリックは、何気ない顔で、宿屋の扉を押した。
一階の酒場に、足を踏み入れた瞬間だった。
その場にいた全員が、凍りついた。
木の杯を口へ運びかけていた男の手が、止まった。卓の上で賭け札を配っていた手が、止まった。店の奥でかちゃかちゃと鳴っていた皿の音までが、ぴたりと止んだ。
いっせいに向けられた視線は、怪訝そうで、警戒に満ちていて――いや、それだけではなかった。
憎しみだった。
「……宿は、ないよ」
帳場の男が、セドリックの顔を見ないまま言った。
男の背中の板壁には、部屋の鍵を掛けておく釘が、横一列に打ちつけてあった。どの釘にも、鍵がひとつ残らず掛かったままだった。
「部屋は、空いているように見えるが」
「ないって、言ってるんだ」
男の右手が、帳場の台の下へ、ゆっくりと伸びていた。そこに何があるのか、おおよその見当はついた。
セドリックは、それ以上は何も言わずに、背を向けた。
ただし、町を出たわけではなかった。
宿屋の裏手は、空の酒樽を積み上げた、細い路地になっていた。セドリックは樽の陰に身を沈め、酒場の裏口の板壁に、そっと背中をあずけた。
斥候の仕事は、正面から訊いて答えてもらうことではない。人が、誰にも聞かれていないと思っているときにこぼす言葉を、拾うことだ。
しばらくすると、板壁の向こうから、押し殺した声が聞こえてきた。若い男の声が、三つか、四つ。
「……見たか、今の」
「黒い外套だ。さっき、町の手前で引き返していった連中と、同じだ」
「十五、六人はいたぞ。幌馬車まで引いて」
「若様が、また新しい護衛を雇ったんだ。今度は、よそから」
「殿様が、あれほどお止めになってるのに。若様は、殿様の言うことなんか聞きゃしねえ」
「冗談じゃねえ。今の騎士どもだけでも、村はもう干上がってるってのに。あんなのが十五人も増えたら、今度は村ごと持っていかれる」
しばらく、誰も、何も言わなかった。
それから、いちばん低い声が言った。
「……やられる前に、やる」
「本気か」
「本気だ。あいつらが町に入ろうとしたとき、窓から狙ったのは、俺だけじゃない。おまえもだろう。あのときは向こうが引き返した。次は、こっちから行く。寝静まったころを見はからって、野営に火をかける」
「ダリアの護衛を、討つ。……これ以上、殿様にご心配はかけられねえ。俺たちで、やるんだ」
セドリックは、樽の陰で目を細めた。
――ダリアの護衛。
その言葉を、胸の中で転がした。
若者たちの話しぶりでは、村を干上がらせている者たちがいて、民はそれを『護衛』と呼んでいる。雇い入れたのは『若様』だという。黒騎士の一行も、その新しい顔ぶれだと思われているのだ。
若様。この土地で、そう呼ばれる者がいるとすれば、領主か、その跡継ぎだろう。
領民を干上がらせる者を、領主が、自分の手で雇い入れる。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
それに、もうひとつ。若者たちの声は、「若様」と口にするときには吐き捨てるようだったのに、「殿様」と口にするときだけ、ふっとやわらいでいた。
この土地の民は、「殿様」と呼ぶ誰かを、ずいぶん頼りにしているらしかった。
セドリックは、足音を立てずに路地を抜けた。
隊長の判断は、正しかった。あのまま一行が町へ入っていたら、何も知らない民を相手に、剣を抜かされていたかもしれない。
********
路地を抜けたとき、日はまだ、空の高いところにあった。
セドリックは、そのまま町から少し離れた村へと足を向けた。若者たちの言っていた「村はもう干上がっている」という言葉が、どうしても耳から離れなかったのだ。
村の麦畑は、ひどいありさまだった。
穂の出そろわない麦のあいだに、雑草が腰の高さまで伸びている。ところどころで麦が根こそぎ踏み倒され、まるで獣が転げまわったような跡ができていた。
セドリックは、その跡のそばにしゃがみこんだ。
土の上に、蹄の形がくっきりと残っていた。蹄鉄を打ちつけた、釘の跡までが見えた。
獣ではない。人が、馬に乗ってわざと荒らしたのだ。
日が西へ傾きはじめたころ、村の道に、蹄の音が響いた。
現れたのは、鎧をつけた男が四人。四人は畑をよけようともせず、実りかけた麦を馬の脚で踏みつけながら、村の中へ入ってきた。
セドリックは、背の高い麦の中に身をかがめた。
昼のあいだ、誰ひとり通らなかった道だった。
近くの家々の窓が、ひとつ、またひとつと、閉じられていく音がした。
男たちは、村の中ほどにある、ほかよりいくらか大きな家の前で馬を止めた。村をまとめる者の家なのだろう。
いちばん体の大きな男が、戸口の前で怒鳴った。
「今月の支払いを、受け取りに来た!」
その声が、静まりかえった村じゅうに響いた。
「今月はどっちだ? カネか? 女か?」
――カネか、女か。
それだけで、十分だった。こいつらは、騎士の鎧を着た賊だ。
しばらくして、戸口が開いた。
出てきたのは、がっしりした体つきの男だったが、鎧の男と並んで立つと、ずいぶん頼りなく見えた。男は戸口の柱に片手をかけていた。そうしていないと、膝が震えてしまうのかもしれなかった。
「支払いは、できない」
男は、かすれた声で言った。
「毎日のように畑を荒らされて、自分たちの食いぶちさえ、ままならないんだ。ほかに渡せるカネなんて、どこにもない」
「払えないだと?」
大男は、鼻で笑った。
兜の下からのぞく顔は、日に焼けて脂ぎり、あごには伸び放題の髭がある。鎧はところどころ錆びつき、胸の紋章は、刃物で削り取られたように傷だらけだった。
「畑を荒らされて、だ? だから俺たちが、盗人から守ってやってるんだろうが。守り代も払わねえで、守ってもらえると思うなよ」
うしろの男のひとりが、くっくと喉を鳴らして笑った。
セドリックは、麦の陰で、さっき見た蹄の跡を思い出していた。
盗人から、守る。――その盗人が、いったい誰なのか。
「なら、話は早い。今月は、女だ」
戸口の男の顔から、すっと血の気が引いた。
「待ってくれ。それだけは」
「おまえの家に、ちょうどいい年頃の娘がいたろう。去年の収穫祭で、麦の冠をかぶってたやつだ。……あの腰つきは、なかなかだった」
うしろの三人が、げらげらと笑った。まだ日も暮れないうちから、どの男からも、酒の匂いがぷんぷんしていた。
「俺は、あの娘の姉のほうがいいな。去年、隣の村に嫁いだっていう」
「ばか。嫁いだ女は、旦那がわめいて面倒だ」
大男が、仲間の兜を拳で小突いた。
「娘のほうが静かでいい。泣くだけだ」
また、笑い声があがった。
ここで出ていけば、黒騎士がダリアにいることを、自分から知らせることになる。斥候の仕事は、見て、聞いて、持ち帰ること。それ以上でも、それ以下でもない。
セドリックは、自分にそう言い聞かせた。
麦の茎を握る指に、知らず知らずのうちに、力がこもっていた。
「どけ」
大男が、戸口の男の胸を蹴り飛ばした。
男は土の上に転がった。起き上がろうとしたところを、別の男に背中を踏みつけられる。鉄の靴底が、背骨の上でぎしりと鳴り、押しつぶされたようなうめき声がもれた。
家の奥から、女の悲鳴が聞こえた。
大男が、家の中へ踏みこんでいった。皿の割れる音がした。椅子の倒れる音がした。母親らしい女の金切り声が、頬を張られる乾いた音とともに、ぶつりと途切れた。
しばらくして、大男は、少女の髪をつかんで戸口から引きずり出してきた。
十五か、六か。栗色の髪が男の拳に巻きつけられて、根元から引きつれていた。
「お父さん!」
「離せ! 娘を離してくれ!」
踏みつけられたまま、父親が叫んだ。背中の靴に、さらに重みがかけられる。叫びは、咳きこむような息に変わった。
大男は、少女を地面に突き倒した。そして、その上にかがみこんだ。
「泣くな泣くな。ひと月、俺たちの砦で酒の相手をすりゃあ、帰してやる。……もっとも、帰ってくるころには、村の男なんかじゃ物足りなくなってるだろうがな」
大男の手が、少女の襟元をつかんだ。
布の裂ける音がした。
少女の肩が、白くあらわになった。少女は両腕で胸を抱きこみ、身をよじった。
「やめて……やめて、ください……」
「ほら見ろ、肌が白い。麦畑の娘にしちゃ、上等だ」
男たちが、口笛を吹いて囃したてた。
「砦まで待つ気かよ」
「待つわけねえだろう。味見だ、味見。……砦まで、我慢なんかできるかよ」
大男の手が、今度はスカートの裾をつかんだ。少女は土を蹴って後ずさりしようとしたが、別の男に足首を押さえつけられた。
近くの家々の窓は、ぴたりと閉ざされたままだった。
誰も、出てこない。
出てこられないのだと、セドリックにはわかった。この村の人々は、もう何度も、この音を窓の内側で聞いてきたのだ。
ふっと、故郷の妹の顔が浮かんだ。
年の離れた妹だった。仕送りをして、いつか嫁に出してやると決めている妹。あの子も、今年でちょうど、この娘くらいの年になる。
――見て、聞いて、持ち帰ること。
セドリックは、腰の短剣の柄を握った。
……隊長なら、どうするだろう。
答えは、考えるまでもなかった。
あの人は、自分の首が飛ぶとわかっていても、目の前で泣いている者を見捨てない。そして、こういう男たちに、二度目を許さない。
麦の穂が、かすかに揺れた。
少女の裾を引き裂こうとしていた大男が、ふと顔を上げた。
「……なんだ?」
次の瞬間、大男の手首に、拳ほどの石がめりこんだ。
骨の砕ける、湿った音がした。
大男の手首は、ありえない向きに折れ曲がっていた。獣のような叫び声をあげて、大男は少女の上から転がり落ちた。
「誰だ!」
残りの三人が剣を抜いたときには、もう遅かった。
麦畑から飛び出した黒い影は、音もなく、少女の足首を押さえていた男の懐に入りこんでいた。短剣の柄が、男の脇腹に深く沈む。肋骨の折れる手ごたえがあった。男は胃の中の酒を吐き散らしながら、前のめりに崩れ落ちた。
二人目が、剣を振り下ろしてきた。
セドリックは、半歩、横にずれただけだった。空を切った剣の勢いのまま、男の体が前へ泳ぐ。その肘を外側からつかみ、逆へ押し上げた。関節の外れる鈍い音がして、男の手から剣が落ちた。悲鳴をあげかけた喉もとに、手刀を叩きこむ。男はひゅう、と笛のような息をもらし、白目をむいて倒れた。
三人目は、父親の背中を踏みつけていた男だった。
男は剣を構えたまま、一歩、二歩と後ずさった。セドリックの黒い外套と、胸もとにのぞく黒騎士の徽章を目にして、その顔が引きつった。
「く、黒騎士……!? なんで、サルヴィアの黒騎士が、こんなところに」
セドリックは、答えなかった。
ただ、まっすぐに歩いて、男に近づいていった。
男は、叫び声をあげて斬りかかってきた。セドリックは振り下ろされる腕の内側へ踏みこみ、男の手首をつかんでひねり上げると、そのまま男の顔を、家の壁に叩きつけた。
鼻の折れる音がした。壁に、赤い筋が一本、引かれた。
男は壁をずるずるとすべり落ちて、それきり動かなくなった。
手首を押さえてうずくまっていた大男が、脂汗と鼻水を垂らしながら、セドリックをにらみ上げた。
「てめえ……俺たちが誰だか、わかってやってんのか。俺たちは、ご領主様に雇われた、ダリアの護衛だぞ」
「護衛が、守るはずの民を襲うのか」
セドリックは、短く言った。
大男は、口をつぐんだ。それから、血のまじった唾を、セドリックの靴に吐きかけた。
「……うるせえ」
折れていないほうの手が、腰の短剣へ伸びた。
セドリックは、その手を靴で踏みつけた。そして、ゆっくりと重みをかけていった。
さっき、この男の仲間が、少女の父親にそうしていたのと、同じように。
指の骨が、一本ずつ、鳴った。大男の悲鳴が、麦畑じゅうに響きわたった。
「……あの娘が、同じように、やめてくれと言ったとき」
セドリックは、静かに言った。
「おまえは、やめたか」
大男は、答えられなかった。
セドリックは、その顎を蹴り上げた。大男は仰向けに倒れ、それきり静かになった。
戦場なら、躊躇する必要はなかった。
武器を向けた相手を、生かしておく理由もない。
それでも、セドリックは短剣を抜かなかった。
ここは戦場ではない。
そして、ここはサルヴィアでもない。
この男たちを裁くのは、エステリアの法でなければならない。
隊長なら、きっとそう言う。
セドリックは、短く息を吐いた。
辺りが、しんと静まった。
地面に座りこんだ少女が、裂かれた襟元を両手でかき合わせ、がたがたと震えていた。
セドリックを見るその目は、さっきまで男たちを見ていたときと、ほとんど同じ色をしていた。黒い外套を着て、剣を持ち、男を叩きのめす者。少女には、今のセドリックもまだ、怖い男にしか見えないのだ。
セドリックは、自分の外套を外した。
少女には近づかなかった。少女の足もとの土の上に、外套をそっと置いて、それから背を向けた。
少しして、うしろで、外套を拾い上げる衣ずれの音がした。
セドリックは振り返らずに、背中を踏みつけられていた父親に、手を差し出した。
父親は、その手を取るべきかどうか迷うように、しばらく見つめていた。それから、おそるおそる握り返した。
「……あんたは」
「通りすがりだ」
「通りすがりの黒騎士が、こんな村にいるはずがない」
礼を言う声では、なかった。むしろ、怯えていた。
「こんなことをして……ただで済むはずがない。あいつらは、若様が雇った護衛なんだ。若様のお怒りを買ったら、この村がどうなるか」
「若様とは。ここの領主のことか」
父親は、苦いものを噛んだような顔で、うなずいた。
「若様が領主になられてから、ろくなことがない。盗人が出るようになったのも、あの護衛どもが来たのも、みんな、それからだ。……苗だの、パンだのと言われても、それで畑が戻るわけじゃない」
父親は、懐から小さな布袋を取り出した。
震える指で、中から乾いた葉を一枚つまみ出す。それを指の腹でもみほぐし、鼻先へ持っていって、深く息を吸いこんだ。
かすかに甘く、焦げたような匂いがした。セドリックの知らない匂いだった。
父親の指の震えが、少しずつおさまっていった。
「……殿様だけだ。わしらのことを、本当に気にかけてくださるのは」
ぽつりと、父親は言った。
「殿様が、この葉を分けてくださる。これがあれば、腹がへっても、つらくても、なんとか、明日も畑に出られる」
セドリックは、父親の手の中の、くしゃくしゃになった葉を見た。
何か言おうとして、やめた。言うべき言葉を、まだ持っていなかった。
セドリックは、倒れている四人を見下ろした。
「この近くに、エステリアの兵の詰所はあるか」
父親は、少しためらってから答えた。
「……街道沿いに、国境の巡回兵が寄る小屋がある。今日あたり、ちょうど回ってくるころだ」
「なら、引き渡す」
父親の目に、一瞬だけ、何かが浮かんだ。
希望のようにも、諦めのようにも見えた。
セドリックは男たちの剣帯を外し、その革紐で、四人の手足をきつく縛り上げた。
その間に、少女は父親に抱きかかえられて、家の中へ戻っていった。家の奥からは、母親のすすり泣く声が聞こえていた。
戸口が閉まる直前、少女がほんの一瞬だけ、こちらを振り返った。黒い外套を、肩からしっかりと巻きつけたまま。
何か言いたそうな顔のまま、少女は何も言わず、戸は閉じられた。
閉ざされていた近所の窓が、ひとつ、またひとつと、細く開いた。それでも、誰も外へは出てこなかった。窓のすきまから向けられる視線は、どれもセドリックを見ていた。
助けてくれた者を見る目では、なかった。
新しい厄介ごとを見る目だった。
日が西の海に沈みかけたころ、街道の向こうから、蹄の音が聞こえてきた。
エステリアの紋章をつけた巡回兵が、五騎。先頭にいるのは、三十を少し過ぎたほどの、口ひげをたくわえた男だった。
セドリックが事情を話すと、隊長は、縛られた四人を見下ろした。
手首と指の砕けた大男。壁に顔を打ちつけられて、鼻のつぶれた男。肘の外れた男。肋骨の折れた男。血と泥にまみれた四人を前にしても、隊長は眉ひとつ動かさなかった。
「ご苦労でした。サルヴィアの騎士殿が、わざわざこんな辺境まで。……あとは、我々が引き受けます」
巡回兵たちは、手際よく四人を馬の背に乗せ、縄でくくりつけた。
「この者たちは、どこへ」
「国境の砦の牢へ。取り調べのあと、しかるべき裁きを受けさせます」
隊長はそう言って、馬の腹を蹴った。
「ご安心を。二度と、この村には近づけません」
巡回兵の列が、街道を遠ざかっていった。縛られた四人を乗せた馬が、夕日の中で黒い影になり、少しずつ小さくなっていった。
セドリックは、その影が見えなくなるまで、街道に立ちつくしていた。
外套のない肩を、麦畑を渡ってきた夕風が、冷たくなでていった。
引き渡しは、終わった。
斥候としては、出すぎた真似をしたのかもしれない。それでも、あの村の娘が、今夜だけでも窓の内側で怯えずに眠れるのなら、それでいいと思えた。
セドリックは、振り返って、麦畑の向こうの村を見た。
家々の窓に、ぽつり、ぽつりと灯りがともりはじめていた。
民が「若様」と呼ぶときの、吐き捨てるような声。「殿様」と呼ぶときの、すがるような声。父親の指先で、くしゃくしゃになっていた乾いた葉。そして、町の若者たちが、いずれどこかの野営に火をかけようとしていること。
報告すべきことは、山ほどあった。
セドリックは、踵を返した。
馬を走らせれば、夜明けには、隊長のもとへ戻れるはずだった。
********
セドリックの話が終わっても、しばらく誰も口をひらかなかった。
野営地の向こうでは、エミールとテオが鹿をさばく手を止めずにいた。そのあいだでノアが何かを言っては、テオにうるさいと追い払われ、それでもまた首を突っこんでいる。にぎやかな声が、川風に乗って切れ切れに届いていた。
ジェフリーは、木箱の上の地図に目を落としたままだった。
指先が、ダリアの村々を結ぶ細い道を、ゆっくりとたどっていく。村から町へ。町から街道へ。街道から、さらにその先へ。
やがて、指が止まった。
「セドリック」
「はい」
「その巡回兵は、どの街道へ向かった」
セドリックは、ジェフリーの横に並んで、地図をのぞきこんだ。
夕日の中を遠ざかっていった五騎の影を、思い返しているのだろう。しばらく黙って地図の上の線を目で追ってから、指をのばした。
「村を出て、この道を西へ。それから、ここで街道に出て……」
指が、街道の線をたどっていく。
「ここから、ここまで。この方角へ」
言いながら、セドリックの指が、地図の端で止まった。
止まったまま、動かなかった。
セドリックは、何も言わずに顔を上げ、ジェフリーを見た。
ジェフリーも、セドリックを見ていた。
「……この先にあるのは」
ジェフリーは、地図の端に目を戻して、静かに言った。
「断崖絶壁だ」
国境の砦へ連れていく、と巡回兵の隊長は言った。
地図の上で街道が行き着く先には、砦らしきしるしはどこにもなかった。あるのは、海へ向かって切り立った崖と、その下で白く砕ける波を示す、細かな線だけだ。
もちろん、地図に載っていない砦が、ないとは言いきれない。地図はいつでも、土地のほうより少しだけ遅れている。新しく建てられた砦が、まだ描きこまれていないだけということもあるだろう。
それでも、ジェフリーにはどうしても腑に落ちなかった。
ダリアの国境は、アジールとの境だ。国境を守る砦を建てるなら、人や荷が行き来する陸の道に建てる。船もつけられないような断崖の上に、わざわざ砦を置く理由が見当たらない。
あるいは――船をつけられる場所が、どこかにあるのか。
ジェフリーは、地図から顔を上げた。
「アルベルト」
呼ばれたアルベルトが、幌馬車の向こうから顔を出した。手に、馬の毛を梳く櫛を持ったままだった。
「はいはい。お呼びですか、隊長」
軽い調子で近づいてきたアルベルトは、ジェフリーとセドリックの顔を見比べて、それから地図に目を落とした。口もとの笑みが、すっと消えた。
ジェフリーは、地図の端の断崖を指で示した。
「ここに何があるか、調べてきてほしい。ディーターを連れていけ」
「ディーター・ブラントですか」
「あいつは、目と足がいい」
ディーター・ブラントは、アルベルトと同じ年ごろの黒騎士だった。口数は少ないが、遠くのものを見分ける目と、山道でも息を切らさない足を持っている。
「ここに砦があるなら、それが本当にエステリアのものなのか、確かめてこい」
ジェフリーは、言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「砦と称して、賊のねぐらになっている可能性もある」
アルベルトは、地図から目を離さずにうなずいた。
そのとき、セドリックが口をひらいた。
「隊長。巡回兵の持っていた盾には、エステリアの花の紋章がありました。……見間違いでは、ありません」
ジェフリーの眉が、わずかに寄った。
花の紋章。エステリアの国旗にも描かれた、王家の紋だ。賊が鎧を拾って着ることはあっても、隊ごとそろいの盾を持つことは、そうはない。
「なら、もうひとつ確かめる必要がある」
ジェフリーは、アルベルトを見た。
「エステリアの兵が、賊の一味と組んでいないかどうかだ」
「……エステリアの兵が、賊の一味……?」
うしろから、思いがけない声がした。
振り返ると、アヤが立っていた。
両手で、湯気の立つ木の器を持っている。麦粥だった。ジェフリーのところへ運んできたところだったのだろう。器を持つ指先に、きゅっと力がこもっていた。
アヤの目が、ジェフリーから地図へ、地図からセドリックへ、そしてまたジェフリーへと動いた。
その場にいた誰もが、同じことを思った。
――厄介な聞かれ方をした。
アヤは、エステリアの第一王女だ。そのアヤの耳に、ダリアの民ばかりか、エステリアの兵までも黒騎士が敵と見なしている――そう聞こえたとしても、無理はなかった。
アルベルトが、気まずそうに櫛で首のうしろをかいた。セドリックは、黙って地図に目を落とした。
ジェフリーは、アヤのほうへ向きなおった。
「アヤ様。エステリアの兵を敵だと決めつけているわけでは、ありません」
ジェフリーは、まっすぐにアヤの目を見て言った。
「本当にそうなのかどうかを、確かめなければならないのです」
アヤは、しばらくジェフリーの顔を見つめていた。
それから、ゆっくりと木箱のそばへ歩み寄った。ジェフリーが飲みほした花の茶の器の隣に、麦粥の器を、そっと置いた。
器から手を離すと、アヤは背筋をのばした。
「ジェフリー様」
静かな声だった。震えては、いなかった。
「ダリアに何が起きているのか、わたくしは知らなければなりません。……そのことで、お話ししたいことがあるのです」
ジェフリーは、アヤの目の奥にあるものを見た。
それから、空を見上げた。
日は、もう地平線からずいぶん離れて、川面をまぶしく照らしていた。ノアの話では、ダリアの騎士たちが目を覚ますのは、日がてっぺんに昇ったあとだ。それまでに動かなければならない。
ジェフリーは、アヤに視線を戻した。
「申し訳ありません、アヤ様。お話をうかがう前に、急いでやるべきことがあります」
アヤは、何か言いかけた。
ジェフリーの顔を見て、その言葉をのみこんだ。小さくうなずいて、胸の前で両手を重ねた。
のみこんだ言葉のかわりに、耳の奥で、父の声がよみがえった。
――問題は、別のところにある。
王宮で、ミエとともにダリアについて父の話を聞いたときから、アヤには、どこかで何かが隠されているという思いがあった。貧しい領地のダリアへは、王都から支援が送られている。それなのに、民の手に届いていない。届くはずのものが、どこかで消えている。
エステリアの兵が、賊と組んでいるかもしれない。
ジェフリーのその言葉で、ばらばらだった父の話の切れ端が、ひとつの方向を向きはじめたような気がした。
――やはり、そうなのかもしれない。
アヤは、重ねた両手に、静かに力をこめた。
ジェフリーは、セドリックのほうを向いた。
「これから、賊を生け捕りにしに行く。……動けるか」
夜通し馬を走らせてきたばかりの男に訊くことではない。それは、訊いたジェフリーがいちばんよくわかっていた。
セドリックは、ためらわなかった。
「問題ありません。行けます」
ジェフリーは、セドリックの顔をしばらく見ていた。目の下に、うっすらと影がある。それでいて、その目そのものは、少しも濁っていなかった。
「わかった」
ジェフリーは、地図の上に手を置いた。
「賊を押さえるのは、俺とマティアス、セドリック、テオ。砦へ向かうのは、アルベルトとディーターだ」
セドリックは、昨日、巡回兵の隊長に顔を見られている。砦に巡回兵がいるなら、セドリックを向かわせるのは危うい。だからセドリックは、こちらに残す。
「グスタフ」
呼ばれたグスタフ・レンツが、すぐにやってきた。
「おまえは、残りの者とここに残れ。アヤ様とノアを守ってくれ」
「承知しました」
「万が一、ここを攻めてくる者がいたら、生け捕りにしろ。殺すな」
ジェフリーは、ちらりと川のほうを見た。
「それから、アヤ様とノアは、川に近づけるな。幌馬車のそばから離さずに守れ」
グスタフは、無言で深くうなずいた。
テオは、まだ新人だ。
この旅のあいだ、ジェフリーは、そのテオの動きに、何度か目を留めていた。
野営の場所が決まると、誰に言われるでもなく、あたりをひと回りする。風の向き。地面の湿り気。倒木の位置。誰がどの焚き火で、どの鍋を使い、何を燃やしているのか。
一度見たものを、妙によく覚えていた。
夜の見張りのあいだ、誰がどこで眠っているのかを、足音だけで言い当てたこともある。
そして、わからないものを、わかったふりをして決めつけない。
昨日、ダリアの町の手前で隊を止めたときも、そうだった。
アヤを幌馬車に乗せ、そのそばにつかせたテオは、剣の柄には手をかけず、ただ目だけを動かしていた。
通りに面した窓を、ひとつずつ。
閉じた戸口を、ひとつずつ。
何かがいると決めてかかる目ではなかった。
何があるのかを、見ようとする目だった。
ジェフリーは、もう一度セドリックを見た。
「セドリック。おまえは、テオと組んで動け」
セドリックの目が、ほんのわずかに動いた。
何も訊かずに、「はい」とだけ答えた。
ジェフリーは、地図から顔を上げると、野営地じゅうに届く声で言った。
「全員、聞け」
鹿をさばいていたエミールとテオが、手を止めた。馬の世話をしていた者が、振り返った。焚き火のそばにいた者が、立ち上がった。
「今日は、片付ける。……腹を重くするな」
それだけだった。
黒騎士たちには、それで十分だった。誰も聞き返さなかった。ある者は手にしていたパンを半分に割って片方を袋に戻し、ある者は器の麦粥を半分だけすくって残りを鍋へ返した。
アヤは、その様子を黙って見ていた。
片付ける日。マティアスに教わったばかりの言葉だった。木箱の上に置いた麦粥の器は、ジェフリーに頼まれたとおり、器の半分だけよそってあった。
アヤは、重ねた両手を、そっと握りしめた。
その輪の中で、ひとりだけ、肩を落としている者がいた。
エミールだった。
討伐に向かう者の名前の中に、自分の名がなかった。それを聞いた瞬間から、鹿の脚を押さえる手が、どこか投げやりになっている。テオが斥候のセドリックと組むと聞いたときには、唇をきゅっと結んで、うつむいた。
マティアスは、その横顔に気づいていた。
鹿の脇にしゃがみこむと、マティアスは、血に濡れたエミールの手もとをのぞきこんだ。
「筋の切り方が、うまいな」
エミールは、返事をしなかった。
マティアスは、気にしたふうもなく続けた。
「エミール。この野営地はな、襲われたら最後だ」
エミールが、顔を上げた。
「食料も、馬も、幌馬車も、全部ここにある。ここをやられたら、俺たちは戦うどころか、この先の旅もできなくなる。……それに、アヤ様とノアがいる」
マティアスは、エミールの肩に、大きな手を置いた。
「俺たちがいないあいだ、ここを守れるのは、お前たちだけだ。しっかり守っておいてくれ」
「……ここを守るのも、任務ですか」
「当然だ。守ってくれる仲間がいるから、俺たちは安心して戦える。頼りにしてるからな」
エミールは、しばらくマティアスの顔を見ていた。
それから、小さく、はっきりと、うなずいた。
「……はい」
鹿の脚を押さえなおしたエミールの手には、もう、投げやりなところはなかった。
********
「ノア」
ジェフリーが呼ぶと、ノアは、ぱっと顔を上げた。
テオのそばから飛ぶようにして駆けてくると、木箱の前で、背のびをして地図をのぞきこんだ。手には、鹿の毛が少しくっついたままだった。
「あ、昨日おじさんとつくった地図だ!」
「そうだ。おまえが手伝ってくれた地図だ」
ジェフリーは、地図の上のダリアの村々を、指で示した。
「おまえの言っていた騎士たちがいるところを、もう一度教えてくれ」
ノアは、地図に顔を近づけた。
しばらく、眉を寄せて、線や記号をにらんでいた。字は読めないのだろう。それでも、村の位置と川の流れを指でたどっていくうちに、だんだんと目に迷いがなくなっていった。
やがて、ノアの小さな指が、地図の端の一点を、ぎゅっと押さえた。
「ここだよ」
ジェフリーとセドリックが、同時に息をのんだ。
ノアの指が押さえていたのは、海に面した崖の、ほんの少し手前だった。
「ここにね、でっかい穴があるの。大人はみんな、『ドラゴンの爪あと』って呼んでる」
「ドラゴンの爪あと?」
セドリックが、聞き返した。
「うん。崖がね、こう……」
ノアは、宙に向かって、小さな手で大きく弧を描いてみせた。上から下へ、えぐるように、ぐうっと曲げて。
「こんなふうに、下のほうにまがってるんだ。でっかいドラゴンが、爪でひっかいたみたいなんだって。その奥に、穴があいてて、騎士たちはそこにいるの」
ジェフリーは、ノアの指の下を、じっと見ていた。
そこは、地図の上で、さっきセドリックが指でたどった街道の、そのすぐ先だった。
巡回兵たちが、縛った賊を連れて向かっていった先。
国境の砦があると言われた、断崖。
ジェフリーは、黙ってセドリックと目を合わせた。
セドリックも、何も言わなかった。
ノアだけが、二人の顔を不思議そうに見上げて、首をかしげていた。




