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26. 小さな騎士と、麦粥

※この話には、暴力・虐待、および性的被害を想起させる表現があります。直接的な描写は避けていますが、苦手な方はご注意ください。

野営地へ移ってからも、騎士たちのあいだには、どこか張りつめた空気が残っていた。


天幕を張る者、馬の鞍を外す者、荷車から必要なものを下ろす者。夕暮れの支度そのものは、これまでの野営と変わらない。

それなのに、杭を打っていた騎士が作業の合間に顔を上げ、荷を抱えて歩いていた者が幌馬車の向こうを確かめる。その目は決まって、先ほど引き返してきたダリアの方角へ向けられていた。


誰かが大声で警戒を命じたわけではない。それでも全員が、同じものを気にしている。


アヤにも、それだけは分かった。

テオと並んで焚火の支度を終えるころには、細く組んだ枝のあいだから、小さな炎が立ち上がっていた。


「これで大丈夫そうですね。あとは太い薪を少しずつ足していけば」


テオがそう言いながら、次に使う薪を火のそばへ揃えていく。

数日前までなら、火打ち石を扱うだけでも手間取っていた。今ではアヤも、炎の育ち方を見ながら枝を足せる程度には慣れている。


昨夜、ジェフリーから言われた言葉が残っていた。

知らないのであれば、知ればいい。

何もできないからと退くのではなく、まず教わる。そのうえで覚えていけばいい。


立ち上がったアヤの目に、少し離れたところへ並べられた空の桶が入った。

エミールは、もう何度か川とのあいだを往復している。

昨日のことがあったからこそ、今日はきちんと手伝いたかった。


「水を汲みに行ってきますね。エミール様おひとりでは大変でしょうから」


桶へ手を伸ばしかけたところへ、ちょうど二つの桶を提げたエミールが戻ってきた。


「川辺からここまでは、俺が運びます。アヤ様は、ここから皆のところへ運んでください」


「わたくしも川まで参ります。重いものでも運べますよ。昨日ジェフリー様に教えていただいたとおり、ちゃんと隊のやり方を教わって、そのとおりに――」


「昨日とは、事情が違うんです。アヤ様」


今にも桶を持って歩き出しそうなアヤの両肩を、エミールが押さえた。

歳はマリサとそう変わらない。まだ少年らしさの残る顔をしているのに、手には思った以上の力があり、一歩踏み出そうとしてもアヤの身体は動かなかった。

エミール自身は、アヤではなく野営地の外を気にしていた。

川へ続く道から背の高い草の向こうまで、何かが潜んでいないか確かめるように見渡している。


「今はまずいんです。俺たちは今、敵地の近くにいると思わないと。アヤ様が襲われないためにも、みんながすぐ気づけるところから出ないほうがいい」


敵地。

その言葉が、アヤの中に引っかかった。

ここはエステリアだ。

国境を越えたわけでも、戦場へ入ったわけでもない。

それなのにエミールは、ダリアを敵地と呼んだ。


「ダリアの方々を、敵だとおっしゃっているのですか?」


エミールの手から、わずかに力が抜けた。


答えはなかった。

その沈黙だけで十分だった。

そんなことがあるはずがない。

ダリアの民が貧しいことは、ミエから聞いていた。今日見た麦畑も、まだ鮮明に目に残っている。

まばらに伸びた麦。揃わない背丈。痩せた穂。そのあいだから大きく覗いていた土。

あの土地で暮らす人々に必要なのは、警戒されることではない。

救いだ。

アヤは桶から手を離した。


「ジェフリー様は、どちらにいらっしゃいますか」


水汲みを手伝おうとしていたことなど、もう頭から消えていた。



********



「エミールの判断は正しい」


アヤの話を最後まで聞いたジェフリーの答えは、それだけだった。

迷いのない声に、アヤはしばらく彼の顔を見つめた。


「彼らは飢えているのですよ。あの畑をご覧になったでしょう。食べるものも満足に得られず、今日を生きることさえ難しい方がいるかもしれないのに」


「だからです」


その返事を聞いた途端、それまでアヤが知っていたジェフリーの姿と、目の前の言葉とがうまく重ならなくなった。

母を病で亡くした人だ。

今も故郷で苦しんでいる民を救いたくて、龍の涙を探している。

そんな人が、同じように飢えで苦しむエステリアの民を警戒しろと言う。


「アヤ様は、飢えた人間の本性をご存じない」


胸の内側が、かっと熱くなった。


「たとえ飢えていたとしても、彼らがあなた方黒騎士に斬りかかるとでもおっしゃるのですか? 仮にそうだとして、あなた方にとってどれほどの脅威になるというのです。農具しか持たない民が束になって襲ってきたところで、黒騎士が恐れる相手なのですか?」


言い切ったあとも、ジェフリーはすぐには答えなかった。

怒った様子はない。

どう伝えるべきか、その言葉を選んでいるようだった。

代わりに、そばで聞いていたマティアスが口を開いた。


「彼らの武器は、強さではありません。その弱さにつけ込むところです。エステリアの民を侮辱するような言い方になることは、お許しください」


その声は低く、淡々としていた。


「物資欲しさに農具を武器にして襲いかかってくる。我々は身を守るために剣を抜きます。命の危険があれば、容赦なく斬ることもあるでしょう。そうなれば、彼らの訴えは変わります。騎士が弱い民を斬りつけた。その償いとして荷を置いていけ、と」


「自分たちから襲っておきながら、そんな理屈が通るのですか?」


思わず声が出た。

マティアスは静かなままだった。


「事情を知らない人間が、あとから傷を負った農民と、武装した我々を見たらどう思うでしょう。どちらが先に武器を取ったのか、証明できる者が我々しかいなければ、なおさらです」


痩せた農民と、全身を武装した他国の騎士。

そこだけを切り取られれば、何も知らない者がどう受け取るか。

アヤにも想像できてしまった。


「これまでに、実際に起きたことです」


ジェフリーが言った。

物資を得るために、敵わないと分かっている相手へ自ら身体をぶつける。

傷を負えば、今度はその弱さを盾にする。


「あそこはダリア領です。他国の騎士である我々が、あの土地でエステリアの民を斬れば、事情がどうであれこちらの立場は悪くなります。ひ弱な農民が邪魔だったから馬で蹴った。抵抗できない者を黒騎士が無残に斬りつけた。そう騒がれれば、真偽を確かめるより先に噂だけが広がることもある」


「ですが、あの麦畑をご覧になったでしょう。あれほど追い詰められた方々が、負けると分かっていて黒騎士へ武器を向けるなんて。誰が、そんな無謀なことをすると思うのですか」


ジェフリーの青い瞳が、まっすぐアヤへ向いた。


「それだからです。誰もそんなことをするはずがない。そう思われることにつけ込むのです」


それ以上、アヤには言葉が続かなかった。


ずっと王都で暮らしてきた。

本を読み、父の政務にも耳を傾け、自分なりに国のことを知ろうとしてきた。

それでも知らなかった。

貧困や飢えがあることだけではない。

人は追い詰められれば、誰もが互いに助け合うわけではない。

弱いことと、善良であることは同じではない。

自分の弱さそのものを使い、他人を陥れる者さえいる。

そんな卑しさまで、自分の国の中にある。

今日見た荒れた麦畑とは違う形で、アヤの知らないエステリアが目の前へ突きつけられていた。


「もちろん、我々の警戒が見当違いという可能性もあります。あの町の者すべてがそうだと言っているわけではありません。ただ、あの様子は明らかに普通ではなかった。だからセドリックに探らせています。状況が分かるまでは、なるべく領内へ深入りしないほうがいいのです」


そのときだった。

川辺のほうから鋭い声が響いた。


「おい! 待て!」


エミールだった。

つい先ほどまで静かに話していたジェフリーとマティアスの空気が、一瞬で変わった。

二人はほとんど同時に腰の武器へ手をかけ、川へ向かって駆け出した。

アヤもあとを追った。



********



川辺へ着いたとき、エミールは小さな身体を両腕で抱え込み、そのまま草の上を転がっていた。


「離せ! 離せったら!」


甲高い声が響く。

ジェフリーとマティアスは逃げ道を塞ぐように左右へ分かれ、剣を抜いた。

遅れてアルベルトたちも集まってくる。

アヤが近づこうとすると、アルベルトがすぐ前へ出た。


「アヤ様、ここまでです。隊長が確認するまで、前へ出ないでください」


エミールは暴れる相手をどうにか抱えたまま、息を切らしていた。


「隊長、こいつが水桶を持っていこうとして……!」


そこで初めて、アヤにも相手の姿がはっきり見えた。

十歳ほどに見える、小さな男の子だった。

ぼさぼさの髪に、細い手足。

エミールの腕の中でもがく身体は、驚くほど痩せている。

ジェフリーとマティアスは、その姿を確認すると剣を収めた。


「離せよ! 返せ! おいらのだ!」

「いつからお前の桶になったんだ!」


エミールも息を切らしたまま言い返す。

その横へマティアスが歩み寄った。


「貸せ」


エミールの腕が緩んだ瞬間、少年は身を捻って逃げようとした。

一歩も進めなかった。

マティアスの片腕が胴へ回り、そのまま軽々と持ち上げられる。


「うわっ、離せ! でかいの!」


宙に浮いた足をばたつかせる姿に、張りつめていた騎士たちの空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

マティアスは暴れる少年を抱えたまま、何でもないことのように言った。


「さて。詳しい話を聞こうじゃないか、ぼうず」



********



少年は、野営地の中央にある焚火のそばへ座らされた。

逃げられないよう、手首と足首には縄が掛けられている。

周囲には三人の黒騎士。

その向かいで、ジェフリーが朽ちた木を椅子代わりに腰を下ろした。

アヤは少し離れたところから、その様子を見ていた。

先ほどまであれほど暴れていた少年は、縄が手首へ回ると急に動かなくなった。

腕を引こうともせず、結ばれていく縄ばかりを見ている。呼吸まで浅くなったように見えた。

捕まったことが怖いだけなのだろうか。

ジェフリーも何かを感じたのか、しばらく少年の様子を見てから尋ねた。


「どこから来た?」


「お前ら騎士だろ! 騎士なら、そっちから名乗るのが礼儀なんじゃないのか!」


小さな身体を縛られているというのに、口だけは負ける気がないらしい。


「騎士の礼儀について、ずいぶん詳しそうだ」


「当然だ! おいらは騎士になりたいからな! もちろんダリアの騎士だ。故郷のために騎士になるんだ!」


そこだけは、本当に誇らしいのだろう。

胸を張る姿から、先ほどまでの怯えが少し消えた。


「ダリアから来たのか。名前は?」


少年の口が止まった。

しまった、とでも言いたげな顔になる。


「名前を聞くなら、そっちから言うべきだろ!」


今度こそアルベルトが小さく笑った。

ジェフリーの口元にも、ごく淡い笑みが浮かぶ。


「俺はジェフリー・ハルセリン。サルヴィアの黒騎士だ」


黒騎士、と聞いた瞬間。

少年の顔が一気に明るくなった。


「ほんもの!? おいら、ノア! おいらも黒騎士に入れろよ! ぜったい役に立つから! 村でも一番頭がいいって言われてるんだ。この前の羊泥棒だって、おいらが罠を作って捕まえたんだぞ。それに偵察だってできる! 今日あんたたちが来たのも、おいらが一番最初に見つけたんだからな!」


一度口を開けば止まらない。

自分がどれほど騎士に向いているのかを、何とか証明したいらしい。

得意げに語るノアを、ジェフリーは遮らずに聞いていた。

そのあいだに、痩せた頬や細い腕も見ていたのだろう。

やがて、静かに尋ねた。


「ノア。お前は腹が減っていないか?」


さっきまで止まることを知らなかった声が、そこで途切れた。

ほんの一言だった。

それだけなのに、ノアの指が膝の上の服を強く掴んだ。

ジェフリーは、その変化を確かめるように、もう一度ゆっくりと尋ねた。


「腹が、減っていないか?」


「……もしかして、おいら……これから、ゆっくり殺される?」


アヤの背筋を、冷たいものが走った。

食事のことを聞かれただけなのに。

どうして、この子はその先に死を思い浮かべるのだろう。

ジェフリーは問いを重ねず、しばらくノアを見たあと、アルベルトに命じた。


「アルベルト、手足の縄を切ってやれ」


「え? いいんですか?」


「いい。こいつは、もう逃げない」


手首と足首が自由になっても、ノアは動かなかった。

先ほどなら真っ先に飛び出して逃げていただろう。

今は両手を膝の上へ置いたまま、焚火のそばで身体を小さくしている。


「ノア。お前、前にもこんなふうに捕まったことがあるな」


ノアの身体が強張った。

返事はない。

それでも、その反応だけで十分だった。



********


「おいら……何も食べたくない……」


怯えるノアに、ジェフリーは言った。


「誰にやられた。いつだ?」


ノアは、自分のおなかを守るように、両腕で覆って縮こまっている。


ジェフリーは、そばに控える黒騎士に目配せをした。

二人の黒騎士が、ノアの腕をそっと、けれど確かに広げさせる。


「やめろ! 離せ!」


逃げようとする両腕を押さえられ、アルベルトが素早く服の裾を持ち上げる。

アヤは息を呑んだ。

痩せた腹から脇腹、背中にかけて、子どもの身体には似つかわしくない傷が残っていた。

赤黒く引きつれた皮膚。その上には、刃物でつけられたような古い痕まで重なっている。

一つや二つではない。


ノアは服を戻そうと必死に身体を捩っていた。

その姿を見て、アヤはようやく分かった。

身体を見られることを嫌がっているのではない。

今ここで、また同じことをされると思っているのだ。

ジェフリーの顔から、先ほどまでの柔らかさが消えた。


「……熱と、刃物か」


その一言で、強がっていたノアの顔が崩れた。

目には涙が溜まり、つい先ほどまで黒騎士に入れてくれと胸を張っていた少年が、急に十歳の子どもへ戻ったように見えた。

ジェフリーはエミールへ、鉄鍋に水を入れて火へかけ、沸いたら塩を少し入れておくよう命じた。

その言葉を聞いた途端、ノアが必死に身を起こそうとした。


「やめろ! もう嫌だ! また痛いことするんだろ! 離せ!」


ジェフリーはすぐにその前へ片膝をつき、ノアと同じ高さまで身体を低くした。


「俺たちは黒騎士だ。その辺のならず者じゃない」


「騎士だって同じだ! そう言って、ひどいことするんだろ! おいら知ってるんだ!」


その言葉を受けて、ジェフリーはすぐには返さなかった。

自分が誇りとしているものを、この子は恐怖の名前として口にしている。

アヤには、その短い沈黙がそう見えた。


「大人しくできるな?」


そう言い聞かせる声に、ノアはしばらくジェフリーを見ていた。

やがて小さく頷く。

騎士たちの手が離れると、逃げる代わりに、また両腕で腹を守るように座り込んだ。



********



鉄鍋の中で湯が沸くころには、野営地へすっかり夜の冷気が降りていた。


エミールが塩を入れた湯へ、アルベルトが麦を落とす。乾燥させた肉と細かく刻んだ野菜、乾いたトウモロコシも加えられ、木杓子でゆっくり混ぜるうちに、とろみのついた湯気が立ち始めた。

穀物と肉の匂いが漂うと、少し離れたところで丸くなっていたノアが、無意識にそちらへ顔を向けた。

やはり、お腹は空いているのだ。

アヤは荷の中から乾燥させた香草を取り出し、指先で揉んで鍋へ散らした。

アルベルトが味を確かめ、器へよそおうとしたところで、アヤがその手を止める。


「少しだけ、こちらも」


砂糖をほんの少量、鍋へ落とした。


「甘くするんですか?」


「甘くするほどではありません。ほんの少しなら、味が丸くなりますから」


自分でも一口確かめる。

長くまともな食事をしていない子どもへ出すなら、強い味より、このくらいのほうが口にしやすいだろう。

アルベルトが一人分をよそい、ノアの前へしゃがんだ。

湯気の立つ麦粥から、ノアは目を離せなかった。

それでも手は伸びない。


「ほら。本当は腹が減ってるんだろ」


しばらく迷ったあと、ノアが力のない声で聞いた。


「……これ食べたら、おいら、また痛いことされる?」


泣き疲れた、ただの子どもの声だった。

アルベルトの顔から笑みが消えた。


「俺たちは誇り高き黒騎士だぞ。腹を空かせた子どもを痛めつけるために、飯を作ったりするかよ」


それでも動けずにいるノアのそばへ、アヤが腰を下ろした。

細い身体へ無理に触れないよう、背中へ手を添える。


「大丈夫ですよ。温かいうちに食べましょう。あとで、花のお茶も淹れますからね」


ノアはアヤとアルベルトを交互に見たあと、ようやく器を受け取った。

スプーンですくった量は、ほんの少しだった。

口へ入れて、ゆっくり飲み込む。


次の瞬間、大きな目から涙が落ちた。

一度流れ始めると止まらなかった。

ノアは声を上げず、頬を濡らしたまま、もう一口を口へ運んだ。

今度は最初より少し多い。


アヤは何も言わずに立ち上がった。

今は慰めの言葉より、温かな食事を好きなだけ食べさせてあげたかった。

荷のところへ向かい、花の茶を用意する。

後ろでは、スプーンが器へ触れる小さな音が、何度も続いていた。



********



ノアがぽつりぽつりと話し始めたのは、麦粥を半分ほど食べ終えたころだった。

両手には、アヤが淹れた花の茶が入ったカップを抱えている。


ダリアには、「騎士」を名乗る集団がいるという。


村を守るために配置された者たちだと、ノアはずっと信じていた。

鎧は揃っておらず、武器もばらばらだった。エステリアの正規兵とは似ても似つかず、ノア自身も「山賊が騎士の真似をして鎧を着ているみたいだ」と思っていたらしい。


ダリアがさらに貧しくなり始めたころから、どこからともなく山賊や強盗が村を襲うようになった。

羊や馬を盗み、食糧を持ち去る。

そんなとき、その「騎士」たちが現れて追い払ってくれた。

だから最初は、皆が感謝した。

やがて彼らは、村を守った代わりとして「支払い」を要求するようになった。


三十日に一度。

支払いは、まず金銭で求められた。


払えなければ、若い女を差し出せと言われる。

連れていかれた女性は、二度と村へ戻ってこない。

ノアは花の茶から立つ湯気を見つめたまま、母親が連れていかれた日のことを話した。


「おいら、ちゃんと見てたんだ。あいつらが金を数えてるところ。ちゃんと足りてた。おいら、数えられるもん。それなのに三百レル足りないって言ったんだ」


アヤは、その通貨に引っかかった。


「支払いは、セラではないのですか?」


ここはエステリアだ。

ダリアの民から取り立てるのであれば、国内通貨のセラを使うほうが自然だった。


「あいつら、セラじゃ受け取ってくれないんだ。ほかのところでも騎士として護衛するから、レルじゃないと駄目だって」


ジェフリーとマティアスの目が、ほんの一瞬だけ合った。

国を越えて使える共通交易貨幣を要求している。

まだ何も断定はできないとしても、ダリアの中だけで完結している話ではないのかもしれなかった。


「そのとき……母ちゃんが連れていかれた」


ノアの母親は、村の中でも若く、美しい女性だった。

本当は金銭が足りていた。

母親を連れていくために、あえて足りないと言ったのではないか。

そう考えたのは、アヤだけではないだろう。


「おいら、母ちゃんを助けたくて……あいつらをつけたんだ」


そこから先になると、ノアの声はさらに細くなった。

十歳の子どもが一人で男たちのあとを追い、見つからないよう茂みへ身を隠した。

そこで行われていたことを、当時のノアがすべて理解できたはずもない。

ただ、見たものだけは覚えていた。

母親は、何人もの男たちに囲まれていた。

嫌がる声。

泣く声。

助けを求める声。

茂みの中で、ノアはただ息を殺して、その声を聞いていた。

アヤは膝の上で、自分の手を強く握り合わせた。


「何か、飲まされてた。母ちゃん嫌だって言ってたのに、無理やり飲まされて……そのうち、ぐったりして。それでもあいつら、もっと甘く歌えって言うんだ。母ちゃん、もう声もあんまり出なかったのに、また何か飲まされて……そのあと、すごい声で……」


ジェフリーの顔つきが変わった。


「……多感薬を使われた可能性があります。神経の感覚を極端に鋭くする劇薬です。本来、人へあのように使うものではありません」


その説明だけで、アヤの顔から血の気が引いた。

その薬を、抵抗する力さえ残っていない人間へ無理に飲ませた。

それだけで、アヤには十分だった。

膝の上で握っていた手に、さらに力が入った。


「おいら、我慢できなくなって飛び出したんだ。母ちゃんを返せって。そしたら、一番偉そうなやつがおいらに聞いたんだ。腹が減ってないかって」


ジェフリーが片手を額へ当てた。

その先を予想してしまったようだった。

それまで黙って聞いていたアルベルトが、吐き出すように口を開いた。


「人さらいの常套句(じょうとうく)ですよ」


その言葉を口にしただけでも不快なのか、アルベルトは一度、固く口を閉ざした。


「腹を空かせた子どもへ飯が欲しいかと聞く。ついてくれば、そのまま連れていく。逃げれば囲んで捕まえる。サルヴィアにも同じような連中がいます。見つけるたび潰していますが、なくならない」


ノアは鼻をすすった。


「おいら、本当に腹ぺこだったんだ。だから、うんって言った。そしたら麦粥くれたんだ。食べ終わったら、またよそってくれて、もっと食べろって」


そこまで話すと、両腕が自然に腹へ回った。


「もういらないって言ったら、母ちゃん返してほしいかって聞かれた。あたりまえだって言ったら……腕、押さえられて」


声が途切れた。

アヤは急かさずに待った。


「母ちゃんの前で、熱いものを腹にかけられた。あつくて、痛くて、おいら叫んだ。そしたら母ちゃんも叫んだ。あいつら、母ちゃんに言ったんだ。お前が言うこと聞かないなら、この子が代わりに泣くって」


先ほど見た、ノアの腹の傷。

一つずつ意味が繋がっていく。

あれは、満腹で膨れ上がった腹を直接痛めつけられたものだった。


「それでも足りないって……もっと痛いことされて……」


そこから先は、声にならなかった。

アヤはノアの背へ手を添えた。


「もういいのよ。無理をして話さなくても」


「でも、話さないと……また、あんなことされる……」


その声を聞いたアヤは、ジェフリーへ顔を向けた。

――最初にあんなふうに問い詰めるから。

言葉にはしなかったものの、意味は十分伝わったらしい。

ジェフリーはわずかに顔を逸らした。

アヤはノアを自分のほうへ寄せ、震えが落ち着くまで背中をゆっくり撫でた。


「もう、誰もあなたにそんなことはしません。今夜は身体を温めて、ここで休みましょう」


ところが、ノアは首を横へ振った。


「今夜は寝ちゃ駄目なんだ。今日のうちに支払い持っていかないと、また誰か連れていかれちゃう。なんでもいいから持ってこいって言われてるんだ」


その言葉を聞いたとき、川辺でエミールに捕まえられていたノアの姿が、アヤの中でようやく繋がった。

あの水桶は、自分が使うために欲しかったのではない。

何か一つでも持ち帰らなければ、また村の誰かが連れていかれる。

そんな恐怖に追われて、この子は黒騎士の野営地にまで忍び込んできたのだ。


つい先ほどまでアヤは、黒騎士たちがダリアの民を警戒することに腹を立てていた。

実際、ノアは彼らの荷を盗もうとした。

そして、その理由を知らなければ、ただの泥棒にしか見えなかっただろう。

物事は、そんなに簡単ではない。

知らないものを知るということは、自分が正しいと思っていたものまで、こんなにも簡単に揺らすのだ。



********



母親が連れ去られた日から、ノアは男たちの手足として使われるようになった。

村へならず者が近づけば、真っ先に様子を見に行かされる。

家畜を盗もうとする者がいれば、落とし穴や罠を仕掛けて捕まえる。

追い払うことに成功すれば、男たちは「守った代金」と称して家畜の持ち主から金銭を取り、もっと欲しいときには、身体の小さいノアを家へ忍び込ませて金目のものを持ち出させた。


「でも、変なんだ。昨日守れって言われた羊を、次の日には盗んでこいって言われたりするんだ」


どうしてだと尋ねることはできなかった。

母親がまた苦しめられるかもしれない。

自分もまた、あの日と同じ目に遭うかもしれない。


その恐怖だけで、言われたとおりに動くしかなかった。

巡回兵が近くへ来ていないかを見張り、街道を通る者を確認する。

怪しい者を見つければ知らせる。


「うまくできた日は、麦粥食べさせてもらえるんだ。何もされないで」


誰も、すぐには言葉を返せなかった。

ついさっきまでノアが食べていた麦粥。

同じ食べ物なのに、意味はまるで違う。

ジェフリーはしばらく黙ってから、ノアへ言った。


「お前がさっき、騎士として役に立つと言っていたことを覚えているな。罠を仕掛けられる。偵察ができる。誰より先に俺たちを見つけた」


ノアが小さく頷く。


「その能力は、すべて盗賊やならず者が必要とするものだ。相手の動きを探る。見張る。罠を仕掛ける。見つからないよう家へ入り、物を持ち出す」


得意げだったノアの顔から、少しずつ力が抜けていった。


「あいつら……やっぱり騎士じゃないの?」


「騎士じゃねぇよ。クズだ」


アルベルトが吐き捨てるように言った。

ジェフリーはノアから目を逸らさなかった。


「騎士も偵察はする。だが、武器も持たせず、逃げる術も教えず、幼い子どもを危険な場所へ送り込むことを、騎士の偵察とは言わない」


ノアは俯いた。


膝の上で、小さな拳が固く握られている。

自分は騎士になりたい。

そのために役立つことをしていると思っていた。

その誇りまで、あの男たちに利用されていた。

アヤはその小さな背中へ手を添えた。


悲しみとは別の熱が、静かに身体の中へ溜まっていく。

エステリアの民を傷つけ、こんな小さな子どもを脅し、利用する。

そのうえ「騎士」の名まで使っている。

許せなかった。


それまで黙っていたマティアスが、ジェフリーへ声をかけた。


「隊長。セドリックが戻るまで、まだ二日あります」


ジェフリーは焚火を見ながらしばらく考えたあと、ノアへ尋ねた。


「今日、お前がここへ忍び込んだことを、奴らは知っているのか?」


「たぶん知らない。あいつら、おいらがどこで何しててもあんまり興味ないんだ。持って帰ったものしか見ないから」


「母親は、今も奴らのところにいるのか」


ノアは頷いた。


「支払い持っていくとき、ちゃんと生きてるぞって見せられる。昨日も遠くからだけど見た」


アヤは、それまで詰めていた息をゆっくり吐いた。

少なくとも、ノアの母親はまだ生きている。


「なら、黒騎士の俺たちに力を貸してくれないか。ノアにしかできないことがある」


ついさっきまで沈み込んでいた少年の顔が上がった。


「おいらにしかできないの?」


ジェフリーが頷くと、その顔にみるみる明るさが戻った。


「いいよ! おいらなんでもできる! ちゃんと役に立つ! 騎士になって、母ちゃんを助けるんだ!」


ジェフリーは、その顔を見てふっと笑った。


「頼りにしてるぞ」


そしてマティアスへ向き直ったときには、既に黒騎士隊長の顔つきだった。


「ノアから、奴らのいる場所を詳しく聞け。人数、見張りの位置、出入りに使う道。分かる範囲で地図へ落とし込む」


一度、ダリアの方角を確かめる。


「ただし、こちらから拠点へ突っ込むことはしない。俺たちは他国の騎士だ。事情を確かめきらないまま武力を使えば、今度は本当に、黒騎士がエステリアの民へ一方的に刃を向けたことになりかねない」


アヤはその言葉に顔を上げた。


「今夜の支払いが届かなければ、奴らは明日、村へ取り立てに来る。そこを押さえる。そのあいだに別働で母親を救出する。可能な限り生け捕りだ。連中が何者なのか、誰の指示で動いているのかも知る必要がある」


ジェフリーの声の温度が、そこで変わった。


「もし、やつらが村の者へ刃を向けたら、その限りではない」


マティアスが深く頷いた。

セドリックが戻るまで、まだ二日ある。

本来なら情報を待つべきなのだろう。

一方で、支払いが途絶えれば、明日にでも新たな犠牲者が出るかもしれない。

ジェフリーは焚火の向こうに広がる夜へ顔を向けた。


「明日、終わらせる」



********



その夜、ノアはマティアスが広げた地図へ身を乗り出し、自分の知っていることを一つずつ話していった。


森へ入る道。

男たちが見張りに立つ場所。

支払いを持っていくときに通る道。

母親を見せられた建物。


ノアが指を動かすたび、マティアスの筆先が地図の上を走る。

しばらくして、ノアが不安そうにジェフリーへ尋ねた。


「ねえ。どうして今夜じゃ駄目なの? 今日帰らないと、支払いが遅れちゃう」


ジェフリーは、地図の一点へ指を置いた。


「奴らのねぐらに、どれだけ武器があるか分からない。仲間が何人いるのかも、逃げ道がどこにあるのかも分からない。そして、そこにはお前の母親がいる。不用意に踏み込めば、一番最初に人質が傷つけられるかもしれない」


ノアは黙った。


「だから、支払いを取りにあちらから出てきてもらう。その間に母親を助ける」


しばらくして、ノアが小さな声で尋ねた。


「……母ちゃん、助けてくれる?」


ジェフリーは軽い慰めのように、すぐ答えることはしなかった。

できるかどうか分からないことを、口先だけで約束する人ではない。

アヤは少し離れた場所から、その横顔を見ていた。


「助けるために動く。だから、お前も俺たちを信じて力を貸せ」


ノアは唇を結び、何度も頷いた。


「うん。騎士の約束は神聖な約束だからな。おいら信じる」


「誰に教わったんだ、それ」


「村の爺ちゃん!」


ジェフリーが小さく笑った。

その様子を見ていたアヤは、ようやくノアへ声をかけた。


「さあ、寝床を作ってありますよ。花のお茶も幌馬車の中へ持っていきましたから、今夜はゆっくり休みましょう」


「あれ、すごく好き! やった!」


言うが早いか、ノアは幌馬車へ向かって駆けていった。

先ほどまで泣いていたとは思えない背中を、アヤはしばらく見送った。

こんな状況でも、嬉しいことがあれば走れる。

その強さを喜んでいいのか、それほど強くならなければ生きてこられなかったことを悲しむべきなのか、今のアヤには分からなかった。

ノアの背中を見送っていたジェフリーが、アヤへ顔を向けた。


「アヤ様。今夜はあなたも、ノアと一緒に幌馬車の中でお休みください。ここに敵が来ないとは限りません」


「承知しました」


幌馬車へ向かいかけたアヤは、途中で思い出して足を止めた。

ふとジェフリーの顎へ目がいき、髭の軟膏のことを思い出す。


「ジェフリー様。今夜は髭が抜けやすくなる夜用のほうを、明日の朝は髭の伸びを遅くするほうを塗ってくださいね。明日も忘れずに」


ジェフリーは一瞬考えたあと、自分の顎へ手をやった。

軟膏のことを思い出したらしい。


「忘れるところでした。承知しました」


その返事を聞いてから、アヤはノアの待つ幌馬車へ向かった。

姿が見えなくなるころ、ジェフリーは火かき棒を手に取り、焚火の隅へ崩れた炭を寄せた。


「妙だと思わないか。ノアの話」


地図へ書き込んでいたマティアスの手が止まる。


「ダリアには、ならず者を追い払う“騎士”がいて、その連中が村から金銭と女を取り上げている。それだけのことが続いているのに、ノアの口からは領地を治める側の顔がまったく出てこない……不自然だ」


火かき棒の先で、赤く残った炭が崩れた。


「領主のルシアン・ヴァルモントとは花祭りで一度話している。王宮でも挨拶程度には会っているが、領民のことを気にかけているように見えた。あれがすべて演技なら、相当なものだ」


「本人が知らない。あるいは、知らされていない可能性もあります」


マティアスは地図へ目を落とした。


「もしくは、我々がまだ知らない人物がいる」


二人とも、それ以上は言わなかった。

答えを出すには、まだ知らないことが多すぎた。



********


「ルシアン・ヴァルモント様をご存じ?」


幌馬車の中で、アヤはノアにルシアンのことを尋ねた。

これほど領民が飢え、騎士を名乗る者たちが村へ入り込み、金銭や人を「支払い」として要求している。

それほどのことが領内で起きていて、領主であるルシアンがまったく無関係ということは考えにくかった。

王宮で聞いていた彼の話と、今日アヤが目にしたダリアの姿も、あまりにも違っている。


「若様? うん、いい人だよ。一番偉いのは殿様なんだ。若様は殿様の息子で、いつもおいらたちのこととか、畑のこととか気にしてくれるんだ」


アヤは、すぐには何も返せなかった。

王宮で聞いていた話とは、どうも噛み合わない。

ノアが立場を正確に理解していないだけなのか。

村独自の呼び方なのか。

それとも、自分たちがまだ知らない事情があるのか。


「おいらは若様のこと好きだよ。でも、大人はあんまり好きじゃないみたい。若様は畑を元気にしようって、働けって言うから面倒なんだって。殿様は無理して畑やれって言わないし、代わりにいいものくれるから」


その「いいもの」が何なのかを尋ねると、ノアは煙草の葉に似た、大きく乾いた葉だと説明した。

大人たちは、それを吸う。

吸えばひどく元気になり、腹が減っていることもつらくなくなるという。

アヤの指が、花の茶が入ったカップを包んだまま止まった。


聞き覚えがあった。

以前、アジールから流れ込み、エステリアで使用を禁じられた薬草がある。

身体を無理に昂らせ、疲労や空腹を感じにくくする。使っているあいだは動けても、長く続ければ身体も気力も失われ、最後には日常生活すらままならなくなる。


「母ちゃんは絶対もらわないよ。若様があれを嫌ってるから。若様は畑を元気にしようって、いつもいろいろしてくれるんだ。働くのはいいことだから、元気になるためにって、お昼にはパンも配ってくれる。でも、若様のパンをもらったら働かなくちゃいけないから、ほかの大人は受け取らないんだ。殿様がくれる葉っぱなら、吸うだけで元気になるからって。若様に見つかったら取り上げられるから、みんなこっそり使えって言われてる」


馬車五十台分の小麦を支援したとしても、畑を立て直そうとしても、働ける人間そのものが少なくなれば、土地が豊かになるはずがない。

そしてもし、その葉を意図的に広めている人物がいるのなら。

ルシアンは領民を助けようとしながら、その足元を誰かに崩されていることになる。

考え込んでいたアヤの意識を、ノアの明るい声が引き戻した。


「そういえばさ、あの金髪の兄ちゃん、すごくかっこいいよな! 村の女の子が話してる王子様みたいだ。あの人が一番偉いの?」


「ジェフリー様のことね。黒騎士の隊長様ですもの。それに、とてもお強いのよ」


ノアは感心したように頷いたあと、何のためらいもなく言った。


「お姉さんは、隊長さんのどこを好きになったの?」


アヤの手にしていたカップが、そこで止まった。


「す、好きだなんて……そういうことではありませんよ。ジェフリー様は、サルヴィアの民を救うためにエステリアへいらした方で、わたくしはその旅のお手伝いをしているだけですもの。それに、ジェフリー様には、もっとお似合いになる方が――」


そこまで言って、アヤは口を閉じた。

自分でも、なぜそこまで説明しているのか分からなかった。カップへ目を落とし、何事もなかったように花のお茶を一口飲む。

ところがノアは、かえって納得したように大きくうなずいた。


「やっぱり隠してるんだ。こういう話って、みんなに内緒だよって話すんだろ? 母ちゃんのところに村の女の人たちが来ると、よくそんな話してたもん。おいら、何回も聞いたことあるよ」


アヤは困った。

ジェフリーを、そういう意味で考えたことはなかった。

少なくとも、考えないようにしてきた。

ノアはまだ、答えを待っていた。

どう説明すればよいのだろうと考えているうち、最初に浮かんだ言葉がそのまま口から出た。


「……お優しい方よ。困っている方を、放っておけないの」


以前聞いた、露店の花売りのことを思い出した。

売れ残った花を前に困っていた店主から、ジェフリーは花をすべて買い取った。

誰に見せるためでもなかった。

褒めてもらうためでもない。

ただ、目の前で困っている人を見過ごせなかったのだ。


「それに、誰かが危ない目に遭いそうになると、自分のことより先に動いてしまう方なのよ」


青の部屋から禁書庫へ急いだときには、足元が危ないと追いかけてきた。

梯子がぐらついたときには、アヤが落ちるより先に受け止めようとして、代わりに本を頭へぶつけていた。

評議会のあと、白い薔薇の休憩室では、危険な旅だからこそ、自分が皆を守ると約束した。

そして、あの小さな手帳。

花祭りの夕暮れ。

長く持ち続けていたせいで、少しくたびれたリボンをほどいた先にあった革表紙。

そこに刻まれていたのは、王女でも第一王女でもない。ただ、Ayaという名前だった。


「誰かに何かを贈るときも、その人が何を喜ぶのか、ずっと考えてくださるの」


そこまで口にしてから、アヤはふと黙った。

一つずつ思い返していただけだった。

どれも、すでに知っていたことだ。

それなのに、こうして一つの言葉のもとへ並べてみると、今までとは少し違って見えた。


困っている人を助ける。

危ないときに手を伸ばす。

守ると約束する。

長い時間をかけ、自分のために贈り物を選ぶ。


その一つ一つを、これまでは別々の出来事として受け取っていた。

自分は、何か大切なことを見落としていたのだろうか。


答えを求めるように隣を見ると、いつの間に眠ったのか、ノアは枕へ頭を預けていた。

小さな胸が、ゆっくり上下している。

穏やかな寝息を聞きながら、アヤは思わず小さく笑った。

自分から聞いておいて、先に眠ってしまったらしい。

起こさないよう毛布を肩まで掛け直し、灯りを少し落とす。


今日一日で、どれほど泣き、どれほど怯えたのだろう。

せめて今夜だけは、何も怖い夢を見なければいい。

アヤは自分の寝床へ戻った。


幌馬車の外から、見張りをする騎士の足音が聞こえる。

その中にジェフリーもいるのだろうか。

そう考えた途端、つい先ほど自分がノアへ話していたことが、もう一度頭に浮かんだ。


知っていたはずの人のことを、自分の言葉で並べただけなのに。


どういうわけか、その夜のアヤは、なかなか眠りにつくことができなかった。

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