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25. 川辺の誠意と、お客様

あと一日でダリアに着く。


日が傾く前に、一行は川のほとりで野営を張った。

川は思っていたより幅が広く、流れも速かった。岸の石は水を吸って黒ずみ、ところどころに緑の苔が張りついている。


エミール・レーンは、空の桶を両手に提げて、その岸を何度も往復していた。

馬の分。鍋の分。明日の朝までに使う分。

運んでも運んでも、野営地の隅に置かれた樽は、いっこうに満ちる気配がなかった。

背後では、焚火のはぜる音がしていた。

テオ・ヴァルトが火の前にしゃがみ、枝を組み替えている。その横を通りかかったセドリックが、軽い調子で声をかけた。


「いい火だ。テオ、今夜も火の番は任せたぞ」


「はい!」


テオの声は、弾んでいた。

エミールは何も言わず、桶を提げたまま川へ向かった。

先日の野営で、いちばん早く火を熾したのはテオだった。

あれから、テオは火の番を預かるようになった。

エミールに与えられたのは、水汲みだった。

下っ端の仕事だということは、分かっている。

黒騎士の外套を許されて間もない新入りが、いきなり前に出られるとも思っていない。

それでも、同じ新入りのテオが火の前に座り、自分は川と野営地を行き来している。その差が、桶の持ち手を握る掌にじわりと食い込んだ。


エミールには、両親も兄弟もいなかった。

物心ついたころには、村の人たちに世話をしてもらいながら暮らしていた。腹が減れば誰かが食べさせてくれ、夜になれば眠る場所もあった。

ありがたかった。だからこそ、いつまでもそうして生きるわけにはいかないと思っていた。

騎士団なら、食いっぱぐれることはない。

最初は、それが理由だった。


剣を握り、訓練を重ね、黒騎士になったころには、それだけでは足りなくなっていた。

誰にも負けない黒騎士になりたい。

遠征へ出られると聞いたときは、胸が躍った。

ここで何か一つでも役に立てれば、自分にもできることがあるのだと思える気がした。


川の水に桶を沈める。

冷たい流れが、桶の縁を越えていった。


「エミール様」


声に、肩が跳ねた。

振り返ると、岸の上にアヤが立っていた。空の桶を一つ、両手で抱えている。


「お手伝いいたします」


「いえ」


エミールは、反射的に答えていた。


「結構です。これは自分の仕事ですから」


「でも、ずいぶん往復していらっしゃるようですし……」


「大丈夫です。アヤ様は、野営地でお休みください」


言い方が硬くなったのは、自分でも分かっていた。

出立の前、陰でこの人を笑ったのは自分だった。

それをジェフリー隊長に叱られ、あまつさえ、この人の護衛に付けられた。

その相手から水汲みを手伝われるなど、冗談ではない。


アヤは、桶を抱えたまま少しのあいだ立っていた。

やがて、小さく頷いた。


「分かりました」


そのまま戻っていくのかと思ったが、数歩進んだところで足が止まった。

アヤは、川辺に並んだ桶を振り返った。


「……一度に、いくつか汲むことはできないでしょうか」


「一度に?」


「桶を縄でつないで、棒に吊るすのです。ひとつずつ手で提げるより、重さも分けられると思います」


エミールは、思わず足元の桶を見下ろした。

単純な話だった。

単純なのに、思いつかなかった。


「それなら……」


声が出てから、自分で驚いた。


「往復する回数も減りますね」


エミールはしばらく桶を眺めたあと、野営地から縄を取ってきた。

長い縄だった。桶に使う分を切り分け、残りは輪に束ねて岸の岩のそばに置いた。

桶の取っ手を一つずつ結んでいく。

アヤも傍らにしゃがみ、ときどき結び目を確かめた。


「そこは、もう一度巻いたほうがいいかもしれません。水が入れば、今より重くなりますもの」


「ここですか?」


結び直して、二人で縄を引いてみる。

外れる気配はなかった。


「これなら大丈夫そうですね」


エミールも、そう思った。

棒へ縄を掛け、桶を川へ下ろす。

ひとつ、またひとつと水が満ちていった。


「うまくいきましたね」


アヤが、ほっとしたように笑った。

エミールも思わず頷いた。

水の入った桶を引き上げる。

さすがに重い。

それでも、先ほどまでのように腕だけへ重さが集中するわけではなかった。

エミールは足元を確かめ、一歩下がった。

そのとき、苔の張った石の上で、靴底が滑った。


「あ――」


景色が、ぐるりと横に回った。

次の瞬間、冷たい水が全身を包んだ。

川は、岸から見るより、ずっと深かった。

口から泡が逃げる。上着が水を吸って、腕に絡みつく。水面へ顔を出しても、すぐに流れに押されて、また頭が沈んだ。

村の川で泳いだことはあった。

あの川なら、足がついた。

こんな流れの中で、濡れた服を着たまま泳いだことなどない。

エミールは川から突き出た岩にしがみつき、必死で流れに逆らった。


「エミール様!」


アヤの声が聞こえた。

その声はひどく遠く、水の底から聞こえるようだった。

岸では、アヤが反射的に身を起こしていた。

そのすぐ先では、エミールが川から突き出た岩に必死にしがみついていた。濡れた栗色の髪が額に張りつき、流れに煽られるたび、腕が岩の上をずるりと滑る。


「誰か! 誰か、来てください!」


声は、背の高い葦の向こうへ吸い込まれていった。

野営地は、その先にある。焚火のはぜる音と、騎士たちの話し声が、叫びを押し返しているのかもしれない。

誰も来ない。


アヤの目が、岸の岩のそばに置かれた縄の輪に止まった。

エミールが桶に使い、余らせた分だった。

人を呼びに戻る時間はない。

これしかない。


アヤは縄の輪を抱えて、岸の石を蹴って走り出した。


エミールがしがみつく岩の少し下手に、岸へ張り出す一本の柳が目に入った。

水際に根を張った、太い柳だった。幹は大人の腰ほどもあり、細くしなる若い枝が、何本も川面へ垂れている。


アヤは腰の剣を引き抜いた。

敵へ向かうために使ってはならないと、ローレンスに念を押された剣だった。

縄の輪に刃を当て、二つに断ち切る。

長いほうと、短いほう。


次に、柳の低い枝へ刃を打ち込んだ。

一度。

もう一度。

親指ほどの太さの、よくしなる枝が、根元から落ちた。

それを、長い縄の先に結びつける。縄だけよりも投げやすく、エミールも掴みやすい。書物で読んだ、投げ縄の先に重りをつける方法だった。


そこまでして、アヤは手を止めた。

握って引くだけでは足りない。

流れの中にいる人を引き寄せれば、その重みは、そのまま自分に返ってくる。この岸の石は、濡れすぎていた。今度は、自分が川へ引きずり込まれるかもしれない。


自分を、岸に繋ぎとめるものが必要だ。


アヤは短いほうの縄の一端を、柳の幹に二度巻きつけた。

輪を作り、くぐらせ、引き絞る。

縄を引く。

幹はびくともしなかった。


次は、自分の側だった。

アヤは自分の腰へ手をやった。

衣服の下に身につけている、護身用の防護帯。

太い革帯と金具で、身体へしっかりと固定されている。

迷っている暇はなかった。

アヤはスカートの裾を持ち上げると、幹から伸びる縄のもう一端を、防護帯の留め具へ巻きつけた。

一度では足りない。

もう一度。

外れないよう、きつく結ぶ。

濡れた布が脚へまとわりついた。

縄の長さは、水際に立てるぎりぎりだった。それ以上は、行けない。


「エミール様! こちらを――!」


岩にしがみつくエミールの腕が、ずるりと滑った。

アヤは岸の石に足をかけ、長い縄を握った。

流れへ向かって、投げる。

重りの枝が弧を描いて、水面に落ちた。

一度目は届かなかった。

すぐに引き戻す。

もう一度。


「掴んでください!」


今度は、枝がエミールの肩へ触れた。

水の中から手が伸びる。

枝を掴んだ。

岩から手を離した途端、流れがエミールの身体をさらった。

その瞬間、重みが一気にアヤの腕へ襲いかかった。


「――っ」


身体が前へ引かれる。

腰の縄がぴんと張り、防護帯が食い込んだ。柳の幹が、きしむ。

しかし、それ以上は進まなかった。

自分は、繋がれている。

アヤは足を踏ん張った。

川の流れが、エミールの身体を下流へ連れ去ろうとしている。

両手で縄を握り、少しずつ引く。

腕が震える。

帯がきしむ。

それでも離さなかった。


「そのまま……離さないでください!」


岩を離れたエミールの身体が、縄に引かれ、流れを斜めに横切るように岸へ寄ってきた。

やがて、足が川底の石をとらえた。

アヤは最後の力で縄を引き、浅瀬へ近づいてきた腕を掴んだ。

もう片方の手も伸ばす。

二人は、水際の石の上へ折り重なるように倒れ込んだ。


エミールが激しく咳き込み、水を吐いた。

その手は、まだ縄の先の枝を握ったまま離れなかった。指が、白くなっている。

息をしている。

それを確かめた瞬間、アヤの身体から力が抜けた。


「アヤ様っ! 隊長、こちらです!」


足音が、葦の向こうから迫ってきた。

駆けつけてきたのは、ジェフリーとマティアスだった。

川辺へ着いた二人は、そこでぴたりと足を止めた。

岸に、ずぶ濡れの騎士が一人、うつ伏せに倒れている。咳き込みながら水を吐いていた。

その隣に、同じくずぶ濡れのアヤが座り込んでいる。

髪は顔に貼りつき、スカートの裾は縄に引かれ、片側だけ腰近くまでめくれたままだった。

そして、衣服の下に隠れているはずの防護帯が覗き、その留め具に、縄が幾重にも巻きついている。

縄は、岸の柳の幹まで、ぴんと張って伸びていた。


「あ……」


アヤの顔が、見る間に赤くなった。

慌てて裾を戻そうとしたが、縄に繋がれていて、柳から離れることもできない。裾も縄に引っかかり、思うように動かせない。

ジェフリーは一瞬、完全に動きを止めた。

それから、無言で自分の上着を脱いだ。

つかつかとアヤの傍へ歩み寄ると、頭から肩へ、ふわりとそれを被せる。


「動かないでください」


ジェフリーは声を落として言った。

彼は片膝をつき、腰の短剣を抜いた。


「縄を切ります」


「……はい」


上着の下へ手を差し入れ、留め具に巻きついた縄へ、慎重に刃を入れる。

帯を傷つけないよう、濡れて硬く締まった縄を一巻きずつ断っていった。

その間、一度も顔を上げなかった。

アヤも、上着の前を握りしめたまま顔を上げられなかった。


「よし、エミール。まだ水を飲んでいるなら吐け」


少し離れた場所から、マティアスの声がした。

エミールの背を支えながら、こちらへは一度も振り返らない。

最後の一巻きが、ぷつりと切れた。

ジェフリーは短剣を納め、何も言わずに片手を差し出した。


「立てますか」


「は、はい……」


アヤは上着の襟をもう一度ぎゅっと握りしめてから、そっとその手を取った。

力を借りて立ち上がる。

だが、張りつめていたものが切れたせいか、足にうまく力が入らなかった。

一歩踏み出したところで、身体がふらりと傾いた。

すぐに、背へ腕が回った。

ジェフリーがアヤを自分のほうへ引き寄せ、そのまま支える。


「……すみません」


「無理をなさらず」


すぐ近くで声がした。

思っていたより、近い。

肩に掛けられた上着の向こうから、彼の腕の確かさが伝わってくる。

川の水に濡れて、あれほど寒かったはずなのに、触れているところだけが妙に温かかった。

アヤはなぜか顔を上げられなかった。

ジェフリーはそれ以上何も言わず、アヤの歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。



********



野営の焚火へ戻ると、アヤとエミールは乾いた服に着替え、肩から毛布を掛けられた。

橙色の炎が、二人の顔を照らしている。

エミールは背筋を伸ばして座っていた。唇にはまだ少し色が戻っていない。

その隣で、アヤも両手を膝の上に置いていた。

向かいに立ったジェフリーが、静かに口を開いた。


「何があった」


アヤが顔を上げる。


「あの、わたくしが――」

「俺が無理をしたからです」


エミールの声が、アヤの言葉に重なった。


「水汲みを少しでも早く終わらせたくて、足を滑らせました。アヤ様は、それを助けてくださっただけです」


ジェフリーの青い瞳が、エミールを見た。


「すべての責任は、俺にあります」


しばらく、誰も何も言わなかった。

焚火の中で、薪が一本、乾いた音を立てて崩れた。


「エミール。真実を話せ」


静かな声だった。

怒鳴ってはいない。けれど、その響きは、ごまかしを許さなかった。


「本当のことです」


エミールは、まっすぐジェフリーを見返した。


「これが、真実です」


アヤの指先が、毛布の端を強く握る。


「違います。桶をまとめて汲む方法は、わたくしが――」

「アヤ様は、手伝おうとしてくださっただけです」

「ですが――」

「いいえ」

「あの方法を言い出したのは――」

「アヤ様」


三度目に、エミールはアヤのほうを向いた。

唇はまだ青いままなのに、その目だけは、驚くほど静かだった。


「すべて、自分がやりました」


アヤは、言葉を呑み込んだ。

ジェフリーはしばらくエミールを見つめていた。

それから、ゆっくりと息を吐く。

誰も、その沈黙の意味を読み取れなかった。


「エミール。今夜は、馬の番を一人で務めろ。それから、本日の野営の片づけも、お前がやれ」


「はい」


「仕事を軽んじるな。水汲みも、お前に任せた仕事の一つだ」


「……はい」


エミールは深く頭を下げた。

隣で、アヤが息を詰める気配がした。



********



夜が更けた。


見張りの騎士たちが交代で歩き、焚火の明かりが地面に長い影を落としている。

エミールは散らばった荷を一つずつ戻し、馬の様子を確かめていた。

それが終わっても、まだ片づけるものが残っている。

背後から、足音が近づいた。


「エミール様」


アヤだった。

もう乾いた服に着替え、肩には外套を羽織っている。


「お手伝いいたします。これは、わたくしにも責任があることですから」


エミールが何か言うより早く、横から別の声が入った。


「アヤ様。すみません、ちょっと具合がわるいやつがいて。見てもらえますか?」


アルベルトだった。


「具合が? どなたですか」


「こっちです」とアルベルトは答えながら、すでに歩き出している。

アヤは一度だけエミールを振り返った。

彼はすでにその場を離れていた。

馬の列のほうへ移り、鞍や脚元を確かめながら、一頭ずつ見て回っている。

声をかける間もなく、仕事へ戻ってしまったらしい。

アヤはその背を見つめたあと、アルベルトのあとを追った。


二人が焚火から少し離れたところまで来たころ、アヤが足を止めた。


「アルベルト様、具合の悪い方はどちらに?」


不思議そうに辺りを見回すものの、それらしい人影も見当たらない。

アルベルトは悪びれた様子もなく、軽く片手を上げた。


「今のは口実です」


アヤの眉がわずかに寄る。


「アヤ様、今夜はあいつに構わずお休みください」


そこでようやく、アヤにも分かった。

具合の悪い者など、最初からいなかったのだ。

アルベルトは、エミールから自分を離すために声をかけたらしい。

けれど、それでは困る。

あの方法を言い出したのは、自分なのだから。


「でも、エミール様は、わたくしのせいで一人で罰を――」

「分かっています、分かってますって」


アルベルトの声は、ふだんより少しだけ穏やかだった。

アヤが口をつぐむ。


「あいつは、あなたをかばっているんですよ。騎士として」


アルベルトは、少し離れたところで馬の世話をしているエミールの背を見た。


「川で助けてもらった礼のつもりなんでしょう。あいつなりの誠意です。それを、あなたが手伝ってしまったら」


アルベルトはアヤに視線を戻した。


「わかるでしょう?あいつの気持ちを、受け取ってやってください」


アヤの肩が、小さく揺れた。

しばらく、アヤは黙っていた。

焚火から、細い煙が夜空へ昇っていく。


「……ジェフリー様も、それを分かって、エミール様に今の仕事を?」


「さあ」


アヤが、少し意外そうにアルベルトを見る。

彼は口の端をわずかに上げた。


「でも、隊長があの話をそのまま信じたとは、俺には思えませんけどね」


アヤは、もう一度エミールを見た。

それから、静かに頷いた。


「……分かりました」


今度は、エミールのもとへ向かわなかった。



********



アヤは、焚火のそばへ戻って腰を下ろした。


野営地は、すでに静まりかえっていた。

天幕のあいだを見張りの足音が行き来し、遠くで馬が鼻を鳴らしている。さっきまで騎士たちの話し声で賑わっていた火の周りには、もう誰もいなかった。


膝の上には、ジェフリーの上着が畳んで置かれていた。

火の傍で乾かしたので、川の冷たさはもう抜けている。返さなければと思いながら、まだ手放せずにいた。


熾火が、ぱちりと小さく弾けた。

アヤは膝を抱えるように背を丸めた。


――わたくしが、余計なことを言わなければ。


桶を縄でつなぐ方法は、間違っていなかったと思う。

けれど、あのとき川に落ちたのは、エミールだった。

流れの中で浮き沈みしていた栗色の髪を思い出すと、今になって指先が冷えた。もし縄の長さが足りなかったら。もし、誰も来なかったら。

考えるたびに、胸の奥が縮む。


足音が近づいてきたのは、そのときだった。


「アヤ様」


顔を上げると、焚火の向こうにジェフリーが立っていた。

上着を着ていない。シャツの上に外套だけを羽織っている。


「もう遅い。明日も移動があります。そろそろ休んでください」


「……はい」


答えたものの、アヤは動かなかった。

ジェフリーも急かさなかった。

しばらくして、アヤは熾火へ目を落としたまま口を開いた。


「わたくしのせいで、エミール様を危険な目に遭わせてしまいました」


ジェフリーは少しのあいだ立っていたが、やがて焚火の反対側に腰を下ろした。


「わたくし……皆さまのお役に立ちたかったのです」


ジェフリーは黙って聞いている。


「エミール様が何度も水を運んでいらしたから、もっと楽にできる方法があるのではないかと思って……。ただ、それだけでした」


言葉が、ひとつずつ零れていく。


「エミール様を、助けたかったのです」


最後の言葉は、少し小さくなった。

悪意など、どこにもなかった。

だからこそ余計に、自分が怖かった。


「それが、あんなことになるなんて」


火の粉がひとつ舞い上がり、暗闇の中へ消えた。

橙色の光が、二人の横顔の輪郭だけを照らしている。

しばらくして、ジェフリーは静かに口を開いた。


「新人が水を汲むときにも、決められた手順があります」


アヤが顔を上げる。


「水を汲む場所の選び方。足場の確かめ方。桶へ水を入れ、野営地まで運ぶまでの順序。どれも地味な決まりです」


ジェフリーは熾火へ視線を向けた。


「ですが、その一つ一つは、黒騎士が長い遠征の中で積み重ねてきたものです」


アヤは黙って聞いていた。


「一見、何気ない作業の中にも、生き残るための知恵があります。エミールは今、それを学んでいる最中です」


その言葉が、静かに胸へ落ちた。

アヤは膝を抱えるように指を組みなおした。


「……わたくしは、自分のやり方なら、もっと助けられると思ってしまいました」


膝を抱えた腕に、力がこもる。


「王宮では、わたくしの考えや思いつきが役に立つこともありました。でも、ここでは違うのですね。わたくしの発想も、思いつきも、通じない世界にいるのだと……」


そこで、息が詰まった。


「今日ほど、自分のことが怖いと思ったことはありません」


誰かを助けたいと思ったその手で、知らないまま誰かを危険へ近づけてしまうことがある。

その事実が、何より怖かった。


焚火の中で、薪が崩れた。

ジェフリーは、すぐには何も言わなかった。

やがて、静かに名を呼んだ。


「アヤ様」


名前を呼ばれ、アヤは顔を上げた。


「明日も、エミールと一緒に水を汲んでください」


思いがけない言葉だった。

アヤは瞬きをする。


「今度は、まず隊のやり方を確かめてください。分からないことは、周りを頼ってください」


ジェフリーの青い瞳が、初めてアヤのほうを向いた。


「知らないのであれば、知ればいい」


アヤは何も言えなかった。

もう水には触れるなと言われても仕方がないと思っていた。

なのにジェフリーが話しているのは、明日のことだった。

胸の奥がいっぱいになり、言葉にしようとすると何か別のものまでこぼれてしまいそうだった。


「今日、あなたは自分の知恵を使って、エミールを助けた」


アヤの指が、わずかに動いた。


「あなたの知恵や発想まで、今日のことで疑わないでください」


ジェフリーはまっすぐアヤを見ていた。


「それは、あなたの財産です」


胸の奥が、小さく揺れた。


「私は、あなたが考えることをやめてほしくありません」


アヤは何かを言おうとして、唇が震え、結局閉じた。上着を握る手に、無意識に力がこもる。


「そして、ご自分を信じてほしいのです。基本の手順を知ったうえで、あなたの聡明さが、もっとよい方法を見つけるでしょう。私は、そう信じています」


アヤの視界が、ふいに滲んだ。

慌てて顔を伏せる。膝の上の布に、小さな染みが落ちた。


――こんな失敗をしたのに。


お客様のように扱われるのは、いつものことだった。

何かを任されなくても、守られる側に置かれても、それを受け入れてきた。

今日は、自分のせいでエミールを危険な目に遭わせた。

もう皆と同じように、何かを任せてもらうことはできないかもしれないと思っていた。

それなのに、この人は明日も同じ川に立てと言ってくれた。


「……はい」


ようやく出たアヤの声は、ひどく小さかった。

ジェフリーは何も答えなかった。

ただ、いつものように静かに頷く。

アヤはもう一度、熾火を見た。

さきほどまで胸の底に沈んでいた冷たいものが、ほんの少しだけ形を変えたような気がした。



********



エミールが片づけを終えて天幕に戻ったのは、野営地の誰もが寝静まったころだった。


膝をつくようにして入口の布を持ち上げ、狭い天幕の中へ身体を滑り込ませる。

テオは、すでに毛布にくるまって寝息を立てていた。

エミールは、自分の寝床の端へ腰を下ろした。

全身が重い。

腕も脚も、もう動かしたくなかった。

細く息を吐く。


そのとき、気づいた。

枕元に、小さなカップが置かれている。

そっと手に取ると、掌がじんわりと温まった。

湯気が、ほんのわずかに残っている。

鼻先へ近づけると、甘い花の香がした。

一口飲むと、甘い花の茶と蜂蜜の味が広がった。

カップの下に、折り畳まれた小さな紙片が挟まっている。

広げてみると、丸みのある、読みやすい字が並んでいた。


――甘いものは、体の疲れをいやしてくれるそうです。


差出人の名前は、どこにもなかった。

誰が置いたのかは、すぐに分かった。

今夜、自分の仕事を手伝おうとしていた人を、エミールは一人しか知らなかった。


エミールはしばらく、紙片を見つめていた。

それから、そっとカップを両手で包み、もう一度口をつけた。

甘かった。

優しい熱が、喉を通って胸の奥まで落ちていく。

もう一口。

今度は、少しゆっくり飲んだ。

飲み干すころには、身体の冷えも少しだけ遠のいていた。


エミールは空のカップを枕元へ戻し、紙片を丁寧に折り畳んだ。

天幕の外では、見張りの足音が規則正しく行き来している。

毛布を引き寄せながら、エミールは思った。


明日も、水を汲もう。



********


翌朝、一行はダリアへ向けて野営地をあとにした。


エステリアの王都を発ってから、すでに数日が経っている。日が傾けば街道を外れて天幕を張り、朝になればそれを畳んで、また馬を進める。そんな旅の暮らしにも少しずつ慣れてきたとはいえ、硬い地面の上で眠ることまで平気になったわけではなかった。

だから出発前、ダリアでは物資を補充するため数日滞在する予定だと聞かされてからというもの、移動中の話題は自然と町へ着いてからのことに向いていた。


「今夜、寝台で眠れるなら、それだけで十分だな」


馬上からそんな声が上がれば、すぐ隣を進んでいた騎士が笑う。


「昨日は毛布さえあれば文句はないと言っていなかったか?」


「寝台があると知ってしまったんだ。話は別だろう」


あちこちから笑い声が上がった。

温かい料理が食べたい。酒があれば一杯くらい飲みたい。久しぶりにきちんと洗った服を着たい。

口にすることはそれぞれ違っていても、町に着くことを心待ちにしているのは皆同じらしい。


アヤもまた、ひそかにダリアでの滞在を楽しみにしていた。

もし宿へ泊まれるのなら、まずは湯浴みがしたい。

旅に出てからは、水や濡らした布で身体を拭うことがほとんどだった。昨日の川では全身を濡らし、着替えることはできたものの、髪までゆっくりと洗う余裕などなかった。

久しぶりにたっぷりと湯を使って、髪も身体もきれいにしたい。今着ている旅装も洗いたかったし、着替えて袋にしまった肌着も、この機会にまとめて洗ってしまえたらと思う。

そんなことを考えていると、それだけで今日一日の道のりが少し短くなったような気がした。


いつもより賑やかな声を連れたまま、一行はやがてダリア領へ入った。

初めのうちは、それまで通ってきた土地とさほど変わらないように見えた。街道の両側には畑が続き、初夏の風がその上を渡っている。

しばらく馬を進めるうちに、アヤは何かがおかしいことに気づいた。


道の左右に広がっているのは麦畑だった。

すでに穂は出ている。それなのに麦はまばらで、背丈もひどく揃っていなかった。よく伸びた茎の隣で、その半分ほどしか育っていないものが風に揺れ、ところどころでは畝のあいだから土が大きく覗いている。

穂そのものも細い。

まだ青々とした一角があるかと思えば、そのすぐ隣では、同じ時期に育ったものとは思えないほど早く黄ばんだ麦が俯いていた。雑草の伸びた場所もあり、倒れた茎がそのままになっているところさえある。

アヤは手綱を握ったまま、畑を目で追った。

土地が違えば作物の育ち方も変わるのだろう。それでも、これまで街道沿いで見てきた麦畑とは明らかに様子が違っていた。


畑がなくなっているわけではない。

麦も生きている。

なのに、そこには人の手が十分に届いていないような荒れ方があった。

気がつけば、先ほどまで続いていた笑い声もほとんど聞こえなくなっていた。

黒騎士たちも同じ違和感を覚えたのだろう。誰かが何かを命じたわけでもないのに、皆の視線が畑や街道の先へ向くようになっている。


やがて麦畑の向こうに、低い屋根が見え始めた。

ダリアの町だった。

街道に沿うように家々が並び、その奥にもいくつかの建物が重なっている。大きな町ではないが、旅の途中で立ち寄る土地としては、さほど珍しい造りには見えなかった。


ところが、近づくほどに別の違和感が濃くなった。

人がいない。

家はある。煙突から細く煙の上がる家もある。人が暮らしていないわけではないはずなのに、道端に立つ者も、家の前で話をする者もいなかった。

子どもの声さえ聞こえない。

馬の蹄が土を踏む音と、二台の幌馬車が立てる車輪の軋みだけが、静まり返った道によく響いた。


そのとき、先頭近くを進んでいたジェフリーの視線が、街道脇の一軒へ向いた。

閉じかけた窓の奥に、人影があった。

薄暗い室内から、こちらをじっと見ている。

ジェフリーが顔を向けた途端、その影は奥へ引いた。

それで終わりではなかった。

次の家にも、その向こうにも、同じような気配がある。

窓板の隙間から。戸口に掛けられた布の向こうから。暗い室内の奥から。

姿を見せようとはしないのに、いくつもの目だけが一行の動きを追っていた。


ジェフリーの視線が、一軒の窓からゆっくりと幌馬車へ移った。

家々の奥から向けられている目もまた、同じように馬車の動きを追っていた。


馬を。二台の幌馬車を。その幌の下に積まれた荷を。


ジェフリーの表情が変わった。

少し進んだところで、彼が片手を上げる。

それまで続いていた蹄の音が次々と止まり、一行は街道の途中で静かに足を止めた。


「予定を変更する。今夜はダリアには泊まらない。町から離れた場所で野営する」


先ほどまでわずかに残っていた和やかな空気も、その一言で消えた。

誰も異議を唱えなかった。

アヤだけが、周囲の変化についていけずにいた。

ようやく町へ着いたのだ。

今夜は寝台で眠れるかもしれない。湯を使えるかもしれない。ほんの少し前まで、皆でそんな話をしていたはずなのに、騎士たちはもう町を離れることを当然のように受け入れている。


「マティアス、後方を固めろ。ヨハンとグスタフを両脇につけろ」


ジェフリーの言葉を受けると、マティアスはすぐにヨハン・リースとグスタフ・レンツを呼び寄せ、二人を伴って隊列の後方へ下がっていった。

その動きを確かめるより先に、ジェフリーはアヤの馬へ寄ってくる。


「アヤ様、馬を降りて幌馬車へ移ってください。野営地へ着くまで、外へ顔を出さないでください」


「え……?」


アヤが戸惑っているあいだに、テオが馬から降りてこちらへやってきた。

そのままジェフリーは隊のほうへ向き直る。


「エミール、テオ。アヤ様の乗る馬車から離れるな。アルベルトは前方の四名を連れて、二台の幌馬車を囲め」


名前を呼ばれた者たちが、ほとんど言葉を交わすことなく動き始めた。

前を進んでいた騎士たちが馬首を返し、後方からも馬が寄ってくる。それまで街道に長く伸びていた隊列がみるみる縮まり、二台の幌馬車を包み込むような形へと変わっていった。

アヤには、その迷いのなさのほうが恐ろしかった。


誰も理由を尋ねない。

ジェフリーはまだ、この場所が危険だとは一言も言っていない。それなのに皆が、何を守らなければならないのか分かっているように動いている。


「アヤ様」


テオに促され、アヤはようやく差し出された手を取った。

馬から降りながら振り返ると、ジェフリーはすでに前方にいたセドリックを呼び寄せていた。


「町の様子を探ってこい。家々にいる者たちの様子がおかしい。今、この土地で何が起きているのか調べろ」


セドリックは町のほうへ目を向けた。


「領主についても?」


「ああ。ただし二日でいい。できる範囲で調べろ。剣を抜く必要が出たら、その時点で引け。ここはエステリア領だ。余計な揉め事は避けたい」


ジェフリーは一度、来た道を振り返る。


「隊はダリア領へ入る手前で通った川まで戻る。今夜はその周辺に野営地を張る。調査を終えたら、そこへ来い」


セドリックは一度だけ頷き、そのまま町の奥へ向かって馬を走らせた。

遠ざかっていくその背中を、アヤはしばらく見つめていた。

何が起きているのか、まだ分からない。

ただ、これほど多くの騎士が一斉に警戒を強める理由が、この静かな町のどこかにある。

そう考えると、さきほどまで気にも留めなかった閉じた窓や扉が、急に別のものに見えてきた。


「いったい、何が起きているのですか?」


不安のまま尋ねると、テオはアヤを幌馬車へ案内しながら、町の家々へ視線を走らせた。


「たぶん、このまま町へ入るのは危ないんだと思います」


「ダリアが?」


アヤが思わず聞き返したところで、エミールが馬を寄せてきた。

彼は家々から目を離さないまま、周囲に聞こえない程度まで声を落とす。


「さっき、あっちの家の窓からこっちを見ていた男がいました」


視線だけで一軒の家を示した。


「奥に引っ込むとき、剣らしいものが見えたんです。腰に提げていたのか、手に持っていたのかまでは分かりません。でも、わざわざ姿を隠して、武器を持ったまま俺たちを見ていた」


アヤはその家へ目を向けた。

窓は閉ざされ、もう誰の姿もない。


「少なくとも」


エミールはさらに声を抑えた。


「歓迎されてはいません」


アヤは返す言葉を失った。

さきほどまでは、ただ静かなだけに見えていた町だった。

今はその沈黙の向こうから、家々に潜むいくつもの視線が、こちらをじっと見つめ続けているように感じられた。

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