24. 同じ距離と、遠回り
焚き火の薪が崩れ、赤い火の粉が夜気の中へ舞い上がった。
先ほどまでそれぞれの仕事に戻りかけていた騎士たちは、アヤの言葉を聞いて、再びこちらへ注意を向けている。
――龍の涙を手にするまで、絶対に髭を生やしてはならない。
唐突に聞こえたその宣言にも、もちろん理由はあった。
「エステリアでは、医療に携わる者のほとんどがお髭を生やしておりません」
アヤは腰のあたりで両手を重ね、集まった騎士たちを見回した。
「身を清潔に保つという意味もありますが、それだけではないんです。感染する病を扱うとき、治療する側まで病に倒れてしまえば、ほかの患者を助けることもできなくなりますから」
とりわけ男性の場合、朝にきれいに剃ったとしても、夕方までまったく伸びないとは限らない。
口や鼻を布で覆わなければならない治療では、ほんのわずかな髭であっても、肌と布のあいだに隙間を作る原因になる。そのためエステリアでは、医療従事者が髭の生える部分へ専用の軟膏を日常的に塗り、伸びる速さそのものを極端に抑えているのだと、アヤは説明した。
普段からきちんと使っていれば、遠征などで何日も剃刀を使えない状況になっても、ひと月ほどはほとんど髭を剃らずに済む。
そこまで黙って聞いていたマティアスが、わずかに眉を寄せた。
「つまり、我々も医者と同じことをせねばならないということですか?」
「医療従事者です。医者になれということではありません」
すぐさま訂正され、マティアスが口を閉じる。
アヤは腰のポーチへ手を入れると、薄く折り畳んであった一枚の布を取り出した。
広げれば、鼻から口、顎のあたりまでを覆える大きさがある。見たところは薄い布にすぎないが、その縁へ指を沿わせると、中には細く曲げられる金属が仕込まれていた。
「これは、かなり細かな粒子のようなものまで通しにくくした布です。ここに曲げられる金属が入っていますから――」
アヤは自分の顔へ布を当て、鼻筋の両脇から頬へ向かって、指でゆっくり形を整えていった。
「このように、その人の顔に合わせて密着させることができます」
頬、口元、顎へと指先で縁を押さえるたび、布は顔の凹凸に沿うように馴染んでいく。
「ですが、お髭がありますと、その部分だけ肌とのあいだに隙間ができてしまいます。せっかく顔を覆っていても、そこから外のものが入り込んでしまえば意味がありません」
布を外したアヤの表情から、それまでの柔らかさが少し薄れた。
「ドラゴンの瘴気がどのようなものなのかは、まだ分かっていません。もし、それが毒を含んだ霧のようなものだったなら――この布が、わたくしたちの命を守る防具になるかもしれません」
騎士たちは黙っている。
ジェフリーには、どうしても腑に落ちないところが残った。
黒騎士として遠征を重ねる中で、危険な空気を避けるため、口や鼻を布で覆うことはこれまでにもあった。そのたびに髭の有無まで問題にされた記憶はない。髭を生やした騎士も珍しくなかったが、それが原因で何か支障が出たという話も聞いたことはなかった。
「アヤ様。私たちも、炭鉱などへ入る際には顔へ布を巻くことがあります」
ジェフリーがそう告げると、アヤは手の中の布を持ったまま彼へ顔を向けた。
「髭を生やした者もおりますが、そのために剃らせたことはありません。それでも問題なく通ってきました。髭について、そこまで神経質になる必要があるのでしょうか」
反論というより、これまでの経験から出た疑問だった。
アヤもすぐには否定せず、一度手元へ視線を落とす。
「普通の布でしたら、それでもよいのかもしれません。ですが、これは皆さまがこれまでお使いになった布より、さらに細かなものを通しにくくするためのものです」
折り目を指先で整えながら、アヤは続けた。
「エステリアが感染する病に少しずつ対処できるようになったのは、病そのものへの治療だけではありません。それに携わる人たちが、自分まで感染しないための方法を積み重ねてきたからでもあります」
そして布を持ち上げ、騎士たちへ見せた。
「皆さまにも一枚ずつお渡しします。洗えば何度でも使えますから、必要なときには必ず身につけてください。そのためにも、お髭は剃っていただきたいんです」
今度こそ話が終わったかと思われたところで、マティアスが再び口を開いた。
「アヤ様。ひとつだけ」
アヤが彼を見る。
「騎士の中には、髭を男の象徴だと考えている者もおります。布の縁に触れる部分だけを剃る、というわけにはいかないでしょうか」
つまり、全部なくしてしまう必要まであるのか。
その問いを聞いたアヤは、ほんの少し目を丸くした。
なるほど、そう来たか。
そんな考えがそのまま表情に出たような顔でしばらくマティアスを見ていたが、やがて何かを思いついたようにジェフリーへ視線を移した。
「ジェフリー様、ちょっとお顔を」
「……顔を?」
戸惑いながらも、ジェフリーは背の高い身体を少し屈めた。
それでも足りなかったらしい。アヤがさらに一歩近づいてくる。
気づけば、互いの顔が思いのほか近いところにあった。
ジェフリーは、不意に呼吸の置き場まで分からなくなったような気がした。
別に後ろめたいことなど何もない。ただ顔を見せろと言われただけだ。それなのに、これほど近くからアヤに見つめられていると思った途端、今の自分がどんな表情をしているのかが無性に気になりはじめる。
耳のあたりへ、じわりと熱が集まった。
そんなジェフリーの内側など知る由もなく、アヤはいたって真剣な顔で彼の頬を見ている。
やがて、指先がそっと触れた。
頬の下から、顎へ。
髭の生え方を確かめるように指先がゆっくりとなぞっていくうち、そこだけ感覚が妙に鮮明になった。アヤの指が動くたび、触れた場所を意識せずにはいられない。
まだ続くのだろうか。
ジェフリーがとうとう視線を伏せかける。
これ以上されたら、さすがに平静な顔を保てる自信が――。
「すこし、ありますね。お髭」
あまりにも実務的な声だった。
ジェフリーが何か返すより早く、アヤはすでに離れ、そのまま幌馬車へ向かって小走りに去っていった。
残されたジェフリーとマティアス、それに周囲の騎士たちは、揃ってその背中を目で追う。
いったい何をするつもりなのか。
幌馬車の中から箱を開ける音がする。何かを動かし、また別の箱を探るような音が続いたあと、アヤは何食わぬ顔で戻ってきた。
「ジェフリー様。こちらを、先ほどわたくしがしたのと同じように着けてください」
差し出された防護布を受け取り、ジェフリーは見よう見まねで顔へ当てた。
「そのまま動かないでくださいね。失礼します」
アヤの指がまた伸びてくる。
鼻の両脇を押さえ、頬へ沿わせ、顎の線へと下りていく。布の縁と肌とのあいだに隙間が残っていないか、一つずつ確かめているだけだと分かっているのに、先ほど触れられたばかりの場所を再びなぞられると、意識はどうしてもそこへ引き戻された。
ジェフリーは黙って耐えることにした。
やがてアヤが一歩離れる。
「これで大丈夫です。では――この布を着けたまま、しばらく咳もくしゃみもせずにいられたなら、皆さま、好きなだけお髭を生やしてくださって構いません」
ジェフリーには、その言葉の意図がまだ掴めない。
アヤがほんの少し距離を取った。
「よろしいですね?」
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
不意に乾いた音がして、次の瞬間、細かな粉がジェフリーの目の前へ舞った。
「――っ!」
鼻の奥へ鋭い刺激が走り、ジェフリーはたまらず顔を背けて咳き込んだ。
すぐそばにいたマティアスも、さすがに巻き込まれてはかなわないと思ったのか、腕で口元を覆いながら素早く後ろへ下がる。
「ア、アヤ様……っ、少し、お待ちください……!」
咳の合間にどうにか声を絞り出し、ジェフリーは両手を上げてこれ以上の粉を防ごうとした。
今度は鼻が耐えられなかった。
一度くしゃみが出れば、続けてもう一度。目元までじわりと熱くなってくる。
そこでようやく、アヤが手を止めた。
その手に握られていたのは、料理に使う胡椒を入れた小瓶だった。
周囲の騎士たちは、誰一人として笑ってはいなかった。
突然のことに目を見開いている者もいれば、咳き込む隊長とアヤを交互に見ている者もいる。ただ、先ほどまで漂っていた「髭くらい」という空気だけは、もうどこにも残っていない。
「ジェフリー様」
アヤは真っ直ぐに彼を見る。
「これは胡椒だから、まだこれで済んでいるんです」
咳を抑えながら、ジェフリーが目を向ける。
「もしこれが、毒霧や瘴気のような、身体に害を及ぼすものだったら――今頃、死んでいたかもしれませんよ」
その場に、しばらく言葉は落ちなかった。
火の中で薪が崩れ、赤い火の粉がひとつ、夜の闇へ上っていく。
それきり、髭についてアヤへ反論する騎士はいなかった。
********
野営地がようやく静けさを取り戻したころには、空に残っていた夕暮れの色もすっかり消えていた。
焚き火は何か所かに分かれて燃え、食事を終えた騎士たちは、見張りへ立つ者、武具を整える者、早くも毛布を広げ始める者と、それぞれ夜の仕事へ移っている。
その一角に、アヤは小さな湯桶と清潔な布、それから先ほどとは別の薬壺を用意していた。
食事を終えた者から順に呼び、目の前へ座らせていく。
「今夜使うのは、先ほどお話しした、髭が伸びるのを遅らせる軟膏とは別のものです」
薬壺の蓋を開けながら説明すると、何人かの騎士が興味深そうに中を覗き込んだ。
「皆さまは、すでにお髭が生えていらっしゃいますでしょう。ですから、まず今ある毛の根を弱らせます。今夜これを塗っておけば、明日の朝には、温かな布で拭うだけでもぽろぽろ取れるようになります」
その処置を済ませてから、先ほど説明した成長を抑える軟膏を使うほうが、薬の効きが格段によくなる。
そこまで聞いたところで、誰かが自分の顎を確かめるように撫でた。
アヤは薬壺を少し持ち上げる。
「ただし、これは塗る場所を間違えると困ったことになります。眉や髪の生え際についてしまえば、そちらの毛まで抜けやすくなりますから」
さすがに何人かの視線が、自分の眉へ上がった。
「ですから、今夜はわたくしが塗ります。どこまで塗ればよいのか、覚えてください」
それからアヤは一人ずつ、温かい湯へ浸して絞った布で顔を清め、髭の生えている範囲を確かめながら、慎重に軟膏を塗っていった。
頬へ薄く伸ばし、口元では唇へ触れないよう指を止め、髪の生え際に近づけば、境目を確かめてから塗る。単純な作業に見えて、案外気を遣う。
「朝までは、お顔を洗わないでください。もし薬を落としてしまったら、わたくしのところへ来てください。もう一度塗りますから」
同じ注意をそれぞれに伝えながら処置を終えていくうち、薬壺の中身も少しずつ減っていった。
やがて、残ったのは一人だけになった。
アヤは湯桶を持ち直し、少し離れた焚き火へ目を向ける。
「さて。最後はジェフリー様ですね」
ジェフリーは、ほかの隊員から少し離れた場所に一人で座っていた。
自分で起こした小さな焚き火で飲み物を温めながら、いつもより幾分深く背を丸めている。朝から途切れることなく続いた移動と野営の準備で、思っていた以上に疲れが出たのだろう。
アヤがその正面へ腰を下ろすと、ジェフリーの身体が目に見えないほどわずかに強張った。
その変化を見て、アヤの口元がゆるむ。
「そんなに構えなくても大丈夫です。もう、胡椒をかけたりはしませんよ」
「……それを先に聞けたのは助かります」
真面目な顔で返したものの、先ほどとは違う理由で落ち着かないことを、ジェフリーはわざわざ説明するつもりはなかった。
アヤは湯桶へ布を浸し、湯気の立つそれを両手でしっかり絞る。
やがて布を持った手が、自分の顔へ伸びてきた。
ジェフリーの胸が、ひとつ大きく脈打った。
頭で考えるより先に、顔がわずかに横へ逃げていた。
「自分でしますので」
「それでは困ります」
アヤはあっさり言った。
「先ほどの胡椒が、まだお顔についているんです。ご自分では見えないところもありますし、きちんと落としてからでないと薬を塗れません」
「ですが――」
言い終える前に、アヤの手が後頭部へ添えられた。
押さえつけるような力ではない。ただ、逃げていった顔をこちらへ戻すように、そっと促すだけの手だった。
それなのにジェフリーは、今度こそ動けなくなった。
温かな布が頬へ触れる。
先ほど浴びた胡椒を拭うため、アヤは鼻の脇から頬へ、頬から顎へと、何度も布を滑らせていった。少し冷えていた皮膚に温かな布が触れるたび、ほっとするような心地よさが広がる。そのすぐ向こうにアヤの指があると思うと、別の感覚まで混じってしまうのが厄介だった。
目を閉じれば、触れられていることばかりが鮮明になる気がする。
かといって目を開けていれば、すぐそばにいるアヤの顔が視界へ入る。
結局ジェフリーは、焚き火の炎へ視線を置いたまま、じっとしていることしかできなかった。
「これで胡椒は取れたと思います」
何度か丁寧に拭ったあと、アヤは新しい布で顔に残った水気を取り、今度は薬壺へ指を伸ばした。
「では、軟膏を塗ります。少し冷たいかもしれません」
言葉どおり、指先に取られた薬はひやりとしていた。
顎の下へ触れ、そこから顔の輪郭に沿ってゆっくりと伸ばされていく。
「朝までは、拭いたり洗ったりしないでくださいね。もし薬が取れてしまったら、わたくしのところへ来てください。もう一度塗りますから」
もう一度。
その言葉だけが、妙に耳へ残った。
もし薬を落としてしまえば、またこうしてアヤが目の前へ座り、顔へ触れることになる。
――それなら。
そこまで思った瞬間、ジェフリーは自分の考えに気づいた。
何を考えているんだ、俺は。
無意識に顔を伏せようとしたところで、顎へ添えられていた指に止められる。
「ほら。動いてはいけませんよ」
アヤは困ったように笑いながら、彼の顔をもう一度少し上へ向けた。
「間違えて眉にでもついたら、本当に抜けてしまうんですから」
「それは……避けたいですね」
「わたくしも、ジェフリー様の眉までなくしてしまうのは困ります」
ほんの少しだけ笑いを含んだ声に、ジェフリーの肩から力が抜けた。
アヤはまた真剣な顔へ戻り、顎の下から輪郭へ沿って、必要なところだけへ丁寧に軟膏を伸ばしていく。
しばらくして、その指の動きが少しゆっくりになった。
「先ほどは、ごめんなさい」
ジェフリーが視線を向ける。
「胡椒です。突然あんなことをしてしまって」
申し訳なさそうに眉を下げながらも、アヤは作業の手を止めなかった。
「あのままお話を続けても、皆さま、きっと納得してくださらないと思ったんです。隊長であるジェフリー様に分かっていただければ、ほかの方も従ってくださるのではないかと……」
実際、ジェフリー自身も、最初は髭の件をどう断ろうかと考えていた。
それをわざわざアヤへ教える必要はない。
「問題ありません」
ジェフリーは焚き火へ目を落としたまま、静かに答えた。
「アヤ様が、俺たちの命について考えてくださってのことですから」
アヤの指先の動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
「……俺たち」
アヤが、確かめるようにその言葉だけを繰り返した。
ジェフリーが顔を上げれば、すぐ近くで黒い瞳とぶつかった。
そこで初めて、自分がどんな言葉を使ったのかに気づく。
普段アヤへ向けている改まった言葉ではない。
隊の中で、部下や仲間をひとまとめにするとき、意識することもなく使っている言葉だった。
「すみません。つい、隊の者と話すときのような口調が出ました」
少しだけ視線を逸らしたジェフリーに、アヤは首を横に振った。
「いいえ」
その声は、先ほどまでよりも柔らかかった。
「ずっと、そうしてください」
ジェフリーが再び彼女を見ると、アヤは穏やかに笑っていた。
「わたくしも、皆さまと同じ距離にいるように思えて……とても嬉しいんです」
その言葉を口にしたアヤの胸の奥で、ずっと残っていた小さな冷たさが、焚き火へ手を差し出したときのように、ゆっくりほどけていった。
それ以上は言わず、アヤは再び手元へ視線を落とした。
「もう少しです」
焚き火の炎が、風に揺れた。
橙色の光がアヤの頬をかすめ、黒髪の縁だけを淡く浮かび上がらせる。
ジェフリーは、すぐそばにあるその横顔を見ていた。
先ほどまで感じていた疲れが消えたわけではない。それでも、目の前にあるアヤの穏やかな空気に触れているうちに、胸の内側までゆっくり温められていくような、不思議な感覚が残った。
気づけば、膝の上に置いていた手がアヤの腕へ向かって動いていた。
何かを伝えようとしたわけでもない。
呼び止める理由があったわけでもない。
ただ、その瞬間には触れたいと思った。
指先が届くまで、あとわずかだった。
そこで、ジェフリーの手は止まった。
今ここで触れれば、この近さそのものが崩れてしまうような気がした。
せっかくアヤが「同じ距離」と言って笑ったその場所から、かえって彼女を遠ざけてしまうような。
ジェフリーはしばらく動かなかった。
やがて、伸ばしかけた手を何事もなかったように膝へ戻す。
アヤがそれに気づいたのかどうかは、分からなかった。
最後の箇所まで軟膏を塗り終えると、彼女は指先を離し、ジェフリーの顔をひととおり確かめた。
「これで大丈夫です。朝まで、そのままにしておいてくださいね」
焚き火の中で、乾いた薪がひとつ崩れた。
ジェフリーは返事をせず、ただ小さく頷いた。
頬にはもう、アヤの指先は触れていない。
それなのに、先ほどまでそこにあった温度だけが、なぜかまだ消えずに残っているような気がした。
********
翌朝、野営地にはまだ夜の冷たさがわずかに残っていた。
騎士たちはすでに出立の準備を始めており、馬具を確かめる金具の音や、荷を括る縄の擦れる音が、朝の静かな空気の中に重なっている。
ジェフリーは水場で顔を洗うと、濡れたままの顔を布で拭った。頬から顎へ何度か滑らせたところで、白い布の上に、細い毛が点々と付いていることに気づき、手を止める。
布を広げてみれば、そこに残っていたのは短い髭だった。
指先で軽く触れるだけでも、数本が布の繊維から簡単に離れる。昨夜、アヤから聞かされてはいたものの、実際にこうして目にすると妙な感じがした。
「本当に抜けたな……」
思わず漏らした声に、すぐ後ろから返事があった。
「まだ全部ではありませんけれど」
振り返ると、朝の支度を終えたアヤが立っていた。手には、昨夜使っていたものとは別の薬壺を持っている。
「抜けずに残ったお髭は、そのまま普通に剃ってください。今夜も、まだ残っているところには昨夜の軟膏を使います。お髭が目立たなくなるまでは、何度か同じ処置を続けたほうがいいと思います」
そう言いながら、アヤは持っていた別の壺をジェフリーへ差し出した。
「こちらは、ジェフリー様の分です。今度は、お髭の成長を遅くするための薬です」
ジェフリーは差し出された壺を受け取った。
「朝、お髭を剃ったあとに塗ってください。場所は、昨夜わたくしが塗ったところと同じですから」
掌の中へ収まった小さな壺へ目を落とす。
昨夜のように、アヤが塗ってくれるわけではないらしい。
そんな考えがふと浮かんだ、ちょうどそのときだった。
「ジェフリー隊長!」
少し離れたところから呼ぶ声がした。
振り向けば、エミールがこちらへ走ってくる。ジェフリーの前まで来ると、急いできた勢いを抑えるように足を止めた。
「マティアス副隊長がお呼びです。進路を変える必要があるとのことで」
「進路を?」
先ほどまでとは違う緊張が、ジェフリーの表情に浮かんだ。
顔を拭いていた布を置き、そのままエミールとともに向かおうとした瞬間、袖口が後ろへ軽く引かれる。
思わず振り返ると、アヤがジェフリーの袖をつまんでいた。
目が合うと、彼女は何も言わず、ジェフリーの手にある薬壺へ視線を向ける。それから指先で壺を示し、忘れないでくださいね、とでも言いたげに見上げてきた。
ジェフリーは薬壺へ目をやり、それからエミールへ向き直った。
「準備ができたらすぐ行くと伝えてくれ」
「はい」
エミールが返事をして走り去っていく。
その背中を見送ったあと、ジェフリーは一度だけ、アヤに掴まれていた袖口へ目を落とした。
それから残っていた髭を剃り、昨夜、アヤが指先で軟膏を塗った範囲を思い返しながら、今朝渡された薬を薄く塗った。
********
ジェフリーがマティアスのところへ着いたころには、野営地の撤収もかなり進んでいた。
荷をまとめる騎士たちから少し離れたところで、マティアスは平らな荷箱の上に地図を広げていた。風に煽られないよう片手で端を押さえながら確認していたが、近づいてくるジェフリーの姿に気づくと、顔を上げた。
「少し厄介な問題が起きました」
ジェフリーが荷箱のそばまで来ると、マティアスは地図の一点へ指を置いた。
「ここです」
示された場所は、これから一行が向かう予定だったソラスへの道、その少し手前にあたる街道だった。
「一昨日、このあたりで近くの村の農民が、賊と思われる者たちに襲われたそうです。藁を積んだ荷車を押していたところを襲われたとか」
「どこからの情報だ?」
「今朝、この街道を通ってきた旅人から聞きました」
ジェフリーの視線が、地図からマティアスへ移った。
「積んでいた荷は、藁だけか?」
「そのようです」
「なぜ、そんな荷車を狙った」
「分かりません」
マティアスの答えに迷いはなかった。
金品を運ぶ商人でもなければ、目につくような高価な荷を積んでいたわけでもない。単に通りかかった者を見境なく襲った可能性もある。
それでも、武器すら持たない農民と、藁を積んだだけの荷車。
妙な引っかかりが残った。
「賊はまだ捕まっていないのか?」
「おそらく。付近の村長がソラスの門衛兵詰所へ知らせを出したと聞いています。そこから街道巡察兵へ伝わるでしょう」
マティアスはそこで一度口を閉じた。
話がそれだけなら、わざわざ朝から進路を変更する必要まではない。
ジェフリーが続きを待っていると、マティアスの声がわずかに低くなった。
「問題は、別にあります」
ジェフリーが目を上げる。
「賊の一人が、逃げる際に剣を落としていったそうです」
「剣?」
「サルヴィアのものらしい、と」
ジェフリーの目つきが変わった。
「間違いないのか?」
「そこまでは。旅人も、そう聞いたと言っていただけです」
ジェフリーは黙った。
自分たち黒騎士の一行が、直接疑われる可能性は低い。一昨日、事件が起きた時刻と場所を考えれば、自分たちとは辻褄が合わない。
問題は、サルヴィアの剣が残されていたという一点だった。
その情報がすでにソラス側へ伝わっているのなら、街道の警戒は強まるだろう。サルヴィアから来た者や、それらしい装備を持つ旅人が止められ、身元や荷を確認されても不思議ではない。
黒騎士たちだけなら、それでも構わない。
街道巡察兵へレグナードから預かった書状を示せば、自分たちが正式な許可を得て旅をしていることは説明できる。
だが、一行にはアヤがいる。
彼女は今、エステリアの第一王女としてではなく、アヤ・ラセルという学者として同行している。
必要があれば職務にある者へ事情を明かすことはできる。だが、検問が行われている場所にいるのは巡察兵だけではない。
足止めされた旅人や商人、近隣から集まった村人。
そこで第一王女の存在が知られれば、その話がどこまで広がるかは分からなかった。
王宮を離れ、身分を伏せて旅をしている。
その意味を、自分たちから失わせる必要はない。
「ほかに道はあるか?」
マティアスは地図へ視線を戻し、現在地から伸びる道筋を指先で辿った。
「この街道をそのまま進まず、途中から西へ抜けます。そこから国境沿いを流れる川の近くまで出て、今度は東へ戻る。再びこのあたりから南へ下れば、村人が襲われた街道を避けて進めます」
その指が、地図の上に大きな弧を描く。
「かなり遠回りにはなります」
そう説明したあと、マティアスは街道と迂回路のあいだに広がっている森へ視線を移した。
「距離だけを考えるなら、この森を抜けるほうが早いでしょう。ただ、獣道がどのように通っているのか分かりませんし、馬を連れて問題なく進めるかも分かりません。中で野営できる場所が確保できる保証もない」
指先は再び、西へ大きく回る道へ戻った。
「安全を取るなら、遠回りでもこちらがよろしいかと」
ジェフリーは何も言わず、地図へ目を落とした。
旅はまだ始まったばかりだ。
予定より日数を使うことは、できるだけ避けたい。
一方で、距離だけを惜しんで森へ入り、馬が脚を傷めれば、その先の行程すべてに影響する。荷を運ぶことまで難しくなれば、取り戻すのに必要な時間は、遠回りで失う日数どころでは済まない。
マティアスの示した道が、今取れる中では最も確実だった。
そう判断しながら迂回路を目で追っていたジェフリーの視線が、途中でふと止まった。
西へ抜け、川沿いへ向かう道。
そこから東へ戻る途中に、一つの地名が記されている。
地図へ少し身を乗り出し、位置を確かめる。
その町なら、大きく道を外れる必要はない。
ジェフリーはしばらくそこを見つめたあと、迷いを切った。
「よし。そのルートで行く」
マティアスが顔を上げる。
「予定より時間はかかる。なら、途中で必要な物資も補充しておこう」
ジェフリーの指が、先ほど目に留まった地名へ下りた。
「ここで揃える」
その指先の下には、
ダリア
と記されていた。
ペヤングを食べようとして、付属の胡椒を盛大にぶちまけ、くしゃみが止まらなくなったときに、アヤの胡椒のくだりを思いつきました。
人間、何が創作のきっかけになるか分かりませんね。




