23. 火に宿る黒騎士の誇り
王宮を発って、半日が過ぎた。
街道の両脇には、青みを残した麦畑がどこまでも続いている。初夏の風が吹くたび、細い穂先がいっせいに傾き、遠くまで大きな波を描いた。
黒騎士たちの馬は、急ぐでもなく緩むでもなく、一定の調子で蹄を鳴らしている。
アヤは手綱を握ったまま、そっと鞍の脇へ目をやった。
革紐でくくりつけられているのは、短い一本の杖だった。腰の革帯には細身の剣が下がり、馬が歩くたびに鞘の先が小さく揺れる。
そして、旅装のさらに内側にも、もうひとつ。
アヤはそれについて考えるのをやめようとして――結局、王宮を発つ前に訪れた武具庫のことを思い出していた。
********
出立の数日前のことだった。
きっかけは、あの日、評議会のあとにローレンスへ持ちかけた相談だった。
その後しばらくして、軍務卿ローレンス・エヴァレットから、ご依頼の品が仕上がりました、と知らせが届いた。
王宮の一角にある軍務棟は、アヤが普段行き来する場所とは、ずいぶん趣が違っていた。
華やかな絵画も、季節の花を飾った壺もない。
奥へ進むほど石壁はむき出しになり、その壁に沿うように剣や槍が整然と並んでいる。革と油、それから研いだ鉄の匂いが、ひんやりとした空気の中に混じっていた。
高い位置に設けられた小窓から差し込む光だけが、床の一角を四角く照らしている。
武具庫に入ると、ローレンスはさらに奥へ進み、腰に提げていた鍵束から一本を選んで保管棚の錠を外した。
「お待たせいたしました。こちらが、ご所望のものです」
布を敷いた机の上に並べられたのは、細身の剣と、短い一本の杖だった。
アヤはまず、剣を手に取った。
華美な装飾はない。実用だけを考えて作られたらしく、柄も鞘も簡素で、王宮儀礼で目にする剣とはまるで違う。
試しに抜こうとしてみたものの、刀身はびくともしなかった。
「あら……?」
もう一度、柄を引く。
やはり抜けない。
ローレンスが手を差し出した。
「失礼いたします。こちらの留め金を、親指で外してください。このように」
小さな金具が、かちりと鳴る。
そのまま柄を引くと、今度は澄んだ金属音とともに、刀身がするりと現れた。
アヤは目を瞬いた。
「……思っていたより、軽いのですね」
「通常の剣より小ぶりに仕立ててございます。腕力のない者でも扱いやすいよう、重さと重心を調整させました」
再び剣を受け取り、光へかざしてみる。
確かに重さはある。それでも、騎士たちが腰に佩いている剣よりは、ずっと扱いやすそうだった。
アヤにも、剣を握った経験がまったくないわけではない。
王族として最低限、自らの身を守るための教育は受けている。まだ二十歳になる前、護身術の一環として木剣を握り、構え方や相手との距離の取り方を教わったことがあった。
もっとも、それもずいぶん昔の話だ。
何を教わったのか、今となってはあまり覚えていない。
刃を鞘へ戻そうとして、また留め金のところで手間取った。
ローレンスは何も言わずに手を貸し、剣をきちんと収める。
それから、妙に真剣な顔でアヤを見た。
「アヤ殿下。念のため申し上げますが」
「はい」
「これは、身を守るためのものでございます。ご自身から敵へ向かうためのものではございません」
「……承知しております」
「間違っても、殿下のほうから剣を抜いて敵へ向かうような真似だけは、なさいませんように」
二度言われた。
アヤは剣を抱えたまま、ローレンスを見つめた。
「わたくしは、それほど無謀に見えますか?」
ローレンスは答えなかった。
その沈黙が、どうにも答えのような気がした。
アヤは小さく息をつく。
「……分かりました。約束いたします」
ようやくローレンスの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
次に彼が手に取ったのは、もう一方の短い杖だった。
肘から手先ほどの長さしかなく、このままでは杖と呼ぶにも短すぎる。
「こちらは、このようにしてお使いください」
ローレンスが中ほどの金具をひねる。
次の瞬間、内部から細い筒が伸び、かしゃん、と乾いた音を立てた。
さらにもう一段。
短かった棒は、たちまち一本の長い杖へ姿を変えた。
「まあ」
アヤは思わず身を乗り出した。
「伸びるのですね」
「武器に使われる伸縮機構を応用して作らせたものです。使わぬ時は縮めて荷へ収め、必要な時だけ伸ばします。旅は馬が基本ですが、馬では越えられぬ山道や、足場の悪い場所では役立つでしょう」
ローレンスが再び金具を操作すると、杖は元の短さへ戻った。
アヤは受け取って、自分でも試してみる。
一度目は途中で止まってしまったが、もう一度金具をひねると、かしゃん、と気持ちのよい音がして伸びた。
剣よりも、こちらのほうがずっと手になじむ。
そして、その先端に、小さな透明の石がはめ込まれていることに気づいた。
水晶によく似ている。
けれど光へ向けると、その内部には、ごく細い青紫色の筋が見えた。
「この石は?」
アヤが指先を伸ばす。
「感応晶と呼ばれるものです」
触れると、石はひやりと冷たかった。
「王立学術評議院の鉱物工芸院で試作された調査杖でございます。先端の感応晶は、有害な鉱気や一部の毒気に触れると変化を示すと聞いております」
「どのように変化するのですか?」
「色が変わることもあれば、内部の筋に光が走ることもある、と。ただ、仕組みについては機密とのことで、私も詳しくは聞かされておりません」
機密。
そう言われれば、それ以上を尋ねるべきものではないのだろう。
アヤはもう一度、感応晶へ目を近づけた。
「どのような毒にも反応するのですか?」
「いいえ。そこまでは」
ローレンスは首を振った。
「まだ試作の域を出ないものだそうです。何にどこまで反応するのか、鉱物工芸院でもすべてを把握しているわけではない、と」
「では、なぜこれを?」
「此度の旅の目的のひとつに、龍の瘴気の調査があると伺っております」
その言葉に、アヤは杖先へ視線を戻した。
瘴気。
古い書物の中にわずかな記録はある。
けれど、それが毒なのか、病なのか、それともまったく別の何かなのかさえ、はっきりとは分かっていない。
「これが瘴気に反応するかどうかも、分からないのですね」
「はい」
ローレンスはあっさり答えた。
「ですが、分からぬからこそ、持っていけるものは持っていくべきでしょう」
アヤは小さく頷いた。
その考えには、異論はなかった。
剣と杖。
二つを受け取り、これで用は済んだのだろうと思った。
「ありがとうございます、ローレンス卿。大切に使わせていただきます」
そう言って踵を返しかけたところで、背後から咳払いが聞こえた。
「アヤ殿下」
振り返る。
ローレンスは、なぜか先ほどよりも真剣な顔をしていた。
「実は、もうひとつございます」
「まだあるのですか?」
「はい。こちらも、非常に大切なものです」
ローレンスが向かったのは、武具棚ではなく、その隣にある小さな戸棚だった。
そこから取り出されたものを見て、アヤは首を傾げる。
革でできていることだけは分かる。
太さの違う革帯が何本も交差し、小さな金具で繋がれている。どこが上で、どこが下なのか。一見しただけでは、何に使うものなのかさえ分からない。
馬具の一部にも見えるし、何かを固定するための道具のようにも見えた。
「これは……どのような武具なのでしょう?」
「武具ではございません」
ローレンスは至極真面目な顔で答えた。
「護身用の防護帯でございます」
「防護帯?」
「衣服の下に身につけていただきます」
アヤは瞬きをした。
「……下に?」
「はい」
「つまり、下着のように?」
「大まかに申し上げれば」
武具庫で剣と杖を受け取ったあとに、まさか下着の話をされるとは思っていなかった。
アヤは改めて、奇妙な革帯を見つめた。
ローレンスは咳払いをひとつした。
「アヤ殿下は、これよりサルヴィアの騎士たちとともに長く旅をなさいます。彼らは騎士としての規律をわきまえた者たちです。少なくとも、隊の中におられるかぎり、彼らが殿下の御身を脅かすようなことはございますまい」
アヤは、防護帯へ目を落としたまま小さく頷いた。
「ですが、旅先で出会う者すべてが、そうとは限りません」
アヤは黙って聞いた。
「盗賊もおります。酔漢も、ならず者もいる。女性に対して、よからぬ考えを持つ者に出会わぬ保証もございません。これは、そのような者から御身を守るためのものです」
意味が分かったような、まだ分からないような。
アヤの表情を見て、ローレンスがもう一度咳払いをした。
「……貞操をお守りするためのもの、と申し上げればお分かりになりますか」
「ああ」
そこでようやく、完全に理解した。
なるほど。
そして、ほとんど同時に、こうも思った。
――それは、本当に必要なのかしら。
舞踏会で、アヤにダンスを申し込む男性はいなかった。
夜会で声をかけられるのも、父への取り次ぎを頼まれる時か、妹たちについて尋ねられる時くらいのものだった。
王宮の中でさえそうなのだ。
王女という身分さえ隠し、華美な宝飾品も身につけず、一人の調査員として旅に出る自分へ、いったいどこの誰がそのような目的で近づくのだろう。
アヤが何も言わずにいると、ローレンスが静かに口を開いた。
「アヤ殿下は、男性というものを、あまりご存じではありません」
思わず顔を上げる。
「城の中で受けてこられた扱いが、そのまま城の外でも通じるとは限りません。旅先では、身分も名も知らぬ者と行き交うことになります。どうか、ご自身へ危険が向く可能性を、最初から除外なさらぬように」
アヤは、もう一度防護帯を見た。
ローレンスは革帯の端を持ち上げる。
「多少の体形の変化にも合わせられるよう、いくつか穴を設けてあります。もし旅の途中で今より細くなられ、合わなくなった場合は――」
彼は戸棚から、小さな錐を取り出した。
「新しく穴を開けてでも、きちんと締めてください」
そう言って、ローレンスは革の品をアヤの腕にそっと載せた。
剣よりも、杖よりも、ずっと重く感じられた。
アヤは、はい、としか言えなかった。
初めてその防護帯を身につけようとした時は、ずいぶん苦労した。
どの革帯をどこへ通せばよいのかが分からない。
一本を通せば別の一本がねじれ、金具を留めたと思えば、どうにも形がおかしい。
結局、あらかじめ事情を知らされていた侍女に助けを求めることになった。
「殿下、こちらを……いえ、お待ちください。こちらが先かもしれません」
「先?」
「おそらく」
侍女まで困った顔をしている。
二人で添えられていた図と防護帯を交互に睨み、ようやく最後の金具を留め終えたころには、どちらからともなく笑っていた。
それから出立の日まで、アヤは何度も身につける練習をした。
旅に出れば、身支度のたびに侍女へ頼ることなどできない。
何度か繰り返すうちに、どうにか一人でも扱えるようになった。
そして今日。
剣も。
杖も。
あの防護帯も。
すべてが旅装の一部として、アヤとともに王宮の外へ出ている。
********
こうしてサルヴィアの騎士たちに囲まれて馬に揺られていると、ローレンスの心配は、まるで遠い話のように思えた。
黒騎士たちは、誰も必要以上にアヤへ近づかない。
道幅が狭くなれば自然に列を組み替え、馬の足を取られそうな場所では前を行く者がさりげなく合図を送る。
休息を取れば、まず馬と荷を確かめる。
短い言葉だけで互いの動きを理解し、また何事もなかったように進み始める。
そんなことを考えていると、少し前を進んでいたマティアスが、馬上で振り返った。
「アヤ様」
アヤは手綱を握ったまま、声のしたほうへ顔を向けた。
「しばらくの間、エミールとテオをアヤ様の近くにつけます」
言われて、アヤも後ろを振り返る。
二頭ほど後ろに、黒騎士が二人いた。
身につけている黒い旅装は、周囲の騎士たちと変わらない。
けれど、頬の線にも、手綱を握る指にも、まだ少年らしさが残っている。マリサと並んでいても、そう不思議には思わないほど若い。
アヤと目が合うと、二人は揃ってぎこちなく頭を下げた。
宮廷で身につけるような洗練された礼ではない。
とにかく頭を下げるべきだと判断して、慌ててそうしたような礼だった。
アヤは微笑んだ。
「アヤ・ラセルです。どうぞよろしくお願いいたします」
二人は顔を見合わせた。
それから、もう一度だけ頭を下げる。
返事はなかった。
一人は手綱へ視線を落とし、もう一人は何となく遠くの麦畑へ顔を向けてしまった。
アヤは少し首を傾げてから、マティアスへ向き直る。
「お二人とも、ずいぶんお若いのですね。マリサと同じくらいかしら」
「二人とも十七です。成人して、まだ一年ほどしか経っておりません」
「まあ」
アヤは目を瞬いた。
「では、サルヴィアでは十六歳で成人なのですか?」
エステリアでの成人は十八歳だ。
サルヴィアの貴族たちも、正式に社交界へ出るのは十八歳頃だと聞いていたため、国としての成人年齢も同じなのだと思っていた。
「五年ほど前までは、サルヴィアでも十八でした。国の法が、変わったのです」
マティアスは前を向いたまま答えた。
「なぜですか?」
マティアスはすぐには答えなかった。
馬の蹄が、乾いた街道をひとつ、ふたつと叩いた。
「人が……多く死にますから」
低い声だった。
「少しでも多くの働き手が必要だと、国が判断したのです」
アヤの手綱を握る指に、わずかに力が入った。
サルヴィアの寒い地方で、冬から春にかけて流行する高熱の病。
ジェフリーが龍の涙を求めてエステリアまでやって来た理由でもある。
けれど、その病が国の制度そのものまで変えているとは思っていなかった。
アヤはもう一度、後ろを見た。
自分を前に、どう礼をすればよいのかさえ戸惑っていた二人。
「国の兵士にも、十六歳から志願できます」
マティアスが続けた。
「一年の務めを経て、能力が認められれば、十七で黒騎士になることもできます」
アヤは二人を見たまま言った。
「では、お二人とも、とても優秀なのですね」
その言葉が聞こえたのか、後ろの二人が少しだけ姿勢を正した。
マティアスの表情も、わずかに和らぐ。
「黒騎士は、優秀でなければなれませんからね」
「でも、法が変わる前に十六で黒騎士になった人もいますよ」
少し前を進んでいたアルベルトが、馬の速度を緩めて並んできた。
「まあ。どなたですか?」
アルベルトは答えず、顎を少し前へ向けた。
その視線を追う。
列の先頭近く。
ジェフリーが馬上で地図を広げていた。
隣にはセドリックがいて、街道と地図を見比べながら、時折短く言葉を交わしている。
「……ジェフリー様?」
「隊長は十四で騎士団に入ったんです」
アルベルトの声には、どこか自慢げな響きが混じった。
「それで十六で黒騎士に。今でも最年少記録ですよ」
「十四歳で、騎士団に?」
アヤは思わず、もう一度前方を見た。
「特別試験で入ったんですよ」
「特別試験とは?」
尋ねると、アルベルトは少し楽しそうに笑った。
「軍団長との手合わせです。王家に捧ぐ武闘会という催しがありましてね。そこで当時十四だった隊長が、軍団長から一本取ったんです」
「軍団長から……?」
にわかには信じがたい。
軍団長ともなれば、サルヴィア軍の中でも指折りの剣士であるはずだ。
アヤの顔に疑いが浮かんだのだろう。
マティアスが静かに付け加えた。
「誇張ではありませんよ。軍団長は、サルヴィアの兵すべてを束ねる方です。その剣を地につかせた。それだけで、騎士団へ入る資格を示すには十分だったのでしょう」
アヤは前方のジェフリーを見た。
当の本人は、こちらで自分の昔話をされていることなど知る由もなく、地図を指しながらセドリックと何かを話している。
静かで、いつも礼儀正しく、感情を大きく表に出すことのない今のジェフリーと、十四歳で軍団長から一本を取った少年の姿が、アヤの中ではすぐには重ならなかった。
そのとき、前方からジェフリーの声が飛んだ。
「マティアス!」
マティアスがすぐに顔を上げる。
「はい!」
手綱をさばき、馬を前へ進めていく。
アヤはその背中を見送ってから、もう一度ジェフリーへ目を向けた。
「ジェフリー様って……そんなにすごいお方だったのですね」
アルベルトが笑った。
「本人には、あんまり言わないほうがいいですよ」
「なぜです?」
「嫌がりますから」
それは、何となく想像できた。
アヤも小さく笑う。
「わたくしも、ジェフリー隊長とお呼びしたほうがよろしいかしら」
「どうぞ、お好きに呼んでください」
アルベルトは肩を竦めた。
「俺たちは隊長って呼んでますけど、アヤ様なら、どんな呼び方をしても怒られませんよ。隊長だって、黒騎士である前に人間ですからね」
「あら」
アヤは微笑んだ。
「それなら、わたくしも学術評議院の調査員である前に、人間ですよ。皆さまも、どうぞお好きに呼んでくださいね」
アルベルトは声を立てて笑いかけた。
けれど、すぐに少し困ったような顔をする。
「いやあ、それは無理ですよ」
「なぜです?」
「アヤ様は、やっぱり人間である前に王族ですからね。敬称なしでなんて、とても呼べません」
悪意など、ほんの少しもない。
むしろ、アルベルトなりの敬意なのだろう。
だからアヤも笑った。
同じ街道を、同じ方角へ進んでいる。同じ埃をかぶり、同じ陽に照らされている。
それでもこの隊の中で、自分だけがまだ、お客様なのだ。
アヤは前を向いた。
鞍の脇で、短い杖が馬の歩みに合わせて、かすかに揺れていた。
********
しばらくして、前列へ向かったマティアスが戻ってきた。
列の中ほどまで馬を進めると、身体をひねって後方を見渡し、よく通る声を張り上げる。
「今夜の野営地が決まった! この先、小川が街道を横切るところに草地がある。森の中へは入らない。このまま隊列を崩さず進め。馬を麦畑へ入れるなよ!」
騎士たちの間から、短い返事がいくつか重なった。
その声が最後尾まで届いたかを確かめるように、アルベルトが振り返る。
「後方へも伝えてきます」
そう言い残し、馬の向きを変えて列の後ろへ下がっていった。
マティアスは今度は声を落とし、アヤのそばへ馬を寄せた。
「アヤ様。野営地に着きましたら、エミールとテオとともに動いてください。野営で必要なことは、この二人からご説明いたします」
その言葉に、後ろから妙な気配がした。
アヤが振り返ると、エミールとテオが揃ってマティアスを見ている。
そんな話は聞いていない。
二人の顔には、はっきりとそう書いてあるようだった。
当然、マティアスにも見えているはずだった。
けれど副隊長は、その訴えるような視線をきれいに無視すると、何事もなかったように馬を前へ進めていった。
********
陽が西へ傾き始めた頃、一行は今夜の野営地へ辿り着いた。
街道から少し外れたところを細い川が流れ、そのそばになだらかな草地が広がっている。
川べりの草はところどころ踏みならされていた。地面には黒く煤けた石が輪になって残り、古い灰もわずかに混じっている。
街道を行き来する旅人たちが、昔からここで火を焚き、夜を越してきたのだろう。
少し離れたところには木立があるが、森と呼べるほど深くはない。見渡しもよく、馬を休ませるだけの草も十分にあった。
馬を止めるなり、黒騎士たちは誰かの指示を待つこともなく動き始めた。
まずは馬だった。
四人ほどの騎士が手分けして鞍や馬具を外し、汗に濡れた背を拭っていく。騎乗馬も、幌馬車を引いてきた馬も区別はない。水を飲ませ、飼料を分け、蹄をひとつずつ持ち上げて、石や泥が入り込んでいないかを確かめていた。
別の騎士たちは荷を下ろし始めている。
周囲を見回りに出る者もいれば、武具の状態を確かめる者もいる。
短い言葉が行き交うだけで、それぞれが次に何をすればよいのか分かっているようだった。
「雨の気配はなさそうだな」
「風も弱い。今夜は天幕なしでいけるだろう」
そんな声が聞こえてきた。
天幕を張らずに、夜空の下で眠る。
アヤは思わず空を見上げた。
まだ明るさを残した空が、どこまでも広がっている。
王宮の寝台を覆う天蓋とは、ずいぶん違う天井だった。
視線を戻すと、エミールが空の桶をいくつか重ねて、川のほうへ向かおうとしている。
「エミール様、お手伝いいたします」
声をかけると、エミールは足を止めた。
そして、困ったような――というより、露骨に渋い顔をした。
「アヤ様は、そのままそこにいてください」
「でも、お一人では大変でしょう? ひとつくらいなら、わたくしも持てます」
「いいです」
返事は早かった。
エミールは桶を抱え直した。
「水汲みで何かあったら、俺が隊長に殺されますから」
それだけ言うと、アヤが口を開く間もなく川へ向かってしまった。
歩くたび、重ねた桶が軽い音を立てる。
アヤは、その後ろ姿を見送った。
ほかに何か、できることはないだろうか。
辺りを見回す。
少し離れたところで、テオが古い焚き火跡の前にしゃがみ込んでいた。
石を並べ直し、その中央に乾いた火口を置いている。
手には火打石と火打金。
かちん。
乾いた音とともに火花が散った。
けれど、火はつかない。
もう一度。
かちん。
やはり何も起こらなかった。
アヤはそちらへ歩いていった。
「お手伝いいたします」
テオは顔を上げた。
エミールとよく似た困り顔になった。
「これは俺の仕事なので、大丈夫です。アヤ様は、休んでいてください」
また断られた。
そこで、アヤはようやく気づいた。
馬を世話する者。
水を汲む者。
火を起こす者。
荷をまとめる者。
周囲を警戒する者。
皆、それぞれに受け持つ仕事があるのだ。
アヤの目は、自然とジェフリーを探した。
少し離れたところで、彼は騎士の一人から報告を受けていた。短く何かを指示すると、その者と入れ替わるように、今度は別の騎士が地図を手に近づいてくる。
ジェフリーは地図の一点へ指を置き、何かを伝えていた。
マティアスも、数人の騎士と武具の確認をしている。
誰も暇ではない。
何か手伝えることはありませんか、と尋ねるためだけに、その手を止めさせるのも違うように思えた。
自分には、まだ持ち場がない。
アヤはもう一度、テオを見た。
かちん、と火花が散る。
まだ火はついていなかった。
少し考えてから、その隣へしゃがみ込む。
「テオ様」
テオがちらりとこちらを見る。
「もしよろしければ、わたくしにも火の起こし方を教えていただけませんか?」
テオの手が止まった。
けれど、返事はなかった。
テオは再び火打石へ視線を落とした。
かちん。
火花がひとつ散り、消えた。
アヤは急かさなかった。
ただ隣にしゃがんだまま、待っている。
テオはもう一度、火打金を構えた。
このまま聞こえなかったことにしてしまおうか。
そんな考えが浮かんだ、その時だった。
――一度でも騎士にあるまじき振る舞いがあれば、その場で帰せ。
出発を前に、ジェフリーから言い渡された言葉が頭をよぎった。
テオの手が止まる。
サルヴィアを発つ前のことまで思い出した。
宿舎の仲間たちに、新人でありながら遠征隊へ選ばれたことを散々自慢してきたのだ。
龍の涙を探す遠征へ加わることが、どれほど名誉なことか。
黒騎士として、自分の実力を試す機会なのだと。
もし、こんなところで帰されたら、どんな顔をしてあいつらの前へ戻ればいい。
テオは小さく息を吐いた。
面倒そうな表情を隠しもせず、アヤのほうを見ないまま口を開く。
「……まず、地面の枯れ草とか落ち葉をどけます。それから、石を並べて火を焚く場所を作ります」
言いながら、手を動かしていく。
「真ん中に乾いた布とか、こういう火口を置いて。それで、火打金を火打石に打ちつけて、火花を落とします」
かちん。
火花が散る。
何も起こらない。
もう一度。
かちん。
石の輪の中は、相変わらず静かなままだった。
「火花が火口に移ったら、息を吹いて火を大きくして、細い枝から乗せていきます」
テオはもう一度、火打石を打った。
また消えた。
だんだん眉間に皺が寄っていく。
「これ、けっこう難しいんで。あとは俺が――」
「分かりました。ありがとうございます」
テオが言い終わる前に、アヤはもう立ち上がっていた。
傍らに置かれていた予備の火打石と火打金をひと組借りると、少し離れた焚き火跡へ向かっていく。
テオは、ぽかんとその背中を見送った。
分かった? 今ので?
そんなはずがあるか。
自分だって、まともに火を起こせるようになるまで、何度も失敗したのだ。
きっと、自分にはできないと思って、早々に話を切り上げたのだろう。
王女様の気まぐれなんて、そんなものだ。
テオはそう決めつけると、再び火打石へ目を落とした。
かちん。
かちん。
飛ぶのは火花ばかりだった。
しばらくして、ようやくひとつが黒ずんだ火口の上へ落ちた。
テオは身を乗り出す。
けれど、煙は上がらない。
赤い点は、すぐに消えてしまった。
「……くそ」
小さくこぼした、その時だった。
「テオ様」
背後からアヤの声がした。
「ほかのところは、全部つきました」
テオはぎょっとして振り返った。
野営地には、昔の旅人たちが残した石の輪がいくつかある。
今夜使うのは、テオの前にあるものを含めて五つだった。
その残り四つすべてに、小さな火が灯っている。
夕暮れの草地に、橙色の炎がぽつり、ぽつりと揺れていた。
細い煙が、空へ昇っていく。
テオは火とアヤを交互に見た。
「……これ、どうやったんですか?」
「こちらを使いました」
アヤが手を差し出した。
手のひらには、一枚の葉。
その上に、小さな虫が二匹載っている。
もう動かない。
背の殻は、夕陽を受けて淡い琥珀色に光っていた。
「イグネルという虫です。春から夏にかけて、水辺の草むらによくいるんですよ」
テオの視線が、葉の上へ落ちる。
アヤは気にする様子もなく、一匹を指先で摘まんだ。
「外敵から身を守るために体表へ油を分泌するのですが、死んだあともしばらく油分が残ります。この油がとても引火しやすいんです」
そのまま、虫を火口の中へ置く。
「この時期なら、こういう水辺の草むらを探せば――」
アヤは足もとの草をそっとかき分けた。
「あら。ここにも」
迷いなく、もう一匹つまみ上げる。
テオは、その指先をまじまじと見つめた。
王女様が、虫を。しかも素手で。
アヤはそんな視線には構わず、二匹目も火口へ置いた。
「一匹だけでは、あまりうまく燃えません。二匹か三匹くらいを、こうしてまとめてください」
そして、テオの手にある火打石へ目を向ける。
「やってみてください」
テオは半信半疑のまま、火打金を構えた。
一度。
火花が逸れた。
二度。
三度目に散った火花が、イグネルの殻へ落ちる。
火花が落ちた瞬間、虫の表面に小さな炎が走った。
それが乾いた火口へ移り、今度ははっきりと赤い火が立つ。
「……ほんとだ」
思わず、声が漏れた。
さっきまで浮かべていた面倒そうな表情は消えていた。
目を丸くし、立ち上がった小さな炎を覗き込んでいる。
その顔には、黒騎士というより、十七歳の少年らしい驚きがそのまま浮かんでいた。
アヤは少し笑った。
「イグネルは、エステリアの一部の地域にしかいない虫なのです。ですから、サルヴィアではあまり役に立たないかもしれませんね」
そう言ってから、少しだけテオへ身を寄せた。
内緒話をするように、声を潜める。
「ですから、これはテオ様が偶然見つけて、皆さまより早く火を起こしたことにしてしまいましょう」
テオが、今度は火ではなくアヤを見る。
アヤは本気で言っているらしい。
遠征の最中に、隊のために役立った。
それが自分の評価につながることくらい、テオにも分かっている。
「……でも、それでいいんですか。アヤ様は」
アヤは、にっこりと笑った。
「いいんです。だって、女性がこんなに平気な顔で虫をつまんでいたら、はしたないでしょう?」
テオの顔が固まった。
つい先ほど、自分が思ったことだった。
王女様が虫を素手で――と。
それをそのまま見透かされたような気がした。
しかも。
つい少し前まで、自分はこの人を、王女の気まぐれだと決めつけていた。
テオは何も言えなくなった。
視線だけが、逃げるように焚き火へ戻る。
耳の先が、じわりと赤くなっていた。
アヤはそれ以上何も言わなかった。
足もとでは、先ほどまでどれほど火花を落としてもつかなかった火が、ぱちぱちと小さな音を立てて燃えていた。
********
少し離れたところから、その様子を見ていた者がいた。
ジェフリーだった。
テオの前で火が立ち上がるところまで見届けると、何も言わず視線を外す。
その口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「野営地に着いた時は、どうなることかと思いましたが」
いつの間にか隣へ来ていたマティアスも、焚き火のそばにいる二人を眺めていた。
「これなら、うまくやっていけそうですね」
「あいつらも黒騎士になったんだ。いつまでも子どものままでは困る」
ジェフリーの声はいつもと変わらなかった。
マティアスは何も返さず、わずかに口元を緩めた。
その時だった。
「あっ……!」
突然、草地にアヤの声が響いた。
何人かの騎士が、揃ってそちらを見る。
「大変。すっかり忘れていました!」
ジェフリーとマティアスも顔を見合わせた。
アヤは辺りを見回し、やがてジェフリーを見つけると、こちらへ小走りにやって来た。
その顔があまりにも真剣なので、ジェフリーも自然と表情を引き締める。
「どうされました?」
アヤは彼の前まで来ると、ひとつ息を整えた。
「とても大切なことです」
ジェフリーは黙って続きを待った。
アヤはまず彼を見上げ、それから周囲にいる騎士たちへ視線を向けた。
「隊の皆さまには、必ず守っていただきたいことがあります」
そして、もう一度ジェフリーを見る。
「ジェフリー様も、例外ではありません」
一拍置いた。
「龍の涙を手にするまで――絶対に、お髭を生やしてはなりません!」
沈黙が落ちた。
ジェフリーは何も言わなかった。
マティアスも何も言わなかった。
少し離れたところで、焚き火だけが、ぱちりと音を立てた。




