22. 花の都をあとにして
まだ、夜明けには少し早かった。
東の空が、濃紺からようやく淡い青へほどけはじめたばかりで、窓の外には夜の名残がうっすらと漂っている。
城はもう目を覚ましていた。
遠くで馬がいななく。石畳を打つ蹄の音。荷車の車輪が軋む音。積み荷を運ぶ者たちの、短い掛け声。
いつもなら、まだ静けさの底に沈んでいる時刻だった。
アヤは窓辺に立ち、しばらくその音に耳を澄ませていた。
今日、この城を出る。
城門をくぐったことなら、何度もある。王都へ出たことも、王家の行事で郊外まで足を延ばしたこともあった。
けれど、いつ帰れるかも分からない旅へ出るのは、生まれて初めてだった。
「アヤ様」
背後で、侍女の声がした。
寝台の上には、今日のために用意された衣服が並べられている。
白い上衣に、青と白を基調とした長い旅装。裾や袖口には、エステリアの花を思わせる繊細な意匠が施されていた。腰へ巻く丈夫な革帯には、道具袋や小さな鞄を取りつけられるようになっている。
足元に置かれているのも、王宮で履く華奢な靴ではない。
長く歩くための、濃い茶色の丈夫な編み上げ靴だった。
侍女が上衣を手に取り、そっと進み出る。
「お手伝いいたします」
アヤは、やわらかく首を横に振った。
「いいえ。これは、自分で着るわ。この先は、何でも自分でしなければならないから」
侍女は何か言いかけて、差し出しかけた手を胸の前でそっと重ねた。
慣れない留め具に、指が少し迷う。
それでもアヤは、一つずつ自分の手で身につけていった。
ドレスのように身体を強く締めつけるものはない。袖を通せば布は素直に身体へ沿い、革帯を締めれば、腰まわりにこれまでとは違う重みが加わった。
途中、締める場所を一つ間違えた。
そばで見ていた侍女が思わず手を伸ばしかけたが、アヤは自分で気づき、少し笑いながらやり直した。
最後に長い黒髪を左右から編み、後ろで青いリボンにまとめる。
鏡の中に、見慣れない自分がいた。
第一王女でも、舞踏会へ向かう令嬢でもない。
旅に出る、一人の女性だった。
アヤはしばらく、その姿を見つめていた。
それから机の上へ手を伸ばし、小さな革の手帳を取り上げて、片隅に刻まれた文字を指先でなぞった。
Aya
先日と同じ三文字。
それなのに、今朝はどこか違って見えた。
胸の奥に、くすぐったいような温かさが戻ってくる。
アヤは手帳を閉じ、旅装の胸元に設けられた内ポケットへ、大切に収めた。
「行ってくるわね」
誰に聞かせるともなく、小さく呟いた。
窓の向こうでは、夜がもうすぐ終わろうとしていた。
********
厩舎の前は、まだ薄闇の中にあった。
干し草と馬の匂いが混じる冷たい空気の中を、黒騎士たちが絶え間なく行き交っている。
王宮で見る彼らとは、まるで別の姿だった。
金糸を施した礼装も、儀礼のためのマントもない。身にまとっているのは、長旅での動きを妨げない黒い上衣と、腕や脛など必要な箇所だけを守る防具。胸や腰にはいくつもの革帯が走り、剣や道具袋が身体から離れないようしっかりと固定されている。
背には、寝具や旅道具をまとめた荷。
飾るためではなく、旅を続け、生きて帰るための姿だった。
その中央で、ジェフリーは荷の目録に目を落としていた。
「レノックス商会からの荷は、すべてこちらで確かめてあります」
隣で、低い声がした。
副隊長のマティアス・ローデンだった。
銀灰色の短髪。ジェフリーよりわずかに背が高く、大柄な身体には、若い騎士たちにはない落ち着きがあった。
目録を追っていたジェフリーの指が、一行で止まる。
「医療品の箱が、三から五に増えているな」
「思っていたより、品の種類が多かったそうです。運ぶとき、中で小瓶の触れ合う音がしました」
「重さは?」
「他の薬箱と、さほど変わりません」
ジェフリーは、積まれかけていた木箱へ歩み寄り、蓋を開けた。
何重にも布で包まれた細長い器具。乾燥させた草木を詰めた瓶。細い管のついた硝子の器。小さな秤。
騎士の旅には、およそ似つかわしくないものばかりだった。
荷は、少しでも軽いほうがいい。
道が悪くなれば、一つの箱が馬の足を鈍らせる。天候が崩れれば、荷を守るために余計な手間も増える。
それでも、ジェフリーにはそのどれが不要なのか判断できなかった。
自分には使い道の分からない器具が、龍の涙を調べるために必要になるのかもしれない。
ジェフリーはしばらく箱の中を見つめ、静かに蓋を閉じた。
「そのまま積め」
近くにいた騎士が頷き、再び箱へ手をかける。
歩き出すと、マティアスの大きな影が後ろについてきた。
「隊長。最初に目指すのはアジールだと聞きましたが」
「ああ。正確には、アジールのさらに奥だ」
マティアスは腰の筒から地図を抜き、近くの木箱の上へ広げた。指が、エステリアの西をなぞる。
「アジールへ入るには、国境に架かるこの二つの橋のどちらかを通る必要があります。ただ、今は時期が悪い」
「花祭りか」
「はい。祭りを終えて戻る者に加えて、アジール方面へ向かう商人も増えています。どちらの橋にも順番待ちが出ていて、宿場からあふれた者が周辺の町や村にまで流れているそうです」
地図の上で、国境沿いの小さな町が点のように並んでいる。
ジェフリーは黙って、それを見下ろした。
いつもなら、人混みなど気にしない。黒騎士として任務を帯びている以上、必要ならば堂々と進めばいい。
けれど今回は違う。
どこに、アヤの顔を知る者がいるか分からない。
表向き、彼女はエステリア王立学術評議院から派遣された学者として、この隊に加わる。
サルヴィアの黒騎士たちの中に、エステリアの第一王女がいる。それが知られれば、余計な目を集めることだけは間違いなかった。
「国境で長く足止めされるのは避けたいな」
ジェフリーが地図を見たまま呟いた、そのときだった。
「それは、もう少し丁寧に扱ってくださる? 中の瓶が割れてしまうわ」
朝の厩舎には、あまりにも不似合いな華やかな声だった。
振り向くと、幌馬車のそばに王妃ヴァレリア・ソヴェールが立っていた。
夜明け前だというのに、侍女まで従えている。
その目の前では、一人の黒騎士が大きな箱を荷台へ押し上げようと、苦労しているところだった。
レノックス商会から届いたものではないと、一目で分かった。
ジェフリーは地図をマティアスへ預け、王妃のもとへ歩いていった。
「王妃陛下。この荷は」
「あら、ハルセリン卿。ちょうどよいところへ」
ヴァレリアは、本当に助かったと言わんばかりの顔をした。
「アヤに必要なものですわ。あの子が旅先で困らないように準備したのですけれど、商会が用意したものだけでは、あまりにも足りないのですもの」
ジェフリーは、今まさに積まれようとしている箱の蓋を開けた。
薄明かりの中でも艶やかに光る、何着ものドレス。
その隙間には、香油や化粧品、茶葉の缶、銀のティーポットと揃いの茶器、焼き菓子の箱までが、隙間なく詰め込まれていた。
ジェフリーは、静かに蓋を閉じた。
「全部、降ろせ」
黒騎士の手が止まった。
ようやく荷台へ押し上げたばかりなのだろう。
一瞬だけ、今からですか、とでも言いたげな顔をジェフリーへ向ける。
だが、隊長の命令は絶対だった。
騎士は小さく息を吐き、再び箱を抱え直した。
「まあ、どうして!」
当然ながら、ヴァレリアは黙っていなかった。
「これはレディとして、どれも欠かせないものですのよ」
ジェフリーは、込み上げる疲労を飲み込んだ。
「王妃陛下。アヤ殿下には、王族としてではなく、我々と同じ探索隊の一人として加わっていただきます」
「それでも着替えくらいは必要でしょう?」
「最低限のものは、すでに商会で用意されています」
「でも、お茶くらい――」
「王妃陛下」
思っていたより低い声が出た。
ヴァレリアが口を閉じる。
ジェフリーは、降ろされていく箱へ一度目を向けた。
「王宮を出れば、誰が、どこで我々を見ているか分かりません。このような荷を運べば、高貴な身分の女性が同行していると、自ら知らせながら歩くようなものです」
それまで不満げだったヴァレリアの表情から、少しずつ反論の色が消えていった。
「殿下のご無事を望まれるのであれば、どうか、ご理解ください」
しばらく、荷を運ぶ音だけが二人のあいだを通り過ぎた。
ヴァレリアは、石畳へ戻されていく箱を見つめていた。
絹のドレス。銀の茶器。娘の好きな菓子。
王宮にいれば、どれも当たり前にそばにあるものだった。
その当たり前が役に立たない場所へ、娘はこれから行く。
「……あの子、本当に、大丈夫なのかしら」
先ほどまでの勢いが嘘のような、小さな声だった。
次の瞬間には目元を押さえ、そばの侍女が慌てて肩を支えている。
ジェフリーは言葉を失った。
泣かせるつもりなどなかった。
荷を降ろしてほしかっただけなのだ。
結局、「失礼いたします」とだけ告げて、その場を離れた。
まだ出発もしていないというのに、すでに一仕事終えたような疲れが肩へ残った。
そんなジェフリーの耳へ、少し離れたところから若い笑い声が届いた。
二人の黒騎士が、じゃれ合うように木箱を運んでいる。
エミール・レーンと、テオ・ヴァルト。
黒騎士の旅装に身を包んではいるものの、笑った横顔にはまだ少年の面影が色濃く残っていた。
その二人へ目をやったところで、マティアスが戻ってきた。
「王妃陛下がまた荷を積ませないよう、見張りを残しますか?」
「いや、いい。それより」
ジェフリーは振り返った。
「追加の十二名。誰が選んだ」
「……私です」
「違うだろう」
間を置かず返し、ジェフリーは二人のほうへ顎を向けた。
マティアスはしばらく黙っていたが、やがて観念したように息を吐いた。
「発つ直前に、二名が入れ替わりました。こちらが気づいたときには、すでに名簿は団長へ提出され、受理されたあとでした」
「コンラートか」
「……はい。若手が経験を積むには、よい機会だろうと」
それだけ聞けば、考えていることは分かった。
こちらが選んだ経験のある二人を手元へ残し、代わりに、自分の隊へ入ったばかりの新人を寄越したのだ。
――出し渋りやがったな。
龍の涙の探索を、少し長い遠足くらいにでも考えていそうなコンラートの顔が頭に浮かぶ。
そのとき、二人の声がはっきりと耳へ届いた。
「なあ、本当に来るのか、あひるの姫」
「あひるじゃなくて、豚の姫の間違いだろ。馬が一頭余計に疲れそうだ」
「もし荷馬車から転げ落ちそうになったら、誰が支える?」
「俺一人じゃ腕が折れるって」
二人の笑い声が重なった。
その目の前に、黒い影が落ちる。
「そうか。ずいぶんと、ひ弱な腕だな」
二人の背中が同時に固まった。
ゆっくり振り返った先に、ジェフリーが立っている。
声は、少しも荒らげていない。
それが、かえって恐ろしかった。
「人ひとり支えられない者がいるとは、俺の知らないうちに、黒騎士もずいぶん質が落ちたものだ」
二人の顔から、笑みが跡形もなく消えた。
しばらくして、エミールがおそるおそる口を開いた。
「で、でも……噂じゃ、大の男二人分くらいあるって――」
「我ら黒騎士は、一人で三人分の働きをする」
ジェフリーの声が、それを遮った。
「大の男二人も支えられないのなら、お前たちに黒騎士は務まらん。今すぐサルヴィアへ帰って、民の荷運びでも手伝っていろ」
二人は息を呑んだ。
ようやく黒騎士となり、初めての遠征を前にしている。
その場で帰れと言われる意味は、十分に分かったのだろう。
「黒騎士だと証明したいのであれば、その働きで示せ」
ジェフリーは二人から視線を外した。
「マティアス。この二人を、アヤ殿下の護衛につけろ。一度でも騎士にあるまじき振る舞いがあれば、その場で帰せ。判断は任せる」
「承知しました」
エミールとテオは顔を見合わせた。
どちらの顔にも、先ほどまでの軽さはもう残っていなかった。
「ジェフリー殿! こちらでしたか」
小走りの足音とともに、ヴィクターが近づいてきた。
「馬について、ご相談がありまして」
促されるまま厩舎の奥へ進むと、並んだサルヴィアの黒馬の端に、一頭だけ別の馬がつながれていた。
「アヤ殿下がお使いになる馬ですが、途中で替えたほうがよろしいかと。こちらでもできる限り丈夫な馬を用意したのですが、黒騎士の馬と同じ行程を進ませれば、おそらく殿下の馬が先に参ります」
ジェフリーは、馬の身体を見た。
骨格もしっかりしており、決して悪い馬には見えない。
「エステリアの騎士が使う馬では?」
「ご冗談を」
ヴィクターは呆れたように眉を上げた。
「サルヴィアが誇る黒馬以上の馬は、この世に存在しないとまで言われるのですぞ。それに、ここだけの話、私が用意した馬は、エステリアの騎士団長が使っていてもおかしくないほどのものです」
それほどの馬でも、黒馬と同じには走れない。
サルヴィアでは当たり前のように目にしてきたものが、国を一つ離れれば、そうではない。
「我々は、まずアジールを目指します。龍の涙の手がかりとなるものが、その先にある。砂漠を越えられる馬が必要です」
「黒馬ならまだしも、普通の馬では難しいでしょうな」
ヴィクターは少し考え、やがて思い当たったように顔を上げた。
「でしたら、ソラスへ寄られるとよいでしょう。国境近くの町で、アジールからの行商がよく通ります。戦場を駆ける速さには向きませんが、暑さに強く、荷を背負ったまま長く歩ける馬なら、あそこで揃うはずです」
ソラス。
先ほどマティアスと広げていた地図にも、その名があった。
国境の混雑を確かめる意味でも、まずそこへ向かうのがよさそうだった。
ヴィクターはさらに、懐から一通の封筒を取り出した。
「それから、こちらを」
レノックス商会の封蝋が押されている。
「この探索隊を、レノックス商会が支援していることを証明する書状です。土地によっては、黒騎士の名だけでは話が通らないこともございます。宿でも馬でも、援助を断られることがあれば、お使いください」
「お気遣い、感謝します」
ジェフリーが封筒を旅装の内側へ収めた、そのときだった。
「皆さま、お待たせいたしました」
聞き慣れた声がした。
振り向いたジェフリーは、そのまま言葉をなくした。
薄明かりの中を、アヤが歩いてくる。
白い上衣に、青と白の長い旅装。裾には淡い色の花の刺繍が入り、歩くたびに静かに揺れている。
腰には幅広の革帯と、学術道具を収めるための鞄。
手には革の手袋。
長い黒髪は左右から編まれ、背で青いリボンにまとめられていた。
王女の華やかさは、どこにもない。
それなのに、品は少しも失われていなかった。
むしろ、本を読み、考え、問い、知ろうとすることを好む人。
その聡明さそのものが、静かに姿になって現れているようだった。
舞踏会の第一王女とも違う。
花祭りの日、町娘のように笑っていたアヤとも違った。
これが、旅をするアヤなのだ。
「ジェフリー様?」
呼ばれて、ジェフリーはようやく我に返った。
アヤは不思議そうに小さく首をかしげ、それから周囲の黒騎士たちへ向き直った。
膝を深く折る王女のカーテシーではない。
背筋を伸ばし、一人の学者として簡素に頭を下げる。
「本日より、エステリア王立学術評議院の学者として、ご一緒いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
ジェフリーは、手元の紙へ目を戻した。
「荷の準備は、ほぼ整っています。あとは、アヤ殿下のお支度が済み次第、出発です」
アヤは、少しだけ笑った。
「この王宮を出れば、わたくしはただのアヤでございますから」
「……あ」
一瞬、言葉に詰まる。
アヤは、その様子を楽しむようにほんの少しだけ目を細めた。
ジェフリーは咳払いをして、同行者の名が記された書類を開き直した。
「正式には、エステリア王立学術評議院・国外調査員、アヤ・ラセル女史。身分証は、お持ちですね」
「はい。確かにここに」
アヤは胸元から、評議院の印が押された小さな身分証を取り出した。
ジェフリーが確認して返すと、アヤはそれを胸のポケットへ戻す。
そのとき、さらに奥に収められていた革の手帳の角が、ほんの一瞬だけ覗いた。
ジェフリーの視線が、そこへ止まる。
先日、自分が渡したものだった。
何も言わなかった。
ただ、口元がわずかに緩むのを隠すように、周囲へ声を張った。
「そろそろ出る。荷と馬を、城門へ回せ」
黒騎士たちが一斉に動き出す。
その中で、エミールとテオの二人だけが、木箱を抱えたまま、アヤを見ていた。
先ほどまで笑い話にしていた「あひるの姫」と、目の前に立つ青い旅装の学者。
どうやら、その二つがうまく結びついていないらしかった。
********
王宮の正門の前には、もう家族が揃っていた。
国王レグナード。
王妃ヴァレリア。
そして、ミエ、マリサ、リカ。
いつもと同じ顔だった。
それなのに今朝は、そのどれもが少しずつ違って見えた。
「くれぐれも、無茶はするな」
「分かっています、お父様」
「そなたの『分かっています』ほど、あてにならんものはない」
アヤは、思わず笑った。
隣でヴァレリアが、赤くなった目をしたままアヤの手を取る。
「嫌になったら、すぐに帰ってくるのよ」
「大丈夫よ、お母様。そんなことにはならないわ」
母の手を両手で包む。
いつもより少し強く、握り返された。
それからミエの前へ立った。
「妹たちのこと、お願いね。それから、お父様との喧嘩はほどほどに。言い返す前に、どうしてそうおっしゃるのか、少しだけ考えてみるのよ」
いつもなら、そのあとに何かしら反論が続く。
けれど今朝のミエは、何も言わなかった。
唇を噛み、目を伏せている。
アヤは少しだけ笑って、そのまま妹を抱き寄せた。
ミエの身体が一瞬強張る。
次の瞬間には、アヤの旅装をぎゅっと掴んでいた。
「……ちゃんと、帰ってきてくださいね」
「もちろんよ」
アヤは、その背を一度だけ撫でた。
次にマリサの前へ立つ。
「あなたが大切に育ててくれたハーブのおかげで、いい薬の材料をたくさん用意できたわ。ありがとう」
マリサが、わずかに顔を上げた。
アヤはその表情を見てから、続ける。
「あなたのデビュタントに立ち会えなくて、ごめんなさいね。でも、あなたなら大丈夫。きっと立派に社交界へ出ていけるわ」
マリサの唇が、何かを言おうとするように少しだけ動いた。
けれど結局、その言葉は出なかった。
アヤは何も尋ねず、妹をそっと抱きしめる。
「帰ったら、たくさん話を聞かせてね」
マリサは、姉の肩へ頬を寄せたまま小さく頷いた。
最後にアヤがリカの前へ立つと、何かを言うより先に、小さな身体が飛び込んできた。
「お姉様、行かないで」
アヤは、その頭をゆっくり撫でた。
「いい子にしているのよ。お父様やお母様、それからお姉様たちの言うことを、ちゃんと聞いて」
「……明日には帰ってきて」
その言葉に、アヤは一瞬だけ目を伏せた。
「明日は、ちょっと難しいわね」
しばらく抱きしめたあと、リカはようやく身体を離した。
そして、何かを思い出したように侍女を振り返る。
差し出されたのは、大きな包みだった。
口には、いかにもリカらしい可愛らしいリボンが結ばれている。
「リカ様、探索隊の荷には限りがあるそうで……」
侍女が困ったように言うと、リカは少し考えてから胸を張った。
「これは、お姉様の荷物じゃないもの。ジェフリー様に差し上げるものだから、いいの!」
どうやら本人の中では、それで問題は解決したらしい。
少し離れたところでは、そのジェフリーがレグナードの前に立っていた。
騎士として静かに一礼する。
「これより、龍の涙の探索へ出立いたします」
レグナードは頷き、王家の封蝋が押された厚い証書を差し出した。
「エステリア国王として、そなたらに龍の涙の探索を許したことを証する。国の外でも、これが役に立つ時があろう」
ジェフリーは両手で受け取った。
「ありがたく頂戴いたします」
頭を下げる。
そのとき、レグナードが、ごく小さな声で言った。
「……娘を、頼む」
ジェフリーが顔を上げた。
陽冠を戴く国王の姿は、いつもと変わらない。
その声だけが、一人の父親のものだった。
「この命に代えても、必ずお守りいたします」
ジェフリーの返事に、迷いはなかった。
レグナードは彼を見つめ、ただ一度、静かに頷いた。
「ジェフリー様!」
明るい声とともに、リカが大きな包みを抱えて駆けてきた。
「これ、旅の途中で召し上がれるように用意しました。お菓子をたくさん入れましたので、どうか召し上がってください」
差し出された包みを受け取ると、思っていた以上の重さが腕へかかった。
ジェフリーは、包みとリカを見比べた。
つい先ほど、王妃が持ち込んだ荷をすべて降ろさせたばかりである。
どうしたものかと視線を上げる。
そこでリカの後ろから歩いてきたアヤと目が合った。
アヤは何も言わず、穏やかに微笑んで、小さく頷いた。
どうか受け取ってあげて。
それだけで十分だった。
「ありがとうございます、リカ殿下。大切にいただきます」
「全部、食べてくださいね」
ジェフリーは一瞬だけ黙った。
「……承知しました」
その返事に、アヤが小さく笑った。
やがて、すべての支度が整った。
ジェフリーが黒馬へ跨り、隊列を見渡す。
アルベルト。
セドリック。
マティアス。
そして、今回加わった黒騎士たち。
その中には、まだどこか硬い顔をしたエミールとテオの姿もあった。
最後に、アヤが自分の馬へ跨った。
その背後には、生まれてからずっと見慣れてきた王宮がある。
ジェフリーが前を向く。
「よし、出発だ」
蹄が、石畳を打った。
一頭、また一頭と、黒い騎馬の列が王宮の門をくぐっていく。
そのあとを、2台の幌馬車の車輪が軋みながらついていった。
アヤも、馬を進めた。
門を越え、少し進んだところで振り返った。
家族が、まだ見える。
もう少し進んで、また振り返る。
リカが両手を大きく振っている。
ミエも、マリサも。
ヴァレリアは侍女に支えられながら、こちらを見つめていた。
レグナードだけは、手を振らなかった。
けれど、ずっとそこに立っていた。
アヤは前を向いた。
東の空の端が、ようやく金色に染まりはじめている。
朝の風が、編んだ髪の先を揺らした。
胸元では、小さな革の手帳が、馬の歩みに合わせてかすかに触れている。
しばらくして、アヤはもう一度だけ振り返った。
王宮は、少しずつ遠ざかっていく。
それでも家族は、まだそこにいた。
アヤの姿が、見えなくなるまで。
ずっと。




