21. それぞれに綴られた旋律
王都を見下ろす丘の上に、素朴な石造りのレストランがあった。
大通りからは少し離れているため、花祭りの最中だというのに店内は静かだった。人々の多くは祭りへ繰り出しているのだろう。いくつか並ぶテラス席にも空席が目立ち、遠くから届く笛や太鼓の音だけが、王都がまだ賑わいの中にあることを伝えていた。
ジェフリーは、その中でも王宮がもっともよく見える席を選んだ。以前、一人でこの店を訪れたときにも座った場所だった。
あの夜は、遠くに浮かぶ王宮の灯を眺めながら、一人の女性のことを考えていた。
今、その女性が目の前にいる。
「まあ……」
席についたアヤは、欄干の向こうへ広がる景色を見て、思わず声を漏らした。
丘の下には、花祭りに彩られた王都が広がっている。街路には色とりどりの花飾りが続き、広場を行き交う人々は、ここからでは小さな点のようにしか見えない。そのさらに向こうには、白い王宮が庭園ごと陽の下に横たわっていた。
昼下がりの初夏の風が丘を渡り、アヤの黒髪をさらりと揺らす。
「ジェフリー様、ここはとても素晴らしいです」
「お気に召しましたか」
「ええ。見てください。ここからですと、王宮も庭園も、まるで小さな箱庭のように見えます」
アヤは楽しそうに笑った。
毎日暮らしている場所であっても、こうして遠くから眺めることはほとんどないのだろう。王宮の塔を見つけては、あれはどの棟だろうと目を凝らし、庭園の一角を指しては、あそこなら分かりますと嬉しそうに話す。
そんな姿を眺めていると、ジェフリーまで不思議と満たされた気持ちになった。
しばらく景色を楽しんだころ、給仕が注文を取りにやってきた。
ジェフリーは品書きを手に取り、まず向かいのアヤへ目を向ける。
「アヤ様は、何になさいますか?」
「そうですね……先ほど山鳥をいただきましたから、冷たいものがいいです」
アヤも卓上の品書きへ視線を落とした。
いくつか並ぶ飲み物の名を追っていた目が、一つのところで止まる。
「柑橘水はいかがでしょう。甘くないものでしたら、ジェフリー様も召し上がれるでしょうか?」
ジェフリーの目が、一瞬だけアヤに止まった。
アヤは、何でもないことのように品書きを見ている。
ジェフリーもそれには触れず、給仕へ向き直った。
「では、冷たい柑橘水を二つ。甘味は加えずにお願いします」
給仕が一礼して去っていく。
アヤはもう一度遠くの王宮へ目をやったあと、表情を少し改めた。
「先ほど、『三』という数字についてお話ししましたね」
そう言うと、スカートの脇についたポケットから、二枚の紙を取り出した。
何度か折り畳まれていたそれを卓上へ広げる。細かな文字や簡単な図が、余白まで使って書き込まれていた。
「まず、エステリアに伝わる『三粒の涙』です。こちらは、先ほどお渡しした本にも載っています」
ジェフリーは、受け取ったばかりの小さなおとぎ話の本を思い出した。
三人の賢者が、それぞれの国から龍の涙を探しに向かう。子どもにも読める、やさしい物語だった。
アヤの指が、最初の項目をなぞる。
「次に、アジール地方に伝わるお話です。こちらには『龍の涙』という言葉そのものは出てきません。ただ、ドラゴンが三つの願いを叶えるというお話になっています」
ジェフリーの視線が、紙の上に記された文字で止まった。
「三つ目の願いでは、王自身が代償となり、その身体がきらめく石へ変わります。その石の粒によって、病に倒れていた人々が救われるんです」
きらめく石。
ジェフリーは、わずかに目を細めた。
龍の涙もまた、古い記録の中では、光を宿した宝石にも似たものとして語られていた。
とはいえ、それだけなら似た話はいくらでもありそうだった。
アヤはさらに続ける。
「そして、サルヴィアに伝わる『ドラゴンと、境の川』。こちらのお話には、『三』という数字そのものは出てきません」
その物語なら、ジェフリーにも聞き覚えがあった。
男を失ったドラゴンが涙を流し、その涙が大きな川となって、二つの国を隔てたという北の昔話だ。
「物語の舞台になったといわれる川は、今もあります」
「エステリアとサルヴィアの国境沿いを流れる川ですね」
アヤは頷いた。
「あの川は、大きな流れが途中で二つに分かれ、本流と合わせて三つの流れになります」
また三。
ジェフリーは卓上に広げられた紙へ目を落とした。
三人の賢者。
三粒の涙。
三つの願い。
そして、三つの流れを持つ川。
確かに、並べてみれば気にならないわけではない。
だが、ジェフリーにはどうしても一つ引っかかるものがあった。
おとぎ話というものは、そもそも三という数を好むのではないだろうか。
一つ目に何かが起こり、二つ目でもう一度繰り返され、三つ目で結末を迎える。子どもへ聞かせる物語なら、三という数は話をまとめるのにちょうどよい。
龍の涙とは何の関係もなく、それだけで十分に成り立つようにも思える。
「……偶然ということはありませんか?」
そう尋ねると、アヤはすぐには否定しなかった。
「わたくしも、おとぎ話だけでしたら、それほど気には留めなかったと思います」
その返事に、ジェフリーが顔を上げた。
ちょうどそこへ、先ほどの給仕が戻ってきた。
二つの硝子杯が卓上へ置かれる。
よく冷えた水の中に薄く切った柑橘が浮かび、昼の光を受けて淡く透けていた。
アヤは給仕が離れるのを待ってから、一口だけ柑橘水を飲んだ。
それから、二枚目の紙をジェフリーの前へ広げる。
「気になったのは、こちらを見てからなんです」
一枚目とは違い、そこには文字よりも線が多かった。
「これは、鉱石書に書かれていた道を、分かる範囲で写したものです」
アヤは図の一点に指を置いた。
「ここが、龍の涙が眠っていたとされる場所です。そして、鉱石書に記された逃げ道は、ここから始まります」
そこから一本の線を辿っていく。
しばらく続いた道は、やがて三つに分かれた。
「この先が、三方向に分かれています」
それぞれの先には、アヤの筆で小さく文字が添えてある。
一つは、現在のアジール方面。
一つは、エステリア方面。
そして最後の一つは、サルヴィア方面。
ジェフリーは、三本の線をじっと見つめた。
「ここでもまた、『三』です」
おとぎ話だけなら、偶然かもしれない。
ところが、千年以上前のものかもしれない鉱石書にも、三つの道が記されている。
そこで初めて、先ほどまで物語にありがちな数だと思っていた「三」が、ジェフリーの中でもわずかに違って見えた。
それでも、まだ偶然の可能性は捨てきれない。
「ですが、逃げ道が複数あること自体は、それほど不自然ではありません」
「ええ。わたくしもそう思います」
アヤはあっさり認めた。
「危険な場所から逃げるのであれば、出口は多いほうがよいでしょう。ですから、三本に分かれているというだけなら、それほど不思議ではありません」
ならば、何が気になるのか。
ジェフリーが続きを待っていると、アヤは紙から顔を上げた。
「ジェフリー様。あの鉱石書を解読したときのことを、思い出してみましょう。あの本には、龍の涙から逃げるための道が書かれていました」
「ええ」
ジェフリーが頷くと、アヤは続けた。
「でも、それだけではありませんでしたね」
ジェフリーは、青の部屋で解読した内容を思い返す。
失われたもう一つの国宝――ドラゴンへ近づくための地図。
その地図は、ドラゴンの瘴気の中でなければ真の姿を現さない。
そして、地図に記された文字を読み解くための手引きが、鉱石書の中に残されていた。
そこまで思い返したところで、ジェフリーの意識が最後の一点に止まった。
「失われた地図を読むための知識……」
「はい」
アヤは頷いた。
「鉱石書は、龍の涙から逃げるための道しるべでありながら、ドラゴンへ辿り着く地図を読むための手引きでもあるんです」
ジェフリーは黙った。
言われてみれば、奇妙だった。
現在の鉱石書だけを見れば、ドラゴンから逃げる者のために作られた本にしか見えない。
暗い道を進め。
明るい場所を避けろ。
月明かりの下で本を照らせ。
翼が空を覆ったなら動くな。
そこまで徹底して危険から離れる方法を教えている一方で、同じ本の中に、ドラゴンへ向かうための地図を読む知識が残されている。
「わたくしは、そこが気になったんです」
アヤは鉱石書の写しへ視線を落とした。
「わたくしたちは、あの鉱石書を一冊の本として読んでいました」
「違うのですか?」
「今は一冊の本です。でも、本当に最初から今と同じ形だったのでしょうか」
ジェフリーの視線が、アヤへ向いた。
「あの本は、普通の本とは違います。一頁ずつが、薄い鉱石の板でできています。そして、その頁は銀糸を編んだ丈夫な紐で綴じられています」
アヤは頁をめくるように指を動かした。
「あれなら、紐を外せば後から頁を加えることも、取り外すことも、順番を変えることもできます」
ジェフリーの表情がわずかに変わった。
「つまり……もともとあった頁と、後から加えられた頁があるかもしれない?」
アヤは静かに頷いた。
「もともとは、失われた地図とともに、ドラゴンへ辿り着くために必要な知識を記した本でした。そこへ後の時代になって、龍の涙から逃げるための頁が加えられたのではないかと考えています」
そこまで言ってから、アヤは少しだけ言葉を慎重にした。
「もちろん、まだ推測にすぎません」
ジェフリーは、三本の道へ目を戻した。
それならば、一冊の本に相反する二つの役割が残っていることにも説明はつく。
ドラゴンへ向かうための地図を読む知識。
ドラゴンから逃げるための知識。
それぞれが異なる時代に加えられたのだとすれば――。
そうなると、今度は別の問題が生まれる。
「この三本の道をすべて調べるとなれば、エステリアだけでは済みません」
ジェフリーは紙の上に記された三つの行き先へ目を落とした。
「サルヴィアに、アジール。すべてを追うとなれば、あまりに時間がかかる」
「そうなんです」
アヤは頷いた。
「ですから、少し視点を変えてみたいと思っています」
「視点を?」
「はい。道を一つずつ追うのではなく、まず、この鉱石書と地図がなぜ作られたのかを考えるんです」
そう言うと、アヤは少しだけ考えるように首を傾げた。
「ジェフリー様。もし宝をどこかへ隠して、その場所を示す地図を作るとしたら――どんなときだと思います?」
突然の問いに、ジェフリーは少し考えた。
「……いずれ、その宝を取りに戻るつもりがあるときでしょうか」
「わたくしも、そう思います」
アヤの指が、紙に描かれた道の中央へ置かれた。
「誰にも見つからない場所へ隠しておきながら、自分たちだけは必要なときに戻れるようにする。そのために地図を残す」
ジェフリーは黙って続きを待った。
「でも、鉱石書には、古代の人々が龍の涙を貪るように使っていたと書かれていました。それなのに、ドラゴンへ辿り着くための地図と、その地図を読むための知識が残されているんです」
ジェフリーの視線が、紙の上で止まった。
もし龍の涙が一度しか手に入らないものだったなら、なぜ再びその場所へ向かうための道を残す必要があるのだろう。
「まだ龍の涙が残っていた……?」
「その可能性もありますが、もう一つ考えられます」
「もう一つ?」
アヤは少し言葉を選んだ。
「龍の涙は、一度手に入れれば終わりのものではなかったのかもしれません」
ジェフリーはアヤを見て、続きの言葉を待った。
「つまり……何らかの方法で、再び手に入れることができた」
アヤの指先が、地図の中心で止まる。
「だから古代の人々は、何度も同じ場所へ戻る必要があったのではないでしょうか。そのために、地図とそれを読むための本を残したのかもしれません」
しばらく、ジェフリーは何も言わなかった。
「龍の涙を……繰り返し生み出していたということですか?」
「まだ仮説です」
アヤはすぐにそう付け加えた。
「龍の涙そのものが残っていたのかもしれませんし、何度も得る方法があったのかもしれません。今は、どちらとも言えません。ただ、もし後者なら、地図が残された理由にも説明がつきます。何度も、その場所へ戻る必要があったからです」
ジェフリーは紙の上の一点を見つめた。
龍の涙を得るために同じ場所へ繰り返し向かった人々がいて、そのために地図が残されたのだとすれば――。
「なおさら分かりません」
ジェフリーが言った。
「なぜ途中から、逃げるための頁が加えられたのでしょう」
アヤは黙って続きを待つ。
「龍の涙を得る方法が、誰かの命を代償にするような非道なものだったとして。それに反対する者が現れたのなら、地図も書物も壊してしまえばよかったはずです」
ジェフリーは顔を上げた。
「わざわざ地図の読み方を残したまま、逃げるための頁を加える理由がありません」
「ええ」
アヤは、ゆっくりと頷いた。
「わたくしも、そこが分からないんです」
本そのものを壊さず、ドラゴンへ向かう地図も、その読み方も残した。そのうえで、後から逃げるための方法を加えた。
「ですから、単に『龍の涙を得る方法が非道だったから、やめた』というだけではないのだと思います」
アヤは紙に描かれた道を見つめた。
「龍の涙を求めていた人々が、ある時を境に、そこから逃げなければならなくなったのかもしれません」
ジェフリーの視線も、同じ場所へ落ちる。
「……何かが起きた」
「はい」
アヤは小さく頷いた。
「その理由を知らないまま、わたくしたちも同じ場所へ向かうのは危険だと思います」
思っていた以上に、龍の涙を巡る謎は深い。
しばらく二人の間に沈黙が落ちた。
丘を渡る風が、卓上に広げられた紙の端を揺らしている。
やがてジェフリーが口を開いた。
「では、どこから調べましょうか」
「そこなんです」
アヤは少し表情を和らげた。
「わたくしは、鉱石書そのものを調べたほうがよいと思っています」
「本そのものを?」
「はい。特に、なぜセレス語で書かれているのか」
「作られた時代が古いからでは?」
「もちろん、それもあると思います」
アヤは柑橘水を一口飲んだ。
冷えた硝子杯の表面を、小さな水滴がゆっくりと流れていく。
「セレス語は、『星読みの文字』とも呼ばれています。星の動きをなぞるように作られたと伝わる、現存する古代語の中でも、もっとも古い部類に入る言葉です」
ジェフリーはその言葉を頭の中でもう一度確かめるように、わずかに視線を落とした。
「そして、アジールのさらに奥に、『天に届く塔』と呼ばれる場所があります」
その名には、聞き覚えがなかった。
「そこが、セレス語の発祥の地だと伝えられています」
「そこへ行けば、この鉱石書について何か分かると?」
「少なくとも、三本の道を一つずつ追うよりは、手がかりを得られる可能性があります」
アヤは二枚の紙を重ね、端を揃えた。
「鉱石書がいつ作られたものなのか。最初から今の形だったのか。もし後から頁が加えられたのなら、それはいつなのか」
一つずつ確かめるように言葉を並べた。
「それが分かれば、なぜ人々が何度もドラゴンのもとへ向かい、そしてなぜ途中から逃げる方法を残すようになったのかも、少しは見えてくるかもしれません」
そこまで話すと、アヤはようやく言葉を切った。
ジェフリーはすぐには答えなかった。
遠くへ目を向ける。
丘の向こうには、陽を受けた王宮が静かに佇んでいた。
そのさらに先には、国境がある。
サルヴィアがあり、アジールがある。
そして千年以上もの昔、今は三つの国へと続くそれぞれの土地から、同じ場所へ向かっていた人々がいたのかもしれない。
ジェフリーは、卓上に重ねられた二枚の紙へ、もう一度目を落とした。
********
どれほどの時間が流れただろう。
ジェフリーは、しばらく何も言えずにいた。
卓上には、アヤが書き写した二枚の紙が重なっている。
各地に残るおとぎ話。千年以上も前のものかもしれない鉱石書。失われた地図。ドラゴンの瘴気。
ひとつ謎が解けたと思えば、その向こうからまた新しい疑問が現れる。龍の涙へ続く道は、探れば探るほど遠くなり、複雑に絡み合っていくようだった。
それでも、手がかりがないわけではない。
ただ今は、その一本一本をどこからほどけばよいのかが分からないだけなのだ。
アヤも、それ以上は何も言わなかった。
考える時間を邪魔しないようにしているのか、それとも彼女自身もまた、今まで口にした仮説を頭の中でもう一度辿っているのか。重ねた紙の上に置いていた手を離すと、そのまま欄干の向こうへ視線を移した。
話しているうちに、ずいぶん時間が過ぎていたらしい。
昼間には白く輝いていた王宮の壁が、西へ傾き始めた陽を受けて、淡い橙色に染まりつつある。花祭りの喧騒も、丘の上まで届くころにはずいぶんやわらかくなり、遠い音楽のように風へ溶けていた。
その風に運ばれてきたのだろう。小さな花びらが数枚、卓上をかすめるように舞った。
一枚はアヤの肩先を越え、もう一枚は二人の間をゆっくりと横切って、そのまま欄干の向こうへ流れていく。
アヤはその行方を目で追い、やがて、ほっと息をつくように微笑んだ。
「本当に、美しいですね」
その横顔には、傾きかけた陽の色が淡く映っていた。
白い頬がほんのりと色づき、風に揺れる黒髪の間からのぞく表情まで、いつもよりやわらかく見える。
ジェフリーも同じ景色へ目を向けた。
眼下に広がる王都は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。
街路を彩る花々も、広場を行き交う人々も、空へ舞い上がる花びらも、夕暮れの光の中で少しずつ輪郭をほどいている。
そこだけを眺めていれば、この国には苦しみも悲しみも存在せず、誰もがただ穏やかに暮らしているのではないかと錯覚してしまいそうだった。
「わたくし、今日は本当に楽しかったです」
アヤの声が、静かにその景色へ重なった。
「とても幸せです」
その言葉に、ジェフリーは景色からアヤへ視線を戻した。
アヤも、こちらを見ていた。
「こんなに一日中はしゃいだのは、もう何年ぶりかしら」
自分でも少しおかしかったのだろう。そう言って、照れたように笑う。
その笑顔を見た瞬間、ジェフリーの中で、先ほどまで複雑に絡み合っていた思考が、不思議なくらい静かになった。
龍の涙へ続く道がどれほど遠くてもいい。
この先に、まだ何が隠されているのか分からなくてもいい。
必ず見つけよう。
サルヴィアの人々のために。
アヤが愛しているこのエステリアを守るために。
そして、いつか彼女自身が龍の涙を必要とする日が来たとしても、そのとき迷わず手を伸ばせるように。
今、目の前で穏やかに笑っているこの人が、ずっと先の未来でも同じように笑っていられるのなら、どれほど険しい道であっても歩いていける気がした。
「あなたに喜んでいただけて、私も嬉しいです」
それは飾る必要のない、本心だった。
アヤの目元が、ますますやわらかくなる。
その表情を見たとき、ジェフリーは胸元にあるものを思い出した。
正確には、忘れたことなど一度もなかった。
古い文具店で見つけたあの日から、ずっとそこにあった。
渡そうと思ったことも、一度や二度ではない。それでもなぜか、そのたびに渡せないまま今日まで来てしまった。
上着の内側へ手を入れ、小さな包みを取り出す。
長い間、胸元にしまわれていた濃紺の包装紙には、ところどころ細かな折れ癖がついていた。結ばれた銀のリボンも、買った日のような張りはもう残っていない。
新品の贈り物には見えなかった。
その少しくたびれた姿だからこそ、どれほど長いあいだ持ち歩かれていたのかは、かえって隠しようがなかった。
「お渡しするのが、ずいぶん遅くなってしまいました」
差し出されたものを見て、アヤが目を瞬かせる。
「これは……?」
ジェフリーは、自分でも少し困ったような気持ちになりながら、包みを彼女の前へ差し出した。
ほんの少し間を置く。
「私から、あなたへの贈り物です」
アヤは驚いたまま、しばらく包みを見つめていた。
やがて両手で受け取り、指先で銀のリボンに触れる。
新しい贈り物ならば、きっとそこまで気にならなかっただろう。
細いリボンは、何度も胸元で押されてきたらしく、すっかりやわらかくなっていた。
「……ずっと、長いあいだお持ちになっていたのですか?」
ジェフリーは答えに迷った。
そうだ。
ずっと持っていた。
古い文具店でこれを手にした日から。
渡す機会なら、何度もあったはずなのに、いつも最後のところで胸元へ戻した。
ただ渡せなかっただけなのかもしれない。
離れた場所にいるとき、この小さな包みがそこにあるだけで、ほんの少しだけアヤを近くに感じられたことも確かだった。
それをどう言葉にすればいいのか。
考えれば考えるほど分からなくなり、ジェフリーはとうとう返事を諦めた。
代わりに、どうしようもなく困ったような笑みを浮かべる。
そんなジェフリーを、アヤはしばらく黙って見つめていた。
ふと、昔どこかで読んだ言葉を思い出す。
――贈り物は、幸せな時間にもらえば、その幸せをもっと大きくしてくれるもの。
どこで読んだ言葉だっただろう。
ずいぶん昔のことなのに、なぜか今になって鮮やかに蘇った。
今日一日、たくさん笑い、人混みの中を歩き、知らない食べ物を買い、山鳥を手でかじった。
妹の晴れ姿を見て、ジェフリーと並んで、いつもとは違う王都を歩いた。
最近は、龍の涙のことも、妹たちのことも、国のことも、考えなければならないことばかりだった。
ジェフリーと会っているときでさえ、胸のどこかにはいつも小さな不安があったように思う。
けれど今日は違った。
ただ楽しかった。
ただ、幸せだった。
そして今、その一日の終わりに、自分のために長いあいだ持ち歩かれていた贈り物が、両手の中にある。
あの少しくたびれた包みが今日まで彼の胸元にあったのは、ただ渡す機会を逃していたからではなく、自分が心から笑える時を待っていてくれたからなのではないか。
そう思うと、銀のリボンについた小さな折れ癖さえ、彼が自分のために重ねてくれた時間を物語っているようだった。
昔、本に書かれていた言葉が、今になってようやく胸の内に落ちる。
幸せとは、こうして大きくなるものなのだ。
「ありがとうございます、ジェフリー様」
自然と笑みがこぼれた。
「これ、開けてもよろしいかしら?」
ジェフリーが頷く。
アヤは、やわらかくなった銀のリボンを急がずにほどいた。
くたびれてしまったものだからこそ、乱暴には扱いたくなかった。
濃紺の包装紙を一枚ずつ開いていく。
中から現れたのは、手のひらほどの小さな革の手帳だった。
丈夫ななめし革の表紙。
持ち歩くのに邪魔にならない大きさ。
脇には、細身の筆記具まで収められている。
華やかな飾りはほとんどない。
そのぶん、使う人のことをよく考えて作られたものだということは、手に取っただけで分かった。
「まあ……」
アヤはそっと革の表紙を撫でた。
そして、片隅に刻まれた小さな文字を見つけた。
Aya
指先が、そこで止まった。
そこにあるのは、王家の紋章でもなければ、第一王女を示す称号でもない。
自分の名前だけ。
アヤはその文字を指先でそっとなぞった。
すると不思議なことに、胸の奥から、くすぐったいような温かさが込み上げてきた。
幼いころ、初めて小さな子猫を腕の中へ抱いたときにも、こんな気持ちになったことがある。
あまりに小さくて、温かくて、ただ大切にしたいと思った。理由など、考えもしなかった。
今、両手の中にある手帳にも、あのときとよく似た愛おしさがあった。
「嬉しい……」
思わず、声に出ていた。
「とても素敵です」
考えて選んだ言葉ではなかった。それ以上にふさわしい言葉も思いつかなかった。
きっとジェフリーは、自分が何を好むのかを考えたのだろう。
何を見て、何を読み、何を書き留めるのか。
そうして選んだものに、自分の名前を刻んでくれた。
そこまで考えたところで、胸の奥がいっぱいになり、それ以上はうまく言葉にならなかった。
「この先、その手帳がアヤ様のお役に立てれば嬉しいです」
どこにでもありそうな言葉だった。
今は、それが少しも社交辞令には聞こえない。
アヤはもう一度、自分の名前が刻まれた表紙を見つめた。
「ありがとうございます」
それから、少し考えて笑う。
「これは、龍の涙を探すのにも役立ちそうですわ」
「いえ」
ジェフリーは思わず言った。
「龍の涙の探索のためだけではなく、アヤ様がお好きなことに使っていただければと……」
その言葉に、アヤは顔を上げた。
ジェフリーの青い瞳を見ながら、アヤは静かに笑った。
「はい。だから、わたくしがそうしたいのです」
丘を渡る風が、二人のあいだをやわらかく吹き抜けた。
いつの間にか、王都を照らす陽はさらに西へ傾いている。白かった宮殿の壁は淡い橙色に染まり、花祭りに彩られた街にも、昼とは違う穏やかな光が降りはじめていた。
遠くからは、まだ笛や太鼓の音が聞こえてくる。
風に巻き上げられた花びらが、夕暮れの空をゆっくりと流れていった。
アヤは手の中の手帳へ目を落とす。
片隅には、自分の名が刻まれている。
Aya
その文字を指先でそっとなぞってから、アヤは表紙を開いた。
まだ何も書かれていない、白い頁が現れる。
丘を抜けた初夏の風が、その一枚をふわりと持ち上げた。
頁は一度だけめくれ、やがて静かに元の場所へ戻った。
※この章で登場する龍の涙にまつわるおとぎ話は、【番外編】醜いあひるのお姫様に全文を掲載しています。
エステリア地方:さんつぶの涙
アジール地方:砂の王と、目を失ったドラゴン
サルヴィア地方:ドラゴンと、境の川




