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43. 小さな姫君と、甘い夜

卓の上に並んだ料理の包みを、ニーナは端からひとつずつ数えていった。


焼いた鶏の脚を山と盛った籠。香草を腹に詰めて焼いた魚。まだ湯気の立つ、豆と腸詰めの煮こみの壺。卵と乳を薄い生地の皿に流して焼いた、塩気のある焼き菓子。夏の野菜を香草と油でとろりと煮たもの。丸く大きな田舎ふうのパンが二つ。蓋つきの深皿には、幾重にも重なった薄い焼き生地の器が、行儀よく並んでいた。甘い匂いのする包みは、きっと食後の菓子だろう。


ニーナは、壁ぎわの棚に積んできた皿の山に目をやった。


足りない。


ひとつの料理に一枚ずつ取りわけるつもりで持ってきた皿では、とても間に合わない。この量なら、取り皿をあと一揃いと、大皿もいくつか要る。それに、料理の数を見るかぎり、葡萄酒の瓶も、もう二、三本あったほうがいい。


客の卓を整えるのは、宿の女の仕事のうちだった。ニーナは、深い葡萄酒色の服の腰に、前掛けがわりに巻いた布で手を拭うと、皿を取りに行こうと、部屋の扉を開けた。


廊下に出たところで、足が止まった。


「お湯をお使いになってから、いらしてください」


やわらかいのに、ひとつの曲がりもない声だった。


声のほうを見ると、廊下の先に、着がえを済ませた奥方が立っていた。白地に淡い青の小花を散らした服に、長い黒髪をゆるくまとめて、頬には、薄く紅をさしている。その前で、背の高い旦那と、さっき駆けこんできた黒髪の黒騎士とが、そろって奥方を見下ろしていた。どう見ても、叱られている男たちの立ち姿だった。


「せっかくの晩餐です。旅の土をつけたまま席については、小さな姫君に失礼ですよ」


小さな姫君。


ニーナには、それが誰のことなのか、すぐに分かった。


使い走りの合間に、厨房の隅で、客の残した皿の汁をぬぐっていた子。お客様の前で泣くな、と言われて、唇をかんで泣かなかった子。その子が、今夜は、もてなされる側の椅子に座る。


ニーナにとって、テッサは、ほとんど妹のようなものだった。


胸の奥が、じんわりと温かくなった。


お客様が、湯をご所望なのだ。ニーナは、そう心の中で言いなおしてから、奥方のうしろへ歩みよった。


「よろしければ、うちの宿の湯殿をお使いになりませんか。今夜は、まだどなたもお使いになっていませんから、すぐにお湯を張れますよ」


奥方が、振りかえった。


その顔が、ぱっと明るくなった。


「本当ですか。ぜひ、お願いします。人数は、ええと……」


奥方は、言いかけたまま、旦那の顔を見上げた。護衛の者が今いったい何人そろっているのか、自分では分からないらしかった。


「四人です」


旦那が、かわりに答えた。


ニーナは、少し考えた。


「宿の湯殿なら、一度に三人まで、ゆっくりお使いになれます。旦那様がお部屋の湯をお使いになれば、皆様、ほとんど待たずにお済みになりますよ。お部屋のほうにも、すぐにお湯を運ばせます」


旦那は、ニーナの顔を、ほんのひと呼吸だけ見ていた。何かを量るような目だった。


「では、こちらからも手伝いをつけましょう」


旦那はそう言うと、開いたままの扉の奥へ声をかけた。


「アルベルト」


部屋の中で、大柄な黒騎士と一緒に椅子を並べていた男が、顔を上げた。くすんだ金色の髪を、無造作に額からかきあげている。服屋の長椅子で、ニーナと半刻もしゃべっていった男だった。


アルベルトは、旦那のそばまで来ると、声をひそめた。


「荷運びなら、カスパーのほうが――」


「ニーナさんの手伝いを頼む」


旦那は、それだけ言った。


アルベルトの目が、ほんの一瞬だけ、旦那の顔の上で止まった。


それきりだった。次にニーナのほうを向いたとき、アルベルトの顔には、もう、いつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。


「なんでもお手伝いしますよ。さて、何から始めましょう」


ニーナは、思わず口もとをほころばせた。


この宿で客の相手をするようになってから、ずいぶんになる。客の顔色を読み、客の話に笑い、客の好む女の顔をして見せる。ニーナの毎日は、その繰りかえしだった。


この男は、逆だった。服屋の長椅子で並んで座ったときも、この男のほうがニーナの話に合わせて笑い、ニーナが話しやすいように、話の向きを変えてくれた。あんなふうに、こちらに合わせようとしてくれる男は、めったにいない。


旦那のほうは、たしかに、町じゅうの女が振りかえるほどの男だった。ニーナも、ひと目見て、すてきな人だと思った。それでも、一緒にいて心地がいいのは、こういう男のほうだった。


「じゃあ、まずは、お湯の桶運びから。重いわよ」


「任せてください」


アルベルトは、腕まくりをしてみせた。



********



アヤの部屋の奥の、湯をつかうための小さな部屋に、湯気が満ちはじめていた。


宿の下働きの男が、厨房から湯の桶を運びあげてくる。それを、アルベルトが戸口で受けとって、木の湯舟に注ぐ。ニーナは、湯舟のふちに膝をついて、ときどき湯に手を入れては、熱さを確かめていた。


湯の注がれる音が、小さな部屋の壁に、絶え間なく跳ねかえっていた。


アヤとテッサは、もう隣の黒騎士たちの部屋へ移っている。この部屋に残っているのは、湯の支度ができるのを待つ旦那だけだった。旦那は、湯の小部屋の扉から少し離れた窓辺の椅子に、腰を下ろしているはずだった。


三つめの桶を空けたところで、ニーナが、湯に手を浸したまま、ぽつりと言った。


「あの子のこと、ありがとう」


アルベルトは、空の桶を戸口へ戻しながら、振りかえった。


「テッサのこと?」


「あの子が、あんな顔するの、初めて見たわ」


ニーナは、湯の面に目を落としていた。


「あたしね、何もしてやれなかったの。……前に、お客さんの飲み残しを、ちょっと飲ませてやったくらい」


アルベルトは、何も言わずに、次の桶を受けとった。


湯が、湯舟に落ちる。白い湯気が、二人のあいだに、ふわりと立ちのぼった。


「この宿にはね、いろんなお客さんが来るの」


ニーナの声は、湯の音にまぎれて、すぐそばのアルベルトにしか届かなかった。


「前にもね、王都から来たっていう商人さんがいたのよ。一年と、少し前だったかしら。礼儀正しくて、物静かで。テッサにも、よく声をかけてくれてた。館の旦那様のところへ、何度も通ってたわ」


アルベルトの手が、桶の縁を握ったまま止まった。


「ある朝ね、その人、いなくなったの。荷物を、部屋に置いたまま」


「……発ったんじゃなくて?」


「女将さんは、夜のうちに発ったって言ったわ。急ぎの用ができたんだろうって。でも、荷物は置きっぱなしだったのよ。着がえも、帳面も、旅の靴まで」


ニーナは、湯をかきまぜる手を止めなかった。


「その荷物も、いつのまにか、全部どこかへ消えてた。女将さんが売ったんでしょうね。あの人、そういうことは早いから」


アルベルトは、空になった桶を、そっと床に下ろした。


湯の音が途切れないように、次の桶を、戸口から受けとる。


「それとね」


ニーナが、湯の面を見たまま続けた。


「テッサのお父さんがいなくなったのも、ちょうど、そのころなの。月のない晩に、館のおつかいで出かけていって、それきり。海で見つかったって、あとで聞いたわ」


「そのころ、っていうのは」


「その商人さんがいなくなって、ひと月たったか、たたないかくらい」


ニーナは、そこで初めて、アルベルトを見上げた。


「……それだけよ。あたしが知ってるのは。何がどうつながってるのかなんて、あたしには分からない」


アルベルトは、桶の湯を、ゆっくりと湯舟に注いだ。


湯気の向こうで、ニーナの頬が、湯の熱に赤く染まっていた。


最後の桶を空けると、湯舟は、ほどよい深さまで満ちていた。ニーナは湯から手を抜いて、指先の雫を払った。


立ちあがるかわりに、湯舟のふちに膝をついたまま、アルベルトのほうへ、少しだけ身を寄せた。


「ねえ。服屋で、ひと晩十五セラって言ったでしょ」


「言ってたね」


「あなただったら、七セラでいいわ」


アルベルトは、思わず笑った。


「そりゃまた、ずいぶんと思いきった値引きだなあ」


「気に入ったお客には、そう言うことにしてるの」


ニーナの目が、湯気の中で、ゆっくりと細められた。濡れたように光る目だった。蜂蜜色の巻き毛に挿した赤い薔薇が、湯気を受けて、しっとりと色を深めていた。


「……でも、あたしが気に入ったお客なんて、今までひとりもいなかったけど」


ニーナの手が、アルベルトの胸に、そっと添えられた。


湯に浸していた指は、服ごしにも分かるほど、温かかった。


「あなた以外は」


アルベルトの背中を、ひやりとしたものが伝った。


これは、まずい。


湯の小部屋の扉の向こうには、まだ、湯の支度を待っている隊長がいるのだ。


アルベルトは、自分の胸に添えられたニーナの手に、そっと指をかけた。払いのけるのではなく、壊れものを棚に戻すように、ゆっくりと外す。


「いやあ、そんなに思ってもらえるなんて、光栄だなあ」


いつもの軽い調子を、声に乗せた。


「なにしろ、俺たちに近づいてくる女の人は、たいてい、最後には隊長に持っていかれちゃうからさ。ニーナさんだって、本当は隊長のほうがいいんじゃないの?」


ごめん、隊長。ニーナさんを、押しつけることになるかもしれない。


アルベルトは、胸の中で手を合わせた。


ニーナは、外された手を、自分の膝の上に戻した。その手を見下ろして、くすりと笑った。


「隊長さんって、あの奥方様の旦那様でしょう? だめよ。奥方のいる人に、そんなこと言っちゃ」


ニーナは、扉の向こうの、隣の部屋のほうへ目をやった。


「あの奥方様、旦那様に娼婦が近づいたなんて知ったら、きっと、ものすごく怒る人よ」


アルベルトは、アヤ様が怒るところを、思いだそうとした。


ひとつだけ、思いあたる顔があった。


ダリアに着いて、川べりに野営地を張った日のことだった。飢えた村の者が黒騎士を襲うかもしれない、と隊長が言ったとき、アヤ様は、隊長とマティアスを相手に、一歩も引かずに言いかえしたのだという。その場に、アルベルトはいなかった。あとで、マティアスが、苦笑まじりに、それでいてどこか感心したような顔で話してくれたのだ。


話を聞いただけで、その姿が目に浮かぶようだった。自分の国の民が、そんなふうに疑われることだけは許せない。王女としての怒りが、あのやわらかな身体の芯から、まっすぐに噴きだしていたに違いない。


あの隊長に、正面から言いかえした女の人を、アルベルトは、ほかに知らない。


そのアヤ様が、もし、娼婦がそばにいたというだけで、夫を責めることになったら。


いや、そもそも、サルヴィアから来たよその国の夫と、自分の国の民である娼婦と、アヤ様は、どちらの肩を持つのだろう。


アルベルトがそんなことを考えているうちに、ニーナが、湯舟のふちから立ちあがった。


「お湯は、これで大丈夫。隊長さんに、声をかけてあげて」


ニーナは、前掛けの布で手を拭くと、腰をかがめて、アルベルトの顔のすぐそばまで、自分の顔を寄せた。甘い香油の匂いが、湯気にまじって、ふわりと鼻先をかすめた。


「気が変わったら、いつでも、あたしのところへ来てね。今夜と明日は、お店のほうにいるから」


それだけ言うと、ニーナは、湯の小部屋を出ていった。


窓辺の椅子の旦那に、にこやかに一礼して、そのまま、部屋の扉から廊下へ消えていく。


アルベルトは、湯気の中で、しばらく動かなかった。


やがて、大きく息を吐くと、湯の小部屋を出た。


窓辺の椅子で、ジェフリーが、こちらを見ていた。


アルベルトは、ジェフリーのそばまで行くと、身をかがめた。扉の外に聞こえないように、ほとんど息だけの声で言う。


「花が、種を二つ落としました」


黒騎士のあいだで使う、隠語だった。まだ確かめの取れていない話が、二つある。


「種は、あとで届けます」


アルベルトはそれだけ言うと、軽く会釈をして、部屋を出ていった。自分も、一階の湯殿で旅の土を落とさなければならない。


ジェフリーは、扉が閉まるのを見届けてから、立ちあがった。



湯の小部屋に入ると、湯気の中に、花の匂いがした。


カモミールの匂いだった。


アルベルトとニーナが持ちこんだものではない。日暮れ前に、アヤがテッサと湯を使ったときの、石鹸の匂いだった。湯舟の脇の棚に、使いかけの小さな石鹸が、布の上にのせて置いてある。新しい湯の熱に温められて、その匂いが、ふたたび小部屋いっぱいにひろがっていた。


ジェフリーの手が、服の留め金にかけたまま、止まった。


この小部屋で、日暮れ前に、あの人が。


考えかけたところで、ジェフリーは、留め金を外した。脱いだ服を手早くたたんで、戸口の脇の棚に置く。剣は、湯舟のそばの壁に立てかけて、手を伸ばせば届くところにした。


そうして、手桶をつかんだ。


湯を汲む。頭から、ざぶりとかぶる。熱い湯が、髪を伝い、首すじを伝い、背中を流れおちていく。もう一杯。旅の土と、汗と、宿の廊下の湿った空気とが、まとめて洗い流されていく。


棚の石鹸を取って、布で泡を立てた。泡を立てると、匂いは、いっそう濃くなった。ジェフリーは、それを振りはらうように、髪と身体を、いつもより念入りに洗った。最後にもう一度、頭から湯をかぶる。


濡れた髪から、雫がしたたった。


その雫を見下ろしながら、ジェフリーは、ふと、あることに思いあたった。


これから、隣の部屋で晩餐が始まる。そのあいだ、この部屋は空になる。


この宿の耳は、黒騎士とアヤの動きを、ずっと見ている。空になった部屋を、放っておくはずがない。


ただ、あの耳が探すのは、金目のものではないだろう。金目のものは、アヤが鍵のかかる小箱に収めて、身につけている。探るとすれば、この部屋で、二人が何をしていたのか。誰と会い、何を書き、何を話したのか。


湯を使えば、石鹸が濡れる。顔を洗えば、手拭いの布が湿る。手紙を書けば、机の引き出しや、ペン立てに跡が残る。


ジェフリーは、湯で少しやわらかくなった石鹸を、手に取った。


湯の小部屋の窓辺に、小さな花瓶が置いてあった。野の花が数本、挿してある。宿の者が、客のために飾ったものだろう。ジェフリーは、その中から、小指の爪ほどの小さな花をひとつ摘みとった。


花を、石鹸の、まだやわらかい面に、ぐっと押しこむ。


花を埋めたままの石鹸を、もとの布の上に、もとの向きで戻した。


石鹸が乾けば、花は、そのまま固まる。誰かが石鹸を手に取れば、花は、まず外れる。外れた花を慌ててもとに戻そうとしても、乾いた石鹸には、同じようには埋まらない。押しこみなおした跡が、いくつも残るはずだった。


身体を拭き、服を着る。ジェフリーは、寝室の隅の洗面台の前に立った。


洗面台の脇の横木に、手を拭くための布が、二つ折りにしてかけてある。ジェフリーは、その布を取ると、縦にもう一度、半分に折った。卓の上の花瓶から、花びらを一枚だけ摘んできて、その折り目の奥に、そっと挟みこむ。布を、もとの横木に戻した。


この布を、誰かが手に取って広げれば、花びらは、床に落ちる。


最後に、ジェフリーは、窓辺の書きもの机の前に立った。


引き出しを開けると、何も書かれていない紙が、何枚か重ねて入っていた。客が手紙のひとつも書けるように、宿が用意しておいたものだろう。ジェフリーは、その中の一枚を引きだすと、引き出しの口の縁に、端を少しだけはみださせるようにして挟み、引き出しを閉めた。


閉めた引き出しの継ぎめから、紙の白い角が、ほんのわずかにのぞいている。引き出しを開ければ、その紙は、引き出しの中へ吸いこまれる。戻ってきたとき、この角が見えなければ、ここは開けられたということになる。


ジェフリーは、寝台のほうを見た。


寝台にも、何か仕掛けておくか。


考えて、やめた。寝具は、宿の者が整えに入っても、何もおかしくない。乱れていても、それは誰かが忍びこんだしるしにはならない。


石鹸。手拭いの布。机の引き出し。


どれも、客が部屋を空けているあいだに、宿の者がわざわざ触る用のないものだった。触る必要のない者が触った。そのことだけが、意味を持つ。


ジェフリーは、もう一度、部屋の中をひとわたり見まわしてから、扉を開けた。



********



廊下に出ると、隣の部屋の扉の前に、カスパーが立っていた。


一階の湯殿で、もう湯を済ませてきたのだろう。洗いたての髪が、まだ少し湿っている。旅の土の匂いも、汗の匂いも、きれいに消えていた。


カスパーは、ジェフリーを見ると、扉を示した。


「中で、奥方様がお待ちです」


扉を開けると、黒騎士たちと、アヤがいた。


湯を済ませたアルベルトも、セドリックも、もう戻っていた。皆、湯上がりの、さっぱりとした顔をしている。卓の上には、ニーナが並べなおした料理の皿が、燭台の明かりの中で、つややかに光っていた。


誰も、席にはついていなかった。卓のまわりに、立ったまま待っていた。


アヤが、ジェフリーを見て、にっこりと笑った。


「お湯、お疲れさまでした。では、さっそく、姫君をお迎えいたしましょう」


ジェフリーが、何のことかと尋ねるより早く、アヤは、扉の外に聞こえないくらいの声で、話しはじめた。


テッサは、黒騎士たちのことを、ずっと、おとぎ話の王子様とそのお供の騎士たちだと思っていたのだという。


宿に預けられる前、村にいたころ、近所のお婆さんが、よくおとぎ話を聞かせてくれた。そのたびに、お婆さんは言ったのだそうだ。いい子にしていれば、いつか、王子様たちが悪者を倒して、迎えに来てくれる、と。


だからテッサは、宿でどんなにつらい目にあっても、逃げださなかった。泣きわめきもしなかった。いい子にしていれば、きっと、いつか。


「その話なら、俺もニーナさんから聞きました」


アルベルトが、湯上がりの髪をかきあげながら言った。


「さしずめ、この宿の女将が、悪い魔女ってところですかね」


カスパーが、ふっと鼻を鳴らして笑った。


アヤは、その笑いがおさまるのを待ってから、黒騎士たちを見まわした。


「ですから」


アヤは、両手を胸の前で重ねた。


「晩餐が終わるまで、あなたがたは、小さな姫君をお迎えして、お守りする騎士です。ここは、宮廷とは程遠い場所ですけれど、どうか、そのおつもりで」


誰も、異を唱えなかった。


それどころか、カスパーは、背筋を、いつもより少しだけ伸ばしなおしていた。セドリックは、黙って騎士服の襟もとを整えた。アルベルトは、まいったな、という顔で笑いながら、それでも、袖口の皺をていねいにのばしはじめた。


アヤは、満足そうにうなずくと、ジェフリーに向きなおった。


「ハルセリン卿」


改まった呼び方だった。


「今夜、あなたは、姫君をお迎えにあがる王子様です。よろしいですね」


ジェフリーは、アヤを見下ろした。


その口もとに、めずらしく、はっきりとした笑みが浮かんだ。


ジェフリーは、右手を胸に当てて、深く頭を垂れた。


「承知いたしました。女王陛下」


テッサが姫君なら、自分は、女王。


アヤは、こらえきれずに、くすくすと笑いだしていた。



********



二階で、黒騎士たちが晩餐の支度を整えているあいだ、テッサは、一階の階段の下で、ニーナと一緒に待っていた。


支度ができるまで、少しのあいだテッサを見ていてほしい。奥方様に、そう頼まれたのだ。


ニーナは、テッサの前にしゃがみこんで、その姿を、頭のてっぺんから靴の先まで、ゆっくりと眺めた。


杏の色の服。胸もとに並んだ、小さな白い花の刺繍。高く結いあげた髪の根もとで揺れる、橙色のリボン。洗いあげた亜麻色の髪は、灯りを受けて、細い絹の糸を束ねたように光っていた。唇には、ほんのりと紅がさしてある。奥方様が、さしてくれたのだろう。


「……なんて、かわいいの」


声が、思わずこぼれた。


ニーナが、ずっとこの子にしてやりたかったこと。髪を洗ってやること。きれいな服を着せてやること。誰の顔色もうかがわずに、温かいものを、おなかいっぱい食べさせてやること。何ひとつ、してやれなかったそれが、今夜ひと晩で、全部かたちになって、目の前に立っている。


一階の食堂では、町の店の奥さんたちが、何人か卓を囲んでいた。どれも、ニーナの見知った顔だった。服屋の女主人。靴屋の女房。角のお菓子屋のおかみさん。今日は、思いがけない実入りがあったから、たまには宿で食べようということになったらしい。その実入りというのが、今、二階にいるサルヴィアの商人の一行の買いものだということを、ニーナは知っていた。


テッサは、その奥さんたちの卓のほうをちらりと見てから、ニーナを見上げた。


「ニーナ姉さん。今の、きれいって……」


テッサは、小さな声で言った。


「お客さんに言う、きれいと、おんなじ?」


ニーナの胸が、ちくりと痛んだ。


女のお客様が来たら、必ず、おきれいですね、と言いなさい。女将は、いつもテッサにそう言いつけていた。テッサは、その言いつけを守って、どんな客にも、同じ顔で、同じ言葉を言ってきた。


だからテッサにとって、きれい、という言葉は、お客様に差しだす、お世辞の言葉だった。


ニーナは、テッサの両手を取った。


「違うわ、テッサ。あなたは、本当に、きれいなの」


テッサは、目をまるくしたまま、ニーナの顔を見つめていた。何かを確かめるように。


そのとき、二階で、扉の開く音がした。


階段の上に、ひとりの男が現れた。


奥方様の、旦那様だった。


湯を使ってきたばかりなのだろう。淡い金の髪が、まだ少し湿り気を帯びて、額にやわらかくかかっていた。旅の土に汚れていた騎士服は、洗いあげたものに着がえてある。燭台の明かりを受けて、その姿の輪郭だけが、白く浮かびあがっていた。


旦那様は、階段の上から、一階を見わたした。何かを探す目だった。その目が、階段の下のテッサを見つけて、止まった。


旦那様が、階段を下りはじめた。


一段、また一段と、靴音が下りてくるたびに、食堂の空気が、少しずつ変わっていった。


服屋の女主人が、杯を口もとへ運びかけたまま、動かなくなった。靴屋の女房が、隣の奥さんの袖を、そっと引いた。どこかの卓で、誰かが、ほうっと長い息をついた。お菓子屋のおかみさんは、椅子の上で背筋を伸ばして、そそくさと髪を撫でつけている。もしも旦那様が自分たちの卓のそばを通ったら、ぜひご一緒に、と声をかけるつもりなのが、ニーナにも見てとれた。


旦那様は、どの卓のそばも通らなかった。


階段を下りきると、まっすぐに、テッサの前へ歩いてきた。


テッサの前で立ちどまり、片方の手を胸に当てる。


そうして、もう片方の手を、テッサの前に、そっと差しだした。


「殿下。お迎えにあがりました」


食堂じゅうが、しんとなった。


ニーナは、息をのんだ。


お姫様ごっこの相手をしてやる大人の仕草では、なかった。差しだした手の高さも、身のかがめかたも、目の伏せかたも、ひとつとして、ふざけたところがない。王宮で、本物の王女様を迎えるときには、きっとこうするのだろう。宮廷など見たこともないニーナにさえ、そう思わせるほど、その所作には、少しの迷いもなかった。


食堂にいる大人たちは、誰ひとり、笑わなかった。今夜、この子は姫君として扱われるのだ。そのことを、この場にいる全員が、ひと目で納得させられていた。


でんか。


テッサは、その言葉の意味が分からないらしかった。差しだされた手と、ニーナの顔とを、困ったように何度も見比べている。


ニーナは、自分まで旦那様の身のこなしに見とれていたことに気づいて、はっとした。テッサの耳もとへ、そっと顔を寄せる。


「テッサ。今夜はね、あなたが、お姫様になったのよ」


ニーナは、テッサの背中を、手のひらでやさしく押した。


「さあ。その手を、取ってさしあげて」


テッサは、おそるおそる、自分の小さな手を、旦那様の手の上にのせた。


旦那様の手は、大きくて、温かかった。



********



旦那さまに手を引かれて、テッサは、階段を一段ずつ上っていった。


足もとで、新しい靴の飾りが、ちかちかと光っていた。


何が起きているのか、よく分からなかった。分からないのに、胸の奥が、ふわふわと浮きあがるようだった。村のお婆さんが話してくれたおとぎ話の中で、王子さまは、いつもこうして、お姫さまの手を取っていた。


黒騎士さまたちの部屋の扉の前で、旦那さまは足を止めた。


扉を、二度、叩く。


内側から、扉が開いた。


テッサは、息をするのを忘れた。


そこは、たしかに、宿の一室だった。テッサが今朝、カスパーさんと毛布をたたんだ部屋だった。


それなのに、まるで違う部屋になっていた。


部屋の真ん中に、真っ白な卓布をかけた大きな卓があった。その上に、いくつもの燭台が並んで、蝋燭の炎が、ゆらゆらと揺れている。燭台のあいだには、小さな花瓶が置かれて、野の花が挿してあった。そして、卓の上いっぱいに、料理の皿が並んでいた。焼いた鶏。香草の匂いのする魚。色とりどりの野菜を煮たもの。湯気の立つ壺。皆でどれだけ食べても、とても食べきれないほどの量に見えた。


何よりも、テッサの目を奪ったのは、卓のまわりに立っている黒騎士さまたちだった。


皆、背筋をまっすぐに伸ばして、立っていた。アルベルトさんも、カスパーさんも、無口な黒髪の騎士さまも。今朝、毛布をたたんでくれたときとも、町を歩いたときとも違う。テッサが見たこともないような、きちんとした立ち姿だった。


卓のいちばん奥に、奥さまがいた。


奥さまは、テッサを見て、にっこりと笑った。燭台の明かりの中で、奥さまの姿は、まるで女王さまのようだった。


「テッサ。今夜の晩餐に、ようこそおいでくださいました。どうぞ、お入りになって」


奥さまがそう言うと、旦那さまが、テッサの横をそっと通りぬけて、扉を内側から大きく開けた。扉のそばに立って、テッサに向かって、一礼する。


それに合わせるように、卓のまわりの黒騎士さまたちが、いっせいに頭を下げた。


テッサは、目をみはった。


町の人たちも、ときどき、偉い人が来ると、頭を下げてみせることがあった。それは、慌てて、見よう見まねで覚えたような礼だった。


これは、違った。誰ひとり、動きが揃わないところがない。頭を下げる深さも、手を置く場所も、上げる速さも、全部が、ひとつの身体のように揃っていた。


この人たちは、本物の騎士さまなのだ。


テッサは、ゆっくりと、部屋の中へ足を踏みいれた。


うしろで、旦那さまが扉を閉める音がした。その閉めかたさえ、女将さんや、宿の姉さんたちが扉を閉めるときとは、まるで違った。音ひとつ立てない。それでいて、きちんと閉まる。


テッサが一歩前へ進むたびに、近くにいた騎士さまが、すっと身を引いて、道をあけてくれた。


卓の端の、ひとつの椅子の前で、アルベルトさんが待っていた。


アルベルトさんは、椅子の背に手をかけて、それを引いた。


「どうぞ」


テッサは、立ちどまった。


ここに、座っていいのだろうか。


テッサは、きょろきょろとまわりを見まわした。椅子を引いてもらったことなど、生まれて一度もなかった。椅子は、いつも、お客さまのために、テッサが引くものだった。


卓の向かい側にいたカスパーさんと、目が合った。


カスパーさんは、何も言わなかった。ただ、テッサを見て、小さく、一度だけうなずいた。


座っていいんだよ。


そう言われた気がした。


テッサは、おそるおそる、椅子に腰を下ろした。


すると、椅子が、そっと前へ押しだされた。テッサの膝が、ちょうど卓の縁の下に収まるところで、椅子が止まった。


テッサが振りかえると、アルベルトさんは、もう椅子の背から手を離して、一歩下がっていた。


次に、旦那さまが、奥さまの椅子を引いた。


奥さまは、裾を軽く手で押さえて、椅子に腰を下ろした。その動きが、あまりにもなめらかで、テッサは見とれてしまった。本物の女王さまは、きっと、こんなふうに座るのだろう。


旦那さまは、奥さまの椅子を押しおえると、テッサの隣の席の前まで来て、そこに立った。


奥さまは、卓のまわりを、ひとりずつ見わたした。全員が、自分の席の前に立っているのを確かめてから、片方の手を、卓のほうへ、軽く差しのべた。


「皆さまも、どうぞ」


その声を合図に、騎士さまたちが、いっせいに一礼した。


そうして、いっせいに椅子を引いて、腰を下ろした。


椅子の脚が床をこする音さえ、ひとつに揃っていた。


テッサは、ずっと、夢の中にいるような気持ちで、その光景を見ていた。村のお婆さんのおとぎ話は、お城の晩餐会のことを、こんなに細かくは話してくれなかった。それでも、お城を知らないテッサにも、分かった。


これは、本物の、晩餐会だった。


奥さまが、自分の前の杯を手に取った。


テッサの前にも、杯がひとつ置かれていた。中には、もう何かが注いである。テッサも、奥さまの真似をして、杯を手に取った。


喉が渇いていた。口をつけようとして、テッサは手を止めた。奥さまが、まだ飲んでいなかったからだ。


テッサが杯を持ったのを見て、騎士さまたちも、それぞれの杯を手に取った。


奥さまが、杯を、胸の高さまで持ちあげた。


「では――今宵の、小さな姫君に」


騎士さまたちが、同じように杯を掲げた。テッサも、慌てて真似をした。


ところが、そこから、誰も杯に口をつけなかった。


テッサは、杯を掲げたまま、待った。みんなが飲むまで、待たなければいけないのだと思った。


奥さまが、テッサのほうを向いて、やさしく言った。


「どうぞ、お飲みになって」


テッサは、おそるおそる、杯に口をつけた。


すると、奥さまも、騎士さまたちも、いっせいに、杯の中のものをひと口飲んだ。


テッサは、目をまるくした。


みんな、テッサが飲むのを、待っていたのだ。


杯の中身は、林檎の飲みものだった。すりおろした林檎の汁を、蜂蜜と、冷たい井戸の水でのばしたもの。今朝、カスパーさんと一緒に台所に立って、最初から最後まで見ていてもらいながら作り、奥さまのお部屋へ運んだのと、同じ飲みものだった。テッサのいちばん好きな味だった。


今夜の晩餐の主役は、テッサだった。だから、テッサが口をつけないかぎり、ほかの誰も、食べることも飲むこともしない。


そんなことを知らないテッサは、杯を置いて、今度はどうしたらいいのか分からずに、おろおろと卓の上を見まわした。


隣の席の旦那さまが、テッサのほうへ、少しだけ身体を傾けた。


「料理を、お取りいたしましょう。何がよろしいですか」


テッサは、卓の上を見た。


どれもこれも、おいしそうだった。どれも、初めて見るものばかりだった。どれから食べればいいのか、テッサには、まるで見当がつかなかった。


迷っているテッサを見て、旦那さまが、卓の上の、蓋つきの深皿に手を伸ばした。


「では、こちらはいかがでしょう。中に、鶏と茸が入っています」


旦那さまは、深皿の中から、ひとつを取って、テッサの前の皿にのせた。


手のひらに収まるほどの、小さな塔のような焼き菓子だった。紙のように薄い焼き生地が、何十枚も重なりあって、ふっくらと丸い器のかたちに焼きあげてある。その器の真ん中に、白くとろりとした煮込みが、こんもりと詰められていた。煮込みの中から、刻んだ鶏の肉と、茸のかけらが顔をのぞかせている。焼き生地の上の、小さな丸い蓋が、ちょこんとのっていた。


旦那さまが言った。


「王都では、風の器と呼ばれている料理です。焼き生地のあいだに、風が入っているように軽いので」


テッサは、皿の上のそれを、じっと見下ろした。


どうやって食べたらいいのか、分からなかった。手でつかんだら、きっと崩れてしまう。


隣に座っていた奥さまが、テッサの皿の脇に置かれていた銀のフォークを、そっと手に取った。テッサの皿の上の焼き菓子を、フォークの縁で、上から、すっと二つに割ってくれた。薄い生地が、ぱりぱりと小さな音を立てて崩れ、中の白い煮込みが、湯気と一緒にとろりとこぼれた。


奥さまは、そのフォークを、もとどおりテッサの手に握らせてくれた。


フォークの使いかたは、ゆうべ、奥さまと一緒に夕餉をいただいたときに、教えてもらっていた。テッサは、教わったとおりに、割れた焼き菓子に、フォークを上から刺した。


口に運ぶ。


ぱりっ、と、口の中で、薄い生地が崩れた。


崩れたそばから、温かい煮込みが、舌の上にひろがった。乳とバターのまろやかな味。茸の、香ばしいような、土のような匂い。やわらかく煮えた鶏の肉が、噛むたびに、じんわりと甘い汁をにじませた。焼き生地のかけらが、煮込みを吸って、少しだけしっとりとする。


テッサは、目を閉じた。


おいしい。


それ以外の言葉が、ひとつも出てこなかった。


テッサがひと口食べたのを合図にしたように、まわりの騎士さまたちが、それぞれの皿に料理を取りはじめた。


カスパーさんが、焼いた鶏の脚を、二本まとめて自分の皿にのせた。アルベルトさんが、香草を詰めた魚の腹を、小刀で器用に開いていく。黒髪の騎士さまは、豆と腸詰めの煮こみを、黙って自分の皿によそっていた。


そこから先の時間は、テッサにとって、生まれて初めての晩餐会だった。


おとぎ話が、本当になった時間だった。



ただ、テッサには、どの料理も、どうやって食べたらいいのかが分からなかった。


そのたびに、隣の奥さまが、そっと手を貸してくれた。


卵と乳を流して焼いた塩気のある焼き菓子は、奥さまが、小刀で、三角に小さく切りわけてくれた。夏の野菜を煮たものは、そのままではフォークからこぼれてしまうので、奥さまが、ちぎったパンの上にのせて、パンごと口に運べばいいのだと教えてくれた。香草を詰めた魚には、小さな骨がある。奥さまは、テッサの皿の魚から、細い骨を一本ずつ、器用に取りのぞいてくれた。


手際がよかった。テッサが困った顔をする前に、もう奥さまの手が動いていた。小さな子の世話に、ずっと慣れてきた人の手つきだった。


テッサの杯が空になると、隣の旦那さまが、何も言わずに、林檎の飲みものを注ぎたしてくれた。テッサが、どの料理に目を留めたのかを見ていて、次はそれを、少しだけ皿に取りわけてくれた。


ナイフは、うまく使えなかった。


肉を切ろうとすると、皿の上で肉が逃げていく。皿とナイフが、きいっと嫌な音を立てる。何度かやってみて、テッサは、ナイフを置いた。覚えたばかりのフォークだけで、肉を押さえて、そのまま端からかじった。


お行儀がよくないことは、テッサにも分かっていた。


それでも、誰も何も言わなかった。誰も、テッサのフォークの使いかたを見ていないような顔をしていた。



しばらくして、カスパーさんが、テッサに声をかけた。


「殿下。その鶏は、お口に合いましたか。皮のところに、蜂蜜が塗ってあるのです」


テッサは、すぐに、手に持っていたフォークを、皿の縁に置いた。ナイフも、きちんと揃えて置いた。膝の上で両手を重ねて、カスパーさんのほうへ顔を向けた。


「はい。とても、おいしいです」


カスパーさんは、少しのあいだ、テッサの膝の上の手を見ていた。


テッサは、カスパーさんの次の言葉を待った。手を膝に置いたまま。


宿では、お客さまに話しかけられたら、何をしていても手を止めて、手に持っているものを置いて、お客さまのほうを向きなさい、と言われてきた。皿を持ったまま返事をすれば、女将さんに叱られた。お盆を抱えたまま笑えば、あとで、ぶたれた。


テッサにとっては、当たり前のことだった。


カスパーさんは、それ以上、何も言わなかった。言葉を探すように口を開いて、閉じた。


卓のまわりの大人たちの誰もが、テッサの膝の上で重ねられた、小さな手を見ていた。


奥さまの目が、ほんの一瞬だけ、旦那さまのほうへ動いた。旦那さまも、奥さまを見ていた。


アルベルトさんが、自分の杯を置いた。


「じゃあ、ここからは、お話の時間にしましょうか」


アルベルトさんは、軽い調子で言った。


「黒騎士ってのは、あちこち旅をするもんで、おかしな話ならいくらでも持ってるんです。殿下は、どうぞ食べながら、聞いててください。返事は、いりませんからね。……カスパー。まずは、おまえから、殿下にお聞かせしてくれ。雪の話がいい」


「雪?」


カスパーさんが、目をまるくした。


「おまえの村の話さ。殿下は、雪をご覧になったことがないだろうから」


カスパーさんは、少し考えるように首のうしろをかくと、テッサのほうへ向きなおった。


「私の生まれは、サルヴィアの北の、山の中の村です。冬になりますと、雪が、このくらい積もります」


カスパーさんは、椅子から立ちあがりかけて、自分の胸のあたりに、手のひらをかざしてみせた。


テッサは、目をまるくした。カスパーさんの胸といったら、テッサの頭よりも、ずっと上だった。


「ふだんでも、それほど積もるのですが、家の風下には、大きな吹きだまりができます。ひと晩で、二階の窓のすぐ下まで、雪が積みあがるのです。そういう朝は、家の戸が、雪で埋まって開きません。しかたがないので、二階の窓から外へ出るのです」


テッサの手が、フォークを握ったまま止まった。今度は、置かなかった。


「窓から出ますと、すぐ足もとが、雪の上です。冷えこんだ朝の雪は、上のほうが固く締まっておりますので、そのまま、雪の上を歩いて、炭焼きの窯の様子を見に参ります」


「……雪の上を、歩けるんですか」


テッサが、思わず尋ねた。フォークは、手に握ったままだった。


カスパーさんが、にっと笑った。


「歩けます。上手に歩けば、ですが。しくじりますと、腰まで埋まって、動けなくなります。私は、子どものころ、一度、頭まで埋まりました」


「頭まで!」


「父に、大根のように引きぬかれました」


テッサが、ふきだした。


フォークを握ったまま、口もとを押さえて、くすくすと笑った。


アルベルトさんが、満足そうに自分の杯を持ちあげた。黒髪の騎士さまの口の端が、ほんのわずかに持ちあがっていた。


「雪って、冷たいお砂糖みたいなものですか」


テッサが尋ねると、カスパーさんは、大真面目な顔で首を横に振った。


「甘くはございません。食べたことがございますので、間違いありません」


テッサは、また笑った。


笑いながら、フォークで鶏の皮をつついた。蜂蜜の塗ってある皮が、ぱりっと音を立てた。



********



一階の食堂では、ニーナとライザが、休む間もなく卓のあいだを行き来していた。


いつもなら、水差しを抱えて走りまわっているテッサがいる。今夜は、そのぶんを二人で埋めなければならなかった。


ニーナが、厨房から運んできた葡萄酒の杯を盆に並べていると、客の卓から空の杯を下げてきたライザが、隣にすべりこんできた。濃い茶の髪を、小さな金の飾りをいくつも縫いつけた緑の布でまとめあげて、耳もとでは、大きな金の輪の耳飾りが揺れている。手首には、いくつもの腕輪を重ねていた。ライザが盆を置くと、その腕輪が、しゃらりと鳴った。


ゆうべのライザは、胸もとの紐をゆるく結んだ赤い衣を着ていた。今夜、緑の布を選んできたのは、ニーナが深い葡萄酒色の服を着ると、朝のうちに聞きだしていたからだ。同じ宿で客をとる女が二人、似た色を着て並んでいては、どちらも引き立たない。店に出る前に、互いの服の色が重ならないよう、ライザはいつも、それとなくニーナの装いを確かめておくのだった。


「ニーナ姉さん、知ってる? 今夜、テッサが、お客様と一緒に晩ごはん食べてるんだって」


「知ってるわよ」


ニーナは、杯を並べる手を止めずに答えた。その声が、自分でも分かるくらい弾んでいた。


ライザは、ニーナのほうへ、身を乗りだした。


「それもさ、すっごくきれいな服を着て、二階の、あのサルヴィアのご夫婦の護衛の部屋に入っていったんだって。お客さんたち、みんなその話ばっかり」


噂話となると、ライザの目は、いつも、いちばん生き生きと光る。


「それにさ、そのご夫婦の旦那さん。あれ、すっごい美形でしょ。わたし、ゆうべ、あの人たちの卓の給仕したのよ。遠慮なく、じっくり見ちゃった」


ニーナは、最後の杯を盆に置いた。


「知ってるわよ。だって、今夜のあそこの卓、あたしが整えたんだもの」


ライザの琥珀色の目が、まんまるに見ひらかれた。


「えっ。じゃあ、今日、ニーナ姉さんがやけにご機嫌なのって……もしかして、あの美形の旦那さんがいるから?」


まさか、とニーナは苦笑した。


「あたしが、奥方のいる旦那さんには手を出さないって、あんたも知ってるでしょ」


「じゃあ、誰よ。いい人って」


「さあ、誰かしらね」


ニーナは、もったいぶるように笑っただけで、名前は口にしなかった。


いつものことだ。ライザは、つまらなそうに唇をとがらせたかと思うと、ふと、何かを思いだしたように、にやりと笑った。


「わたしもね、ゆうべ、給仕しながら、ちょっと見つけちゃったんだ」


ニーナは、横目でライザを見た。まさか、あの美形の旦那さん、と言いたげな目だった。


「違うわよ。あんな顔の人、わたしみたいな女は絶対相手にしないって顔、してるもの。そうじゃなくて」


ライザは、二階の、黒騎士たちの部屋のあたりを、ちらりと見上げた。


「黒髪の人。ほかの騎士さんより、ちょっとだけ背が低くて、無口で、いかにも硬派って感じの。ぶっきらぼうで不器用ですって、顔に書いてあるの。ああいう人ってね、いったん女に夢中になったら、がらっと変わるのよ」


ニーナは、また始まった、と伏し目がちに笑った。


そこへ、厨房の戸口から、女将の声が飛んできた。


「あんたたち、いつまで無駄口をたたいてるんだい。さっさと運びな。それでなくても、今日は手が足りないんだよ」


指輪をいくつもはめた手で、前掛けをはたきながら、女将は食堂を横切っていった。そのまま厨房へ戻るのかと思うと、女将は、階段のほうへ足を向けた。スカートの裾をつまんで、二階へ上がっていく。


ライザが、盆を持ちあげながら、唇の端をゆがめた。


「なによ。自分だって、今からさぼるみたいに、二階へ行っちゃってさ」


ライザは、ニーナが杯を並べた盆を両手に持って、客の卓へ歩いていった。腕輪が、しゃらしゃらと鳴った。


ニーナは、階段の上へ消えていく女将の背中を、しばらく見ていた。



********



二階の廊下は、吹き抜けの食堂をぐるりと見下ろしていた。木の手すりの向こうから、階下の灯りと、客たちのにぎわいとが、そのまま立ちのぼってくる。


女将は、手すりに沿って、ゆっくりと歩いた。ときどき手すりの埃を指でぬぐってみせ、廊下に置いた花瓶の向きを直す。宿の女主人が、夜の見まわりをしているようにしか見えない足どりだった。階下の客たちは、それぞれの卓の酒と話に夢中で、誰も二階を見上げていなかった。


黒騎士たちの部屋の扉の前まで来ると、女将は、扉の脇の燭台の芯を直すふりをして、立ちどまった。扉に、そっと耳を寄せる。


中から、笑い声が聞こえていた。


男たちの笑い声に、子どもの、鈴を転がすような笑い声がまじっている。皿の触れあう音。杯を置く音。誰かが、雪の上を歩くだの、大根のように引きぬかれただのと話していた。


テッサの笑い声だった。


女将の口もとが、ゆがんだ。


あの子が、あんな声で笑うのを、女将は聞いたことがなかった。笑う必要など、なかったはずだ。言われたことを、言われたとおりにやる。それだけでいい子だった。


さっき、階段の下で、ちらりと姿を見た。杏色の服。胸もとの刺繍。髪に結んだ、橙色のリボン。足もとの、飾りのついた靴。


どれもこれも、女将が持っている、どの服よりも、どの靴よりも、上等なものだった。


使い走りの小娘が、あんなものを着て、サルヴィアの商人の卓に座って、騎士たちにもてなされている。


腹の底で、何かが、ぐつりと煮えた。


今朝、廊下で、あの金髪の護衛に恥をかかされた。宿の客たちの前で、三十セラだの、いちばんの娘より高いだのと、大声で言いふらされた。あの夫婦が来てから、ろくなことがない。


女将は、扉から耳を離した。


廊下の先の、奥方の部屋の扉の前まで歩いていく。腰に下げた鍵束を、指で探った。この宿のどの部屋の扉も開けられる、合鍵の束だった。


館の旦那様のお言いつけは、明日の朝、服屋が奥方の服を届けにきたとき、それを部屋へ運んだついでに、中をよく見てこい、というものだった。


明日の朝まで、待つ必要はない。


今夜なら、部屋には誰もいない。隣の部屋では、皆が、あの小娘を囲んで浮かれている。旦那様が探らせたいものを、明日の朝より先に、こちらから届けてさしあげれば、旦那様のおぼえも、さぞめでたいことだろう。


鍵が、錠の中で、かちりと小さく鳴った。


女将は、奥方の部屋に、すべりこんだ。


窓から、宵の口の薄明かりが差しこんでいた。灯りはつけなかった。


まず、目についたのは、窓辺の書きもの机だった。


女将は、机の引き出しを開けた。中には、宿が用意した何も書かれていない紙が、何枚か入っているだけだった。引き出しの奥まで手を差しいれて探ったが、手紙らしいものは、一通も出てこなかった。女将は、引き出しを閉めた。


洗面台の脇の横木に、手を拭く布がかけてあった。女将は、布を取って広げた。客がどれほど顔を洗ったのか、布の湿り具合で分かることもある。布は、乾いていた。女将は、それを適当にたたんで、横木に戻した。


奥の湯の小部屋をのぞいた。湯舟には、まだ湯が残っていて、ほのかに湯気を立てていた。湯舟の脇の棚に、使いかけの石鹸が置いてある。女将は、それを手に取って、匂いを嗅いだ。花の匂いがした。宿の石鹸ではなかった。


石鹸を、棚に戻す。


部屋の隅に、奥方の荷が置いてあった。女将は、その口を開けて、中をのぞきこんだ。


白い陶器の小壺。銀の蓋のついた丸い入れ物。柔らかな毛の刷毛。薄い貝殻を二枚合わせたような紅入れ。


女将の喉が、ごくりと鳴った。


上等な品だった。この町の服屋にも、どこの小間物屋にも、こんなものは置いていない。


とはいえ、驚くほどのことでもなかった。サルヴィアの商人の奥方なのだ。手伝いの小娘ひとりに、ぽんと三十セラを払う旦那の女房だ。その小娘に、服を何着も、靴を何足も買い与え、町じゅうの店から料理を買いあつめてくる。よほど儲かっている商人なのだろう。その女房が、これくらいの化粧道具を持っていても、何の不思議もない。


それでも、女将の胸の中で、煮えたものが、また少しだけ泡を立てた。


女将は、荷の口を閉めた。


最後に、寝台の前に立った。


寝台は、きれいに整えられていた。宿の下働きが、昼のうちに整えたのだろう。女将は、枕の下に手を差しいれ、毛布の端をめくって、敷布の上をなでていった。何も出てこない。


身を起こしかけたとき、女将の目が、寝台の脇の床に留まった。


寝台の頭のほうの、壁ぎわの床板に、何かを引きずったような擦り傷が、二筋ついていた。卓の脚の幅だった。窓辺にあるはずの卓が、いつか、この寝台のすぐ脇まで、壁に押しつけるようにして寄せられたことがあるらしい。


卓が壁に押しつけられれば、その上に置かれていたものは、卓の奥の縁から、壁とのすき間へ落ちる。


女将は、膝をついて、寝台と壁のあいだの、細いすき間に、手を差しいれた。


指先に、乾いた紙の角が触れた。


女将は、それを、ゆっくりと引きだした。


一枚の紙だった。寝台と壁のあいだに落ちこんで、そのまま忘れられていたのだろう。端が、少しだけ折れ曲がっている。


女将は、窓辺の薄明かりに、紙をかざした。


細い、きれいな字で、何かが箇条書きに書きつけてあった。王都の支援の麦。陽炎草。ガストンという名。その名前のそばに、何かを疑うような言葉が並んでいた。紙の隅に、インクのしみが、ひとつ、丸く落ちていた。


女将の口もとが、ゆっくりと吊りあがった。


旦那様がお探しのものは、これだ。


女将は、紙を、胸もとの奥にしまいこんだ。


部屋を出て、扉に鍵をかける。廊下には、誰もいなかった。隣の部屋からは、また、子どもの笑い声が聞こえてきた。


女将は、その笑い声に背を向けて、階段を下りていった。



********



晩餐が始まってから、ずいぶんと時がたっていた。


テッサの前の皿には、最後に出てきた甘い焼き菓子が、もうほんのひと口ぶんしか残っていなかった。卵と乳の生地に、赤い桜桃をいくつも沈めて焼きあげた菓子だった。ふるふるとやわらかい生地の中で、温まった桜桃が、ひと口ごとに甘酸っぱい汁をはじけさせた。テッサは、そのおいしさを少しでも長く味わっていたくて、ひと口ずつ、ゆっくりと食べすすめていたのだ。


林檎の飲みものは、晩餐のあいだに、何度も注ぎたされた。杯の中には、もうほんの少ししか残っていない。


食べているあいだも、飲んでいるあいだも、テッサの耳が寂しくなることは、一度もなかった。騎士さまたちが、かわるがわる、楽しい話や、不思議な話を聞かせてくれたからだ。


いちばんテッサの心をつかんだのは、黒髪の騎士さまの、鳩の話だった。


サルヴィアの騎士団では、鳩を飼っている。遠く離れた砦と砦のあいだで、鳩が、手紙を運ぶのだという。


「鳩は、自分の巣を忘れません」


黒髪の騎士さまは、言葉少なに話した。


「どれほど遠くへ連れていっても、放せば、まっすぐ自分の巣へ帰ってくる。雪の日も、風の日も。……だから、鳩の脚に手紙を結んで、放すのです。鳩が帰る巣の近くに、手紙を待っている人がいる」


テッサは、宿の屋根の上で、毎朝くるくると鳴いている鳩のことを思いうかべた。テッサにとっては、空を飛んでいるただの鳥だった。その鳥が、寒い国では、まるで人の友だちのように、人のために働いている。


友だちのいないテッサには、それが、ひどくうらやましかった。いても、遊ぶ暇などなかった。鳥と友だちになれたら、どんなにいいだろう。


テッサの顔に、そう書いてあったのかもしれない。


黒髪の騎士さまは、少しのあいだテッサを見ていた。やがて、ゆっくりと口を開いた。


「もし、殿下がサルヴィアにおいでになることがあれば、鳩を一羽、さしあげましょう。殿下の、よい友になるはずです」


テッサは、目を大きく見ひらいた。


本当に?


声には出せなかった。顔じゅうで、そう尋ねていた。


黒髪の騎士さまは、うなずいた。


「本当です」


ふだんは、ほとんど口を開かない人だった。その人が、そのときだけは、目もとをやわらかくゆるめて、笑っていた。


アヤは、その笑みを、隣の席から見ていた。


セドリックが、あんな顔をするのを、アヤは初めて見た。故郷に、年の離れた小さな妹でもいるのかもしれない。その妹が、ちょうどテッサくらいだったころのことを、思いだしていたのかもしれなかった。



アルベルトさんの話は、不思議な時計の話だった。


「世の中には、生きている時計があるんですよ」


アルベルトさんは、杯を指先で回しながら言った。


「決まった時刻になると、時計の中から、小さな人形が出てきて、踊るんです」


テッサは、目をまるくした。宿の帳場の上にも、古い時計がかかっていた。その時計は、どの時刻になっても、何も出てこない。ただ、鐘を鳴らして、時刻を知らせるだけだった。


「時刻によって、出てくる人形が違うんです。小鳥が歌うこともあるし、村の子どもたちが、くるくる回りながら踊ることもある。時計の中に、そういう仕掛けがしてあるんです」


テッサは、思わず尋ねていた。


「時計に、命があるなら……時計は、お話をしますか」


友だちのいないテッサには、時計と話ができたら、どんなにすてきだろうと思えたのだ。


アルベルトさんは、少し考えるように、杯を回す手を止めた。


「話しますよ。ただ、人間に分かる言葉では、話してくれないんです」


「どうして……分かるように、話してくれないんですか」


テッサの声は、少しだけ寂しそうだった。


アルベルトさんは、杯を卓に置いた。


「時計は、いつも、同じ場所から人間を見ているんです。だから、人間がよその場所で何をしているのかは、知らない。でもね、人間の気持ちが、時刻によって変わることは、ちゃんと知ってるんです。朝は、少し眠くて、少しさびしい。昼は、忙しくて、くたびれる。夕方には、なんとなく、誰かに会いたくなる」


テッサは、フォークを握ったまま、じっと聞いていた。


「だから時計は、その時刻の人間の気持ちを思いうかべて、慰めようとしてくれるんです。朝には、元気の出る小鳥の歌を。夕方には、手をつないで踊る子どもたちを。人間のほうは、時計が見せてくれる人形を見て、時計が自分にどんな気持ちを向けてくれているのかを読みとる。そうやって、心の中で、時計と話をするんです」


テッサは、残りのひと口の菓子を、フォークに刺したまま、動かなかった。


そんな不思議な時計が、本当にあるのだろうか。テッサの目は、まだ見たことのない時計の中の、小さな人形たちを追いかけていた。


しばらくして、テッサは、フォークの先の菓子に気づいたように、ようやくそれを口に運んだ。桜桃が、舌の上で、甘くはじけた。皿の上は、それで空になった。


アヤは、アルベルトの話が、子どもを喜ばせるためのおとぎ話ではないことを知っていた。


人の気持ちには、朝起きてから夜眠るまでのあいだに、おおよその決まった移り変わりがある。アヤは、そのことを、王宮の図書館の本で読んだことがあった。その移り変わりに合わせて、人の心を慰めるような仕掛けを見せる、からくりの時計があることも、知っていた。


ずっと前、よその国の使者が、そういう時計を献上品として王宮に持ってきたことがあったのだ。たいへん高価なもので、しばらくのあいだ、王宮の正面玄関を入った広間の壁にかけられていた。けっきょく、王家の工芸の研究をしている者たちが、どうしてもエステリアの技に役立てたいと言って、持っていってしまったのだが。


あの時計が広間にあったころ、アヤも妹たちも、用もないのに、時刻が近づくと広間に集まった。次はどんな人形が出てくるのだろうと、胸をどきどきさせながら、時計を見上げていたものだった。



「ハルセリン卿は、何か、おもしろいお話はございませんの?」


アヤが、隣のジェフリーに話を振った。


晩餐のあいだじゅう、ジェフリーは、ほとんど口を開いていなかった。テッサの杯に飲みものを注ぎ、皿に料理を取りわけ、ときどき、ほかの騎士たちの話に耳を傾けている。それだけだった。


ジェフリーは、しばらく黙っていた。


やがて、ぽつりと言った。


「白い妖精に、会ったことがあります」


卓のまわりの全員が、いっせいにジェフリーを見た。


あの隊長の口から、まさか、おとぎ話のような言葉が出てくるとは。アルベルトは、葡萄酒の杯を口もとで止めていた。カスパーは、鶏の骨を握ったまま固まっていた。


テッサだけが、目を輝かせていた。王子様だから、妖精に会えたのだ。そう信じて疑わない顔だった。


皆の期待に満ちた沈黙の中で、ジェフリーは、話しはじめた。


「私が黒騎士になって、まもないころのことです。サルヴィアの山の奥へ、遠征に出ました」


その遠征の途中、ジェフリーは、運悪く崖から足を踏みはずした。落ちた先は、雪解けの水が流れる、凍るように冷たい川だった。


全身が、氷の水に浸かった。川から這いあがったときには、もう、指の一本も、自分の思うように動かなかった。寒さで、歯の根が合わない。やがて、その震えさえも、少しずつ遠のいていった。


ここで死ぬのだと思った。


「そのとき、凍え死にかけていた私を見つけたのが、白い妖精でした」


ジェフリーは、卓の上の燭台の炎を見つめていた。


全身が、白かった。髪も、まつげも、雪のように白かった。目の色だけが、かろうじて、灰色がかった白だった。肌は、雪の中に立っていると、どこからが雪で、どこからが人なのか、境目が分からないほど白かった。


女の人の、姿をしていたという。


「たいへん美しい妖精でした。妖精は、私の手を引いて、自分の住んでいる小屋へ連れていきました。暖炉に火を入れて、私に毛布をかけて、温めてくれたのです」


テッサが、思わず身を乗りだした。


「妖精のお家は、どんなお家なんですか。普通のお家ですか」


ジェフリーは、テッサのほうを見た。


「人の住む、普通の家でした。木でできた、温かい家です」


妖精は、口数が少なかった。ジェフリーの身体が温まるようにと、甘い茶をいれてくれた。


ジェフリーは、最初、その茶を断ったのだという。見知らぬ者が差しだした杯に、口をつけるわけにはいかなかった。


妖精は、杯を引っこめなかった。


――死にたくないのなら、これを飲みなさい。


そう言って、杯を、ジェフリーの手に押しつけた。


薬草の茶だった。凍えきった身体の芯を、内側から温めて、ジェフリーの命をつないだ。


「その妖精は、日の光の下では生きられないのです。ですから、いつも、夜にだけ外へ出ていました」


アヤの手が、膝の上で、そっと止まった。


聞いたことがあった。


人が、生まれつき持ってくる病の中に、日の光が毒になるものがある。治す手だてはなく、生まれてから死ぬまで、日の光の下で暮らすことができない。身体の色は、ほとんど抜けたように白く、ほかの病にもかかりやすいので、長くは生きられないのだという。


アヤは、その病の人を、実際に見たことはなかった。それでも、たしかに、そういう人がいるのだと、いくつもの本に書かれていた。


「白い妖精は、そのあたりの村の人たちに守られて、暮らしていました」


ジェフリーは、続けた。


「月の出ている晩には、妖精は、村のために、巫女として舞うのです。それが、日の光の下に出られない妖精が、村のためにできる、ただひとつのことでした。私が川べりで凍えていたときも、妖精は、月の下で舞っていた。そのときに、私を見つけたのです」


妖精が、夜に、舞う。


おとぎ話は、本当にあるのだ。テッサは、そう思った。村のお婆さんの話してくれたおとぎ話は、どれも、本当にあることなのか分からないものばかりだった。それでも、妖精が人を助けるという話は、本当にあったのだ。


「妖精の舞には、魔法がありますか」


テッサが、期待をこめて尋ねた。


ジェフリーは、少しのあいだ、考えるように黙った。


「妖精の舞に、魔法があるのかどうかは、分かりません。私は、魔法というものが、どういうものなのかを、知らないのです」


魔法などない、とは言わなかった。知らない、と言った。


アヤは、ジェフリーの横顔を見た。それは、この人なりの、テッサへのやさしい答えかただった。


「何日かたって、凍えきっていた手足に力が戻り、ひとりで歩けるほどになると、妖精は、サルヴィアの王都へ帰る道を教えてくれました」


ジェフリーの声が、少しだけ、遠くを見るような響きを帯びた。


「妖精にとって、日の光は毒です。昼間に私が家を出入りすれば、戸口から日が差しこんでしまう。ですから私は、明るい夜を待って、王都へ帰ることにしたのです」


満月の晩だった。


ジェフリーが妖精の家を出て、雪の道を歩きはじめたとき、ふと、うしろを振りかえった。


満月の下で、白い妖精が舞っていた。


「神秘的な舞でした。あまりに美しくて、歩いている足が、何度も止まりました。……まるで、無事に王都までたどりつけるようにと、あの舞が、私の背中を送りだしてくれているようでした」


テッサが、ほうっと長い息をついた。


テッサは、妖精を見たことがない。それなのに、たった今、雪の上で舞う白い妖精を、この目で見てきたような顔をしていた。


「わたしも……妖精に、会ってみたい」


まだ夢の中にいるような声だった。


「運がよければ、どこかで会えるかもしれません」


ジェフリーは、そう言った。


テッサは、杯の底に残っていた林檎の飲みものを、こくこくと飲みほした。


アヤが、テッサのほうへ顔を向けた。


「まだ、何か召しあがる? それとも、お飲みものが欲しいかしら」


テッサは、卓の上を、ひとわたり見まわした。おなかは、もういっぱいだった。喉も、少しも渇いていなかった。


「……おなか、いっぱいです」


アヤは、膝の上のナプキンを、卓の上に置いた。


「ごちそうさまでした。とてもよい晩餐でしたわね、殿下」


テッサは、少し考えてから、こくりとうなずいた。


「はい」


アヤが、椅子から立ちあがった。


それに合わせて、騎士たちが、いっせいに立ちあがった。


ジェフリーが、テッサの椅子の背に手をかけて、そっと引いた。


テッサは、それで、立てばいいのだと分かった。椅子から降りて、卓の前に立つ。


ジェフリーが、テッサを迎えに来たときと同じように、手を差しだした。


「殿下。お部屋まで、お送りいたします」


テッサは、その手に、自分の手をのせた。


二人が扉のほうへ歩きだすと、卓のまわりの騎士たちが、いっせいに頭を下げた。晩餐の終わりを告げる礼だった。


扉の前では、アルベルトが待っていた。


テッサとジェフリーが近づくと、アルベルトは、扉を大きく開けて、その脇に立って一礼した。


テッサは、最後の最後まで、小さな姫君としてもてなされたまま、ジェフリーに手を引かれて、部屋を出ていった。



********



アヤの部屋の前まで来ると、ジェフリーは、テッサの手をそっと離した。


「少しだけ、ここで待っていてください」


テッサを扉の脇に立たせ、あとから来たアヤにテッサを預けると、ジェフリーは、ひとりで部屋の中へ入った。


扉を閉める。


部屋の中は、出ていったときと、何ひとつ変わらないように見えた。窓の外には、夜の青が、すっかり降りていた。ジェフリーは、卓の上のランタンに火を入れると、まず、窓辺の書きもの机の前に立った。


引き出しの継ぎめを見る。


白い紙の角は、どこにもなかった。


引き出しを開けると、挟んでおいたはずの紙が、ほかの紙の上に、くたりと落ちこんでいた。


洗面台の前に立つ。横木にかけた手拭いの布は、縦に半分に折ってあったはずだった。それが、もとどおりの二つ折りに戻されて、かけてある。足もとの床に、小さな花びらが一枚、落ちていた。


湯の小部屋をのぞいた。棚の石鹸の脇に、小さな花が、ころりと転がっていた。石鹸の面には、花の埋まっていたくぼみだけが、ぽっかりと残っている。くぼみのまわりに、指の跡が、うっすらとついていた。


誰かが、入った。


ジェフリーは、表情を変えなかった。


ランタンを手に、部屋の中を、もう一度ひとわたり見てまわった。寝台の下。窓の掛け金。暖炉の灰の中。荷の口。何かを持ちこまれていないか。妙なものを仕掛けられていないか。


何も、なかった。


探られた。それだけだった。


ジェフリーは、扉を開けて、廊下で待っていたアヤとテッサを、部屋の中へ招きいれた。


アヤが、ジェフリーの顔を見た。ジェフリーは、ほんのわずかに首を横に振ってみせた。今は、何も言えない。アヤは、それだけで分かったようだった。何も聞かずに、テッサの肩を抱いて、部屋の奥へ連れていった。



部屋の隅には、背の高い衝立が立てられていた。


アヤは、テッサを衝立の向こうへ連れていくと、今日買ったばかりの寝間着に着がえさせた。杏色の服の背中のボタンを、ひとつずつ外していく。衝立の向こうから、衣ずれの音と、テッサの小さな笑い声が聞こえてきた。くすぐったかったのだろう。


アヤは、ついでに自分も寝間着に着がえたらしかった。衝立の陰から出てきたときには、二人とも、やわらかな生成りの寝間着姿になっていた。


アヤは、洗面台の脇の手拭いに、手を伸ばしかけて、止めた。


さっき、部屋を見てまわっていたジェフリーが、その布の前で足を止め、じっと見下ろしていたのを、アヤは見ていた。あの布に、誰かの手が触れたのだ。ゆうべの白い茶のことを思えば、誰が触れたか分からないものを、この子の顔に当てるわけにはいかなかった。


アヤは、自分の荷の中から、洗いあげた清潔な布を一枚取りだした。ジェフリーが、黙って自分の水筒を差しだしてくれる。アヤは、その水で布を湿らせて、テッサの顔を拭いてやった。晩餐のために、ほんのりとさしてやった紅を、布の端で、やさしく落としていく。紅が落ちると、テッサの顔は、いつもの十を少し過ぎたばかりの女の子の顔に戻った。


アヤは、長椅子に腰を下ろして、テッサを自分の前に座らせた。結いあげていた髪をほどき、櫛で、ていねいにとかしはじめた。


アヤが、髪をとかす手を止めずに、ジェフリーに言った。


「ジェフリー様も、お着がえになってくださいませ。今夜は、湯をお使いになった日ですもの。寝台でお休みにならなければ、かえって妙に思われます」


扉の外の耳のことを言っているのだと、ジェフリーにも分かった。


「寝台は、あなたとテッサがお使いください。私は、長椅子で休みます」


「いいえ」


アヤは、櫛を動かしながら、きっぱりと言った。


「ジェフリー様は、ここ何日も、まともに眠っていらっしゃらないでしょう。寝台には、ジェフリー様とテッサが。長椅子で休むのは、わたくしのほうです」


「あなたを長椅子に寝かせて、私が寝台で眠るわけにはいきません」


「わたくしは、長椅子でも、十分に眠れます」


「それなら、私のほうが、もっと眠れます」


言いあううちに、二人とも、ふと気づいた。


アヤの前に座ったテッサが、二人の顔を、おろおろと見比べていた。髪をとかしてもらいながら、膝の上で両手を握りしめて、小さな肩をこわばらせている。自分のせいで、旦那様と奥様が、言いあいをしている。そう思いこんでいる顔だった。


アヤとジェフリーは、目を見あわせた。


これ以上、この子を不安にさせるわけにはいかない。


結局、テッサを真ん中にして、三人で寝台に並んで眠ることになった。


この宿でいちばんの部屋の寝台は、三人が並んで横になっても、まだ余るほど広かった。



扉が、叩かれた。


「俺です」


アルベルトの声だった。


ジェフリーが扉を細く開けると、アルベルトが、折りたたんだ紙の束を差しだしてきた。


「さっきの、種のぶんです。それと、セドリックが聞いてきた、崖の鳥の歌のことも、まとめて書いておきました」


ジェフリーは、紙の束を受けとった。四、五枚はある。


「読んでおく」


「見張りは、立てますか」


ジェフリーは、首を横に振った。


「いや。今夜は、いらない。……むしろ、こちらが気をゆるめているところを、見せておきたい」


アルベルトは、ジェフリーの顔を見て、すぐにうなずいた。


「分かりました。セドリックにも、今夜は寝台で寝ろと言っておきます」


セドリックは、命じられないかぎり、こういう夜には、自分から廊下に立って、朝まで見張りを続ける男だった。アルベルトも、ジェフリーも、それをよく知っていた。


「朝まで、何の予定もない。皆、ゆっくり眠れ」


ジェフリーは、扉の外にも聞こえる声で、そう言った。


扉を閉める。


これで、どこに耳が貼りついていようと、黒騎士たちは今夜、すっかり気をゆるめて眠っている、と聞こえるはずだった。


もちろん、本当に無防備になるつもりはなかった。廊下に見張りを立てないというだけで、壁一枚向こうには、アルベルトも、カスパーも、セドリックもいる。何かあれば、声ひとつで飛びこんでくる者たちだった。ジェフリーは、自分の剣を、寝台の脇の、手を伸ばせばすぐに届くところに立てかけた。



アルベルトを見送ってから、ジェフリーは、ようやく衝立の陰で、寝間着に着がえた。


洗面台は使わずに、自分の水筒の水を手のひらに受けて顔を洗い、顎から頬の輪郭にかけて、アヤにもらった軟膏を、指先で薄くのばした。夜のあいだに髭の根を弱らせておくための、夜用の軟膏だった。防護布が顔にぴたりと沿うように、旅に出てまもなく、アヤが黒騎士たちに用意してくれたものだ。夜はこちらを、朝は伸びを遅らせるほうを。一度は塗り忘れかけて、アヤに念を押されたこともある。それ以来、ジェフリーは、言われたとおりの塗りかたを、忘れずに守っていた。


長椅子には、アヤとテッサが座っている。アルベルトの紙を、二人の目に触れないところで読もうとすれば、行き場は、寝台しかなかった。


ジェフリーは、寝台に上がると、自分の枕を縦にして、寝台の頭板に立てかけた。そこに背中をあずけて、半身を起こしたまま、脚を伸ばす。膝の上に紙の束を広げ、寝台の脇のランタンの明かりで、一枚めから読みはじめた。



アヤは、テッサの髪をとかしながら、なるべく寝台のほうを見ないようにしていた。


さっき、衝立の陰から出てきたジェフリーを見たとき、アヤは、櫛を取り落としそうになったのだ。


生成りの、飾りけのない寝間着だった。旅の騎士服の、革の帯も、留め金も、何もない。そのぶん、布の下にある身体の線が、そのまま見えるようだった。晩餐の前に洗いあげた淡い金の髪は、もうすっかり乾いて、さらりと額にかかっている。ゆるく合わせた襟もとから、くっきりとした鎖骨がのぞいていた。


ランタンの明かりの中で、枕に背をあずけて紙を読んでいるその姿は、昼間の、剣を下げて隙ひとつ見せない騎士とは、まるで別の人のように見えた。


この世に、こんなにも色香をまとった男の人が、いるものなのだろうか。


アヤは、慌てて目をそらした。


きっと、ふだん、殿方のこういう姿を見慣れていないからだ。アヤは、自分にそう言い聞かせた。王宮では、寝間着姿の殿方など、父のほかに見たことがない。だから、こんなに胸が騒ぐのだ。それだけのことだ。


アヤは、櫛を持つ手に、力をこめた。


「……っ」


テッサが、小さく声をもらした。


櫛が、髪にひっかかっていた。同じところを、何度もとかしすぎたのだ。アヤは、はっとして、櫛にからんだ髪を、指でそっとほどいた。


「ごめんなさい、テッサ。痛かったでしょう。大丈夫?」


「はい。痛くないです、奥さま」


テッサは、首を振ってから、アヤを見上げた。


「わたし、奥さまの髪も、とかします」


アヤの胸が、温かくなった。この子は、どこまでもやさしい。


「ありがとう、テッサ」


アヤは、テッサの頭をなでた。


晩餐の終わりごろから、テッサが、ときどき小さなあくびをかみ殺していたのを、アヤは知っていた。


「でも、わたくしの髪は、自分でとかすわ。テッサは、もう休みましょう」


テッサが、寝台に上がった。


寝台の上で、ジェフリーが、紙から目を上げた。紙の束を脇に置いて、一度、身を起こす。テッサが、上掛けの中へもぐりこみやすいように、初夏の夜に合わせた薄手の上掛けの端を、大きくめくりあげてやった。テッサが横になると、その小さな肩まで、上掛けをそっとかけてやる。


その、身をかがめたときだった。


ジェフリーの寝間着の、ゆるく合わせた襟もとが、はらりとはだけた。


鎖骨の下の、なめらかな胸の肌が、ランタンの明かりの中に、のぞいた。橙色の明かりが、その肌の起伏に、やわらかな影を落としていた。


アヤは、思わず顔をそむけた。


心臓が、どくどくと音を立てていた。耳の奥で、自分の鼓動が聞こえるほどだった。


わたくしは、いったい、何を見ているの。


こんなことを考える女だったのだろうか、わたくしは。はしたない。どうかしている。アヤは、胸の中で、自分を問いただした。


胸がはだけたところを、見てしまって――。


胸。


アヤは、はっとした。


胸もとに、しまってあるもの。


そうだった。テッサから預かったものを、ジェフリー様にお見せしなければ。


アヤは、寝台のほうを見た。


テッサは、上掛けの中で、目をぱっちりと開けていた。天井を見上げて、何かを思いだしているような顔をしていた。今夜の、夢のような出来事のひとつひとつを、頭の中で、何度も繰りかえしているのだろう。


この子は、このままでは、いつまでも眠らない。


どうしよう、と思ったとき、アヤは思いだした。


妹たちが小さかったころ、眠れない夜に、いつもしてやったことがあった。


アヤは、長椅子から立ちあがると、部屋の隅の自分の荷のところへ行った。荷の中から、小さな布の包みを取りだす。石鹸や櫛と一緒に、旅の荷に入れてきたものだった。いつか、黒騎士たちにもしてあげられたら、と思って持ってきたのだった。


包みを開くと、中には、耳の手入れの道具がひと揃い、収まっていた。耳の入り口をそっと広げて、明かりを入れ、中を見やすくするための、指先ほどの小さな銀の筒。象牙を細く削った、先の丸い耳匙。細い木の軸の先に、ふわりと綿を巻いたもの。使ったらすぐに捨てる、柔らかな綿の小切れ。


アヤは、その包みを持って、寝台のそばへ行った。


寝台の頭のほうの壁に、小さなランタンが取りつけてあった。腕木の先についていて、手前に引きだしたり、奥へ押しこんだりできるようになっている。手もとを照らすのに、ちょうどいい。アヤは、それに火を入れて、手前へ引きだした。


「テッサ。耳の、お掃除をしてあげましょうか」


テッサが、上掛けの中から、きょとんとした顔でアヤを見た。


耳の掃除などというものを、してもらったことがないのだろう。何をされるのか、よく分かっていない顔だった。それでも、奥様がしてくれることは、今日一日、何もかもが心地のいいことばかりだった。


「……はい」


テッサは、こくりとうなずいた。


アヤは、寝台に上がると、テッサの枕もとに、膝をそろえて座った。上掛けにくるまったテッサの頭を、両手で支えるようにして、自分の膝の上へ、そっと移す。


銀の小さな筒を、口もとに寄せて、はあっと息を吹きかけた。冷たい銀が、肌に触れて驚かないように、温めておくのだ。温めた筒を、テッサの耳に、そっとあてがう。


耳匙で、ゆっくりと、耳の入り口のあたりからなでていく。


そうするうちに、アヤの肩が、隣のジェフリーの腕に、そっと触れた。


テッサの頭を膝にのせるために、寝台の真ん中へ寄ったせいだった。


ジェフリーが、慌てて身をずらそうとした。


「動かないでくださいませ」


アヤが、小声で止めた。


「ジェフリー様が動くと、寝台が沈んで、テッサの頭が揺れてしまいます。そのまま、お待ちになって」


ジェフリーは、身を起こしかけたところで、動けなくなった。


アヤの肩が、ジェフリーの腕に、寝間着の布ごしに触れていた。薄い布一枚を隔てて、人の肌の温かさが、そのまま伝わってきた。ジェフリーは、紙の束を膝の上に置いたまま、どうしたものかと、天井を見上げた。


アヤは、そんなジェフリーの様子には、気づいていないようだった。テッサの耳の中を、ランタンの明かりで照らしながら、耳匙を、ゆっくりと動かしている。


「こうして、よく、妹たちの耳のお掃除をしてあげていたんです」


アヤの声は、懐かしむように、やわらかかった。


「そうすると、みんな、すぐに眠ってしまうの。絶対に眠らない、って言いはっていた子でも」


テッサのまぶたが、少しずつ重たくなっていった。


片方の耳を掃除しおえると、アヤは、テッサの頭をそっと向けかえて、もう片方の耳に取りかかった。


そちらの耳を半分も掃除しないうちに、テッサの目は、すっかり閉じていた。


小さな口が、少しだけ開いている。胸が、ゆっくりと上下していた。


テッサは、アヤの膝の上で、眠っていた。


アヤは、耳匙を、そっと耳から離した。残りは、綿を巻いた細い軸で、耳の入り口を軽くなでるだけにして、道具を置いた。テッサの頭を、膝の上から枕の上へ、そっと移す。上掛けを、肩まで引きあげてやる。


小さな寝息が、規則正しく聞こえていた。


アヤは、道具をていねいに包みなおして荷のところへ戻すと、鏡台の上に置いておいたハンカチを取りあげた。衝立の陰で着がえるときに、胸もとから出して、そこへ置いたのだ。


アヤは、ハンカチを手に、寝台のジェフリーのそばへ戻ってきた。


「見ていただきたいものが、あります」



********



ジェフリーは、アヤの差しだしたハンカチを受けとった。


開くと、中から、薄い銀の板が現れた。銅貨ほどの大きさの、波の形に割られた銀の板だった。


アヤは、寝台の縁に浅く腰を下ろして、ささやき声で話した。テッサの両親のことは、料理を買いに出る前のジェフリーに、もう伝えてある。話したのは、そのあとのことだった。昼に、テッサに着がえを手伝ってもらっていたとき、両親の話を聞きおえたところで、テッサの靴の底が割れて、そこからこれが転がり落ちたこと。母親が、誰にも見せるなと言ってテッサに預けたものだということ。


「この割符が、何のためのものか、お分かりになりますか」


ジェフリーは、銀の板を、もっとよく見ようとした。寝台の脇のランタンの明かりに近づけようと、身を起こす。


寝台が、ぎしりと鳴った。


テッサが、うーん、と小さく声をもらして、寝返りを打ちかけた。


二人は、そろって息を止めた。


テッサは、寝返りを打ちきらないまま、また、すうっと深い眠りに沈んでいった。


アヤとジェフリーは、顔を見あわせた。


ここで話していたら、この子を起こしてしまう。


二人は、そっと寝台を降りて、部屋の向こうの長椅子に移った。


ジェフリーが、長椅子の前の卓に置いたランタンの火を、少しだけ大きくした。その明かりの中で、あらためて、銀の板を見る。


表には、花と、王冠の紋が刻まれていた。裏には、数字がいくつか。


「この紋は、エステリアの王宮のものです」


アヤが、ささやいた。


ジェフリーは、銀の板から目を離さないまま、言った。


「割符というのは、離れた場所にあるもの同士が、たしかにひとつながりのものだと証すために使うものです。荷の受けわたしに使うなら、割符は、荷そのものにくくりつけておかなければ意味がない」


ジェフリーは、銀の板を、ランタンの明かりの中で、ゆっくりと回した。


「ですが、この割符には、紐や革を通すための穴がない。荷につけるためのものには、見えません」


アヤは、銀の板を見つめた。たしかに、どこにも、穴はなかった。


「しかも、王家の紋が刻まれている。だとすれば、これは、王家そのものに対して、何かを証すためのものです」


ジェフリーは、アヤを見た。


「何か、お心あたりは」


王家に対する、証。


それも、ダリアにあった、証。


アヤは、はっとした。


調べの者。


ジェフリーが初めて謁見の間を訪れた日の夜、王宮の執務室で、父が言った言葉が、耳の奥によみがえった。


――交易の決まりに関わる調査の者と、近衛の兵を遣わして、確かめさせた。一度や二度ではない。


何度、調べの者を遣わしても、王宮に届く報告は、いつも、ダリアには何の問題もない、というものだった。


ジェフリーが、銀の板を卓の上に置いた。


「このように、割符がひとつきりで、ほかに何もくくりつけるところがないものは、たいてい、人そのものを証すために使われます。この割符を持っている者が、たしかに、割符のもう片方を持つ者から遣わされた者だ、と」


「ダリアへ来た、調べの者のものかもしれません」


アヤの声が、少しだけ速くなった。


「調べの者は、これまでに、何度もダリアへ来ているはずです。それなのに、王宮に届いた報告は、いつも、本当のこととはまるで違っていました」


何度も、調べの者が来ている。


その言葉に、ジェフリーの手が止まった。


膝の上に置いていた、アルベルトの紙の束を、もう一度広げる。


花が落とした、二つの種。


一年と、少し前。王都から来たという商人が、この宿に泊まり、館へ何度も通ったあと、荷物を部屋に残したまま、いなくなった。


その商人がいなくなって、ひと月たつか、たたないかのころ。月のない晩に、館のおつかいに出たテッサの父親が、帰らなかった。


ジェフリーは、紙を見下ろしたまま、黙っていた。


その商人が、本当は、王都から遣わされた調べの者だったとしたら。


調べの者が、ダリアで起きている本当のことを知って、王宮に知らせようとしていたとしたら。


知らせる前に、消されたとしたら。


そして、その調べの者が消えたわけを、館の下働きだったテッサの父親が、知ってしまったのだとしたら。


だから、月のない晩に、海で。


海は、何もかもを呑みこむ。


夫が消えたわけを、テッサの母親は、探ろうとしたのかもしれない。その手がかりが、今、目の前にある、この銀の板だったのだとしたら。母親は、それを、娘に託して死んだ。


アヤは、ジェフリーが紙から顔を上げるのを、黙って待っていた。


ジェフリーは、アルベルトの紙を、アヤのほうへ向けて、卓の上に置いた。指先で、二つの種のところを、順に示す。


アヤが、身を乗りだして、紙の字を追った。読みすすむうちに、アヤの指が、膝の上で、寝間着の布を握りしめていった。


アヤは、長いあいだ、紙を見つめていた。


やがて、口を開いた。


「その割符は……本当は、なくなっては困るものだったのかもしれません」


「どういうことです」


「エステリアの王宮は、ダリアへ送る支援の物資が、どれほど要るものなのかを確かめるために、これまで何度も調べの者を遣わしてきたはずです。物資を送りつづけるためには、調べの者が来ることは、避けられません」


アヤは、卓の上の銀の板に目を落とした。


「ですから、いつかは、送られた麦が、剣に化けていくからくりを、見破られるかもしれない。そうなったとき、それが誰のしわざなのか。その決め手になるのが、この割符なのです」


ジェフリーは、アヤの顔を見た。


「つまり、この割符を持っている者に、消えた調べの者を手にかけた疑いがかかる、ということですか」


アヤは、うなずいた。


「ええ。ですから、ガストン殿は、いざというとき、この割符を、ルシアン殿か、臥せっておられるお父上の手もとから見つかったことにしたかったはずです。そうすれば、調べの者を消したのは、館のあるじだということになります」


言いおえてから、アヤは、自分の言葉を確かめるように、少しのあいだ黙った。


「……もちろん、まだ、どれも推し量っているだけです。証になるものは、何ひとつありません」


「ですが、筋は通ります」


ジェフリーが言った。


もし、そうだとすれば。ガストンにとって、この割符は、どうしても手もとに取りもどしておきたいものだったはずだ。


そして、テッサの母親も、この銀の板が、ただの形見ではないことに、気づいていたのかもしれない。


自分が持っていて、もし夫と同じように殺されれば、夫が命と引きかえに手に入れたものが、敵の手に渡ってしまう。だから、娘に託したのかもしれない。誰にも見せるな、と。


その言葉には、きっと、続きがあったのだろう。


信じられる人が、現れるまでは。


幼いテッサには、母親の言葉の、そこまでの意味は分からなかったに違いない。ただ、誰にも見せてはいけない。それだけを胸に刻んで、肌着に縫いつけ、靴の底に押しこんで、今日まで守りとおしてきた。


テッサが殺されなかったのは、夫が死に、妻が死に、そのうえ幼い娘まで死ねば、さすがに村の者たちが騒ぎだすと考えたからかもしれない。あるいは、ガストンは、テッサを自分の息のかかった宿に預けて、女将の目を通して、この割符のことを何か知っていないか、見張らせていたのかもしれない。宿と館のあいだを行き来する使い走りは、いつも、テッサの役目だったのだから。


ジェフリーは、考えながら、言った。


「ガストンが、テッサに目をつけていたのだとすれば……今夜、テッサを、我々の庇護の下に置いたと見せたことは、ガストンにとって、大きな意味を持ちます」


「わたくしも、同じ考えです」


アヤが、うなずいた。


ジェフリーは、黙りこんだ。


テッサのことを、どうするか。晩餐のあいだじゅう、ジェフリーは、ずっとそれを考えていた。


今、心が決まった。


サルヴィアの商人の夫婦が、テッサを、養い子として迎えたいと申しでる。それを、明日、ガストンに持ちかけて、相手の出かたを見る。ガストンが、ただの使い走りの娘ひとりのことで、どんな顔をするか。そこから、消えた調べの者について、何かがつかめるかもしれない。


そして、もし本当に、テッサを引きとることになったら。


そのときは、自分が引きとればいい。妻もいないのに、子がいる。それはそれで、言い寄ってくる女たちを遠ざけるには、ちょうどいいかもしれない。


「ジェフリー様」


アヤの声に、ジェフリーは顔を上げた。


アヤが、まっすぐに、ジェフリーの顔を見ていた。


「もしかして……テッサを、本気で、養い子になさろうとお考えですか」


まるで、胸の中をのぞきこまれたようだった。


ジェフリーは、アヤの目を見たまま、答えた。


「はい」


アヤは、少しのあいだ、何も言わなかった。


やがて、眠っているテッサのほうへ、そっと目をやった。


「サルヴィアは、寒い国です。一度行ってしまえば、簡単には、エステリアに戻ってこられません」


アヤの声は、やわらかかった。それでいて、少しも揺らがなかった。


「もし、テッサがエステリアにいたいと思うのなら、わたくしは、あの子の気持ちを、いちばんに考えてあげたいのです。あの子がサルヴィアへ行きたいと言うのなら、ジェフリー様のお考えを止めはしません。でも、もし、エステリアを選ぶのなら」


アヤは、ジェフリーに目を戻した。


「そのときは、わたくしの侍女として、王宮で預かります」


王宮に入れば、テッサが飢えることは、二度とない。


ダリアには、親をなくした子どもが、きっとほかにもいる。救わなければならない子どもは、テッサひとりではないのかもしれない。それでも、ダリアの腐った政のいちばん底で、両親を奪われたこの子を、アヤは、放っておくことができなかった。


二人のあいだに、しばらく、沈黙が落ちた。


ランタンの炎が、小さく揺れた。


沈黙を破ったのは、ジェフリーだった。


「分かりました。……ひとまず、明日、ガストンに会って、相手の出かたを見ましょう。テッサのことは、そのあとで考えても、遅くはないはずです」


アヤの顔が、ふっとほころんだ。


「そうですわね。……では、そうと決まったら、もう休みましょう。早く眠らないと、明日にさしつかえます」


そうと決まったら。


ジェフリーは、寝台のほうを見た。


広い寝台の真ん中で、テッサが、小さな寝息を立てている。その両脇が、空いていた。


やはり、あそこで眠るのか。アヤのすぐそばで。


子どもを真ん中に挟んで、三人で一つの寝台に眠る。まるで、家族のようだった。


母を亡くしてから、ジェフリーは、誰かとこんなふうに眠ったことは、一度もなかった。子どもだったころでさえ、なかった。それを、偽りの夫婦の芝居の中で、しかも、この人と。


正直なところ、まともに眠れる気がしなかった。長椅子に横になっていたほうが、ずっとよく眠れる。


その胸の内を見すかしたように、アヤが言った。


「さきほど、テッサの前で、約束しましたでしょう。今夜は、三人で眠ると」


アヤは、ジェフリーの顔をのぞきこんだ。


「ジェフリー様は、とにかく、寝台で、きちんとお休みになってください。いったい、何日、まともに眠っていらっしゃらないのですか」


ジェフリーは、言いかえせなかった。


最後に寝台で眠ったのは、龍の涙の探索隊として、エステリアの王宮を発つ前の晩だった。


この人には、かなわない。


ジェフリーは、あきらめた。


「分かりました。寝台で休みます。……ただ、今はまだ、頭が冴えていて、眠れそうにありません。少し、窓を開けて、夜風に当たってから」


それを聞いたアヤが、なぜか、少し得意そうな顔をした。


「それなら、わたくし、ジェフリー様がすぐにお眠りになれるようにして差しあげられますわ」


アヤは、長椅子から立ちあがった。部屋の隅の荷のところへ行って、さっき片づけたばかりの、布の包みを取りだしてくる。


耳の手入れの、道具の包みだった。


ジェフリーは、その包みを見て、言葉を失った。


まさか。


冗談ではない。そんなことをされたら、かえって眠れなくなる。


そんなジェフリーの焦りなど、まるで知らないように、アヤは、包みを手に長椅子に座りなおすと、自分の膝の上を、手のひらで、ぽんぽんと軽く叩いた。


さあ、ここに頭をおのせになって。


そう言っている顔だった。


ジェフリーは、思わず口を開いていた。


「いえ、アヤ……ナナ。正直に申しあげて、そこでは、私は眠れません」


アヤは、少しだけ首をかしげた。


やがて、ああ、という顔をした。


「そうですわね。こんなところで眠ってしまわれたら、あとで寝台へ移っていただくのが、たいへんですもの」


アヤは、包みを手に立ちあがると、寝台へ上がった。テッサを起こさないように、寝台の端の、枕が並んでいるあたりに膝をそろえて座る。そうして、また、自分の膝の上を、ぽんぽんと叩いた。


そういう意味ではない。


ジェフリーは、どう説明すればいいのか、分からなかった。説明できることでもなかった。


アヤは、膝を叩きつづけている。ジェフリーが動かないのを見て、とうとう、小さな、それでいて有無を言わせない声で言った。


「早くしてくださいませ。テッサが、起きてしまいます」


ジェフリーは、断る理由を、頭の中で探した。


ひとつも、見つからなかった。


ジェフリーは、長椅子から立ちあがった。


寝台へ歩いていく。テッサを起こさないように、そっと寝台に上がる。アヤの隣に身を横たえて、ゆっくりと、アヤの膝の上に、頭をのせた。


アヤは、ジェフリーがそのまま眠ってしまってもいいように、膝が、ちょうど枕の上にくるところに座っていた。


膝は、やわらかかった。


薄い寝間着の布の向こうで、アヤの腿が、ジェフリーの頭の重さを受けとめて、わずかに沈んだ。人の身体の温かさが、布ごしに、じんわりと頬に伝わってくる。アヤが息をするたびに、膝が、かすかに上下した。寝間着の布から、アヤの匂いがした。晩餐の燭台の蝋の匂いと、ほんのわずかな葡萄酒の香りと、そのいちばん奥に、髪に残った花の香りが、かすかにまじっている。どれも、この人の肌の温度をまとって、すぐそこで匂っていた。


ジェフリーは、息をするのも忘れていた。


頬の下で、アヤの身体が、かすかに動いた。銀の筒を、口もとで温めているのだ。はあっ、という小さな息の音が、頭の上から聞こえた。


アヤの指が、ジェフリーの耳のまわりの髪に触れた。耳がよく見えるように、髪を指先でそっとすくって、耳のうしろへ流していく。さらりと乾いた髪のあいだを、白い指先が、ゆっくりとすべっていった。


耳に、温められた銀の筒が、そっとあてがわれた。


耳匙の先が、耳の外側から、ゆっくりと、なでるように動きはじめた。


偽りの夫婦を演じると決めたときから、ある程度のことは、覚悟していた。同じ部屋で眠ること。人前で、夫らしくふるまうこと。


それでも、こんなことをされるとは、思ってもいなかった。


アヤの膝の温かさ。髪をすくう指先の感触。耳のすぐそばで聞こえる、やわらかな息づかい。どれもが、ジェフリーの身体の芯から、少しずつ、力を抜きとっていった。


「ジェフリー様」


頭の上から、アヤのささやき声が降ってきた。


「最後に、耳のお掃除をなさったのは、いつごろですか」


耳匙は、耳のふちから、明かりの届く入り口のあたりへと移っていた。決して奥へは入れず、浅いところを、ひとかきずつ、ていねいになでていく。


最後に、耳の掃除をしたのは。


ジェフリーは、記憶をたどろうとした。そんなに、汚れていたのだろうか。最後に、耳を、誰かに、いや、自分で。いつだったか。王都の宿舎で。それとも、もっと前の。


思いだそうとするうちに、記憶の糸の先が、ふっとほどけた。


ジェフリーの意識は、そこで、とぎれた。



アヤは、耳匙を動かしながら、ジェフリーから、ずっと答えが返ってこないことに気づいた。


そっと、膝の上の顔をのぞきこむ。


ジェフリーは、眠っていた。


アヤは、思わず、手を止めた。


あれほど眠れないと言いはっていた人が、耳の掃除の、ほんの半分もしないうちに。


アヤは、耳匙を、そっと耳から離した。眠ってしまった人の耳の中を、それ以上かきまわすつもりはなかった。耳の入り口を、綿を巻いた細い軸で軽くなでて、それで終わりにした。


手を動かしながら、アヤは、あらためて、膝の上の顔を見下ろした。


なんて、きれいな顔なのだろう。


ランタンの明かりが、まつげの影を、頬の上に長く落としていた。通った鼻筋。薄く開いた唇。


そう思うのと同時に、アヤは、その顔が、思っていたよりもずっと幼いことに気づいた。


目を閉じていると、ふだん額のあたりに漂っていた険しさも、口もとを引きむすんでいた固さも、何もかも消えていた。そこにあるのは、まだ少年の面影をどこかに残した、若い男の人の寝顔だった。


ふだん、この人が、どれほど多くのことに頭を使いながら、張りつめた日々を過ごしてきたのか。こうして眠っている顔を見ると、それが、かえってよく分かった。龍の涙を探す旅に出てから、今日まで、この人が心安らかに眠れた夜は、きっと、一日もなかったのだろう。


この人は、たしか、今年で二十三になるはずだった。


アヤも、来年の春には、二十五になる。年は、そう離れていない。


それなのに、この人のほうが、ずっと多くのものを背負ってきた顔をしていた。


アヤは、綿の軸を置くと、銀の筒を、そっと耳から外した。耳のまわりにかかっていた髪を、指先で、やさしくなでつけてやる。


ジェフリーが、んん、と小さく声をもらした。


アヤの息が止まった。


起こしてしまったのだろうか。


ジェフリーは、目を開けなかった。身じろぎひとつしないまま、まるで幼い子どものような、あまりにも無防備な顔で、また深い眠りの底へ沈んでいった。


アヤは、止めていた息を、そっと吐いた。


膝の上の重みが、温かかった。


その寝顔を見つめているうちに、アヤの胸の奥から、ずっとしまいこんでいたひとつの光景が、ゆっくりと浮かびあがってきた。



あれは、ダリアに着いたばかりのころ。川べりの野営地に、エステリアの兵を名乗る男たちが乗りこんできた日のことだった。


アヤが、アヤ・ソヴェールと名乗りをあげたあと、エミールに腕を引かれて、幌馬車の中へ押しこまれた。幌の中には、ノアがいた。


アヤは、ノアを胸に抱きよせた。幕の外では、剣と剣のぶつかる音が、すぐそばまで迫っていた。


もし、幕を上げて、男たちが入ってきたら。


この子だけは、守らなければならない。


そう思ったとき、アヤは、自分が、武器と呼べるものを何ひとつ身につけていないことに気づいた。


アヤは、ノアを片腕に抱いたまま、空いたほうの手で、幌の中の荷を探った。何か、手に持って振りまわせるものはないか。


指先に、固い筒のようなものが触れた。


アヤは、それをつかんで、引っぱりあげた。


その拍子に、筒の蓋が外れた。


中から、大きく巻かれた羊皮紙が、すべり出てきた。


羊皮紙は、幌の床に落ちて、ばさりと広がった。


アヤは、息をのんだ。


地図のようだった。ただ、そこには、ほとんど何も描かれていなかった。道も、山も、川もない。古びた羊皮紙の大部分は、ただ、空白だった。


羊皮紙の隅に、かすれた紋章と、誰かの署名らしいものだけが残っていた。紋章は、アヤが王宮の古い記録の中で見たことのある、昔のエステリア王家の紋に、よく似ていた。


その署名のそばに、小さな文字が、ひと連なり書きこまれていた。


セレス語だった。


それも、アヤが王宮の図書館で学んできたセレス語より、ずっと古い文体だった。綴りも、言いまわしも、ところどころ見なれない形に崩れている。アヤには、拾える言葉と、拾えない言葉とがあった。ドラゴン。瘴気。道。ひらく。


拾えた言葉をつなぎあわせて、もう一度、頭から目でなぞる。


――ドラゴンの瘴気にて、道をひらけ。


そう書かれているように、アヤには読めた。


王宮で、鉱石書の文字を読み解いたときの言葉が、アヤの頭によみがえった。


地図は、ドラゴンの瘴気の中でのみ、その真実を語る。


鉱石書と、対になるはずの地図。遠い昔、エステリアの国宝として納められていながら、何者かに持ち去られて、ゆくえの分からなくなっていたもの。その地図を探しだすことも、龍の涙の探索の目的のひとつだったはずだった。


それが、なぜ、ここに。サルヴィアの黒騎士たちの、幌馬車の中に。


考えようとしたとき、幕の外で、男の怒声が上がった。誰かが、幌馬車の車輪にぶつかって、幌全体が大きく揺れた。


アヤは、急いで羊皮紙を巻きなおした。筒の中へ押しこみ、蓋を閉める。何事もなかったように、筒を、もとあった荷のあいだへ戻した。


その直後だった。


幕が、外から乱暴にめくりあげられた。


薄暗い幌の中に、外の光が、刃のように差しこんだ。その光を背にして、鎧の男が、幌の入り口をふさぐように立っていた。男の目が、幌の奥のアヤをとらえた。


アヤは、ノアを胸に抱きよせた。自分の身体ごと、ノアを覆いかくすように、背中を丸める。ノアの小さな頭を、手のひらで、自分の胸に押しつけた。


ノアの心臓が、アヤの胸の下で、早鐘のように打っていた。


アヤは、ノアを抱く腕に力をこめた。


男から、目をそらさなかった。


武器になるものは、何ひとつ持っていなかった。それでも、この子にだけは、指一本触れさせない。それだけを、男を見すえる目にこめていた。



アヤは、膝の上のジェフリーの寝顔を見つめた。


あの日から、アヤは、あの筒のことを、誰にも話していない。ジェフリーにも、尋ねていない。


なぜ、ジェフリー様は、わたくしに、本当のことを言ってくださらないのだろう。


この人の人柄を考えれば、あの地図は、この人ひとりの考えで扱っているものではないのかもしれない。サルヴィアの王から、まだエステリアには明かすなと命じられているのかもしれない。失われたエステリアの国宝を、サルヴィアが持っている。それだけで、二つの国のあいだが、どれほどややこしいことになるかは、アヤにも分かっていた。


だから、この人は、言えないのかもしれない。


それでも。


アヤは、自分が、もう少しこの人に信じてもらえていると思っていた。


国宝だと、はっきり言えなくてもいい。それに近いものを、じつは持っている。それくらいのことは、エステリアの王宮にではなく、アヤにだけでも、打ちあけてもらえるのではないかと思っていた。


考えてみれば、アヤ自身も同じだった。今でこそ、アヤ・ラセルという名の、国外の調査員としての身分の証を持って旅をしている。それでも、結局のところ、アヤは、エステリアの王家の人間なのだ。この人にとって、アヤは、すべてを打ちあけていい相手ではないのかもしれない。


そう考えると。


どうして、こんなに寂しいのだろう。


アヤは、膝の上の、あまりにも無防備な寝顔を見下ろしたまま、自分でも整理のつかない胸の痛みを、ずっと抱えていた。


ランタンの炎が、小さく揺れた。


テッサの寝息と、ジェフリーの寝息とが、静まりかえった部屋の中で、ゆっくりと重なりあっていた。



********



夜更け。


ヴァルモントの館の書斎に、まだ灯りがともっていた。


執事が、布に包んだ小さな包みを、ガストンの机の上に置いた。


「白猫の月亭の女将から、急ぎの届けものでございます」


ガストンは、包みの布を解いた。


中から出てきたのは、一枚の紙と、乱れた字で書きつけられた、短い走り書きだった。


走り書きのほうから、目を通す。


――奥方の部屋の、寝台と壁のすき間に、この紙がございました。旦那のほうの字ではございません。女の字でございます。部屋の荷には、商人の女房が持つには上等すぎるほどの、化粧の道具。今宵は、あの娘を着飾らせて、黒騎士どもの部屋で、食べさせておりました。


ガストンは、化粧の道具のくだりには、目を留めなかった。羽振りのいいサルヴィアの商人の女房なら、それくらいのものは持っているだろう。


あの娘を着飾らせて、のところで、ガストンの目が、一度だけ止まった。


ガストンは、走り書きを脇に置いて、もう一枚の紙を手に取った。


細い、整った女の字だった。箇条書きに、短い言葉が並んでいる。


王都の支援の麦。陽炎草。そして、ガストンの名。その名のそばに、疑いを書きつけた言葉。紙の隅に、インクのしみが、ひとつ、丸く落ちていた。


商人の女房が、商いの覚え書きに書く言葉ではなかった。


ガストンは、机の引き出しを開けた。中から、一通の手紙を取りだす。


サルヴィアの商人、ハルセリンからの手紙だった。


――明日、あらためて、夫婦そろってお伺いいたします。


几帳面な字だった。


ガストンは、二枚の紙を、机の上に並べた。


字が、まるで違う。


調べているのは、夫ではない。


妻のほうだ。


ガストンは、椅子の背にもたれて、天井の燭台を見上げた。


一年と少し前にも、この館に、商人の顔をした男が通ってきたことがあった。物腰がやわらかく、礼儀正しく、商いの話をしながら、いつも、帳簿のありかを探るような目をしていた。


あの男が、どうなったのか。ガストンは、よく知っていた。


ガストンは、机の上の女の字を、もう一度見下ろした。


あの娘を、着飾らせて。


あの夫婦は、あの娘を、手なずけはじめている。


ガストンは、指にはめた指輪の青い石を、親指の腹で、ゆっくりとなでた。


なでる指が、いつまでも、止まらなかった。

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