3. 陰に隠れるあひるの姫様
その頃、エステリア王宮の長い回廊には、苛立ちに満ちた靴音がけたたましく響いていた。
「信じられないわ! ミエ姉様もマリサ姉様も、抜け駆けするなんて!」
豪奢なドレスの裾を蹴り上げるようにして歩いてくるのは、四姉妹の末っ子、リカだった。ジェフリーが王宮を訪れ、二人の姉と庭園へ向かったと聞きつけたのだろう。整った顔が、耳のあたりまで真っ赤に染まっている。
回廊の角を曲がったところで、アヤは足を止めた。
洗濯を終え、着替えたばかりだった。まだ少し湿り気の残る黒髪に、窓から吹き込む風がひやりと触れる。その向こうから、小さな嵐のような足音が近づいてくる。
このままリカがサンルームへ飛び込めば、客人の前で姉妹の言い争いが始まってしまう。
アヤはひとつ息を吸い、ふわりと柔らかな足取りで、妹の前へ歩み出た。
「リカ、そんなに急いでどこへ行くの? ……ふふ、ジェフリー様のために、お茶を用意しに行くところかしら」
「アヤ姉様!?」
リカは怒りのまま、姉に食ってかかった。
「ミエ姉様たちが、わたしをのけ者にして、あの素敵なジェフリー様を独り占めしようとしているのよ! のんびりお茶なんて用意していられるもんですか!」
アヤは困ったように眉を下げ、リカの肩にそっと手を添えた。そのまま歩調を合わせるようにして、人目のない厨房前の通路へと連れていく。
「まあ、せっかちね。手ぶらで乗り込むより、ジェフリー様のために、とびきり美味しいお菓子を持っていってはどう? そのほうが、ずっと淑女らしくて素敵よ」
「はあ? なんでわたしが、そんな召使みたいな真似をしなきゃいけないのよ。お姉様じゃあるまいし!」
吐き捨てるような言葉だった。
けれど、アヤの白い頬には影ひとつ差さなかった。代わりに、わざとらしく小首をかしげ、いたずらを思いついた子どものように瞳をきらめかせる。
「あら、知らないの? 最近、王都のレディたちのあいだでは、気になる殿方に自分でお菓子を届けるのが、こっそり流行っているのよ。甘い贈り物に想いをこめて、それで結ばれたご令嬢もたくさんいるんですって」
「……本当なの、それ?」
リカの目の色が、みるみる変わっていく。
「ええ。とてもロマンチックなお話でしょう?」
その一言で、リカの機嫌はくるりと裏返った。
踵を返し、厨房の重い扉を勢いよく押し開ける。中では料理長が、焼き上がったばかりの色とりどりのクッキーと、艶やかなケーキを銀の盆に並べているところだった。甘い香りが、ふわりと通路へあふれ出す。
「これ、わたしがサンルームへ運ぶわ!」
リカは鼻歌まじりに、花で飾られたティーワゴンを押しはじめた。
アヤはその斜め前を、音もなく歩いた。
通路の敷物のめくれに気づけば、爪先でさりげなく直す。曲がり角の手前では、使用人に目で合図を送り、先に扉を開けさせる。ワゴンの車輪が小さな段差に差しかかる前には、そっと足もとの石を確かめる。
浮き立った足取りのリカは、姉がそうしていることに気づいてもいなかった。
サンルームの前まで来たとき、アヤはふと足を止めた。
扉の向こうが、妙に静かだった。
笑い声も、茶器の触れ合う音もしない。ぴんと張りつめた糸のような沈黙の底に、父の低い声が、かすかに沈んでいる。
何か、大事な話をしている。
けれど、恋に胸をふくらませたリカに、そんな気配が分かるはずもなかった。
「皆様、お茶のおかわりをお持ちいたしましたわ!」
扉が勢いよく開け放たれる。窓辺の光の中に金の髪の青年を見つけた瞬間、リカの顔がぱっと花のように輝いた。
リカは慣れない手つきでポットを持ち上げ、紅茶を注ぎはじめた。緊張で、指先が小さく震えている。それでも、いかにも自分で焼き上げたかのような得意顔で、銀の盆をテーブルへ滑り込ませた。
そのすぐ隣に、アヤは息をひそめるように立っていた。
リカの肘がカップに触れそうになれば、添えた手でそっと角度を変える。注ぎ口からこぼれかけた雫は、リネンのナプキンで音もなく拭い取る。
まるで、そこにいないかのように。
ジェフリーの青い瞳は、リカの華やいだ笑顔を見てはいなかった。
見ていたのは、その隣。
気配を消しながら、妹の手もとを支え続ける、白くふくよかな指先だった。迷いのない、静かな動き。伏せたまつげの下で、横顔だけが穏やかに微笑んでいる。
自分が見つめられていると信じたリカは、ますます頬を上気させて胸を張った。
けれど、その光景を黙って見ていた一人だけが、青年の視線の行き先に気づいていた。
父である、レグナードだった。
王はしばらく何も言わず、ティーカップの縁に指を添えていた。やがて、重い沈黙を破るように口を開く。
「……相分かった、ハルセリン卿。『龍の涙』を手に入れるため、そなたの知恵と力を借りよう。我が国からも、相応の援助と便宜を約束する。旅の支度については、一週間後、改めて城へ来てもらいたい」
「寛大なるご決断、心より感謝申し上げます」
ジェフリーが深く頭を下げる。レグナードは小さく頷いて、席を立った。
「うむ。堅苦しい話は、ここまでとしよう。娘たちと、ゆっくり茶を楽しんでくれ」
王が去ると、サンルームの空気がふっとほどけた。
ミエとマリサ、そしてリカが、待ちかねたようにジェフリーを取り囲む。三つの華やかな声が、競い合うように重なっていく。
アヤはその輪から離れ、空になったポットや散らばった食器を、手際よくワゴンへ集めていた。召使たちと一緒に、音を立てないように。
最後の皿を載せ、扉のほうへ向きを変えた、そのときだった。
「――アヤ様」
涼やかな声が、背中に届いた。
足が止まる。
振り返ると、群がる王女たちの肩の隙間から、ジェフリーがまっすぐにこちらを見ていた。窓からの光に、淡い金の髪が透けている。
「あなたと一緒に、この素晴らしい場所でお茶をいただくことを、お許しいただけますか」
サンルームに、冷たい沈黙が落ちた。
テーブルの上には、最初から、アヤの席もカップもなかった。
身分の高い客が訪れたとき、長女は席につかない。それが、この王宮の決まりごとのようになっていた。アヤ自身も、それを当たり前のこととして受け入れてきた。
ワゴンの取っ手を握る指先に、ほんの少しだけ力がこもった。
「ひ、姫様のお茶を、すぐにお持ちいたします!」
居たたまれなくなったのだろう。侍女が弾かれたように部屋を飛び出していく。
妹たちの視線が、背中に刺さるのが分かった。
アヤはワゴンから手を離し、静かにテーブルへ戻った。そして、妹たちの席から少し離れた、いちばん端の椅子に腰を下ろす。
「恐れ入ります、ジェフリー様」
そこからの茶会は、どこか危うい釣り合いの上で進んでいった。
ミエは教養を、マリサは美しさを、リカは焼き菓子の話を、それぞれ競うように差し出す。ジェフリーは失礼にならないだけの相づちでそれを受け流し、すぐにまた、テーブルの端へと視線を戻した。
「アヤ様は、先ほどの足踏み洗濯のように、暮らしの中の工夫をたくさんご存じなのですか」
「この庭のハーブの調合も、アヤ様が?」
彼が口を開くたびに、問いはアヤへ向けられた。
そのたびに、妹たちの眉がかすかに寄る。
アヤはティーカップを両手で包み、言葉をひとつずつ選び直した。
「いいえ。わたくしは、本で読んだことを少し試してみただけですわ。民の暮らしに本当に寄り添っているのは、領地への慰問を欠かさないミエのほうです」
「このハーブがこんなに美しく育っているのは、毎日庭の手入れを見ているマリサのおかげですわ」
自分の手柄は、そっと妹たちの前へ押しやってしまう。
ジェフリーは、黙ってその横顔を見ていた。
どうしてこの人は、こんなふうに自分を小さくしてしまうのだろう。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。それと同じくらい、もっとこの人の言葉を聞いてみたい、とも思った。
やがて、別れの時が来た。
サンルームを出る間際、ジェフリーはふと足を止め、名残惜しそうに振り返った。
「大変不躾なお願いなのですが……最初にいただいた、あの蜂蜜のスコーンを、もし残っていれば持ち帰らせていただけませんか。あの味が、どうしても忘れられそうにないのです」
真っ先に飛びついたのは、リカだった。
「まあ! お気に召していただけましたのね!」
アヤが声をかけるより早く、リカは厨房へ駆けていった。戻ってきたときには、残っていたスコーンが花柄の包み紙にくるまれ、大きな桃色のリボンまで結ばれていた。
「これ、わたくしが時間を見つけては、よく焼いているお菓子なんです。どうぞ召し上がってください!」
見え透いた嘘だった。
アヤは何も言わなかった。ただ、やさしく微笑んで、その嘘をそっと包み込むように受け入れ、深く頭を下げて客人を見送った。
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その夜。
王都の高級ホテルの私室で、ジェフリーは窓辺の椅子に腰を下ろしていた。
黒い上着はすでに脱ぎ、白いシャツの襟元だけをわずかに寛げている。卓上には、昼間王宮で受け取った包みが置かれていた。
桃色のリボンを解き、中からスコーンをひとつ取り出す。
口に運べば、蜂蜜の穏やかな甘さと、焼いた小麦の香りが広がった。
ジェフリーの口元が、わずかに緩む。
(……あなたが焼いたものだと、分からないとでも思ったのですか、アヤ様)
リカが誇らしげに自分の手柄だと言ったとき、アヤは何も訂正しなかった。ただ妹を見て、いつものように静かに笑っていた。
これまでに見たアヤの姿が、ふと脳裏によみがえる。
洗濯場で、侍女と声を上げて笑っていた顔。
サンルームで、妹の給仕を誰にも気づかれないよう支えていた指先。
そして、自分に向けられた問いに答えるときでさえ、いつの間にか妹たちの話へと変えてしまう。
不思議な人だった。
目立とうとはしない。むしろ、自分から一歩退いて、誰かを前へ押し出している。
それなのに――気づけば、目で追っている。
ジェフリーは、手の中に残ったスコーンを見つめた。
もっと話してみたい。
これまで見たものだけでは、まだ何も知らないような気がした。
「龍の涙、か……」
低く呟き、背もたれへ身体を預ける。
万病を治すと伝えられる幻の秘薬。
国王から探索への協力を得られたことで、少なくとも再び王宮を訪れる理由はできた。資料を調べるためには、アヤの知識を借りることもあるだろう。
そこまで考えて、ジェフリーはふと眉を寄せた。
そのことを、自分はなぜこんなにも喜んでいるのだろう。
しばらく考えてみても、答えは出なかった。
窓の向こうには、薄い雲の間から銀色の月がのぞいている。
ジェフリーは視線を戻すと、包みの中に残っていたスコーンへ手を伸ばした。
もうひとつだけ。
一週間後。
王宮を訪れるその日を、ほんの少しだけ待ち遠しいと思った。




