2. 再会
――翌朝。
初夏の爽やかな風が、王宮へ続く石畳を撫でていた。
夜の名残をわずかに含んだ空気はまだ涼しく、朝露をまとった木々の葉が、差しはじめた陽の光を受けて淡く輝いている。
ジェフリーは、何かに背中を押されるようにして、エステリア王宮へと足を運んでいた。
なぜなのかは、自分でもよく分からない。
ただ、もう一度あの女性の姿を確かめたかった。
王宮を離れたあとも、なぜかその姿だけが記憶に残った。
それに、もしかすると『あの伝説』について、彼女なら何か知っているかもしれない――。
そう理由を添えて、ジェフリーは王宮の門をくぐった。
けれど、事態は思わぬほうへ転がった。
昨夜の黒衣の騎士が、今日は自分たちを訪ねてきたのだと思ったらしく、次女のミエと三女のマリサが、花が咲いたような笑顔で彼を出迎えたのだ。
「まあ、ジェフリー様! よくぞいらしてくださいましたわ」
「せっかくですもの。自慢の庭園をご案内いたしますね」
競い合うように距離を縮めてくる二人に、ジェフリーは形ばかりの笑みを返した。
美しく刈り込まれた薔薇の並木道が、どこまでも続いている。
白。薄紅。深い赤。
咲く位置まで計算されたかのように花々が並び、伸びすぎた枝ひとつ見当たらない。朝露を宿した花弁には陽がきらめき、甘い香りが風に混じっていた。
見事な庭だったが、あまりにも整っている。
枝の一本、花びらの一枚にまで人の手が入り、どこを見ても同じように美しい。
まるで、息をする隙間さえ残されていないようだった。
退屈な庭だ――。
そう思いかけた、そのときだった。
「あははっ! 冷たくて気持ちいい!」
「ひ、姫様、跳ねます! お顔にかかってしまいます!」
風に乗って、鈴を転がすような笑い声が二つ、重なり合って聞こえてきた。
庭園の静けさには、あまりにも不釣り合いなほど明るい声だった。
ジェフリーの足が止まる。声に引かれるように低木の間へ視線を向け、彼は思わず目を見張った。
木漏れ日がこぼれる中庭の片隅に、大きな木のタライが置かれていた。
その中に、二人の女性が素足で立っている。
一人は、昨夜手を負傷した侍女。
そしてもう一人は――アヤだった。
豪奢なドレスではない。
生成りの素朴なワンピースの裾を、膝の上まで思いきりたくし上げている。水に浸かった白い脚が、揺れる陽の光を弾いていた。
侍女と手を取り合い、泡の満ちたタライの中で、二人は呼吸を合わせるように足を踏み下ろしている。
昨夜の広間では、一度も見なかった笑顔だった。
水の底では、大きなシーツが、二人の足に押されてゆらゆらと揺れていた。
「……あの方々は、何を?」
呆然としたままジェフリーが尋ねると、隣でミエが小さくため息をついた。
「アヤ姉様は、昔からああなのです。王女だというのに、侍女たちの仕事まで手伝ってしまって」
マリサも、姉の姿を眺めながら困ったように首を傾げる。
「もう少し、ご自分の身なりを気になさればよいのに。姉様は、そういうことには本当に頓着なさらないのですわ。次の年でもう二十五になりますのに、縁談のお話にもまるで関心がおありになりませんし」
ミエの声には、呆れと、どこか理解できないものを見るような響きが混じっていた。
「お父様も、無理にお話を探そうとはなさいませんもの」
ジェフリーは何も答えなかった。
少し見れば、何をしているのかは分かった。
侍女の手には、白い包帯が巻かれている。あの手では、布を絞ることも、擦り合わせることもできない。
だからアヤは、手を使わずに済む方法を選んだのだ。全身の重みをかけて、足で踏む。そして自分から泡をかぶり、水しぶきを浴びて侍女と一緒に笑っている。
初夏の陽を受けて光る、濡れた白い肌。飾り気のない笑顔。
昨夜、広間で侍女を庇ったときの、凛とした横顔とは違う。けれど、同じ人だった。昨夜とはまるで違う表情なのに、侍女のそばにいることだけは変わらなかった。
ふと、アヤがこちらに気づいた。
「あっ……」
青い瞳と、黒い瞳が、空中でぶつかる。
ほんの一瞬、時間が止まったように見えた。
アヤは一瞬だけ驚いたように目を見張り、それから慌てて、たくし上げていた裾をぱたぱたと下ろした。
濡れた素足をタライから引き上げ、地面に脱いであった靴へ足を入れようとして、ぐらりとよろめく。侍女が慌てて駆け寄り、その豊かな身体を支えた。
「ありがとう。大丈夫よ」
アヤは侍女の肩を軽く叩き、そして、まだ泡の残るタライを振り返った。
「石鹸で踏んだあとは、水を替えて、同じように何度も踏んで泡を流すのよ」
手早くそう言い置くと、小走りにジェフリーたちのもとへ向かってきた。
息を整える。
濡れた裾を気にする様子もない。
そして、つい先ほどまで泡の中で子どものように笑っていたのが嘘のように、静かに膝を折った。
「このような姿でお目にかかりますこと、深くお詫び申し上げます。ようこそ王宮へいらっしゃいました、ジェフリー様。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
濡れた足のまま、土の上に立っている。
生成りの簡素な服。まとまりきらない黒髪。
しかし、それらのどれ一つとして、その一礼の気品を損なってはいなかった。
ほんの少し前まで笑い声を上げていた人が、今はまるで何事もなかったように王女としてそこにいる。
その落差が、妙に目に残った。
ジェフリーの唇に、ほんのかすかな笑みが浮かぶ。
「……姫様」
静かに一歩を踏み出した。
「昨夜のあなたを拝見し、どうしてもお尋ねしたいことがありました」
アヤが顔を上げる。
「あなたはどこかで、医術や、それに類するものを学ばれたことがおありなのですか」
アヤの動きが、わずかに止まった。
目を丸くする。
その反応は、ほんの一瞬だった。
求婚でもない。
世辞でもない。
ましてや、体型について何かを言われたわけでもない。尋ねられたのは、自分の知っていることについてだった。
アヤは一度だけ瞬きをして、それから、いつもの穏やかな表情へ戻った。
「いいえ。わたくしは、王宮の外へ出たことすらほとんどございません。わたくしの知っていることなど、城においでの学者の方々の受け売りと、図書館の本を少しばかりかじった程度にすぎませんわ」
その声に、謙遜めいた響きはなかった。本気で、自分の知恵を特別なものだと思っていないのだ。
ジェフリーがさらに何かを尋ねようと口を開きかけた、そのときだった。
「まあ、ジェフリー様ったら。お姉様にそんな難しいことをお尋ねになるなんて」
ミエが二人の間へ入るように一歩進み、ジェフリーの腕を取った。
「よろしければ、サンルームでお茶にいたしましょう? 庭の薔薇で作った特製のジャムが、それは美味しいんですのよ」
それ以上、言葉を交わす隙はなかった。
アヤもそれを察したのだろう。
静かに微笑む。
もう一度ジェフリーへ頭を下げ、侍女の待つタライのほうへ戻っていった。
一度も、振り返らなかった。
その背中が木漏れ日の中へ戻っていくのを、ジェフリーの視線だけが、しばらく追っていた。
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案内されたサンルームには、やわらかな日差しがたっぷりと満ちていた。
大きく開け放たれた窓からは、庭園の薔薇の香りを含んだ風が入り、薄いカーテンをふわりと揺らしている。
白いテーブルクロスの上へ運ばれてきたのは、銀の器に盛られた蜂蜜色のスコーンだった。
豪奢なケーキや、色鮮やかなタルトでも並ぶものと思っていたジェフリーは、少し意外に思いながら、まだ温かいそれを一つ手に取った。
指先で二つに割る。
バターの香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
一口、口へ運ぶ。
ジェフリーはわずかに目を見開いた。
彼の知る王家のスコーンは、長く保存できることを優先するせいか、乾いていて、飲み物なしでは喉につかえるものが多い。
けれど、これは違った。
歯を立てればやわらかくほどけ、生地に練り込まれた蜂蜜の甘さがじわりと広がる。
派手さはない。けれど、もう一口食べたくなる味だった。
ジャムやクリームを添えなくても、これだけで十分に食べられる。
その様子を見ていたマリサが、少し意外そうに眉を上げた。
「そのお菓子、アヤ姉様が好んで作らせるものですの。ずいぶん素朴でしょう?」
ミエも続ける。
「ジェフリー様がいらっしゃると分かっていれば、もっと華やかなものを用意させましたのに。今からでも厨房へ言いつけましょうか?」
「いえ」
ジェフリーは、手の中のスコーンを見つめたまま答えた。
「これで十分です」
飾り気はない。けれど、不思議なほど食べやすい。
――アヤ姉様が好んで作らせるもの。
その言葉が、なぜか頭に残った。
先ほど、泡だらけになって侍女と笑っていた姿がふと浮かぶ。
(こういうものを好むのか)
昨日まで、名前すら知らなかった人だ。それなのに、知っていることが、ひとつ増えた。
ただそれだけのことが、妙に記憶に残った。
「――ほう。ずいぶんと賑やかだな」
背後から、低く威厳のある声が響いた。
サンルームの空気が、わずかに変わる。
振り返ると、豪奢なローブをまとったエステリア国王レグナード・ソヴェールが、従者を連れて入口に立っていた。
ジェフリーと二人の王女は、すぐさま席を立ち、深く頭を下げる。
「よい、よい。そのまま楽にしてくれ」
レグナードは鷹揚に手を振り、ゆっくりと歩み寄ってきた。
柔らかな笑みを浮かべてはいるが、その目は笑っていなかった。
まっすぐにジェフリーを見る。
「ハルセリン卿。今日は、我が娘たちに会いに来てくれたのかな」
ミエとマリサが、期待を含んだ瞳でジェフリーを見つめた。
窓から入った風が、淡い金の髪をわずかに揺らす。
ジェフリーは、ほんの少しだけ間を置いた。
「いいえ。違います」
その一言で、サンルームがしんと静まり返った。
「私は、アヤ様にお知恵を拝借したく、伺いました」
レグナードの表情が、わずかに変わった。
「……なんと。あの子の知恵を? して、何のためにだ」
王の瞳の奥に、細い光が宿る。
先ほどまでの鷹揚な声音とは違っていた。
一国の王として、目の前の異国の騎士を量る声だった。
ジェフリーは、その視線から少しも目を逸らさない。
開け放たれた窓から初夏の風が吹き込み、白いカーテンを大きく膨らませる。
その向こうで、庭の薔薇が揺れた。
一瞬の静寂。
そして黒衣の青年は、澄んだ青い瞳で王を見据え、はっきりとその名を口にした。
「かねてより、万病を治すと噂される――『龍の涙』についてです」




