19. 花と籠と喧騒と
ジェフリー様
先日は、わたくしたち姉妹へ美しい花々と愛らしいお菓子をお贈りくださり、まことにありがとうございました。妹たちもたいそう喜んでおりましたこと、改めてお礼申し上げます。
そのお礼も兼ねまして、以前お約束しておりました龍の涙に関する書物を、お渡ししたく存じます。あわせて、わたくしの知る限りではございますが、龍の涙について記された幾つかの文献もご紹介できればと思っております。
もしご都合がよろしければ、三日後に花祭りへご一緒くださいませんか。当日は妹のマリサが花乙女としてパレードに参加いたしますので、きっと見応えがあることでしょう。エステリアの花祭りをご覧いただく、よい機会にもなるかと思います。
ご予定に差し障りがなければ、ぜひ。
アヤ・ソヴェール
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その手紙をジェフリーが手にしたのは、約束の日を翌日に控えた夕刻だった。
封書に記された日付を確かめ、もう一度、最初から文面へ目を通す。
見間違いではない。手紙は確かに二日前、王宮からホテルへ届けられている。
ただ、この数日というもの、探索隊の準備に追われたジェフリー自身が、まともにホテルへ戻れていなかった。
人数を増やしたことで、宿も物資も改めて手配し直す必要が生じていた。サルヴィアへ送る書簡を整え、追加する騎士の人選を進め、その合間にはヴィクターとの打ち合わせも入る。どうにかホテルへ戻れた夜も、机に書類を広げたまま日付が変わり、気がつけばカウチで朝を迎えていた。
そんな数日を過ごし、ようやく日のあるうちに戻ってきた今日、支配人から預かりものとして差し出されたのが、この一通だった。
――三日後に花祭りへご一緒くださいませんか。
二日前に届いた手紙の、三日後。
つまり、明日である。
ジェフリーはしばらく文面を見つめていた。
もともと花祭りへ誘ったのは、自分だったはずだ。
それなのに、日時を相談する余裕さえないまま、とうとうアヤのほうから手紙を送らせてしまった。そのうえ、二日前に届いていた誘いへの返事すらしていない。
窓の外では、傾いた陽が王都の屋根を淡く染めていた。今から返事をしたためても、王宮へ届ける使いを立てるには遅い時刻である。
かといって、この一言だけを伝えるために夕食時の王宮へ上がるというのも妙な話だった。
――明日は、ぜひご一緒させてください。
それだけ告げて帰る自分を思い浮かべ、ジェフリーはゆっくり息を吐いた。
翌朝、自分で王宮へ赴くしかない。
そう決めれば、今度は机の上に残された書類の山が目に入った。
その夜、ジェフリーはアルベルトを呼び出した。
本来ならセドリックも加えて三人で片づけたかったところだったが、当の本人は、追加する黒騎士たちの選抜と手配のため、すでにサルヴィアへ向かっている。
今ここで使える手は、二人分しかなかった。
「隊長。これ、今日中に全部ですか?」
卓上に積まれた書類を前に、アルベルトの手が止まった。
「そうだ」
「……二人で?」
「そうだ」
アルベルトは書類の山とジェフリーを見比べた。
「明日の朝でも間に合うもの、混ざってません?」
「今日中に終わらせる」
いつになく譲る気配のない返事に、今度は書類よりジェフリー本人のほうが気になったらしい。
「何かあるんですか?」
「ない」
ジェフリーは顔を上げず、一枚の書類へ署名を入れた。
まさか正直に話せるはずもない。
自分からアヤへ花祭りの話を持ちかけておきながら、日取りの相談ひとつできないまま彼女に手紙を送らせ、挙げ句、その返事すら出せていない。
アルベルトに知られれば、しばらく事あるごとに持ち出されるに決まっていた。
「明日、アヤ殿下が花祭りへお出になる」
処理を終えた書類を一枚、アルベルトのほうへ滑らせる。
「護衛について、確認しておきたいことがある。それだけだ」
「へえ……」
妙に長い返事が戻ってきた。
ジェフリーは聞かなかったことにして、次の書類を手に取った。
結局その夜は、アルベルトと二人で夜遅くまで片づけることになった。
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翌朝、王宮を訪れたジェフリーは、いつもの黒騎士の礼装ではなかった。
薄手の白いシャツの上には、黒を基調とした夏向けの上着を重ねている。襟元や胸元には青灰と銀糸の控えめな意匠が入り、濃い色の下衣と黒革の靴まで、華美ではないながらも端正にまとめられていた
肩章も白いマントもないだけで、印象はずいぶん違う。
黒騎士の隊長というより、今日は年相応の若い男に見えた。
もっとも、その服はジェフリー自身のものではない。
急に必要になった外出着を一晩で仕立てられるはずもなく、昨夜、事情を伏せたままアルベルトから借りたのだった。
――俺が着るより、隊長が着たほうが似合いますよ。
服を渡しながら楽しそうに笑っていた顔が浮かび、ジェフリーは何もなかったように視線を前へ戻した。
幸い、二人の体格はそう違わない。肩幅も袖丈も自然に収まり、借り物だと言わなければ気づく者はいないだろう。
王宮へ着くと、アヤ付きの侍女が待っていた。
「殿下はただいまお支度中でございます。恐れ入りますが、こちらで少々お待ちくださいませ」
案内されたのは、華やかな正面とは反対側、王宮東側の、使用人や納入の荷車が日々行き交う中庭だった。
厨房棟に沿って細い屋根付きの回廊が延び、その壁際には長年使われてきた木製の長椅子が並んでいる。
厨房の扉は絶えず開閉し、籠を抱えた者や布を運ぶ者が忙しく行き交っていた。
少し離れた水場からは桶へ水を汲む音が聞こえ、回廊の端では短い休息を取っているらしい使用人が、パンを片手に仲間と話している。
磨かれた床と静かな回廊が続く王宮の表側とは違い、ここには働く人々の声と足音が絶えず満ちていた。
ジェフリーは空いていた長椅子へ腰を下ろした。
しばらくすると、どうにも落ち着かないことに気づく。
厨房から出てきた若い女が、彼の前を通り過ぎながらわずかに歩調を緩めた。水場にいた二人の使用人も、桶を手にしたままこちらを見て何かを囁き合っている。
「あの方、どなたかしら」
「知らないわ。あんな方、王宮にいた?」
「いたら忘れないでしょう」
押し殺した笑い声が続いた。
聞こえている。
ジェフリーは、それに気づかなかったことにした。
人の視線を集めること自体は、今に始まったことではない。サルヴィアにいた頃から、街を歩けば女性に声を掛けられることは珍しくなかったし、十六で黒騎士団へ入り、二十で一隊を預かるようになった頃には、余計な感情を表へ出さず人と接することも身についていた。
ただ、ここでは事情が少し違う。
誰もジェフリーを黒騎士だと知っているわけではない。見慣れない男が一人、普段なら外部の者などほとんど来ない中庭の長椅子に腰掛けている。そのこと自体が、十分に人目を引くらしい。
通り過ぎた女が、また肩越しにこちらを見る。
このまま座っているより、少し場所を移したほうがよさそうだ。
そう思い、腰を上げかけたときだった。
「お待たせしました、ジェフリー様」
聞き慣れた声に振り返り、ジェフリーはそのまま動きを止めた。
そこにいたのは、確かにアヤだった。
淡い色のブラウスに、やわらかな青のスカート。王家を示す宝石も、目を引くような刺繍もなく、長い黒髪にはスカートとよく似た色の細いリボンが結ばれている。
町を歩く娘たちの中へ紛れれば、すぐに第一王女だと気づく者は少ないだろう。
華やかなものを取り払ったことで、かえって隠れずに残ったものがあった。
艶のある黒髪も、白い肌も、穏やかな目元も、いつもよりずっと近いところにあるように感じられる。
ジェフリーはしばらく、何も言わずにアヤを見ていた。
その視線に気づいたのだろう。アヤは自分の服へ目を落としたあと、少し心配そうに首を傾げた。
「……これ、おかしいかしら」
自分でも確かめようとするように身体を右へ、次いで左へと軽くひねる。動きに合わせて、淡い青のスカートが足元でやわらかく揺れた。
「いつもの格好では、すぐに王女だと分かってしまうでしょう?そうなれば護衛だの何だのと仰々しくなってしまいますし……龍の涙のお話も、ゆっくりできませんものね」
本当に服装がおかしいのではないかと気にしているらしい。
ジェフリーには、その心配の理由のほうが分からなかった。
「よく、お似合いです」
「本当ですか?」
「はい。いつもとは違って……」
その先が続かなかった。
親しみやすい、と言えばいいのかもしれない。可愛らしい、でも間違いではない。いつもより近く感じる。それも確かだった。
どれか一つを選んでしまえば、今感じているものの一部分だけを切り取ってしまうような気がする。
胸の内がふっと軽くなるようでいて、同じ場所へ小さく力を加えられているようでもあった。
何なのか、自分でもうまく分からない。
「……とても、よくお似合いです」
結局、先ほどとほとんど同じ言葉を繰り返した。
アヤは一瞬だけ目を丸くし、やがてくすりと笑った。
「ありがとうございます」
今度は彼女の視線が、ジェフリーの襟元から黒い上着へ、それから足元へとゆっくり動いていく。
「ジェフリー様も素敵です。いつもとは、ずいぶん雰囲気が違っていらっしゃいますね」
ジェフリーは少しだけ視線の置き場に困った。
「……お恥ずかしながら、こういう服は着慣れておりません」
自分の服ですらない、とは言わなかった。
アヤは小さく笑い、中庭の向こうへ目をやった。
「龍の涙について、いくつかお話ししたいことがございます」
そこで言葉を切り、もう一度ジェフリーを見る。
「でも、その前に――まずは、花祭りを楽しみましょう」
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王宮を出て大通りへ近づくまで、アヤ付きの侍女が二人の少し後ろを歩いていた。
やがて道の先に花で飾られた街並みが見え、人の声と音楽がひとつのざわめきとなって届き始めると、侍女は足を止めた。
「それでは、私はここで失礼いたします」
一礼した侍女の視線が、ほんの一瞬だけジェフリーへ向く。
その意味を察し、ジェフリーも静かに頭を下げた。
少なくとも今日、アヤのすぐ傍には彼がいる。
侍女はそれを確かめると、来た道を王宮へ戻っていった。
そこから先は、二人だけだった。
花祭りのために飾られたエステリア王都は、いつもの街とはまるで違って見えた。
窓辺にも、店先にも、軒を渡す紐にも花があふれ、赤、白、黄色、青と、通りを進むたびに色が重なってゆく。家々の壁には花冠が掛けられ、大通りの上には枝葉とリボンで作られた飾りが幾重にも渡されていた。
王都そのものが、一つの巨大な花束へ組み上げられたようだった。
祭りは十日にわたって続く。
この時期になると国内からだけでなく、交易圏に属する周辺諸国からも商人や旅人が集まり、普段の市場では見かけない品々が通りの両側を埋め尽くす。
アヤは、その一つ一つに目を奪われていた。
「まあ……ジェフリー様、あれをご覧になって」
指差した先では、商人が白い綿のようなものを棒へ巻きつけている。
「食べられるそうですよ。お砂糖でできているんですって。あんなにふわふわしているのに。まるで魔法だわ」
露店の主人から小さくちぎったものを勧められ、アヤは指先でそっと摘まんだ。口へ入れるとたちまち形がなくなり、驚いたように目を丸くする。
「本当にお砂糖だわ」
楽しそうに笑ったあと、隣へ顔を向けた。
「ジェフリー様も召し上がります?」
「いえ。私は結構です」
「そうですか?」
アヤはそれ以上勧めなかった。
そのあと立ち寄った菓子の露店でも、ジェフリーは品物を眺めこそしたものの、自分から買おうとはしなかった。
アヤは何も言わなかった。
数歩前まで菓子を眺めていたはずなのに、今度は反対側から聞こえた鳥の声に振り返る。
色鮮やかな羽を持つ大きな鳥が、止まり木の上で首を傾げていた。
「こんにちは!」
甲高い声が飛んできた。
アヤの足がぴたりと止まる。
次の瞬間、その目がぱっと明るくなった。
「これ、知っています!」
人波を避けながら露店へ近づき、鳥の前で足を止める。
「アジールにいる鳥でしょう?図鑑で見ましたの。人の言葉を真似ると書いてあって……」
「こんにちは!」
もう一度声を上げた鳥に、アヤは思わず笑った。
「本当だわ。本当に喋るのね」
その顔には、王宮で見せる落ち着いた微笑とは違うものがあった。
知らなかったものを見つけるたびに足を止め、知っていたものが目の前に現れれば、確かめるように近づいていく。数歩進んだと思えばまた何かに気づいて振り返り、そのたびにジェフリーへ笑いかけた
「ジェフリー様、こちらも見てください」
呼ばれるまま、ジェフリーは彼女のあとを追った。
「見れば分かります。ほら、早く」
人混みの間を縫うように先へ行き、またこちらへ振り返る。
淡い青のスカートが、そのたびに軽やかに揺れた。
ジェフリーには、その姿がまるで踊っているように見えた。
気がつけば、自分も笑っていた。
何を見つけたのかと彼女の視線の先を追い、次はどこへ向かうのかと、その背を目で追っている。
これほど人の多い場所も、賑やかな祭りも、本来なら好んで長居する場所ではないが、今日は不思議とそう思わなかった。
アヤがまた振り返る。
「ジェフリー様!」
その声だけで、人々のざわめきの中から彼女の居場所がすぐに分かった。
龍の涙について話すために来たはずだった。
少なくとも、アヤから届いた手紙にはそう書いてあった。
そのことを思い出したのは、二人がどれほど歩いてからだっただろう。
今すぐ思い出さなければならない理由もないように思えた。
やがて、香ばしい匂いが風に混じった。
アヤも気づいたらしく、足を止める。
通りの脇に設けられた小さな露店で、年老いた女が炭火の上に串を並べていた。焼けた肉から落ちた脂が炭へ触れるたび、小さな炎が上がり、香りがいっそう濃くなる。
アヤはしばらく炭火を眺めたあと、露店へ近づいた。
「こちらの串を二ついただけないかしら」
老婆がアヤを一瞥し、炭の上の串を返す。
「塩とタレがあるよ。どっちだい」
「そうね……おすすめはどちらですか?」
「そりゃ塩さ。うちは山鳥だからね。そこらの飼い鳥とは味が違うよ。身は締まってるし、噛めばちゃんと肉の味がする」
「では、塩を二つお願いします」
「はいよ。花籠を出しな。一番いいのを入れてやる」
「……花籠?」
アヤがきょとんとする。
老婆の手が止まった。
「なんだい、あんた。花祭りに来て花籠を持ってないのかい?」
「ええ」
「年頃の娘が花籠もなしに祭りを歩くなんて、寂しいじゃないか。ちょっと待ってな」
老婆は店の奥へ身体を向け、積まれた荷物を探り始めた。
やがて取り出したのは、細い蔓で編まれた小さな手籠だった。縁には淡い色の花がいくつか挿され、細い布紐が結ばれている。
「本当は孫に持って帰るつもりだったんだけどね。まあ、花籠なんてまた買えばいい」
老婆はそれをアヤへ差し出した。
「ほら。あんたにやるよ」
「まあ……ありがとうございます」
アヤは両手で籠を受け取ると、すぐに老婆を見た。
「おいくらでしょう?」
「籠代なんていらないよ。そんな大層なもんじゃない」
「でも、それでは申し訳ありません」
アヤが困ったように手元の籠へ視線を落とす。
老婆は少し考えたあと、炭火の串を返しながら笑った。
「じゃあ、祭りのあいだにもう一度うちへ買いに来ておくれ。それで十分さ」
「もう一度……」
アヤは顔を上げ、そのまま周囲を見渡した。
通りの角にある赤い屋根。
向かい側の石造りの店。
少し先に並ぶ街灯。
軒先を飾る、大きな白い花輪。
一つずつ確かめたあと、満足そうに頷いた。
「はい。覚えました。必ずまた参ります」
老婆はその様子を見て、声を上げて笑った。
「本当に覚えちまったみたいだねえ」
「ええ。約束しましたもの」
アヤも笑った。
やがて老婆が焼けた二本の串へ手を伸ばしかけたところで、アヤが呼び止めた。
「あの……」
「なんだい?」
アヤは手の中の花籠へ一度目を落とした。
「やはり、もう一本いただいてもよろしいですか?」
「三本にするのかい?」
「はい。せっかくですから、三本いただきます」
老婆はアヤをじっと見た。
先ほど、籠の代金を払おうとして断られたばかりである。
何か察したのか、それ以上は尋ねず、口元をほころばせて炭火へもう一本の串を加えた。
「そうかい。じゃあ塩三本で十二レルだ」
アヤは嬉しそうに財布を開いた。
レルは、交易協約に加わる国々で広く使われている共通交易貨幣である。エステリアの花祭りには国外からの客も多いため、こうした露店では自国貨と同じようにレルが行き交っていた。
支払いを終えると、老婆は大きめの蝋引きの薄紙を広げ、その上に焼きたての串を三本並べた。左右の端を内側へ折り込み、さらに上下を重ねるようにしてひと包みにすると、それを花籠へ収めてアヤへ差し出した。
ジェフリーは自然に手を伸ばした。
「お持ちします」
ジェフリーが手を差し出すと、籠を渡しかけた老婆が、すっとそれを引いた。
「おっと。あんたは駄目だよ」
そのまま花籠をアヤの腕へ掛ける。
「これは女が自分で持つものなんだ。……なるほどね。あんた、この国の人じゃないだろ」
ジェフリーが何か言うより早く、老婆は彼の袖をつまみ、自分のほうへ引き寄せた。
老婆の顔が近づく。
「いいかい。花籠ってのは、女が花の恵みを受け取って、それを周りへ分けながら歩くものなんだよ」
ジェフリーは黙って老婆を見る。
「だから男が代わりに持っちゃいけない。ましてや――」
老婆はちらりとアヤへ目をやった。
花籠を腕に掛けた本人は、そんな話をされているとも知らず、通りを行き交う人々と、その頭上を彩る花々を楽しそうに見渡していた。
「年頃の娘が、男の隣でこれを持って歩いてたらね」
老婆の声が、さらに小さくなった。
「その娘の花が、いちばん誰に向いてるように見えるか――そこまで言えば、分かるだろ」
ジェフリーの視線が、老婆からアヤへ移った。
淡い青のスカートに、花籠。
老婆はそれだけ言うと、ジェフリーの腕をぽんと叩いた。
「さあ、行った行った。祭りを楽しんできな!」
そして、今度は何事もなかったようにアヤへ笑いかけた。
「あんたたち二人に、たくさん幸せがありますように!」
豪快な笑い声を残し、老婆はもう次の客へ向き直っていた。
露店を離れたあと、アヤが花籠を腕に掛けたまま、隣のジェフリーを覗き込んだ。
「ずいぶん親しくお話しされていましたけれど」
「ええ、まあ……」
「もしかして、先ほどのお婆様に口説かれてしまいました?」
「いえ。そういうわけではありません」
あまりに真面目な返答がおかしかったのか、アヤが笑う。
「花祭りでは珍しくありませんよ」
ジェフリーが意味を測るようにアヤを見る。
その視線に気づいて、アヤは小さく笑った。
「普段より、皆さん少し積極的になることです」
花籠を腕に掛けたアヤは、行き交う人々を眺めながらゆっくりと歩いていた。誰かの手を取る人、花を贈る人、声を上げて笑う人。その一つ一つを見つめる目はどこまでもやわらかく、口元には、この祭りの幸福そのものを楽しんでいるような笑みが浮かんでいた。
「花祭りは国の繁栄だけを願うものではないんです。家族の幸せも、個人の幸せも、誰かへの慈しみも。花が咲くように、たくさんの幸福と愛が広がるよう願うお祭りですから」
花祭りが、国の繁栄だけでなく、人々の幸福や愛を願う祭りだということは、ジェフリーも聞いていた。
アヤはそのまま、穏やかな声で続けた。
「ですから昔から、想いを寄せている方を花祭りへ誘う人も多いんですよ。祭りが終わったあと、縁談がまとまったなんて話も珍しくありません」
ジェフリーの歩調が、わずかに遅れた。
アヤは気づかず続ける。
「求婚を考えている方が、その前にお誘いすることもあるそうです。もちろん、皆が皆そういう意味ではありませんけれど」
あの日。
王宮でアヤを花祭りへ誘ったとき、彼女は確かに言った。
――花祭りは、大切な人と。
その意味を、今さら理解する。
知らなかったとはいえ、自分は一体どんな顔で彼女を誘っていたのだろう。
胸の内が急に落ち着かなくなった。
もしかすると、アヤは最初から知っていたのではないか。
あの言葉の意味も。自分が彼女を誘ったことも。
それなら――。
隣を歩いていたアヤが、ふとこちらを見た。
ジェフリーの様子がおかしいことに気づいたらしい。
「あ、ご心配なさらないでくださいね」
「……何をでしょう」
「わたくしがお誘いしたのは、そういう意味ではございませんから」
柔らかな声だった。
「ちゃんと龍の涙のお話もいたします。ジェフリー様が、わたくしから妙な意味で誘われたのではと心配なさる必要はありませんよ」
そう言ってアヤは笑った。
ジェフリーは何も返せなかった。
知らなかった風習にあとから追いついただけだというのに、胸の内だけが妙に騒がしかった。
アヤはそんなことには気づかず、花籠へ目を落とした。
「そろそろどこかに座りましょうか?冷めないうちに山鳥をいただきましょう」
そのとき、遠くで鐘が鳴った。
続いて笛の音が高く響き、通りの向こうから歓声が膨らんでくる。
人々が一斉に大通りへ顔を向けた。
アヤも音のしたほうを見る。
「まあ……!」
そして、空の位置を確かめるように顔を上げた。
「マリサのパレードの時間です」
二人も人の流れに沿って大通りへ向かった。
やがて花びらが風に舞い始める。
先頭を歩く少女たちは、色とりどりの花を身につけていた。その後ろには花冠を被った女性たちが続き、音楽に合わせてゆっくりと通りを進んでくる。
そして人々の歓声がひときわ大きくなった。
無数の花で飾られた台車が姿を現した。
赤や白、薄桃色の花が幾重にも積み上げられ、その頂には、一人の少女が立っている。
花乙女、マリサ・ソヴェール。
薔薇をふんだんに使った衣装をまとい、手には花びらの入った籠を抱えていた。
沿道へ向かって微笑み、時折そこから花びらをすくって空へ放つ。
「エステリアに富を!人々に幸福を!」
声とともに舞い上がった花びらへ、人々が一斉に手を伸ばした。
花乙女の花を一枚でも拾えば、その年は幸運に恵まれる。
そんな言い伝えがある。
大通りのあちこちで笑い声が上がり、子どもたちは落ちてくる花びらを追って駆け回っている。
そして、届くかどうかも分からないのに、アヤが人波の向こうへ手を振った。
ジェフリーは、その横顔を見る。
先ほどまで珍しい露店に目を輝かせていた顔とは、また少し違う。
妹を見る姉の顔だった。
そのときだった。
「花だ!」「取って!」
何人かの子どもが、空から落ちてくる花びらを追いながら人波の間を駆け抜けてきた。
一人がアヤの身体へぶつかる。
「あ――」
不意を突かれたアヤの身体が傾いた。
ジェフリーは考えるより先に腕を伸ばしていた。
腰のあたりへ腕を回し、そのまま自分のほうへ引き寄せる。
子どもたちは二人のすぐ脇をすり抜け、花びらを追って遠ざかっていった。
ほんの短い間だった。
周囲の人々も、すぐにまたパレードへ目を戻す。
ジェフリーの視線は、腕の中のアヤではなく周囲へ向いていた。
こちらへ押し寄せてくる人はいないか、人波に不自然な動きはないか。大通りの左右へ素早く目を走らせ、ほかに危険がないことを確かめていく。
そのあいだ、アヤはすぐ目の前にあるジェフリーの顔を見上げていた。
淡い金髪も、青い瞳も、驚くほど近い。
そこでようやく、自分が彼の腕の中にいることを意識した。
ほんの一瞬、アヤは動くことを忘れた。
やがて人の流れが落ち着いたのを確かめ、ジェフリーはそっと腕を離す。
「お怪我はありませんか?」
その声で、アヤはようやく我に返った。
「……ええ」
一度息を吸い、いつものように微笑む。
「ありがとうございます。怪我なんてありません」
そう答えると、すぐに視線を通りの先へ移した。
「あの……今度こそ、どこかに座りませんか?」
花籠を少し持ち上げる。
「せっかくですもの。温かいうちにいただきましょう」
辺りを見回し、空いている長椅子を探し始める。
先ほどと変わらない声で、何事もなかったように。
胸の奥では、さっきから心臓が大きく音を立てていた。
それをジェフリーに悟られないようにするには、座る場所を探すことへ意識を向けるのが、一番よいように思えた。




