18. 守るべきもの
評議会の終わりとともに、重い扉が開いた。
長く張りつめていた空気から逃れるように、席を立った者たちが次々と回廊へ出てくる。
その中を、大蔵卿エドモンド・ヴァルケインが大股で歩いていた。
隣には、軍務卿ローレンス・エヴァレットがいる。
「まったく、気に入らん」
エドモンドの靴音が、磨かれた床を強く打つ。
「あそこまで及び腰では、サルヴィアの青二才になめられるのも当然だ。エステリアきっての近衛を抱えておきながら、龍の涙の探索をあちらに任せきりにするつもりか」
ローレンスはすぐには答えなかった。
そもそも近衛から二十名を出すという話を、軍務を預かる自分への相談もなしに持ち出したのは、他ならぬこの男である。
そこにも一言くらい言ってやりたいところだったが、今はそれより気にかかることがあった。
「ヴァルケイン卿」
歩調を速め、半歩先を行くエドモンドに並ぶ。
「サルヴィアは、黒騎士を十名も出すのですぞ」
「それなら先ほど聞いた」
「ええ。ですから気になるのです」
ローレンスの言葉に、エドモンドがわずかに横目を向けた。
「伝説でしかないものを探すために、黒騎士を十名も国外へ出す。サルヴィアは、龍の涙が存在すると本気で考えているのでしょう」
エドモンドの足が止まった。
「だからこそだ」
振り返った顔には、まだ苛立ちが残っている。
「向こうがそこまで本気なら、なおさら指をくわえて見ているわけにはいかん。伝説が真実ならば、龍の涙の力とてただのおとぎ話ではあるまい」
声を落とし、エドモンドは続けた。
「アヤ殿下が同行されるとはいえ、見つけたものをサルヴィアが素直に差し出す保証などどこにもない。龍の涙が我が国にもたらすものが、どれほど大きいか――卿にも分かる話であろう」
ローレンスも足を止めた。
「龍の涙が本当にあるのなら、ドラゴンの存在もただのおとぎ話ではないかもしれません」
今度はエドモンドが黙った。
「何が待っているかも分からぬ探索に、近衛を二十名も出す。その判断を、私はそう簡単にはできません」
「サルヴィアにはできて、エステリアにはできぬと?」
「そういう話ではありません」
「では、どういう話だ」
「近衛は宝探しのためにいるのではないという話です」
ローレンスの声は穏やかだったが、今度は引かなかった。
「彼らが守るのはエステリアです。探索へ近衛を割いている間、この国に何も起こらぬ保証はありません」
エドモンドの眉間に深い皺が刻まれる。
「エヴァレット卿は少々、金の動きを軽く見すぎておられる」
「ヴァルケイン卿こそ、金の動きばかりをご覧になっている」
ぴたりと、二人の視線が合った。
「守りは、必要になってから揃えて間に合うものではありません。万一に備えて残しておくべき戦力を、宝探しのために減らしたくはないのです」
エドモンドはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく鼻から息を吐く。
「金がなければ、その肝心の守りとやらも維持できん」
低い声だった。
そして、ローレンスを一瞥した。
「兵を養うにも、武具を揃えるにも、城壁ひとつ直すにも金は要る。守るばかりで国が強くなるなら、誰も苦労はせん。卿は、もう少し頭の切れる男だと思っていたのだがな」
言い返す間もなく、エドモンドは背を向けた。
大きな靴音が回廊の向こうへ遠ざかり、やがて角の先へ消えていく。
ローレンスはその背中を見送ったまま、しばらく動かなかった。
やがて、胸に溜まっていたものを吐き出すように長く息をつく。
そのときだった。
「エヴァレット卿」
ローレンスの肩がわずかに動いた。
振り返ると、少し離れたところにアヤが立っている。
「アヤ殿下」
慌てて姿勢を正し、一礼した。
ローレンスには、アヤがいつからそこにいたのか分からなかった。
「先ほどの評議会、お疲れ様でした」
「お心遣い、感謝いたします」
アヤは柔らかく微笑んだ。
「それにしても、ヴァルケイン卿との折り合いは、なかなか大変そうですね」
ローレンスの返事が、一拍遅れた。
「……ええ、まあ」
アヤの表情はいつもと変わらない。
「エヴァレット卿のご苦労が、少し分かったような気がいたします」
「……軍務と財務は、切っても切り離せぬものですから」
ようやくそう返すと、アヤは小さく頷いた。
そして、今度は少し声を落とした。
「実は、エヴァレット卿に折り入ってご相談したいことがあるのです」
「私に、ですか?」
ローレンスは目を瞬いた。
「はい」
アヤは回廊の先へ視線を向けた。
「少し、あちらでお話しできますか?」
********
王宮の正面扉を抜けると、白い石畳の上に明るい陽射しが広がっていた。
大階段を下りた先には、噴水を囲む広い前庭が続いている。
色鮮やかな花壇の向こうには正門が見え、その脇には馬車が何台か停まっていた。
ジェフリーは階段を下りきったところで足を止め、ヴィクターから差し出された数枚の紙に目を通していた。
食料、天幕、寝具、薬品、馬の飼料……旅に必要と思われる品が項目ごとに書き出され、その横には数量まで細かく記されている。
傍らでは、アルベルトとセドリックもその様子を見守っていた。
「セドリック」
紙面から目を上げないまま、ジェフリーが呼ぶ。
「残り七名の手配は?」
「これからです」
「なら、その七名にあと五名加えろ」
「五名?」
セドリックが聞き返した。
隣にいたアルベルトも、思わずジェフリーを見る。
だが、ジェフリーは二人の反応には触れず、手にしていた紙を一枚めくった。
「ヴィクター殿。これは、当初予定していた十名分ですね」
「ええ。そのつもりで見積もっております」
「五名増えます。それと、アヤ殿下の分もお願いします」
ヴィクターが一度、ジェフリーの顔を見た。
「もちろん手配はできますが……殿下のお荷物となれば、騎士方と同じ勘定にはできませんな」
「旅に必要なものは、我々と同じもので構いません」
ジェフリーは紙面に視線を戻した。
「ただ、女性にしか必要のないものまでは、私には分かりません。そこは殿下の侍女に直接確認してください。必要なものがあれば、すべて運べるよう荷には余裕を持たせておいていただきたい」
「承知しました」
ヴィクターは頷くと、手元の紙に何かを書き加える。
「では、人数が増えるぶん、こちらへ来られる騎士方の宿も取り直しましょう。今の宿では少々窮屈になりますので」
「お願いします」
「それでは、私は早速手配にかかります」
ヴィクターは紙をまとめると三人へ軽く頭を下げ、正門の方へ歩き出した。
その背中が馬車寄せへ近づいていくのを見送ってから、ジェフリーは手に残った紙を折り畳んだ。
「セドリック。これから選ぶ十二名のうち、一人はマティアスを入れろ」
今度こそ、アルベルトがはっきりと顔を上げた。
「副隊長を?」
「そうだ。残りは実戦経験を優先して選べ」
セドリックが小さく頷く。
その横で、アルベルトは少し考えるように顎へ手をやった。
「ですが、副隊長までこちらへ寄越すとなると……我々三人を含めて十五名です。サルヴィアに残る連中は、誰が見るんです?黒騎士団長ですか?」
ジェフリーの視線が一度、前庭の噴水へ向いた。
水飛沫が陽を受けて、細かな光を散らしている。
「コンラートの隊へ一時的に合流させる」
「コンラート隊長のところへ?」
「団長には俺から手紙を出す」
アルベルトとセドリックが顔を見合わせた。
「……素直に引き受けてくれますかね」
アルベルトの言葉に、ジェフリーはわずかに眉を上げた。
「俺が戻るまでだ。それで十分だろう」
「理屈では、そうですけど」
なおも歯切れの悪い二人を見て、ジェフリーは小さく息を吐いた。
「駄々をこねるようなら、残った十五名を預かる間だけ手当を上乗せできないか、財務大臣に掛け合うと伝えろ」
アルベルトの表情が少しだけ明るくなる。
「それなら――」
「それでも渋るなら」
ジェフリーが続けた。
「エルヴェラ館で以前から会いたがっていた女に、俺から口を利いてやる」
一瞬、沈黙が落ちた。
「上等の蒸留酒も一本付けるとな。あとは頼む」
アルベルトが、何とも言えない顔でセドリックを見た。
セドリックもまた、珍しく返す言葉を失っている。
ジェフリーはそれだけ言うと、二人に背を向けた。
そのまま歩き出そうとした背中へ、セドリックの声が飛ぶ。
「隊長」
ジェフリーは振り返らず足を止めた。
「何だ」
「五名増やすのは……ドラゴンのことを考えて、ですよね」
「そうだ」
「では、マティアス副隊長まで呼ぶのは?」
その問いに、ジェフリーの動きが止まった。
セドリックは少し迷ってから続けた。
「アヤ殿下が同行されるからですか。王族の護衛を厚くするために?」
しばらく、返事はなかった。
やがてジェフリーが半身だけ振り返る。
「違う。マティアスを呼ぶのは、そのためじゃない」
ジェフリーの声は、いつもと変わらず静かだった。
アルベルトとセドリックの視線が、揃ってジェフリーへ向く。
ジェフリーは二人を見た。
「俺が使い物にならなくなった場合に備えるためだ。そうなれば、サルヴィアへ戻るまでの指揮はマティアスに引き継がせる」
風が前庭を抜けた。
噴水の水音が、妙にはっきりと耳に届いた。
アルベルトの口がわずかに開く。
セドリックは何も言わなかった。
ジェフリーも、それ以上説明することはなかった。
「選抜は任せた」
そう告げると、今度こそ二人から離れていく。
その背中を、アルベルトとセドリックはしばらく黙って見送っていた。
やがて、アルベルトがぽつりと口を開く。
「……エルヴェラ館って、サルヴィア王都でもかなり高い店だぞ」
「知っている」
「しかも蒸留酒まで付けるって」
セドリックが小さく息を吐いた。
「コンラート隊長に恩を売れて、あの女が隊長に言い寄ることも減る。一石二鳥ってわけか」
「……あの人、たまに妙なところで抜け目がないな」
それきり、また二人は黙った。
遠ざかっていくジェフリーの背中は、もう前庭の向こうへ差しかかっていた。
********
王宮二階の小休憩室から続くバルコニーを、初夏の風がゆるやかに通り抜けていた。
白い石の欄干の向こうには、陽を受けた庭園が広がっている。
噴水から上がる水飛沫がきらきらと光り、そのさらに向こうでは、色とりどりの花が風に揺れていた。
アヤは欄干に両腕を置き、そこへ少しだけ身体を預けていた。
頬を撫でていく風が心地よい。
評議会のあいだ張りつめていたものが、ようやくほどけていくような気がして、アヤはそっと目を細めた。
少し強い風が吹いた。
背に流していた黒髪がふわりと持ち上がり、肩を離れて風の中へ広がる。
陽の光を受けた髪は、そのたびに艶やかな光を返しながら、ゆるやかに揺れた。
アヤは乱れた髪を直そうともせず、そのまま風に任せていた。
ここなら、誰の顔色を窺う必要もない。
ほんのわずかな時間だけ、王女であることを脇へ置いていられる。
静かに息を吐いたところで、先ほどのローレンスの言葉が浮かんだ。
――急ぎ、三日でご用意いたします。
確かに、そう答えていた。
「一週間もかからなくてよかったわ……」
アヤは小さく呟き、目を閉じた。
もう少しだけ、この風に当たっていたいとそう思った矢先、休憩室の扉を叩く音がした。
どうやら今日は、そう長く休ませてもらえないらしい。
「どうぞ」
ほどなくして扉が開く。
侍女が姿を見せ、そのまま脇へ退いた。
「ジェフリー様がお見えです」
アヤが顔を上げる。
侍女の向こうから現れたのは、黒を基調としたサルヴィア騎士の礼装に身を包んだジェフリーだった。
「どうぞ、お入りになって。今の時間は、ここからの風がとても気持ちよいですよ」
アヤが微笑む。
扉が大きく開いたことで、初夏の風が室内まで一気に駆け抜けた。
薄いカーテンがふわりと膨らみ、ジェフリーの淡い金髪もわずかに揺れる。
侍女は一礼すると、静かに扉を閉めた。
ジェフリーはアヤの傍まで来ると、促されるままバルコニーへ出た。
白い薔薇をはじめ、名も知らぬ花々が庭園を彩っている。
遠くでは噴水の水が陽光を弾き、その向こうに王宮の屋根が幾重にも重なっていた。
「……確かに、よい風ですね」
アヤが笑った。
また風が吹く。
その横顔を縁取っていた黒髪がふわりと浮かび、陽を受けながら背後へ流れていった。
ジェフリーは、しばらくその姿を見ていた。
この瞬間を、そのまま切り取って残しておけたなら。
そんな考えが浮かんだことに気づき、ジェフリーはわずかに視線を逸らした。
「王女殿下」
呼びかけると、アヤが小さく目を瞬く。
それから、ふふっと笑った。
「いつも通り、名前で呼んでください。ここは畏まった場所ではありませんから」
「……失礼しました」
つい先ほどまで評議会にいたせいだろうか。ジェフリーは少しだけ目を伏せた。
「その黒い礼装をお召しになると、ジェフリー様までいつもより堅苦しくなられるのですね」
からかうような声音だった。
けれど、その笑みを残したままアヤの目は一度だけ庭園へ戻った。
ジェフリーは少し間を置いた。
「アヤ様」
先ほどよりも、幾分柔らかな呼び方だった。
「探索隊に同行していただくにあたり、どうしてもお伝えしておかなければならないことがあります」
アヤは答えず、ジェフリーへ視線を戻した。
「評議会でも申し上げましたが、今回の探索に余裕はありません」
風に揺れていたアヤの黒髪が、肩へ戻る。
「ですから、旅のあいだ、アヤ様を王族としてお連れすることはできません。探索隊に加わっていただく以上、一人の隊員として行動していただきます」
アヤは静かに聞いていた。
「もちろん、敬意は払います。ただ、それは王族だからではありません」
ジェフリーは言葉を選ぶように、ほんのわずか間を置いた。
「共に旅をする一人として、人としての敬意です」
アヤの目元が、かすかに和らいだ。
「王宮と同じ礼を、隊の者たちに求めるつもりもありません。厳しい旅になれば、耳にしたくない言葉を聞くこともあるでしょう。私も、アヤ様だけを特別扱いすることはできません」
「はい」
初めて、アヤが答えた。
「ですが、誰であろうと、人として傷つけるような振る舞いを許すつもりもありません。そこは隊を預かる者として、私が責任を持ちます」
アヤの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
厳しい話をしているはずなのに。
傷つくかもしれないと告げながら、その端から、どうすれば傷つけずに済むかを考えている。
「わたくしから探索隊に同行すると申し上げたのです。ジェフリー様のおっしゃることは、もとより承知しております」
ジェフリーの表情が、わずかに緩んだ。
アヤはその顔を見ながら思った。
この人は、本当に不器用なのだ。
真面目で、正直で。
厳しくしようとしているのに、最後には必ず優しさが顔を出す。
ふと、ジェフリーがアヤから目を逸らした。
先ほどとは違う種類のためらいが、その横顔に浮かんでいる。
「もう一つ、ございます」
「はい」
「黒騎士団の規律に従い、探索隊に参加する者については出立前にサルヴィアへ正式に報告します。アヤ様のお名前も、私から送る手紙に記します」
アヤの笑みが少し薄れた。
「その手紙を出せば、簡単には後戻りできません」
ジェフリーはアヤを見た。
「もし少しでも迷いがおありでしたら、今ならまだ引き返せます」
その言葉の奥にあるものを、アヤはしばらく黙って見つめた。
そして、ふいに首を傾げる。
「ジェフリー様は、もしかしてわたくしがお嫌いですか?」
「い、いえ。そんなことは――!」
あまりにも早い否定に、アヤの口元がほころんだ。
「それはよかった」
ジェフリーは、わずかに戸惑ったようにアヤを見た。
「何かと、わたくしを連れて行きたくないようなお話ばかりなさるものですから。もしかして、と思って」
「違います。決してそのようなことは」
今度は、先ほどより幾分落ち着いた声だった。
真剣に否定するジェフリーを見ているうちに、アヤはとうとう堪えきれず笑った。
「分かりました。ごめんなさい、少し意地悪を申しました」
ジェフリーは何かを言いかけ、結局それを飲み込んだ。
嫌いなどという言葉から、これほど遠い相手もいない。
けれど、それをそのまま口にすることはできなかった。
初夏の風が、二人のあいだを抜けていく。
やがてジェフリーは静かに息を整えた。
その表情が変わったことに気づき、アヤの笑いも自然と消えた。
「私は、サルヴィアに仕える騎士です」
まっすぐな青い瞳が、アヤを見ていた。
「騎士である以上、我が国以外へ忠誠を捧げることはできません」
アヤは黙って、その言葉を受け止めた。
ジェフリーは、ひと呼吸置いた。
「ですが、今だけ――ジェフリー・ハルセリン個人の言葉として、ひとつだけお聞きいただけますか」
先ほどまでとは違う緊張が、アヤの胸の奥に落ちた。
それでも目を逸らさず、ゆっくりと頷く。
すると、ジェフリーはアヤの前で片膝をついた。
その手が、アヤの手にそっと触れる。
大きな手だった。
けれど、力はほとんど込められていない。
ジェフリーはアヤの手を取り、静かに頭を垂れた。
「龍の涙を手にし、アヤ様を無事にこの王宮へお返しするまで。あるいは、この命が尽きるその時まで――」
青い瞳が上がる。
「あなたの命を守ることを誓います」
アヤの指先が、わずかに強張った。
次の瞬間、ジェフリーはその手をそっと持ち上げた。
淡い金髪が風に揺れる。
そして、その唇がアヤの手の甲へ静かに触れた。
ほんの一瞬だった。
それでもアヤは、すぐには手を引かなかった。
ジェフリーが顔を上げる。
二人の視線が重なった。
アヤは小さく息を吸った。
「……そのお誓い、確かに受け取りました」
初夏の風が、再びバルコニーを吹き抜けた。
どこから運ばれてきたのか、一枚の花びらが二人のあいだを舞い、白い石床へ静かに降りた。




