17. 評議会での騒動
王宮の評議室には、普段とは異なる緊張が漂っていた。
長い卓を囲むように、エステリア国王レグナードをはじめ、第一王女アヤ、そして国政を担う諸卿たちが席についている。
その向かいには、サルヴィア王国よりジェフリー、アルベルト、セドリック。そしてレノックス商会のヴィクターが並んでいた。
それぞれの前には、淡い青色の陶器で作られたゴブレットが置かれている。
給仕たちが静かに室内を巡り、一人一人の器へ茶を注いでいく。
湯気とともに立ちのぼったのは、ほのかな花の香りだった。
ただし、レグナードとアヤの前にだけは、陶器ではなく銀製のゴブレットが据えられている。
(………さすがは王族。使う器からして違うというわけか)
アルベルトはそう思いながら、自分の前に置かれた淡い青の器へ目を落とした。
すべての杯に茶が満たされると、卓上には二人につき一つ、茶を継ぎ足すための小ぶりのポットが置かれていった。
レグナードとアヤの前にだけは、それぞれ一つずつ用意される。
最後の給仕が音もなく扉の外へ下がると、評議室には卓を囲む者たちだけが残された。
それまで座っていた全員が、一斉に立ち上がる。
レグナードはゆっくりと一同を見渡した。
「これより、龍の涙の探索について評議を始める」
短い言葉だった。その声を合図に、全員が再び席につく。
アルベルトはさっそく目の前の茶へ手を伸ばした。
ひと口含む。
柔らかな花の香りが、かすかに鼻へ抜けた。
思わず表情がゆるむ。
サルヴィアの騎士隊会議で出される茶とは、まるで違う。
あちらの茶ときたら、ひと口飲むたびに舌の奥へ渋みが残り、気を抜けば眉間に皺が寄る代物である。
これはいい。
そんなことを考えているうちに、大法官オズワルド・ベルクールが手元の書類へ目を落とした。
「では、始めましょう」
落ち着いた声が評議室に響く。
「まず、本日の評議にご出席いただいた方々をご紹介いたします。エステリア国王、レグナード・ソヴェール陛下。第一王女、アヤ・ソヴェール殿下。そして我が国の諸卿より、大法官オズワルド・ベルクール、大蔵卿エドモンド・ヴァルケイン、軍務卿ローレンス・エヴァレット――」
淡々と名前が読み上げられていく。
その声を聞きながら、アルベルトはふと隣を見た。
セドリックの杯が、もう空になっている。
しかも本人は何食わぬ顔でポットを手に取り、二杯目を注ごうとしていた。
――もう飲んだのか?
アルベルトが無言で視線を送る。
セドリックも目だけを動かした。
――何か問題でも?
そんな顔だった。
「――続きまして、サルヴィア側をご紹介いたします。サルヴィア王国騎士隊長、ジェフリー・ハルセリン卿。ならびに、その麾下の騎士、アルベルト・ヴァレン殿、セドリック・ノール殿」
不意に自分たちの名を呼ばれ、アルベルトとセドリックは同時に顔を上げた。
周囲の視線が集まっている。
二人は揃って軽く会釈した。
セドリックはそのあと、ほんの少しだけ気まずそうに、握っていたポットをそっと卓へ戻した。
「そして、レノックス商会より、ヴィクター・レノックス殿。以上となります」
ヴィクターも静かに頭を下げる。
一通りの紹介を終えると、オズワルドは手元の紙束を整えた。
読み終えた一枚を指先で下へ滑らせ、次の紙をその上へ重ねる。紙の擦れるかすかな音が、静かな室内に響いた。
「本日ご評議いただくのは、探索の実施、失われた地図の捜索、探索隊の編成、ならびに国宝である鉱石書の取り扱いについて。以上、四点にございます」
そこでわずかに間を置き、最初の項目へ目を移した。
「まず、探索の実施について。すでに国王陛下より、サルヴィア王国騎士団に対し龍の涙を探索する許可は下りております。しかし、龍の涙へ辿り着くためには、先に手掛かりとなる地図を見つける必要があるとのこと」
オズワルドはジェフリーへ視線を向けた。
「したがって、このたびの探索には龍の涙そのものだけではなく、失われた地図の捜索も含めるものといたします。ハルセリン卿、何か異論はございますか」
失われた地図。
その言葉に、ジェフリーの胸の奥がわずかに強張った。
脳裏をよぎったのは、サルヴィアで目にした、あの古い巻物だった。
ほとんど何も記されていなかった羊皮紙。その素性を、エステリア側はまだ知らない。
ここで口にすれば、ただ巻物の存在を明かすだけでは済まない。なぜそれがサルヴィアにあるのか、どのような経緯で手に入れたのか――すべてを説明する必要がある。
ジェフリーは、ごく短く息をついた。
「ありません」
そう答えた声は、いつもと変わらず静かだった。
その横で、アルベルトはわずかに目を見開いた。
――地図?
そんな話、今ここで初めて聞いたぞ。
とはいえ、仕事が途中から増えることなど珍しくもない。今さら驚くほどでもないか、と花の茶をもうひと口飲む。
オズワルドがレグナードを見る。
レグナードは無言のまま、一度だけ頷いた。
「それでは次に、探索隊の編成について」
オズワルドは一枚紙を送り、縦長の書類へ目を走らせる。
「このたびの探索隊は、サルヴィア王国騎士団のみで構成するとのことですが、ハルセリン卿。現時点での案をお聞かせいただけますか」
「準備が整い次第、ここにいる三名を含めた精鋭十名で出発します」
ジェフリーは迷いなく答えた。
「準備には一週間ほどいただければ。物資については、レノックス商会に協力を願う予定です」
自らの商会の名が挙がると、ヴィクターは静かに一礼した。
「探索に必要となるものは、食料や薬、武具、使用する馬に至るまで、不足のないよう、わたくしヴィクター・レノックスが責任をもってご用意いたします」
「では、異論がなければ――」
オズワルドが次の議題へ移ろうとした、そのときだった。
「ひとつよろしいですか」
大蔵卿エドモンド・ヴァルケインが手を挙げた。
全員の視線がそちらへ集まる。
「大蔵卿、何かご意見がおありですか」
オズワルドに促され、エドモンドはひとつ咳払いをした。
そして卓を囲む者たちを見渡す。
「探索が我が国の領内で行われるのであれば、サルヴィアのみに任せるのではなく、エステリアからも人員を加えるべきではないでしょうか」
(………ほら、始まった)
ヴィクターは胸の内で静かに息をついた。
龍の涙がもたらすものを考えれば、エステリアがその管理権をサルヴィアだけに委ねるはずがない。まして、自国の領内で探索が行われるとなればなおさらだ。
それくらいのことは、最初から織り込み済みだった。
「これについて、いかがですか。ハルセリン卿」
オズワルドがジェフリーへ尋ねる。
だが、その口が開くより早く、ヴィクターが手を挙げた。
「恐れ入ります。ハルセリン卿のご意見を伺う前に、物資調達を担う者として、大蔵卿へひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
エドモンドがオズワルドを見る。
オズワルドは小さく頷いた。
「ヴィクター殿。続けてください」
「ありがとうございます」
ヴィクターは穏やかな笑みを浮かべた。
「大蔵卿は、このたびの探索に、エステリアより何名ほどをご用意されるおつもりでしょうか」
エドモンドは、なんだそんなことか、とでも言いたげな顔をした。
「我が国からは、精鋭による探索隊を二十名ほど加えるべきだと考えます」
――よし、食いついた。
ヴィクターは笑みを崩さない。
「それは心強い。サルヴィアの倍もの人員を出していただけるのであれば、こちらとしても大変ありがたい」
ジェフリーが横目でヴィクターを見る。
「では、両国合わせて三十名分の物資を、すべてレノックス商会にてご用意いたしましょう」
そこでヴィクターは、さも真剣に計算するように少しだけ考え込んだ。
「そうですな……準備には、六週間ほどいただければ」
一瞬、誰も声を発しなかった。
六週間?
そんな空気が、そのまま卓上を流れていく。
ジェフリーもさすがにヴィクターを見る。
――どういうつもりだ。
「それは……」
オズワルドが困惑したように口を開く。
「いささか、準備に時間をかけすぎではありませんか」
おそらく、この場にいる誰もが同じ疑問を抱いていた。
ヴィクターは悠然と頷いた。
「確かに長うございます。しかし、今回は龍の涙のみならず、失われた地図まで探す長期探索となりましょう。大部分は野営となります。食料や水だけでなく、薬、武器、替えの衣服、馬の飼料――どれひとつとして省くわけには参りません」
もっともらしい。
評議室に、なんとも言いようのない沈黙が落ちた。
やがてエドモンドが口を開く。
「ヴィクター殿のお心遣い、ありがたく思います」
ヴィクターは微笑んだ。
「ですが、エステリア側の二十名については、我々で物資を用意しましょう」
――やはり来たか。
「軍務卿。異存はありませんな?」
突然話を振られ、ローレンスの肩がわずかに跳ねた。
「え、ええ。もちろんです」
「では、レノックス商会には予定どおり、サルヴィア側の十名分を一週間でご準備いただければ結構です」
エドモンドは満足そうだった。
ヴィクターは表情を変えないまま、胸の内でため息をつく。
(………駄目だったか)
準備期間を延ばせばエステリア側が退くかと思ったが、そう簡単に問屋は卸してくれないらしい。
すると今度は、ジェフリーが口を開いた。
「こちらからも、軍務卿へお伺いしてよろしいでしょうか」
また自分か。
ローレンスは、そんな顔でエドモンドを見た。
言い出した張本人は、我関せずとばかりに手元の書類へ視線を落としている。
仕方なく、ローレンスはジェフリーへ向き直った。
「では、ハルセリン卿。どうぞ」
「先ほどおっしゃった精鋭部隊というのは、エステリア王国騎士団の者たちで相違ありませんか」
「無論です。近衛騎士を想定しております」
「なるほど」
ジェフリーは一度だけ頷いた。
「では、その近衛騎士団が最後に実戦へ投入されたのは、いつでしょうか」
ローレンスの口が止まった。
すぐには答えが出てこない。
豊かな南の国エステリアは、長く平和を享受している。
演習こそ欠かさぬが、命を奪い合う戦場へ兵を送ったのは遥か以前の話だった。
沈黙を見かねて、オズワルドが口を挟んだ。
「諸外国との均衡は、長く平和に保たれております。したがって、我が国が戦場へ兵を送る必要はここ何十年とございませんでした」
そこで一度言葉を区切る。
「ですが、近衛騎士は日々研鑽を重ねております。明日より始まる我が国最大の祭典においても、彼らが警備を担うからこそ、毎年大きな事故もなく、滞りなく祭りを催すことができている。この名誉ある役目を任されるのは、選び抜かれた近衛騎士のみです」
ローレンスも、まさにその通りだとばかりに何度も頷いた。
ジェフリーは黙って聞いていた。
名誉の話をしているのではない。問うているのは、死地で何ができるかだ。
剣を扱えることと、人が死ぬ場所で正しい判断ができることは同じではない。
限られた人数の中で、判断を迫られる。
ジェフリーは静かに息を吐いた。
「どうやら、サルヴィアとエステリアでは、精鋭という言葉の意味にいささか食い違いがあるようです」
「何が言いたい!」
真っ先に反応したのはエドモンドだった。
「まあまあ、大蔵卿」
オズワルドがすかさず制する。そしてジェフリーへ向き直った。
「ハルセリン卿。何か懸念がおありならば、率直にお聞かせ願えますか」
ジェフリーは一度、視線を落とした。
わずかな沈黙のあと、再び顔を上げる。
「今回連れていく十名は、全員、サルヴィアの黒騎士です」
ローレンスの顔から、わずかに血の気が引いた。
「……十名、全員ですか」
「はい」
それだけで、軍務を預かるローレンスには十分だったらしい。
先ほどまでとは明らかに違う緊張が、その表情に浮かんでいる。
ジェフリーは続けた。
「我々黒騎士は、少人数で任務を完遂することを前提に選ばれています。通常なら三人を要する役目を、一人で担えることも求められる」
自慢する様子はなかった。
ただ、事実を述べているだけだった。
「ですが、その我々であっても、今回の龍の涙の探索が容易だとは考えておりません」
青い瞳が、まっすぐローレンスへ向けられる。
「未知の危険がある場所で、互いの判断も動き方も知らぬ二十名を加えれば、我々は彼らの安全まで考慮しながら進まねばならない」
静かな声だった。
だからこそ、言葉が重く落ちた。
「申し訳ありませんが、その余裕があるとはお約束できません。今回の探索は、サルヴィアの黒騎士のみで構成することを、今一度お考えいただけますでしょうか」
エドモンドは奥歯を噛んだ。
黒騎士が何たるかなど、わざわざ他国の騎士隊長に講釈を垂れられずとも知っている。
だが、それだけに言い返しづらい。
ローレンスに至っては、すっかり肩を小さくしていた。
――コト。
静寂の中で、小さな音がした。
皆の視線が一瞬だけ動く。
三杯目の茶を注ぎ終えたセドリックが、何事もなかったかのようにポットを卓へ戻した音だった。
誰も何も言わないその静けさの中で、アヤだけが別のことを考えていた。
ジェフリーの主張には筋が通っている。
エステリアの近衛騎士に技量がないという話ではない。
だが、実戦経験という点では、サルヴィアの騎士たちと大きな差があるのだろう。
互いの動きを知らぬ者を二十名も加えたまま、未知の場所へ踏み込むことへの懸念も理解できる。
アヤは、青の部屋でジェフリーが告げた言葉を思い出していた。
『あなたやエステリア王国に危害が及ぶようなことには、決してさせません』
護衛する余裕がない、それも本当なのだろう。
だが、彼の本音はそれだけではない。
ジェフリーは最初から、エステリアの人間を危険な場所へ連れて行くつもりがないのだ。
「では、探索隊については――」
オズワルドが話をまとめようとした、そのとき。
「わたくしからも、ハルセリン卿にお伺いしたいことがあります」
それまで黙っていたアヤの声が、評議室を止めた。
オズワルドが少し驚いたように顔を上げる。
「どうぞ、第一王女殿下」
「龍の涙の探索に、エステリアから人を出すべきだという大蔵卿のご意見に、わたくしは賛成です」
エドモンドの顔がぱっと明るくなった。
さすがアヤ王女殿下。
卓の下で、小さく拳を握りしめる。
一方、ジェフリーはゆっくりとアヤへ顔を向けた。
そこに、いつもの柔らかな色はなかった。
相手が何を出してくるのか。正面から受けて立つ者の目だった。
「恐れながら、そのお考えをお聞かせいただけますでしょうか」
アヤは、その視線をまっすぐ受け止めた。
こちらが何を言おうとしているのか、おそらくジェフリーも分かっている。
「今回の探索には、どうしても必要なものがあります」
アヤは言った。
「青の部屋に保管されていた鉱石書。そして、そこに記された古代語を読み解く者です」
何人かの顔に疑問が浮かぶ。
鉱石書。古代語。
青の部屋へ同行していなかった者たちには、初めて聞く話だった。
ジェフリーが答える。
「鉱石書については、先ほどアヤ殿下が読み解かれました。その内容はヴィクター殿の手帳へ記録しております。それがあれば、書物そのものを持ち出す必要はないかと」
「いいえ、ハルセリン卿」
アヤは即座に否定した。
「それでは不十分です」
ジェフリーの青い目に、わずかに鋭い色が差した。
「鉱石書には、こう記されていました。――龍の涙は書物で地図を語り、地図は書物を語る。これをお忘れですか?」
ジェフリーは何も答えなかった。
ただ、アヤを見つめる視線が、先ほどよりもわずかに強くなる。
アヤはそのまま続けた。
「地図が見つかったとしても、それだけでは意味がありません。鉱石書と照らし合わせなければ、ドラゴンの居場所さえ分からないままです」
そこで、わずかに言葉を切る。
「もし龍の涙が、そのドラゴンのもとにあるのなら――わたくしたちは、いずれそのドラゴンと対峙しなければならないかもしれません」
アルベルトとセドリックの表情が、同時に固まった。
――ドラゴンと、対峙する?
二人の視線がジェフリーへ向く。
――まさか、本当にドラゴンと戦うことになるのか?
そんな話は聞いていない。
「だからこそ、瘴気についての記述も無視できません」
アヤは続ける。
「サルヴィアの黒騎士がどれほど優秀であろうと、その場で古代語を読み解き、書物に残された記述を照らし合わせることまではできないでしょう」
そして今度は、ローレンスへ顔を向けた。
「エヴァレット卿」
「はい」
「あなたのおっしゃる精鋭部隊に、古代語――それも、かなり古いセレス語を読み解ける者はおりますか?」
ローレンスは一瞬、答えに詰まった。
いるわけがない。
そう言いかけたものを、どうにか飲み込む。
「……恐れながら、近衛騎士団の中に、古いセレス語を読み解ける者はおりません」
それを聞いたアヤは、今度はレグナードへ向き直った。
「陛下」
すでにレグナードの表情は険しくなっている。
「龍の涙を手に入れるためには、鉱石書が不可欠です。国宝であるあの書物を青の部屋から持ち出せるのは、陛下のみでしょうか」
わずかな沈黙のあと、レグナードが答える。
「国宝の持ち出しを許されるのは、王家の直系の血を引く者のみだ」
アヤは一度だけ頷いた。
「では、話は簡単です」
評議室の空気が止まった。
「鉱石書を持ち出すことができ、古いセレス語を読み解くこともできる。それがわたくしであるならば――エステリアより、わたくしが探索隊へ参加いたします」
「それはならん!」
「だめです!」
ほとんど同時だった。
レグナードとジェフリーの声が重なる。
二人は思わず互いの顔を見た。
アヤも目を見開く。
周囲の者たちも、突然重なった二つの声に言葉を失った。
先にアヤへ向き直ったのはレグナードだった。
「龍の涙の探索への参加は認めん」
国王の声だった。
「第一王女として城に残り、その知恵をもって尽くせ」
アヤもまた、王女として返す。
「では、わたくし以外に鉱石書を読み解ける適任者がおりますか?」
「鉱石書であれば、写しを取ればよい。手帳にも記録があるのであろう」
「あれはセレス語ですよ。一体誰が、あそこまで古いセレス語を理解できるというのです」
「そなたが他の紙へ写し、訳して渡せばよかろう。時間はいくらかかっても構わん」
アヤの指先が、卓上でわずかに強く重なった。
「鉱石書とセレス語の辞書を、どちらも紙へ起こせとおっしゃるのですか?」
「そうだ」
「仮にわたくしの手ですべてを書き写したとしても、それを受け取った者が古代語を理解するまでには相応の時間がかかります」
「ならば時間をかけよ」
「とても数週間では足りません」
「何年かかってもよい」
今度こそ、室内が静まり返った。
アヤは思わず父の顔を見た。
龍の涙を探すための評議である。
一刻も早く手掛かりを得なければならないはずなのに。
何年でもよい、と。
たまらずオズワルドが口を挟んだ。
「陛下。恐れながら、一年以上となりますと、さすがに探索そのものが――」
「今、第一王女と話しておる!」
「……申し訳ございません」
親子の間へ入ることに失敗した大法官は、静かに身を引いた。
アヤは一度、息を吸った。
胸の内から湧き上がる言葉を、そのままぶつけぬよう整える。
それから改めて、父を見た。
「陛下は、あの夜、わたくしにこうおっしゃいました」
レグナードの視線が、アヤの顔で止まった。
「ハルセリン卿を案じるのであれば、その知恵をもって龍の涙を探す彼の支えとなり、傍らで守り抜け、と」
レグナードは黙っている。
「陛下がおっしゃったのは――龍の涙が危険な場所にあると知りながら、わたくしだけは安全な城に残り、そこから彼らへ手引きをしろという意味だったのですか?」
間髪を入れず、レグナードは答えた。
「そうだ」
あまりにも迷いのない返答に、アヤの言葉が一瞬止まった。
「そなたは誰に何と言われようと、エステリアの第一王女だ。龍の涙を探すことだけが、そなたの務めではない」
アヤは、まっすぐに父を見た。
「今まさに、サルヴィアの騎士たちは、自国の民を救うために命を懸けて龍の涙を探そうとしているのですよ」
その声には、わずかな震えが混じっていた。
「けれど、その探索によって恩恵を受けるのはサルヴィアだけではありません。我がエステリアもまた、龍の涙を得ることになるのです」
アヤは一度、言葉を切った。
「陛下は以前、龍の涙を我が国が管理することができれば、エステリアは他国に対して大きな力を持つことができるとおっしゃいました」
レグナードは、アヤから視線を逸らさなかった。
「その管理権を望み、その恩恵を受けようとするのであれば――なぜ、そのための危険だけは、サルヴィアの騎士たちに負わせるのですか?」
誰も口を挟まなかった。
「彼らに命を懸けさせて、わたくしたちは安全な場所から、その成果だけを受け取るのですか?」
評議室の空気が、ひどく重くなる。
「龍の涙は、人の命の上にあぐらをかいて手に入れてよいものではございません」
「だからといって、そなたが命を差し出してよい理由にはならん」
レグナードの声が低くなる。
「エステリアの王女である以上、そなたの命はそなただけのものではない」
アヤの声が、わずかに震えた。
それでも目は逸らさない。
「サルヴィアが命を懸けるのであれば、エステリアもまた、そこに意味ある命を懸けるべきです」
その言葉を聞いた瞬間、レグナードの表情から、国王として保っていた静けさが消えた。
「命を、意味があるかないかで量るな」
声が強くなる。
「まして、自分の命だけを、そのように軽く扱うな」
アヤの瞳が揺れた。
「他人の命は惜しむくせに、自分の命となれば、途端に勘定の外へ置く」
「そのようなつもりでは――」
「私にはそう見える」
その一言だけは、先ほどまでの国王の声音とは違っていた。
厳しさの奥に、隠しきれない父親の感情が滲んでいる。
それでもアヤは、目を逸らさなかった。
「それでも、わたくしにしかできないのです」
小さな声だった。
だが、はっきりしていた。
「鉱石書を持ち出せるのも、セレス語を読み解けるのも、今この場ではわたくしだけです」
その事実を否定できる者はいなかった。
しばらく黙ってやり取りを聞いていたジェフリーが、ようやく口を開く。
「恐れながら、アヤ殿下」
アヤがそちらを見る。
「城の中での生活と、外での生活はまるで違います」
ジェフリーの声は静かだった。
先ほどローレンスたちへ向けていた鋭さはない。
だが、その分だけ真剣だった。
「野営は、あなたが想像されているより厳しい。雨が続けば、身体も衣服も乾かない。眠る場所も選べません。何日も硬い地面で眠ったあとでは、乾いた干し草の上ですら極上の寝台に思える」
「存じ上げております」
アヤはさも当然のように答えた。
ジェフリーの口元が、わずかに引き締まる。
「食べるものも同じです。城で口にされるようなものばかりではありません。とても王族の方へお出しできないようなものを、口にしなければならないこともあります」
「それも承知しております」
「アヤ殿下」
今度はアルベルトが、少し困ったように口を開いた。
「その……我々が旅の途中で口にするものは、この場で申し上げるのも少々憚られるようなものでして」
アヤはアルベルトへ身体を向けた。
「知っています」
「……はい?」
「食料が傷めば、蛆のついたところを削ぎ落として、残った肉を食べるのでしょう?」
アルベルトは口を閉じた。
何も返せない。
この王女は、旅の厳しさを何も知らずに言っているのではない。
少なくとも、そこに待っているものが何なのかを知ったうえで、それでも行くと言っている。
アルベルトは静かに背もたれへ身体を戻した。
ジェフリーも、それ以上は続けなかった。
危険を知らないから止める。
旅の厳しさを知らないから止める。
その理由は、もう使えない。
レグナードは黙って娘を見ていた。
鉱石書を持ち出し、古代語を読み解ける。
見つけた地図と鉱石書を、その場で照らし合わせることもできる。
そして何より、自らが龍の涙の管理権を望みながら、その探索に必要な危険だけを他国へ押しつけることはできない。
国王として考えるならば、答えはとうに出ていた。
アヤを探索から外す理由は、もうどこにも残っていない。
ただ一つを除いては。
行かせたくない。娘を危険な場所へ送りたくない。
それだけだった。
長い沈黙のあと、レグナードは視線を落とした。
卓の上で組んだ指に、わずかに力がこもる。
「……わかった」
誰も動かなかった。
レグナードはゆっくりと顔を上げる。
「第一王女の同行を認める」
その言葉を聞いた瞬間、ジェフリーは静かに目を閉じた。
ほんの一瞬、それだけだった。
その表情には、隠しきれない苦いものが浮かんでいた。
一番避けたい結果になってしまった。
「ありがとうございます、陛下」
先ほどまでの張り詰めた響きがほどけ、アヤの声にいつもの柔らかさが戻る。
だが、レグナードはまだ終えていなかった。
「ただし」
アヤが顔を上げた。
「そなたは、鉱石書と古代語を読み解くために同行するのだ」
再び国王の声に戻っていた。
それでも、先ほどまでとはもう違って聞こえる。
「決して、その命を軽々しく扱うことは許さぬ」
レグナードはアヤをまっすぐ見据えた。
「エステリアの第一王女であることを忘れるな。そして――その命が、そなた一人だけのものではないこともだ」




