16. 読めど知れず、語れど届かず
「こんな部屋にいても、退屈でしょう?」
スライド式のはしごに乗り、人の背丈の二倍はある本棚を前に、アヤは一冊ずつ背表紙を確かめながら声をかけた。
ジェフリーは本棚に背を預けたまま、静かに首を横に振る。
「いえ、そんなことは……。ただ、これほど多くの本に囲まれたことがないので、少し驚いています」
ジェフリーにとって本棚といえば、父の書斎にあるものだった。
壁を埋め尽くすように並べられた、小難しい分厚い本。幼いころのジェフリーには、どれも父と同じようにどこか近寄りがたいものに思えた。
けれど、ここに並ぶ本はそれとは違う。
色褪せた青や、深い赤紫、黒に近い緑。古びた革の背表紙には、金とも銀ともつかない、くすんだ文字が細く刻まれている。中には題名すらなく、見慣れない模様だけが描かれたものもあった。
文字なのか、ただの飾りなのか。
何が書かれているのかすら分からない。
どれも本であることに違いはないはずなのに、ただ知識を収めているだけのものとはジェフリーには思えなかった。
長いあいだ誰にも開かれることなく、何かを抱えたまま、ひっそりと眠っているように見えた。
「ジェフリー様、ひとつお聞きしてもよろしいですか?」
不意に投げかけられた問いに、ジェフリーは本棚から背を離し、はしごの上のアヤを見上げた。
「なんでしょうか」
「どうしてあの日、わたくしに医術の心得があるかとお尋ねになったのでしょう?」
一瞬、返事が遅れた。
――あの日。
もう一度、あの女性の姿を見たい。そんな衝動に背中を押されるように、ジェフリーは王宮へと足を運んだ。
最初に出会った夜に、負傷した侍女の手を迷いなく取り、傷の手当てをしてみせた女性。
もしかすると、医術の心得があるのかもしれない。そして、もしそうなら龍の涙についても、何か知っているかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、王宮の門をくぐったが、今になって思えば順序が逆だった。
龍の涙について知りたかったから、アヤを訪ねたのではない。
アヤに会いたかった。
だから彼女を訪ねる理由を、龍の涙の中に探した。
王宮の庭で再び見つけた彼女は、王女らしからぬ姿で洗濯桶の中に立っていた。怪我をした侍女と手を取り合い、水飛沫を浴びながら笑っていた。
傷ついた者がいれば、自分の立場も姿も構わず、その隣へ行く。
もっと知りたい。
もう少し、話していたい。
遠ざかっていく背中を目で追いながら、あのころの自分はまだその想いに名前を持たなかった。
けれど今なら、それが何だったのか分かる。
「ご存知のとおり、私は龍の涙を探しています。エステリア国で聡明な王女と噂のアヤ様なら何かご存知かと思い、あの日は城に足を運びました」
ジェフリーの口から零れ落ちたのは、嘘ではないが肝心なところだけが抜け落ちている、胸の内とはかけ離れたあまりにも整った建前ばかりだった。
「聡明な王女……」
アヤが小さく繰り返した。
聡明な王女、そして嘲笑とともに語られる「醜いあひるのお姫様」――。
ジェフリーほどの立場にある人なら、知らないはずがない。それでも彼は、そちらには触れなかった。
アヤは、ほんの少し目を伏せた。
優しい人なのだと思った。わざわざ人を傷つけるようなことを口にする人ではない。まして、それを理由に態度を変えるような人でもない。
だからきっと、何も言わないでいてくれるのだ。
その心遣いがありがたかったはずなのに、胸の奥に冷たいものがひとしずく落ちた。
これまでだって、似たようなことはいくらでもあった。
気遣われることも、聞かなかったふりをされることも、何も知らないように笑いかけてもらうことも。
そのたびにアヤも笑ってきた。
相手の優しさを、優しさとして受け取ってきた。それでいいのだと、ずっと思っていた。
アヤは再び本棚へ顔を向けた。
「わたくしにとっての龍の涙は、この王宮図書館の中にしかありません。それも、幼い子供が眠りにつくときに聞かせるような、おとぎ話ばかりです」
ジェフリーには、その声が先ほどまでと変わったようには聞こえなかった。
だから、何も知らなかった。
自分が彼女に会いたかったという、ただそれだけの気持ちを隠すために選んだ言葉が、今のアヤの胸に小さな傷を残したことを。
アヤは一冊の本を棚から抜き取り、頁をめくった。
ぱらり、ぱらり。
乾いた紙の音だけが、静かな禁書庫に響いていく。
ジェフリー様も、おとぎ話を聞いたことは――。
そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。
幼いころに母親を亡くしたという青年に、尋ねるようなことではないと思った。
再び、頁をめくる音だけが二人の間を満たした。
やがてアヤは本を閉じ、その一冊を胸に抱えた。
「もしよろしければ」
沈黙を破るように、アヤが言った。
「エステリアに伝わる『龍の涙』の物語の本を、おひとつ差し上げましょうか?」
エステリアに伝わる、とは。ジェフリーは密かに眉を寄せた。
「有名なおとぎ話ほど、国によって内容が少しずつ違うんですよ。驚きました?」
アヤがくすりと笑う。
「はい、驚き――」
言いかけたその瞬間だった。
ジェフリーの頭上で『あっ』という小さな悲鳴が上がり、アヤの身体がぐらりと傾いた。
手にしていた本が、指先から滑り落ちる。
「アヤ様!」
ジェフリーは抱えていた本を放り出した。
考えるより先に駆け寄り、両腕を伸ばす。
だが、落ちてきたのはアヤではなく、彼女が取り落とした重い本そのものだった。それが鈍い音を立ててジェフリーの頭を直撃する。
「っ……!」
あまりの痛みに、思わず頭を抱えて身を屈める。
「ジェフリー様!」
慌ててはしごを降りてくる足音がした。
「ごめんなさい、ジェフリー様。お怪我はありませんか?」
アヤは痛みに耐える彼の腕に、そっと手を触れる。
ジェフリーの腕の隙間から心配そうに顔を覗き込んだ。
大きな黒い瞳が、こちらを見上げている。
近い。
そのことに気づいた途端、ジェフリーの胸が大きく跳ねた。
「痛みますか?どこに当たりました?」
もう少し、このままでいたい。そんな考えが浮かんだ自分に、ジェフリーは愕然とした。
もし少しだけ痛そうな顔をしたら。
もう少し彼女を心配させたなら。
あとどれほど、自分の近くまで来てくれるだろう。
そして、それ以上に。腕に触れているその手を掴んでしまいたい。
そのまま引き寄せて、腕の中へ閉じ込めたい。
抱きしめたい。
ジェフリーは奥歯を噛んだ。
何を考えている。
彼女はただ、自分を心配してくれているだけだ。その優しさにつけ込んでどうする。
胸の奥から込み上げる浅ましい欲を押し殺すように、ジェフリーはそっと顔をそむけた。
「いえ……問題ありません。ご心配をおかけしました」
絞り出して言うのが精いっぱいで、まともにアヤの顔を見ることができなかった。
アヤはジェフリーの横顔を見つめた。
今は、その顔がこちらを向いていない。
腕に添えていた手を、そっと離す。
「お怪我がないのなら、安心です」
不安の色を消して、アヤはいつものように微笑んだ。
――やっぱり、優しい人だ。
きっと、何も言わないでいてくれる。醜いあひるの姫を目の前にしても、人を傷つけるようなことは言わず、顔にも出さず、いつもと変わらず接してくれる。
そういう人なのだ。
そう思えば思うほど、先ほど胸に落ちた冷たいものが、消えてくれなかった。
「ずいぶんとお待たせしてしまいましたね。あらかた本は揃いましたので、そろそろ青の部屋に戻りましょう」
アヤは床に散らばった本を一冊ずつ拾い始めた。
「アヤ様、私がお持ちします」
ジェフリーも腰をかがめ、アヤが腕に抱えた本へ手を伸ばした。
「ありがとうございます」
アヤは本を差し出した。
受け取ろうとしたジェフリーの指が、アヤの指先に触れる。
ほんの一瞬。
それだけで、ジェフリーの胸がまた騒いだ。
だが、アヤは静かに手を離した。
優しい人。
何度そう思っただろう。その優しさに救われているはずなのに、今日はなぜか、それが少しだけ寂しかった。
********
青の部屋の扉が開いた。
先に姿を現したアヤに続き、ジェフリーが何冊もの古書を抱えて入ってくる。
石の台座のそばでは、レグナードとヴィクターが二人を待っていた。
「お待たせしました。さっそく本の解読をいたします」
ジェフリーから本を受け取ると、アヤは台座の上に一冊ずつ並べていった。
その中央にあるのは、先ほど文字を浮かび上がらせた国宝――鉱石書。
アヤは頁を開き、カンテラの蝋燭へ手を伸ばした。
そこで一度手を止める。
顔を上げて父を見ると、レグナードは何も言わず、ただ一度ゆっくりとうなずいた。
アヤも小さくうなずき返す。
蝋燭を傾けると、銀灰色の蝋が一滴、鉱石の頁へ落ちた。
慎重に、少しずつ。
その色を背景に、透明な結晶で形作られた文字が、再びその姿を現す。
ある程度まで文字を浮かび上がらせると、アヤは禁書庫から持ち出した古書を開いた。
鉱石書と古書。
二つを何度も見比べる。
「これは……」
アヤの指先が、ひとつの文字の上で止まった。
「セレス語です」
「読めるのか?」
レグナードが問う。
「はい。ただ……」
アヤの表情が変わった。
「わたくしが知っているセレス語より、ずっと古い文体です。五百年どころではありません。千年……いえ、それよりさらに昔のものかもしれません」
千年よりも、さらに昔。
それほど古い時代となれば、歴史と神話の境さえ曖昧になる。まだ神々がこの地を歩いていたと語られるほど、遠い時代。
そんなものが今も形を保ち、自分たちの目の前に存在している。
先ほどまで奇妙な本にしか見えなかった鉱石書が、急に途方もない歳月の重みを帯びたように感じられた。
アヤは再び古書へ目を落とす。
一文字ずつ照らし合わせ、意味を探っていく。
やがて、ドレスの横をぱたぱたと手で探り始めた。
「何か、書くものを……」
ない。
当たり前だ。
図書館へ本を探しに行くだけのつもりだったのだ。
アヤが周囲を見回した、そのとき。
ジェフリーは、はっとした。
ある。
今まさに、彼女が必要としているもの。
胸元へ手を伸ばせば、渡せずにいたものがある。
アヤのために選んだ、小さな手帳。
ようやく渡せる。
そう思った瞬間だった。
「アヤ姫様、どうぞこちらをお使いください」
ヴィクターだった。
いつの間に取り出したのか、手には一冊の手帳とペンが握られている。
「あら、ありがとうございます」
「いえいえ。こういうものは商人の必需品ですからな」
にこやかに差し出された手帳を、アヤが受け取る。
「お借りしますね」
ジェフリーの胸元まで伸びていた手が、静かに下りた。
誰にも気づかれることなく。
「……」
ヴィクターだけが、一瞬ジェフリーを見たような気がしたが、ジェフリーは何事もなかったように顔をそらした。
アヤはそんな二人には気づかず、借りた手帳に文字を書き始めていた。
「これは……川、でしょうか。こちらは……月夜……歩く……」
小さな独り言が青の部屋に落ちる。
鉱石書を見て、古書を開き、また鉱石書へ戻る。
そのたびに、手帳の上へ新しい言葉が連なっていく。
やがて、アヤの独り言は少なくなった。
聞こえるのは、ペン先が紙を擦る音だけ。
誰も声をかけなかった。ただ、アヤの手元を見つめていた。
どれほど時間が経っただろう。ふいに、ペンが止まった。
三人の視線が、一斉にアヤへ向けられる。
しかしアヤは、顔を上げなかった。その表情は曇っていた。
手帳を握る指に、わずかに力が入る。
「この本には、龍の涙への道筋は書かれていません」
ジェフリーの眉がわずかに動いた。
だが、アヤの言葉はそこで終わらなかった。
「それどころか……龍の涙から逃げろと書かれています」
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
青白いルナエルの光の中で、四人の影だけが石床に伸びている。
レグナードがようやく口を開いた。
「それは、どういう意味だ」
アヤは鉱石書へ視線を戻した。
「この本にはまず、かつて存在したドラゴンを、どのように封じ込めたのかが記されています」
指先で文字を追う。
「尊い賢者の命をもって、ドラゴンを地下深くに眠らせる。そして、命を捧げた賢者の亡骸が龍の涙となり、ドラゴンとともに眠りにつく」
ジェフリーの表情が引き締まる。
「龍の涙には、ドラゴンを眠らせるほどの力がある。そして、人々の身体から悪しき病を遠ざける――以前、禁書庫で見つけた記述とほとんど同じです」
ならば、龍の涙が病を治すという話は、やはり間違いではなかった。
ジェフリーの瞳に、わずかな光が戻る。
「問題は、この先です」
その光を打ち消すように、アヤは言った。
ヴィクターから借りた手帳へ視線を落とす。
「人々の過ちは、龍の涙を神からの授かりものだと考えたこと……」
アヤの声だけが、静かな部屋に響く。
「ドラゴンとの長い戦いで傷ついた人々は、自らの身体を癒すため、龍の涙を貪るように使ったとあります。その力は病や傷を癒すだけではありませんでした」
一度、言葉を止める。
もう一度セレス語を確認してから、アヤは続けた。
「人の命を、永久のものとする」
永久という言葉にレグナードが眉をひそめた。
「おそらく、本当に永遠という意味ではありません。何百年という、普通の人間ではあり得ないほどの歳月を指しているのだと思います。そして、それだけではなく……まるで神々の力のような能力を、人に与えたと」
ヴィクターが目を見開き、乗り出した。
「それならば、龍の涙は噂どおりのものではありませんか。万病を癒すどころか、それ以上の――」
「いいえ」
アヤは首を振った。
「話は、そう簡単ではありません」
手帳を持つ指先が、わずかに強張る。
「人々が龍の涙を療養と繁栄のために使い続けたことで、本来ドラゴンとともに眠っているはずの龍の涙が失われていった。龍の涙がなくなれば、封印も失われます」
静かな声だった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「ドラゴンは再び目覚め、その瘴気が地上に満ちていく。そして龍の涙によって命を長らえさせた者たちは――」
アヤは一度、目を閉じた。
「与えられた分だけ、命を奪い返される」
静寂が落ちた
「龍の涙によって得た命は、再びドラゴンによって奪われる。そう書かれています」
特効薬ではない。
ジェフリーの瞳から、少しずつ希望の光が消えていく。
その顔を見て、アヤの胸が痛んだ。
それでも、読まなければならない。
「この本には、ドラゴンが目覚めたときの逃げ方だけでなく、どこを通って逃げればいいのか、その道筋まで記されています。見つからないよう、できるだけ遠くへ逃げろ、と」
アヤは鉱石書の頁をめくった。
硬質な音が、青の部屋に響く。
「暗く、物音を立てずに進むこと。昼の明るい場所を避けること。そして、もし道に迷ったなら――」
指先が止まる。
「月夜に、この本を照らせ」
全員の視線が、鉱石書へ落ちた。
「この本が鉱石で作られ、月の光で文字を読めるようになっているのは……逃げる者に、夜道を示すためだったのです」
誰も言葉を発さない。
アヤは続けた。
「そして、夜になっても月が見えないときは、決して動いてはならない」
「なぜだ?」
レグナードの問いに、アヤは一瞬ためらった。
「……ドラゴンの翼が、空を覆っているからです」
ヴィクターが息を呑んだ。
月が見えている。
それはつまり、ドラゴンが頭上にいないということ。
鉱石書は、龍の涙へ導く宝ではなかった。
少なくとも、最初にこれを作った者にとっては逃げるための本だったのだ。
レグナードが低く問う。
「ドラゴンを再び眠らせる方法は?」
アヤは頁を追った。
「この暗黒の時代を終わらせるには、ドラゴンを倒さなければならない、とあります」
さらに先を読む。
「再び尊い賢者の命をもって封じ込め……古の術によってドラゴンを倒せ、と」
そこでアヤは手帳から顔を上げた。
「ですが、ドラゴンへの道筋は、この本にはありません」
ジェフリーとヴィクターの視線が、同時に動いた。
ほんの一瞬、互いを見る。
それだけだった。
けれど二人には、同じものが頭に浮かんでいた。
サルヴィアで盗賊が所持していた、一本の巻物。
エステリアの国宝だと伝えられていた、あの巻物。
二人の様子には気づかず、レグナードはしばらく黙っていた。
やがて、重い息を吐く。
「……私が王位につくより、ずっと昔のことだ」
アヤが父を見る。
「かつて、この宝物庫からひとつの宝が失われた」
アヤにとっては初めて聞く話だった。
レグナードは娘の表情を見て、静かに続けた。
「代々、国王にのみ伝えられてきたことだ。失われたのは、一枚の地図だという。しかし、その地図には何も描かれていない」
アヤが眉を寄せる。
「何も?一切何も示されていなかったのですか?」
「そうだ。道も、山も、川もない。文字すらない。なぜそのようなものが国宝として扱われていたのか、今となっては誰にも分からぬ。だが国宝であったことだけは確かだ。歴代の王は、長いあいだその行方を探してきた」
その言葉を聞いた瞬間、ジェフリーの中で疑念が確信へと変わった。
――間違いない。
サルヴィアを発つ前に目にした、あの巻物。
広げられたその表面の大部分は、確かに空白だった。
「そして、この本と地図を受け継ぐ王には、ひとつの言葉が伝えられてきた」
レグナードの視線が、鉱石書へ落ちる。
「龍の涙は書物で地図を語り、地図は書物を語る」
アヤは、はっとして手帳へ目を落とした。
急いで先ほどの文字を辿る。
「……あります。地図についての記述です」
アヤの目が、手帳の一文に止まる。
「地図は――ドラゴンの瘴気の中でのみ、その真実を語る」
沈黙が落ちた。
ドラゴンへ辿り着くための地図。
なのに、その地図を読むためにはドラゴンの瘴気が必要になる。
「なんとも妙な話ですな」
ヴィクターが腕を組んだ。
「辿り着くための地図を読むために、先にドラゴンのそばへ行かねばならないとは」
「何か別の意味があるのでしょうか……」
アヤは再び鉱石書へ目を落とした。
そのとき、ひとつの記述が目に留まる。
「……そういうこと」
アヤは鉱石書の中央あたりの頁を開いた。
そこには、それまでとは違い、短い文字が規則正しく並んでいた。
「この本には、もうひとつ役割があります」
アヤは文字の列を指差した。
「地図に記されている文字は、どの時代にも使われていない文字なのだそうです」
レグナードが娘の指先を目で追う。
「そして、その文字の意味が、この本に記されています」
ヴィクターが目を細めた。
「つまり……この本は、地図を読むための辞書でもあるのです」
龍の涙は書物で地図を語り、地図は書物を語る。
長い年月、意味さえ分からないまま王から王へ受け継がれてきた言葉が、ようやくその姿を現した。
書物だけでは、辿り着けない。
地図だけでも、読むことはできない。
二つが揃って初めて、道が生まれる。
「しかし……」
ジェフリーが、鉱石書を見つめたまま呟いた。
「この書物には、龍の涙から逃げるための道が記されているのですよね?」
ジェフリーの青い瞳が、まっすぐアヤへ向けられる。
「その道を逆に辿れば、龍の涙があった場所へ行けるのではありませんか?」
アヤの顔から、血の気が引いた。
ヴィクターがすぐに反応する。
「なるほど。確かにそのとおりですな。逃げてきた道を逆に戻ればいい」
アヤは思わず声を強めた。
「ですが、龍の涙はもう残っていません。古代の人々が使い果たしたはずです」
レグナードが低く言った。
「かつて龍の涙があったということは、そこにドラゴンがいたということだ」
その後に言葉を継いだのは、ジェフリーだった。
「ドラゴンを封じ込めたとき、賢者の亡骸が龍の涙となる」
青い瞳に、先ほどまであった絶望はもうなかった。
「ならば、龍の涙を手に入れるためには――ドラゴンを探す必要があります」
アヤは息を呑んだ。
ああ。なんてことだ。
この本は、逃げろと言っているのに。
龍の涙に近づくなと、これほどまでに警告しているのに。
目の前にいる人たちは、その警告を道標に変えようとしている。
「ジェフリー様」
気づけば、名前を呼んでいた。
「書物は、龍の涙から遠くへ逃げろと警告しています。それに、ドラゴンを探しただけでは龍の涙は手に入りません」
ジェフリーがアヤを見る。
「尊い命を……」
そこまで言って、アヤは言葉を失った。
尊い賢者の命。
龍の涙を生むためには、誰かが命を捧げなければならない。
その意味を、この青年が理解していないはずがない。
――そうか。
アヤは、ようやく気づいた。
この人は、本当にそのつもりなのだ。
龍の涙を手に入れるためなら。
サルヴィアの人々を救うためなら。
自分の命さえ、秤に載せるつもりなのだ。
先ほどまで禁書庫で見ていた横顔が、脳裏をよぎる。
本が頭に落ちただけで、怪我をしていないかと心配した。
それなのに。
この人は今、自分から命を失うかもしれない場所へ行こうとしている。
「ご心配はいりません、アヤ様」
ジェフリーは、そんなアヤを安心させるように微笑んだ。
「龍の涙は、我々サルヴィアの騎士が見つけます」
優しい声だった。
「あなたやエステリア王国に危害が及ぶようなことには、決してさせません」
――優しい人。
また、その言葉が浮かんだ。
なのに今度は、胸の奥に落ちるだけでは済まなかった。
足元が崩れていくような感覚に、アヤは無意識にドレスの裾を握った。
あなたやエステリアには、危害を及ぼさない。
ならば、あなた自身は?
その問いは、声にならなかった。
「しかし、どちらにしても」
レグナードが重い息を吐いた。
「龍の涙を探すためには、失われた地図が必要だ。ドラゴンへ辿り着くための地図を読むのに、ドラゴンの瘴気が必要だという矛盾もある。これの意味についても探さねばならぬ」
レグナードは鉱石書をアヤの手元から受け取ると、静かに石の台座へ戻した。
硬い鉱石が台座に触れ、小さな音を立てた。
その小さな響きとともに、アヤの胸の奥で嫌な予感が現実へと変わり始めた。
「龍の涙と、それを示す地図を探すための具体的な準備を進めよう」
レグナードは三人を見渡した。
「詳しくは、王宮の評議室で話し合う」
ヴィクターが深く頭を下げる。
ジェフリーもまた、静かに一礼した。
アヤは、ルナエルの青白い光の中に立つジェフリーを見つめた。
彼はもう、そこへ行くつもりなのだ。
この本が逃げろと警告した、その先へ。
自分が読み解いた言葉を道標にして。
アヤは、ジェフリーを危険から遠ざけたかった。
彼が命を懸けずとも、龍の涙を見つけられる方法があるのなら、その方法を自分が見つけたかった。
だから調べた。
だから、この本を読み解いた。
けれど、見つけたものは安全な道などではなかった。
龍の涙から逃げるために残された言葉を、ジェフリーは龍の涙へ近づくための道に変えてしまった。
彼を危険から遠ざけるために読み解いたはずの言葉が、今は彼をそこへ導こうとしている。
気づけばアヤは、自らの手でジェフリーを暗い道の入り口まで連れてきてしまっていた。
そして、その道の先に何が待っているのか。
今のアヤには、まだ読むことができなかった。




