15. 語らぬ本
白紙の頁を、レグナードは一枚、また一枚とめくっていった。
薄い頁が重なるたび、かすかに硬質な音が響く。紙をめくる音とは違う、乾いた小石同士がそっと触れ合うような音だった。
アヤも、ジェフリーも、ヴィクターも、言葉を発することなくその手元を見つめていた。
どこかに、龍の涙について記された頁があるはずだ。そう信じるように、レグナードは最初から最後まで、一枚一枚を丁寧に確かめていった。
しかし、最後の頁をめくっても、何も現れなかった。
文字も、絵も、印もない。
ただ、青白い光をぼんやりと透かす頁だけが、静かに重なっているだけだった。
レグナードは、本を閉じた。
四人は、互いの顔を見合わせた。青の部屋を満たしていた静寂が、先ほどまでとは違う重さを帯びていく。
その沈黙を、最初に破ったのはアヤだった。
「……お父様。本当に、この本で間違いないのでしょうか?ほかに、それらしい書物は?」
「ない」
レグナードは静かに首を横に振った。
「この部屋にある本は、これ一冊だけだ」
石の台座に置かれた書物は、何も語らない。
国宝の書物が龍の涙への道を明かす――代々、王家に伝えられてきたその言葉さえ、でまかせだったのではないか。そう嘲笑うかのように、白い頁だけが静かに並んでいた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、本を見つめたまま、ジェフリーが呟いた。
「……文字では、ないのかもしれません」
レグナードが顔を上げる。
「書かれているものばかりを探しておりましたが、この本そのものに、何か仕掛けがあるということは考えられませんか?」
レグナードは眉を寄せ、本を持ち上げた。表を眺め、裏を返す。背の部分を指でなぞり、頁の端をそっと確かめる。それでも何も見つからず、最後には耳元へ持っていき、軽く振ってみた。
何も、起こらない。
ヴィクターがなんとも言えない顔で、その様子を見守っている。
その隣で、アヤだけが、じっと本を見つめていた。
「……お父様」
不意に、その表情が変わる。
「その本を、貸していただけますか?」
レグナードは何も問わず、本をアヤへと差し出した。
受け取ったアヤは、両手でそれを支える。開いた頁の上を、指先でそっとなぞった。
何もない。
次の頁をめくる。今度は指先だけでなく、手のひらをそっと置き、滑らせるように撫でた。
また次の頁。同じように、触れていく。
やがて、その手が止まった。もう一度、指先で頁をなぞる。
「……やっぱり」
小さく呟くと、アヤは本を持ち上げた。石の台座の真上では、無数のルナエルを束ねた大きな灯具が、青白い光を静かに放っている。アヤはその光へ、一枚の頁をかざした。
「アヤ?」
レグナードの声にも答えず、本をわずかに右へ傾ける。
何もない。
今度は、左へ。
その瞬間だった。
――きらり。
白紙だったはずの頁の上で、何かが光った。
ジェフリーが、わずかに目を細める。
アヤが角度を戻すと、光は消えた。もう一度傾けると、今度はいくつもの小さな光が、頁の上を静かに走った。まるで、星屑を撒いたような、ごく細やかな煌めきだった。
アヤの黒い瞳が、その光を追う。
「そういうこと……」
アヤは本を台座へ戻すと、傍らのカンテラへ目を向けた。中には、王城でよく用いられる銀灰色の蝋燭が収められている。それを取り出し、火を移し、炎が落ち着くのを待ってから頁の上へそっと傾けた。
ぽたり。
銀灰色の雫が、白い頁へと落ちる。
「あっ」
三人の声が、重なった。
国宝である。しかも、いつの時代のものかも分からぬ古い書物だ。その頁へ、アヤは躊躇なく蝋を垂らしたのだった。
けれど、アヤは三人を振り返ることなく、ただ頁だけを見つめていた。
蝋は熱を失いつつ、ゆっくりと薄く広がっていく。
そして――。
銀灰色に覆われたその中に、何かが浮かび上がった。
線。その隣に、もう一本。直線とも曲線ともつかない、小さな形がいくつも連なっている。絵のようにも見えたが、それは明らかに、何かしらの規則をもって並んでいた。
「……文字?」
ヴィクターが、低く呟いた。
アヤの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「これは、鉱石書です」
「鉱石書?」
レグナードが聞き返す。
「はい」
アヤは蝋燭を置くと、頁の端をそっと持ち上げた。
「半透明の鉱物を、紙のように薄く削り出して頁を作り、そこへ細かく砕いた別の鉱石――先ほどのような欠片を嵌め込んで、文字を象っていく。そういう製法の書物です。良質な塗料が十分になかった時代、文字を長く残すために編み出された手法だと聞いたことがあります」
指先が、先ほど光った場所をそっと示す。
「では、先ほど光っていたものが……」
ジェフリーの問いに、アヤは頷いた。
「文字です」
再び本を持ち上げ、頭上のルナエルの灯りへかざし、傾ける。角度が合った一瞬だけ、頁に埋め込まれた細かな結晶がきらめいた。
「鉱石書は、こうして光の反射を利用して文字を読みます。使われている石は、ごくわずかな光でも、その内部で光を反射します。特に月明かりの下では、文字だけが浮かび上がるように見えるものもあります」
レグナードが、ぐるりと部屋を見回した。
「しかし、ここには、これだけのルナエルの光がある。それなのに、我々には白紙にしか見えなかった」
「おそらく、明るすぎるのです」
アヤも、青白く輝く部屋を見上げた。
「これだけの光に囲まれてしまうと、頁そのものまで明るく照らされて、わずかな反射の違いが紛れてしまう。でも、こうして光源へかざして角度を変えれば……」
本を傾ける。文字の一部が、再び淡くきらめいた。
「見える」
レグナードが、低く呟いた。
「はい。ただ、このままでは、読むたびに角度を探さなくてはなりません」
アヤは本を台座へ戻すと、蝋を落とした箇所を示した。銀灰色の中に、細かな文字が浮かんでいる。
「ですから、色を置いたのです」
アヤは、銀灰色の蝋をそっと指し示した。
「頁と文字の違いが目に見えないのなら、背景に色をつければよいのではないかと。ちょうど、あのカンテラに色のついた蝋燭がございましたから」
蝋そのものに、何か特別な力があるわけではない。不透明な銀灰色が頁を覆ったことで、その内に埋め込まれた透明な結晶との差が生まれたのだ。
レグナードはしばらく何も言わず、その文字を見つめていた。やがて、感嘆とも呆れともつかぬ息を吐く。
「……お前は、よくこのようなことを思いつくものだ」
アヤは答えず、頁の文字へと顔を寄せた。
これで、読める。
そう思ったのも、束の間だった。
アヤの表情から、静かに笑みが消えていく。
「……これは」
指先が、浮かび上がった文字の一つをそっとなぞった。
「古代語です」
三人も頁を覗き込む。文字があることは分かるが、それが何を意味しているのかは分からなかった。
「分かるのか」
レグナードが尋ねた。
アヤはすぐには答えずいくつかの文字を目で追い、その形を確かめていた。
「古代語といっても、ひとつではありません。地域によっても時代によっても違います。それに、これが鉱石書なら……おそらく五百年以上前のものです」
「五百年……」
ヴィクターが、小さく息を呑んだ。
アヤはしばらく考え込むように文字を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「もしかしたら、読めるかもしれません」
「本当か」
「禁書庫に、『古語解読録』があります」
レグナードが目を見開く。その横から、ジェフリーが尋ねた。
「アヤ様は、これが何の古代語であるかも、もうお分かりなのですか」
「おそらくは」
アヤは頷いた。
「以前、禁書庫で読んだ書物に心当たりがあります。文字の形がよく似ています。『古語解読録』と照らし合わせれば、どの系統の言葉なのかも分かるはずです」
そう言うや否や、アヤは蝋燭をカンテラへ戻した。
「今すぐ、取って参ります」
レグナードが呼び止めるより早く、アヤは青の部屋を飛び出していった。
残された三人が、閉じた扉を見つめる。そして、ジェフリーはすぐに踵を返した。
「私も、参ります」
その言葉が終わるころには、すでに扉の向こうへ姿を消していた。
「アヤ様!お待ちください!」
螺旋階段に、ジェフリーの声が響く。
先を駆け上がっていたアヤの足が、ふと止まった。振り返ると、薄暗い階段の下からジェフリーが追ってきていた。
「ジェフリー様?」
何かあったのだろうか。そう言いたげな顔で見下ろすアヤのもとへ、ジェフリーは階段を上がっていく。
「どうされました」
「お一人で行かれては危険です」
わずかに息を弾ませながら言うジェフリーに、アヤは目を瞬いた。それから、何事か起きたわけではなかったことに安心したように微笑んだ。
「ご心配には及びません。禁書庫はよく来る場所です。どこに何があるか、この城で一番よく知っているのは、わたくしかもしれません」
「ですが、この螺旋階段のように、暗く足元の危うい場所もございます。もし足を滑らせて、お怪我でもされたら」
ジェフリーは譲らなかった。
アヤは明るく笑った。
「わたくしは太っていますけれど、見た目に反して、城では階段でもどこでもよく走り回っていますのよ。このくらいなら平気です」
――違う。
そういうことを申し上げているのではなくて――。
喉元まで出かかった言葉を、ジェフリーはぐっと飲み込んだ。アヤは本当に分かっていないらしい。
ジェフリーは一度口を閉ざした。それから、まっすぐにアヤを見つめた。
「……私は、あなたのことが心配なのです」
アヤが、わずかに目を見開いた。
いつもと変わらぬ穏やかな声のはずだった。けれど、その青い瞳は少しも笑っていない。あまりにも真剣なその眼差しに、アヤはほんの少し戸惑いを覚えた。
そして、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます、ジェフリー様」
その声には、素直な感謝の色が滲んでいた。
「あなたは、本当にお優しい方ですね」
ジェフリーは、何も言わなかった。
アヤはそんな彼の胸の内には気づかぬまま、階段の上を振り返った。
「では、禁書庫でいくつか本を探しますので、お手伝いいただけますか?」
しばしの沈黙のあと、ジェフリーは小さく息を吐いた。
「もちろんです」
そう言って、アヤの隣まで階段を上がる。
「そのつもりで、追いかけて参りました」
今度は二人並んで、禁書庫へと向かった。




