14. 青の部屋
謁見の間の奥にある扉をくぐると、四人を出迎えたのは、静まり返った石造りの回廊だった。
先ほどまでの謁見の間にあった人の気配は扉一枚を隔てただけで消え、壁際の燭台だけが、ぽつりぽつりと橙色の灯りを落としている。先頭を歩くレグナードの足取りに迷いはなく、幾度となくこの道を通ってきたことをうかがわせた。
長い回廊を進むにつれ、空気は次第に冷たく、そして重く感じられるようになっていった。すれ違う者は一人もいない。普段であれば行き交うはずの侍従や兵士の姿すら、この一角には見当たらなかった。
「……人払いをなさっているのですね」
アヤが小さく呟くと、レグナードは前を向いたまま短く答えた。
「これから見せるものを、余計な者の目に触れさせるわけにはいかん」
その言葉に、ジェフリーもヴィクターも口を挟むことはなかった。
やがて回廊の突き当たりに、一枚の彫刻が施された装飾壁が現れた。扉らしきものは、どこにも見当たらない。石の女神が両手で杯を掲げる意匠が、壁一面に彫り込まれているだけだった。
レグナードは杯のふもとに指を這わせると、そこに隠されていたわずかな窪みへ指先を押し込んだ。
かちり、と乾いた音が響く。
続けて、女神の足元にある紋章の一部を、時計回りにゆっくりと回す。
低い唸りとともに、壁の中央がゆっくりと沈み込み、そのまま横へと滑り出した。石の継ぎ目からは、それまで一切気配すら感じさせなかった扉の輪郭が、徐々に浮かび上がってくる。
「……これは、気づきませんな」
ヴィクターが呟くと、レグナードは静かに頷いた。
「この先が、王宮図書館だ」
浮き出た扉を押し開けると、その先に広がっていたのは、天井近くまで届く無数の書架が、幾筋も奥へと連なる巨大な空間だった。
アヤにとっては、幾度となく通い慣れた場所だった。だが、この隠し扉を通って訪れるのは、彼女自身も初めてのことだった。いつもであれば頁をめくる音や、静かな足音で満ちているはずのこの場所も、今は紙とインクの匂いだけが、深い静寂の中に沈んでいる。
レグナードは書架の合間を迷いなく進んだ。幾つもの通路を折れ、やがて図書館の最奥、他の区画から一段離れたところに、鉄格子の重い扉が現れる。そこから先が、禁書庫だった。
レグナードが懐から鍵を取り出し、鉄格子に差し込む。軋んだ音とともに扉が開かれると、その先には、これまでとは明らかに空気の異なる一角が広がっていた。
並ぶ書物の多くは、表紙の文字も判読できないほど古びている。アヤにとっては、何度も足を運んだ場所だった。あの夜も、この禁書庫で龍の涙にまつわる一冊を読んだのだ。
だが、レグナードの足は、見覚えのある書架の間を素通りしていった。
向かった先は、禁書庫のさらに奥。書棚の陰に隠れるようにして設えられた、もう一つの扉だった。先ほどの隠し扉とは違い、こちらは飾り気のない鉄の扉が、初めから隠す気もなくそこにあった。
「……お父様。この先に、何が」
アヤの問いに、レグナードは振り返らないまま答えた。
「見れば分かる」
扉のそばには、カンテラが一つだけ、壁の小さな金具に掛けられていた。
レグナードはそれを手に取ると、傍らの燭台から火を移した。
「足元に気をつけよ。この先は、灯りがこれ一つしかない」
そう言うと、扉を開け、自らその灯りを掲げて先頭に立った。残る三人は、揺れる炎の届く範囲から外れないよう、身を寄せ合うようにしてそのあとに続いた。
冷えた空気が足元から立ち上ってくる。手にしたカンテラの中で揺れる蝋燭の灯りだけを頼りに、四人は無言のまま階段を降り始めた。
段数を数えることも忘れるほど長い下り道だった。壁は次第に岩肌そのものへと変わり、地上からどれほど深くまで潜ったのか、もはや見当もつかなくなった頃、階段はようやく途切れた。
目の前に現れたのは、装飾のない一枚の鉄の扉だった。
レグナードがその扉に手をかけ、静かに押し開く。
その瞬間、レグナードを除く三人は思わず息を呑んだ。
部屋全体が、青白い光に満たされていた。
天井から降り注ぐその光は、蝋燭の橙色とはまるで違う、澄んだ月明かりのような色をしていた。壁には様々な品々が並んでいる。黄金の杯、宝石をあしらった王冠、見たこともない紋様の彫られた武具――
けれど、アヤの目を最も強く捉えたのは、それらの宝物ではなかった。
――光そのものだった。
天井にびっしりと埋め込まれた、無数の透明な石。その一つ一つの中で、小さな光が瞬いている。
そして部屋の中心、石の台座を見下ろす真上には、同じ小さな石を幾百と束ねた、金の骨組みのひときわ大きな灯具が吊り下げられていた。無数の小さな光が寄り添うことで生まれたその輝きは、単体の石とは比べ物にならないほど密度が濃く、まるで凍りついた月そのものが天井に宿っているかのようだった。
アヤはゆっくりと天井を見上げ、吐息のように呟いた。
「……ルナエル」
アヤは石の輝きから目を離さないまま続けた。
「月光虫と呼ばれる虫です。古い言葉では、ルナエル。今ではほとんどその姿を見ることのない、とても珍しい虫です。月光虫の光は、死んだあと、身体が朽ちるにつれて失われていくといいます。けれど、生きたまま透明な液体に封じ、そのまま石にすることで、息絶えたあとも亡骸が朽ちず、光を失わないのだと……」
そこでアヤは、ほんのわずかに言葉を切った。
「……本の中でしか知りませんでした。実在するとは、思ってもみませんでした」
再び見上げた天井では、幾百、幾千もの小さな光が、何も知らぬように静かに瞬いている。
太古の知恵によって生み出された、エステリアに残る最古の光。
かつて生きていた小さな命が、今もこの部屋を青白く照らし続けていた。
「陛下、この部屋はもしかして……」
ヴィクターが辺りを見回しながら声を漏らすと、レグナードはわずかに口の端を上げた。
「王家に伝わる宝物庫だ。代々の王のみが、その存在を知る」
四人は青白い光の中を進んだ。壁際に並ぶ数々の宝物を横目に、ジェフリーはふと、あることに気づいた。
――水の音がする。
かすかにではあるが、壁の向こうから、水の流れる音が聞こえてくる。地下深くにいることを考えれば、地下水脈が近くを通っているのだろうか。
さらに視線を巡らせたジェフリーは、壁のところどころに、小さな穴が空いていることに気づいた。ちょうど人の目の高さに設けられた、覗き穴のようなものだった。
宝物庫に、なぜ外を覗くための穴が必要なのか。
(……まさか)
ジェフリーの脳裏に、一つの推測がよぎった。
もしこの城が何らかの敵に襲われた際、王族がここへ逃げ込み、外の様子を窺いながら身を潜める――そのために作られた場所だとしたら。水の音は、地下を通る秘密の脱出路に繋がっているからではないか。
だとすれば、先ほど交わした誓いの重さにも納得がいく。ここは単なる宝物庫ではない。王家の生死を左右しかねない、最後の砦なのだ。
ジェフリーはその推測を口にすることなく、静かに胸の内へしまい込んだ。
部屋の中央には、一段高くなった石の台座があった。その上に、たった一冊の古い本が置かれている。
レグナードは台座の前で足を止めて天井を仰ぎ、静かに口を開いた。
「この部屋は『青の部屋』と呼ばれている」
三人がその声に振り向く。
「ルナエルの灯りが、こうして部屋全体を青く染め上げることから、代々そう呼び習わされてきた」
レグナードは天井から視線を下ろし、中央の台座へ目を向けた。
古びた石の表紙には、何の紋様も彫られていない。ただの一枚の石板の、何の変哲もない表紙に見えた。だが、この部屋に足を踏み入れるまでの道のりの重さを思えば、それがただの本であるはずがなかった。
「龍の涙について、その真実が記されているという書物だ」
そう告げると、レグナードは台座へ歩み寄り、そっと両手でその本を持ち上げた。
手にすれば、ひんやりと指先を吸い込むような重みがあった。
アヤは、思わず胸元で手を握りしめた。
これまで幾つもの文献を読み、様々な伝承を辿ってきた。そのどれにもなかった答えが、目の前の一冊に記されているという。
ジェフリーもまた、青白い光の中でその本を見つめていた。母を奪ったあの病を終わらせるための鍵が、この一冊の中に眠っているかもしれない。
ヴィクターだけが、わずかに目を細め、レグナードの手元を注意深く見つめていた。
レグナードは慎重な手つきで表紙をめくった。
かすかに硬質な音を立てて、薄い石の頁がめくられていく。
一枚、また一枚。
やがてレグナードの指が止まった。
四人は、無言のまま、開かれたその頁へ目を落とした。
――何も、書かれていなかった。




