12. 王宮への訪問者たち
初夏の柔らかな陽光が、エステリアの白亜の宮殿を淡く照らしていた。
五月の風が石畳の広場を吹き抜けていく。
重厚な大扉へと向かいながら、ジェフリーは知らず視線を巡らせていた。
今日、この場所へ来ることは伝わっているはずだ。
けれど、行き交う侍従や騎士たちの中に、探している黒髪は見当たらない。
わずかに落胆しかけた、そのときだった。
代わりに、ひどく見慣れた顔が二つ、視界の端に引っかかった。
「……なぜ、お前たちがここにいる」
正装に身を包んだアルベルトとセドリックが、少し離れたところに立っていた。
二人はジェフリーと目が合うなり、揃ってわずかに身体をこわばらせる。
「隊長」
「……お久しぶりです」
挨拶が返ってきた。
だが、明らかに何かを隠している顔だった。
ジェフリーが眉を寄せ、二人のもとへ歩み寄ろうとしたところで、横から軽やかな声が割り込んだ。
「おや。もう再会なさっていましたか」
現れたのはヴィクターだった。
涼やかな笑みを浮かべている。その姿を見た瞬間、ジェフリーは、アルベルトとセドリックをこの地へ呼び寄せたのが誰なのかを察した。
ヴィクターは何でもないことのように、アルベルトとセドリックもまた、ジェフリーとともに『龍の涙』の探索に協力する手はずになっているのだと告げた。
「聞いていない」
「ええ。まだお伝えしておりませんでしたから」
悪びれもしない返答に、ジェフリーの眉間に皺が寄った。
アルベルトとセドリックがエステリアへ来ていることすら、今の今まで知らなかった。
ましてや、探索の具体的な手はずも決まっていないうちから、すでにサルヴィアの騎士を呼び寄せているなど、事前の申し合わせは一切ない。
「勝手なことを――」
「お二人の派遣を命じたのは、ガレル様です」
続くはずだった言葉が止まった。
ジェフリーの唇が、固く結ばれる。
父の名が出た以上、単なるヴィクターの独断として退けるわけにはいかない。
ヴィクターはアルベルトたちに背を向けると、ジェフリーにだけ届く声へ落とした。
「例の巻物ですが、現在は私がお預かりしています。盗まれたエステリアの国宝ではないかと言われているアレです。『龍の涙』の探索が始まれば、いずれ必要になるかもしれません」
ジェフリーの目がわずかに細くなる。
「――もちろん、今この段階でエステリア側へ明かすつもりはありません。その素性すら、まだ確かではありませんから。探索がどのような形になるにせよ、実働の中心はサルヴィア側で固めておきたいのです」
ヴィクターは一拍置いた。
「もし本当に『龍の涙』が見つかった場合、それは一つの薬を見つけた、では済まないでしょうから」
ジェフリーにも、その意味は分かった。
サルヴィアが長年求め続けてきたものを、エステリア領内で探す。
そこに二国の思惑が絡まないはずがない。
まして、所在不明となっていたエステリアの国宝らしきものを、自分たちが密かに所持しているとなれば、話はさらに厄介になる。
納得したわけではないが、それでも今は、不満を呑み込むほかなかった。
やがてヴィクターは、「謁見の最終手続きを済ませてまいります」と一礼し、その場を離れていった。
残された三人の間に、しばし沈黙が落ちる。
遠ざかる背中を見送ったあと、ジェフリーは深く息を吐いた。
それからアルベルトとセドリックの間へ入り、二人の肩に腕を回す。
「で……あと何人、来ている?」
その声音には、諦めと呆れが入り混じっていた。
アルベルトとセドリックが気まずそうに顔を見合わせる。
先に口を開いたのはアルベルトだった。
「……今のところは、我々二名だけです」
「今のところ?」
ジェフリーの眉間の皺が、さらに深くなる。その鋭い視線を受け、アルベルトが言葉を詰まらせた。代わりにセドリックが、観念したように目を伏せる。
「正式な探索許可が下り、具体的な日取りが決まり次第……あと七名が合流する予定です」
「七……」
ジェフリーは二人から腕を離すと、そのまま両手で頭を抱えた。
自分を含めれば十名。
今のサルヴィアは、長い冬を越えたばかりだ。
短い夏の間に土地を整え、秋の収穫へ備えなければならない。騎士とて城や街道の警備だけをしていればいいわけではない。人手の足りない土地へ駆り出されることもあれば、物資の運搬を担うこともある。
その時期に、十名もの騎士を長く国外へ出す。父は、それを承知で命じたのだろう。
「それから、もう一つ」
セドリックの声に、ジェフリーは顔を上げた。
「ヴィクター殿から、探索が始まった場合の指示を受けています。サルヴィア側で用意した荷には、エステリアの者を近づけるな、と」
ジェフリーの眉が寄る。
「隊長は、この件について何かご存じで?」
ジェフリーは答えなかった。
セドリックはわずかに間を置いてから、さらに続けた。
「あと……王家の方が同行する可能性を考えるなら、護衛を含めて十名は必要だろう、とも」
ジェフリーの表情が止まった。
王家。
その言葉に、ふと一人の姿が浮かぶ。
艶やかな黒髪。
穏やかな声。
そして、自分が今日ここへ来てから、無意識に探していた人。
「……隊長?」
アルベルトに呼ばれ、ジェフリーは我に返った。
ヴィクターが何を想定しているのかは分からない。
国王が王族を探索へ同行させると決めたわけでもない。
そもそも、誰が探索へ同行するのかさえ、まだ決まってはいないのだ。
それでも、胸の奥に生まれた嫌な予感だけは、どうにも消えなかった。
ジェフリーは二人から離れ、宮殿の大扉へ向かって歩き出す。
「王族を護衛しながら『龍の涙』を探すなど――」
足を止めることなく、低く言い放つ。
「そんな探索、俺は絶対に認めん」
アルベルトとセドリックは、遠ざかっていく隊長の背中をしばし呆然と見つめていた。
やがて、どちらからともなくはっと我に返る。
二人は何も言わず、慌ててその背中を追った。
初夏の風が、白い回廊を通り抜けていく。
その涼しさとは裏腹に、ジェフリーの胸に芽生えた嫌な予感は、なぜか少しも薄れなかった。
**********
王宮のロビー、その中央に、ルシアン・ヴァルモントは立っていた。
片腕には、大きく巻いた一枚の紙を抱えている。
先ほどから何度目になるのか、吹き抜けの上に設えられた時計へ目をやり、それから正面の大階段を見上げる。
まだ来ない。
落ち着かない気持ちを紛らわせるように巻紙を抱え直したところで、二人の侍女がすぐそばを通り過ぎていった。
どうやらこちらの存在には気づいていないらしい。声を潜めてはいるものの、弾んだ話し声はルシアンの耳にも届いた。
「サルヴィアの騎士様がいらしているそうよ」
一人がそう囁くと、隣を歩いていた侍女が驚いたように顔を寄せる。
「三人も?」
「ええ。今、王宮にいらしているんですって」
二人は楽しげに言葉を交わしながら、そのまま廊下の向こうへ遠ざかっていった。
ルシアンは何とはなしに、その背中を目で追った。
サルヴィアの騎士。
そういえば、一週間ほど前にも似たような噂を耳にしたことがある。
サルヴィアから、それはそれは美しい騎士がエステリアを訪れているのだという。
どこまで本当なのかは知らない。
この世の美しさをすべて集めたような男だとか、王宮の晩餐会に姿を現しただけで、その場にいた令嬢という令嬢が恋に落ちたとか。
尾ひれのついた噂話など、普段のルシアンなら笑って聞き流していただろう。
ただ一つ。
その晩餐会にミエ王女もいたと聞いたときだけは、妙に心が騒いだ。
もっとも、それも無理からぬことだとルシアンは思っている。
ミエは、美しい。
彼女が十八歳で社交界へ姿を現したあの日から、それは少しも変わらなかった。
初めて目にしたときのことを、今でも覚えている。
大勢の令嬢たちに囲まれていながら、誰よりも目を引いた。美しく着飾っているからではない。堂々と顔を上げ、自分より年上の貴族を相手にしても臆することなく言葉を交わす姿に、いつの間にか目を奪われていた。
それからだった。
舞踏会や晩餐会で姿を見かければ、どうにか話す機会を探すようになったのは。
ほんの短い会話でもいい。せめて名前を覚えてもらいたい。
できることなら、その他大勢の男たちとは違うところを見せたい。
若くして父から爵位を継いだルシアンにとって、領地を立て直すことは、もとより避けて通れない責務だった。
ヴァルモント伯爵領――ダリアは、海から吹きつける風と塩気にさらされ、作物の育ちにくい土地だ。豊かなエステリアにありながら、そこで暮らす民の生活は決して楽ではない。
なんとかしたかった。
そして、どうせならと、領地経営に深い関心を持つミエに、認めてもらいたかった。
だから学んだ。農業も、交易も、他領の政策も。
使えそうなものがあれば試し、失敗すればまた別の方法を探した。
やがて、そんなルシアンの取り組みに興味を示したミエのほうから声をかけてくれるようになった。
それ以来、二人で領地について話す機会は増えた。
ルシアンにとって、ミエほど望ましい結婚相手はいない。
とはいえ、相手は王女だ。
彼女の周囲には、いつだって多くの男がいる。
だから、その願いはいまだ胸の内にしまっている。
いつか、自分が彼女に選ばれるに足る男になれたなら。
そんなことを考えていたときだった。
ふいに、階上から衣擦れの音がした。
ルシアンは顔を上げた。
大階段を、一人の令嬢が降りてくる。
淡い色のドレスの裾を揺らし、優雅に歩く女性。
待っていた人だった。
ルシアンは一瞬、息を止めた。
何度会っても、同じだった。
――やはり、美しい。
今日もまた、目を奪われる。
花祭りを目前に控えたこの国では、街のどこへ行っても花が咲いている。
けれど。
僕にとっての花の君は、あなたしかいない。
もちろん、そんなことを本人に言えるはずもない。
ミエは階段を降りきると、ルシアンの姿を見つけて微笑んだ。
「お待たせしてしまったかしら、ルシアン」
「いいえ。私が少し早く来ただけです」
ルシアンは姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「今日はぜひ、ミエ様に見ていただきたいものがありまして」
「あら?」
「以前お話ししたアジールとの貿易とは別に、新しい交易について考えてみたのです。陛下にお話しする前に、まずミエ様のご意見を伺いたいと思って」
言いながら、抱えていた巻紙を広げる。
現れたのは、エステリアとその周辺諸国を描いた地図だった。
「交易?」
ミエの表情が変わった。
華やかな王女の顔から、領地経営について話すときの真剣な顔になる。
ルシアンは、その変化も好きだった。
「はい。まずは、ここです」
指を置いたのは、自らが治めるダリアだった。
「ダリアを一つの中継地にして、エステリア、サルヴィア、そして将来的にはアジールまでを結ぶ交易路を作れないかと考えています」
「アジールまで?」
予想以上に大きな話だったのだろう。
ミエが目を見開いた。
「ええ。ただ、初めからそこまで広げるつもりはありません。最初に作りたいのは、サルヴィアとの流通です」
ルシアンの指が地図の上を北へ滑っていく。
「サルヴィアの山奥には、夏でも雪の残る場所があるそうです。そして、その近くに少し変わった薔薇が咲く」
「薔薇?」
「私も最初は信じませんでした。冬に花を咲かせるそうなのです」
ミエが怪訝そうに眉を寄せた。
その反応を予想していたらしく、ルシアンは少し笑った。
「ある旅商人から、実物を見せてもらいました。夏の間に芽吹き、冬になってから花を咲かせる。土地の者は『眠れる薔薇』と呼んでいるそうです」
「眠れる薔薇……」
「不思議なのは、それだけではありません」
山の厳しい寒さの中、開花した薔薇のごく一部が、花びらを開いた姿のまま凍りつくことがあるという。
それは枯れて色を失うこともなく、まるで咲いた瞬間だけを冬の中へ閉じ込めたような姿で残る。
旅商人が持っていたのも、その一つだった。
山奥の村で大切に保管されていたものを、譲り受けたのだという。
「残念ながら、自然にできるものはごくわずかです。ですから、それ自体を商品として扱うのは難しいでしょう」
「それなら、どうして――」
「同じものを、人の手で作れないかと思ったのです」
ミエがルシアンを見る。
ルシアンは地図から顔を上げた。
「なぜ花がその姿を保てるのか、正確なところはまだ分かりません。ただ、咲いた花が急激な寒さにさらされることで、色や形を残したまま水分を失っていくのではないかと考えています」
もちろん、仮説にすぎない。
だからこそ、試してみる価値がある。
「もし同じことを意図して起こせるのなら、エステリアの花を、枯らさず遠くまで運べるかもしれません」
ルシアンの指が、今度は地図を南へ下っていった。
その先にあるのは、砂漠の国アジール。
「花の育ちにくい国へ、エステリアの花を売る……?」
「はい」
ルシアンの顔が明るくなった。
「ただ、アジールまで運ぶのはまだ先です。まずダリアから何人かをサルヴィアへ送り、花を保存する技術を学ばせます。そこで方法を確立できれば、最初はサルヴィアとエステリアで商品として売りたいと考えています」
指が再び動く。
サルヴィアからエステリアに沿うように、長く連なる大河。
ルシアンの指先は、その流れをゆっくりとなぞった。
「この川を使えば、花を大量に運ぶこともできるでしょう。陸路だけで運ぶより、費用も人手も抑えられます」
そこから指先は南へ向かう。
けれど、大河を示す線は途中で離れ、その先には広い陸地だけが残った。
「問題は、アジールです」
ルシアンはそう言って、地図の上に指を置いた。
「アジールへ向かう道には、このように荷を運べる川がありません。すべてを陸路に頼ることになります」
長い道を、荷を積んだ馬車や隊商が進む。
人も馬も休まなければならない。食糧も水もいる。荷を一度集め、次の土地へ送り出す場所も必要になる。
「安定して交易を続けるためには、途中にいくつもの交易拠点を設けなければならないでしょう。人が休み、物資を補給し、荷を保管できる場所です」
ミエは地図を見つめた。
サルヴィアからエステリアへ続く川とは違い、その先にある道は、まだ何もない。
「それだけのものを、今のダリアに一度に整える力はありません」
ルシアンはあっさりと認めた。
けれど、その声に落胆はなかった。
「だから、まずはサルヴィアとエステリアで利益を上げます。その利益を少しずつ南へ回して、交易拠点を一つずつ増やしていくのです」
一つ。
その先に、もう一つ。
地図の上を進む指先が、まだ存在しない道を描いていく。
「いずれアジールまで安定した道が繋がれば、運べるものは花だけではありません」
エステリアの果実。
織物。
加工品。
その他にも、この国には外へ売れるものがいくらでもある。
「ダリアを、その中継地にしたいのです」
言い終えたルシアンの目は、期待に輝いていた。
ミエはしばらく何も言わず、広げられた地図を見つめた。
思っていたより、ずっと壮大な計画だった。
けれど、ただ大きな夢を語っているわけではない。
今使える川を使い、そこで得た利益を次の道へ回す。
まだ地図の上にしかない道を、一つずつ現実のものにしようとしている。
もし実現すれば、ダリアだけの話では済まない。
エステリアそのものに、新しい交易の道が生まれる。
けれど。
ミエの視線が、地図の北へ戻った。
「サルヴィアへ送るというのは……ダリアの民を?」
「ええ」
「でも、あの土地の者たちは――」
そこで言葉を切った。
昨日、アヤと交わした話が頭をよぎる。
王家から決して少なくない援助が送られているにもかかわらず、食べるものにも困っているという民。
そんな彼らを、今度は遠い北国へ送る。
サルヴィアの冬が厳しいことくらい、ミエも知っている。
「大丈夫です」
心配を読み取ったように、ルシアンが言った。
「そのことについても、考えてあります」
そう言って、地図の別の場所を指そうとした――そのときだった。
王宮の大扉が開いた。
外から差し込んだ光とともに、数人の男たちがロビーへ入ってくる。
先頭を歩いていたのは、淡い金髪の青年だった。
その後ろには、同じサルヴィアの騎士らしい二人。そして、身なりのよい商人風の男が続いている。
ミエの顔が、ぱっと華やいだ。
「ジェフリー様!」
ルシアンが隣を見るより早く、ミエは歩き出していた。
ほんの少し前まで、地図を前にしてダリアの民を案じていたときとは、まるで違う。
ドレスの裾が軽やかに揺れる。
王女としての慎みを忘れるほどではない。それでも、その足取りには隠しようのない弾みがあった。
「……ミエ様?」
呼びかけた声は、届かなかった。
ルシアンはしばし呆気に取られて、その後ろ姿を見送った。
やがて、胸の奥に引っかかるものがあった。
――サルヴィアから来た、美しい騎士。
一週間ほど前に聞いた噂が、今さらのように蘇る。
まさか。
慌てて巻紙をまとめ、ミエのあとを追う。
追いついたとき、ミエはすでに騎士たちの前に立っていた。
そして、その横顔を見た瞬間。
ルシアンの足が、わずかに鈍った。
頬が薄く染まっている。
瞳はいつもより明るく、唇には抑えきれないような微笑が浮かんでいた。
こんな顔をする人だったのか。
それが、最初に浮かんだことだった。
ルシアンは長いこと、ミエの目に留まりたいと願ってきた。舞踏会で声をかけた。領地について学んだ。彼女が関心を持つ政策について調べ、ときには夜更けまで机に向かった。
そうしてようやく、自分の話に耳を傾けてもらえるようになった。
笑いかけてもらったこともある。
褒められたことだって、一度や二度ではない。
けれど。
今、目の前にいるミエの顔を、ルシアンは知らなかった。
自分に向けられたことがないだけではない。
ほかのどの男を前にしても、こんなふうに頬を染めたミエを見た記憶はなかった。
その視線の先にいる男を、ルシアンは初めてまともに見た。
淡い金の髪に、澄んだ青い瞳。
整った顔立ちは、噂に尾ひれがついたと笑うには、少々出来すぎていた。
なるほど。
あれほどの噂になるのも、無理はない。
そして――。
ルシアンは、腕の中の巻紙をわずかに抱き直した。
これは、あまり歓迎できない。
そんな彼の胸中など知るはずもなく、ジェフリーはミエの前で静かに一礼した。
「ミエ王女殿下」
礼を返す声も、仕草も、よく抑えられていた。
そこに特別な親しさを見つけることはできない。
それでもミエは嬉しそうだった。
続いて後ろの二人の騎士も礼を取り、最後に商人風の男が柔らかな笑みとともに頭を下げる。
「本日は陛下にお呼びいただいておりますので、これより謁見の間の控え室へ向かうところでございます」
商人――ヴィクターがそう告げたところで、
「私もです」
ルシアンは、ほとんど反射的に口を挟んでいた。
そこで初めて、まだ自分が名乗ってすらいないことに気づいた。
「失礼いたしました。ルシアン・ヴァルモントと申します。ダリアを治めております」
巻紙を片腕に抱え直し、礼を取る。
顔を上げてから、ルシアンはごく自然なこととして付け加えた。
「ミエ姫とは、日頃より懇意にさせていただいております」
その言葉に、ミエがわずかに目を見開いた。
ジェフリーたちの視線も、一斉にルシアンへ向けられる。
「ルシアンとは、領地改革について、たびたび意見を交わしておりますの」
ミエの言葉は、ひどく早かった。
ルシアンがそちらを見る。
「領地をよりよくするという同じ目的がございますから、そのご縁で親しくお話しさせていただいているのですわ」
丁寧な言葉だった。
けれど、どういうわけか、必要以上に丁寧だった。
まるで、たった今ルシアンが口にした「懇意」という言葉から、余計な意味だけを丹念に取り除いているかのように。
そして説明を終えたミエの視線が、そっとジェフリーへ向かう。
ほんの一瞬だった。
それでも、その場にいた者たちには十分だったらしい。
アルベルトが、何かに気づいたようにセドリックを見る。
セドリックもまた、その視線を受けてわずかに目を伏せた。
二人とも口には出さなかった。
ヴィクターに至っては、最初から何も見ていなかったかのような穏やかな顔をしている。
けれど三人の間には、妙な納得だけが静かに行き交っていた。
ミエ王女は、どうやらジェフリーにだけは、ルシアンとの仲を誤解されたくないらしい。
そのことに気づいていないのは、おそらくルシアンだけだった。
「……?」
彼はただ、なぜミエがそこまで念を押すのか分からず、わずかに眉を寄せた。
ジェフリー自身はといえば、ミエの言葉に特別な反応を見せることもなかった。
「それでは、そろそろ控え室へ参りますので、我々はこれで失礼いたします」
静かに一礼する。
するとミエは、待っていたかのように顔を上げた。
「でしたら、わたくしがご案内いたしますわ」
先ほどまでルシアンと地図を覗き込んでいたときにはなかった明るさが、その声にはあった。
ルシアンはそれを聞き逃さなかった。
「それなら、僕もご一緒します」
すぐに一歩を踏み出す。
けれどミエは、少し困ったように彼を振り返った。
「申し訳ありません、ルシアン。今日はお父様がジェフリー様方とお話をなさると伺っておりますの。今からでは、あなたがお目通りを願っても難しいと思いますわ」
「ですが、先ほどの交易について、陛下にも――」
「ええ。わたくしからも、改めてお父様にお時間をいただけるようお願いしてみます」
そこでミエは、ほんのわずかに眉尻を下げた。
「せっかく足を運んでいただいたのに。残念だわ」
声音だけを聞けば、本当にそう思っているようだった。
けれど、その目はもうルシアンを見てはいなかった。
言葉とは裏腹に、残念そうな色などどこにもない。
むしろジェフリーたちのほうへ向き直った瞬間、押し隠していた喜びが、春の日差しを受けた花のように再びその顔へ戻ってくる。
「では、参りましょう。こちらですわ、ジェフリー様」
ミエはそう告げると、彼らを導くように歩き出した。
軽やかに揺れるドレスの裾を、ルシアンは黙って見つめた。
ジェフリーたちも彼に一礼し、そのあとに続いていく。
やがて一行はロビーの奥へと遠ざかっていった。
ミエは、一度も振り返らなかった。




