11. ミエの憂鬱
王宮の重厚な扉の向こうから、静寂を引き裂くような怒声が響いた。
「くどい!」
ほどなくして執務室の扉が勢いよく開き、エステリア王国の国王が険しい顔のまま廊下へ出てきた。その背を追うように、次女のミエが飛び出してくる。
「ルシアンは、お父様が思っているような人ではありません!」
国王は足を止めない。
その背中に向かって、ミエは必死に言葉を重ねた。
「国境交易は、ルシアンの領地が貧しさから抜け出すために必要なのです。あの土地では、エステリアの民でありながら、今も毎日の食事に困っている人たちがいるのです。海から吹きつける潮風と、塩を含んだ霧のせいで作物も満足に育たない。だから――」
そこでようやく、国王の足が止まった。
振り返った父に、ミエは縋るような眼差しを向ける。
「あの領地はアジールとの国境にあります。古い貿易規制を見直すか、せめて特例として交易を認めてくだされば、領民たちが自分たちの力で暮らしていく道を作れるのです」
「あの領地への援助は、これまでも十分に行っている」
低い声で遮られ、ミエは唇を噛んだ。
「十分ではないから、今も貧しいままなのです!」
「これ以上の援助や規制の改定が必要だというのなら、問題は別のところにある!」
その一言に、ミエの顔からさっと血の気が引いた。
しばし言葉を失ったあと、震える声で問いかける。
「……ルシアンには、領地を治める能力がないとおっしゃるのですか?」
国王は答えなかった。
何かを言いかけるように口を開き、それでも結局は言葉を呑み込むと、娘に背を向けて歩き去っていく。
取り残されたミエは俯いた。
目の奥が熱い。けれど、ここで泣くものかと懸命に堪えた。
困り果てて自分を頼ってきたルシアンを、どうしても助けてあげたかった。
ただ、それだけなのに。
ルシアン・ヴァルモント。
今年二十歳になるヴァルモント伯爵家の一人息子であり、若くして国境近くの領地を任されている青年である。
彼の治める土地は、切り立った断崖の向こうに荒々しい海が広がり、年中吹きつける潮風と塩を含んだ霧が作物の生育を妨げていた。
さらに、砂漠に囲まれた隣国アジールとの境に位置するため、交易には厳しい規制が敷かれている。痩せた土地を補うために交易を盛んにしようにも、自由には動けない。
若い領主がどうにか領民を救おうと奔走する姿を見て、ミエもこれまで、婦人会で貴族の夫人や令嬢たちに寄付を募ったり、有力者に口添えを頼んだりと、できる限り彼を支えてきた。
だが、それにも限界がある。
ルシアンが望んでいるのは一時の施しではない。
アジールとの特例交易を認めてもらい、国境という立地を生かした新たな特産物を作ること。それこそが、貧しい領地を立て直す道なのだと、彼はミエに語っていた。
父娘の激しい言い争いが終わるころには、近くにいた侍女や召使いたちは、皆そっと姿を消していた。
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その頃、王宮の奥まった一室では、アヤが一人、机に向かっていた。
机の上には、王宮図書館から借り出した何冊もの書物が積み上げられている。
どれも「龍の涙」について触れたものだった。
アヤは一冊ずつ頁をめくり、気になる記述を見つけては紙に書き留めていく。
本当なら、あの禁書をもう一度じっくり読みたかった。
けれど、禁書は図書館から持ち出すことができないうえ、日没とともに図書館そのものが閉ざされる。明日にはジェフリーが城へやってくるという限られた時間の中で、今夜は手元にある文献から少しでも多くの手掛かりを拾っておくしかなかった。
しかし――。
何冊読んでも、書かれていることは似たり寄ったりだった。
慈愛の心に触れた龍が涙を流し、その涙が奇跡を起こした。
そんな御伽噺めいた伝承ばかりが、形を変えながら繰り返されている。
あの禁書に記されていたことなど、初めからこの世に存在しなかったかのように。
真実だけを、人々の記憶から丹念に塗り潰していったかのように。
「……やっぱり、明日もう一度、禁書を読むしかないわね」
アヤは小さく呟き、手元の紙に目を落とした。
「持ち出せないのだから、なるべく早く図書館へ行かなくちゃ」
そうして次の頁へ手を伸ばした、そのときだった。
扉が勢いよく開いた。
「お姉様、聞いて!」
静かな部屋に、聞き慣れた声が響き渡る。
アヤは頁に置いた指を止めた。
顔を上げれば、扉のところにミエが立っている。大きな瞳いっぱいに涙を溜め、頬まで赤くしていた。
「どうしたの、ミエ」
「お父様が、私の話をまったく聞いてくれないの!」
――ああ、またか。
アヤは心の中だけで小さく息をつき、視線を書物へ戻した。
けれど、ミエはそんな姉の様子など気にも留めず、ずかずかと部屋へ入ってくる。
「国境近くの領地では、今だってみんな苦しい暮らしをしているのよ。それなのに、お父様はこれ以上の援助はできないって、全然取り合ってくださらないの!」
「国境近くの領地?」
「ルシアンのところよ!」
その名前に、アヤは記憶を探った。
ルシアン。
そういえば、ミエを訪ねて何度か城へ来ていた青年がいた。年若いわりには人当たりがよく、いつも穏やかな笑みを浮かべていたように思う。
「ルシアンがどれだけ苦労して領民を助けようとしているのか、お父様は何もわかっていないのよ。交易ができれば領地を立て直せるのに、今の支援で十分だって、そればかりで……」
アヤは頁から目を離さないまま尋ねた。
「お父様がおっしゃっていた支援というのは、どれくらいのものか尋ねた?」
「聞いたわよ」
ミエは憤然として答える。
「毎年、小麦を荷馬車で五十台分も送っているって。でも、それでも全然足りないのよ!」
そこで、アヤの指が止まった。
――荷馬車五十台分?
記憶が正しければ、ルシアンの領地に暮らす人間は五百人ほどだったはずだ。
もちろん、小麦だけで一年を暮らせるわけではない。だが、五百人ほどの領民に対する救援物資として考えれば、決して少ない量ではなかった。
「小麦だけ?」
「豆や塩漬けの肉も、荷馬車五台分くらい送っているって言っていたわ。でも、あそこは天候が厳しいから、せっかく支援を受け取っても、すぐに腐ってしまうんですって。ルシアンもそれで困っているのよ」
アヤはようやく本から顔を上げた。
食糧支援は、一年分を一度にまとめて送りつけるものではない。
輸送路や保管の問題もあるため、季節に合わせて何度かに分けるのが普通だ。
それなのに、届いた食糧が腐るため足りないという。
何かが、妙だった。
ただ、ルシアンはまだ若い。
領地を任されて日も浅く、経験も十分とはいえないだろう。領民を飢えさせまいと必死になるあまり、うまく手が回っていないだけなのかもしれない。
「ミエ」
「なに?」
「一度、ルシアンから詳しい状況を聞いてみたほうがいいわ。何が、どれくらい足りないのか。支援された食糧が、いつ、どれほど届いて、そのうちどれだけが領民に渡っているのか。具体的な数字を出してもらうの」
ミエの眉が寄った。
「ルシアンには何度も聞いたわ」
「そうなの?」
「聞くたびに、どんどん状況が悪くなっているのよ。足りないものが多すぎるんだもの。今だって、子供たちは一日に一度しか食事ができなくて、パンすら食べられない日が何日も続いているのよ」
アヤは黙った。
五百人ほどの領地。
毎年送られている小麦。
それ以外の食糧。
そして、一日一度の食事すら満足に取れない子供たち。
頭の中で並べてみても、どうにも噛み合わない。
「……あなたは、その領地へ行ったことがあるの?」
「あるわよ!」
ミエは身を乗り出した。
「みんな、本当に飢えていたわ。私、あんなに惨めな暮らしをしているなんて知らなくて……見ていたら涙が出てきてしまったもの」
思い出したのか、ミエの声が震える。
「小さな子がいたの。とても痩せていて……手元にあったキャンディを一つあげたら、本当に嬉しそうに笑ったのよ。それで、『死ぬまでにこんなに美味しいお菓子を食べられて幸せだ』って……」
ミエは両手で顔を覆った。
その肩が、小さく震えている。
自分の目で見たというのなら、領民たちが困窮していること自体は間違いないのだろう。
ならば問題は別にある。
――なぜ、そこまでの貧困が続いているのか。
王家から支援が送られているにもかかわらず、なぜ子供たちに食糧が届いていないのか。
「お父様にも、何かお考えがあるのかもしれないわね。もう一度、きちんと話を聞いてみたほうがいいわ」
「お姉様が代わりに聞いてよ!」
あまりに素早い返事に、アヤは瞬きをした。
「でもね、ミエ。この問題はルシアンの領地のことでしょう? ルシアンがあなたを頼っているのなら、お父様と話すのもあなたが――」
「お父様は私の話なんて聞いてくれないもの……」
先ほどまでの勢いはどこへやら、ミエはしゅんと肩を落とした。
「お母様にも相談したのよ。でも、お父様を説得するのは無理だって。手伝ってもくださらなかったわ」
――なるほど。
アヤはようやく理解した。
父に直談判し、母にも泣きつき、それでもどうにもならなかった末に、自分のところへやって来たらしい。
机の上へ視線を落とす。
積み上がった書物。
途中までしか読み終えていない文献。
明日は朝から図書館へ行き、禁書を調べなくてはならない。ジェフリーが城へ来るまでに、できる限りのことをしておきたかった。
やることはいくらでもある。
けれど、目の前では、妹が今にも泣きそうな顔をしている。
アヤは小さく息を吐いた。
「……わかったわ」
「え?」
「明日、それとなくお父様に聞いてみましょう。あなたも一緒にいらっしゃい。わたくしも同席して、話を聞くから」
ぱっと、ミエの顔が明るくなった。
「本当? ありがとう、お姉様!」
先ほどまで涙を浮かべていたのが嘘のようだった。
普段は姉と並んで歩くことさえ嫌がり、人目があれば露骨に距離を取るくせに、こういうときだけは幼い頃と変わらない顔で笑う。
そしてミエは知っているのだ。
自分がいくら声を張り上げても耳を貸さない父が、アヤの言葉ならば、少なくとも最後までは聞くことを。
ひとまず悩みの種を姉に預けて安心したのだろう。
ミエは来たときとは別人のような軽い足取りで、部屋を出ていった。
扉が閉じる。
ようやく静寂が戻ってきた。
アヤはしばらく閉じた扉を見つめ、それから机へ向き直った。
――これで、やっと龍の涙に集中できる。
椅子に深く腰を下ろし、読みかけの本を手に取る。
そして頁を開こうとした、まさにそのとき。
ばん、と。
つい先ほど閉じたばかりの扉が、再び盛大に開け放たれ、マリサが慌ただしく顔を覗かせた。
「お姉様、大変よ!」
アヤの手が止まる。
「お母様が、花祭りのパレードで着る私のドレスは派手すぎるから駄目だって言うのよ! 私のセンスが最悪だなんて、あんまりだわ!」
アヤは何も言わなかった。
しばらく読みかけの頁を見つめたあと、そっと栞を挟んで本を閉じる。
そして、静かに天を仰いだ。




