EP2. 王樹
セトは左手を下ろした。
何をすればいいのか、少しの間分からなくなっていた。まず町へ出て、旅人ギルドを探す。そのつもりだったのに、今は目の前の機械から離れがたい。
十億分の一。
その数字をもう一度考えてみても、自分に起きたこととしてうまく収まらなかった。
ふと、さっき受け取った本を思い出す。
旅人の書を開こうとすると、胸の前に表紙が現れた。技能の章を思い浮かべる。ひとりでにページがめくれ、途中で止まった。
そこに樹が描かれていた。
ページの中央に細い幹が伸び、金色の枝が広がっている。枝先には、髪の毛ほどの細い線まで描き込まれていた。
セトは顔を近づけた。
幹にはいくつもの筋が走っていた。その内側を赤みのある光がゆっくり通り、枝の分かれ目へ流れていく。先へ進むにつれて薄れ、やがて金色の線に溶け込んだ。
しばらくすると、根元にまた小さな明かりがともった。
これまで遊んだゲームにもスキルツリーはあった。覚えたい技能まで線をたどり、途中で必要になるものを数える。分かれ道で迷い、取り方を考えるのも楽しかった。
目の前のものには、そういう見取り図がない。
枝がこの先どちらへ伸びるのかも、どんな形に育つのかも分からなかった。
ページの下には《王樹》という文字がある。指先で触れると、樹の傍らに説明が開いた。
◇――――――――――
《王樹》
王のみが持つ、一般技能と王技を宿した特別な樹。
鍛錬と実践によって一般技能の枝を伸ばす。
王固有の条件を満たすと、新たな王技が顕現する。
◇――――――――――
短い説明を読み終え、セトはその下を見た。
続きはなかった。
剣の扱いも、これから覚える仕事の技術も、この樹に育っていく。けれど、王技はどうすれば増えるのか。その条件は書かれていない。
もう一度樹を見ると、幹から分かれた枝の一つに文字が添えられていた。ほかの枝には何もない。その文字へ指を伸ばす。
◇――――――――――
第一王技《纏火》
掌に炎を生み、手から腕へ纏わせる。
纏った炎は拳の一撃とともに対象へ叩き込み、命中した箇所から広がる。
小さく灯せば、照明や保温、着火にも用いられる。
◇――――――――――
「纏火……」
声に出してから左の掌を見た。
ここに火を灯せる。握り込めば、その火を腕へ纏える。
さっきから分かっていたことに、ようやく名前がついた。
ガイドブックを閉じ、機械と武具の台から離れる。何も置かれていない床に立ち、左の袖を肘までまくった。
いきなり大きな火は要らない。
掌を上へ向け、そこに小さく灯そうと思った。
指の付け根に光が生まれた。
セトは息を止めた。
橙色の炎が掌の上で揺れていた。指一本ほどの高さしかない。それでも、指の間から漏れた光が袖の折り目を照らし、足元の石に濃い影を作った。
右手をそっと近づける。火の真上まで持っていくと、指先が温かくなった。
左手は熱くない。
火を載せたまま指を一本ずつ動かしてみる。炎は指の動きに揺れながら、掌から離れなかった。
「本当に出た」
声にすると、笑みがこぼれた。
手を横へ動かす。火もついてくる。少し小さくしようとすると、明かりが弱まった。戻すとまた石の継ぎ目が見える。
セトはその継ぎ目を照らしながら、ゆっくり掌を閉じた。
指の隙間から火が噴いた。
驚いて肘を引く。炎は手首を一巡し、腕に沿って駆け上がった。まくった袖へ届く前に抑えると、肘の下で揺らめいて止まる。
機械の金色が、炎を映して赤く光っていた。
このまま肩まで纏い、踏み込んで拳を打ち出せる。その動かし方が分かる。けれど、目の前の空間へ向けて拳を引いたところで、セトは動きを止めた。
腰の鞘が脚に当たっていた。
少し足を開く。今度は左のつま先が内側へ向きすぎた気がして、置き直した。
炎の動かし方は分かっても、自分の構えがいいのかは分からない。
ここには殴って確かめられるものもなかった。拳をほどき、火を消す。光はすっと退き、腕には元の薄明かりだけが残った。
セトは左腕へ右手を当てた。傷はなく、指で押せば普段と同じように皮膚がへこむ。袖を下ろすと、さっきまで炎のあった場所を布がこすった。
剣を選んだときには、こんな戦い方をするとは思っていなかった。
右手で剣を持ち、左手で火を使う。それなら両方使えそうだ。ただ、剣が届くところから殴ろうとしても拳は届かない。もっと近づかなければならないし、近づけば相手の攻撃も受けやすくなる。
火が出せるからといって、いきなり上手に戦えるわけではなさそうだった。
外に出たら、剣の振り方と一緒に練習しよう。
もう一度旅人の書を呼ぶ。
王樹はさっきと同じ姿でページに立っていた。名前のない枝を指でなぞってみたが、新しい説明は現れない。
第一というからには、その先がある。
次はどんな力なのだろう。今より大きな火を出せるのか。それとも、まったく違うことができるようになるのか。
第二、その先の第三。枝が伸びるたびに、できることも増えていくのだろうか。
幹を流れる光を眺めていると、すぐにでも育ててみたくなる。けれど、肝心の育て方は分からなかった。
他のゲームなら、強い敵を倒したときに新しい技能を得ることがあった。特別な依頼を最後まで進めて、ようやく使えるようになるものもあった。
WORLDでも似たようなことはあるかもしれない。
あるいは、今思いついた二つとも外れているかもしれなかった。
セトは記録の章を開いた。空いているページに指を触れ、短く書きつける。
王樹。強い敵? 特別な依頼?
二つの疑問符を見て、口元を緩めた。自分の樹なのに、分からないことばかりだ。
何の手掛かりもないまま、育つかどうかだけを気にして過ごすのはもったいない。調べておいた仕事を受けよう。町を見て、外へ出て、道具と身体の使い方を覚える。その間に何か分かれば書き足せばいい。
樹が育ったときには、今の姿と見比べてみたい。
技能の章へ戻り、枝の形をもう一度眺めてから本を閉じた。
機械の前へ戻ると、数字の下に行き先の表示が出ていた。
《始まりの村へ》
セトは腰の左右に手をやった。左には剣、右には道具袋。留め具を確かめてから文字に触れる。
足元の石が白く光った。
*
風が頬をなでた。
同時に、いくつもの声が耳へ入ってきた。
セトは広い石畳の端に立っていた。頭上には黒い空がある。建物の壁から張り出した灯りが通りを照らし、その下を人が行き交っていた。
鎧を着た人ばかりではなかった。白い前掛けをつけた男が籠を運び、長椅子では三人の女が飲み物を片手に話している。窓の開いた二階から笑い声が降り、通りの向こうで車輪が石を踏む音がした。
深夜なのに、町はまだ眠っていなかった。
ふいに、焼けた油と香草の匂いが流れてきた。
顔を向けると、通り沿いの店で男が鉄板の上の肉を返していた。立ち上る湯気が灯りを白くぼかす。店先にいた客が何かを言い、男は笑ってもう一切れ皿へ載せた。
見ていると、腹が減った気がした。
町へ出たら最初にギルドへ行く。そのつもりだったことを思い出し、いったん視線を外す。
その先にも店があった。さらに先にも灯りが続き、建物の重なる奥へ道が消えている。
《始まりの村》。WORLDを訪れる旅人が、最初に降り立つ場所だ。
冒険の支度を整えて、ほかの町へ向かう者もいる。ここに店を構える者もいれば、買い物や友人との食事を楽しむために通う者もいる。モンスターと戦わず、この町で日々を過ごす旅人も少なくなかった。
世界中から人が集まり、利用者が増えるにつれて、町は外へ外へと広がっていった。家が建ち、通りが延び、新しい店が開く。町をモンスターから守る城壁も、その広がりに合わせて少しずつ外側へ移っていく。
村という名前が残っているだけで、今では大きな商業都市だ。そのことは、来る前に調べて知っていた。
セトは建物の間へ目を向けた。
町を囲む城壁がどこにあるのか、ここからは見当もつかなかった。
「すみません。そちら、通ります」
横から声をかけられた。振り向くと、小さな荷車を押す女がいた。
「あ、はい」
慌てて一歩よける。女は軽く頭を下げ、車輪を鳴らして通りへ入っていった。積まれた空の籠が揺れ、木の触れ合う乾いた音が遠ざかる。
その後ろを、剣を下げた若い男が二人で歩いていく。
セトも石畳を踏み出した。
通りへ入ると、人の流れは思っていたより速かった。すれ違う肩を避けながら、店々の看板へ目を向ける。
まずはギルドを探そう。
肉を焼く店の前を通ったとき、看板と一緒に値札も覚えておいた。




