EP1. 零時の向こう
四月一日になるまで、あと一分だった。
白瀬湊はベッドに仰向けになり、枕元の接続機に手を伸ばした。部屋の明かりはもう消してある。起動すると、見慣れた天井が暗く隠れ、代わりに時刻と接続の案内が浮かんだ。
中学校を卒業してからこの日を待っていた。
高校へは行かないと告げたときの保護者の顔がふと浮かぶ。心配をかけている。それは分かっていた。次に会うときには、少しでも安心できる話を持っていきたい。
仕事を覚えて自分で稼ぐ。装備を揃え、強くなって、行ける場所を増やしていく。
調べたいことは調べた。それでも画面の向こうにしかなかった世界へ、ようやく自分の足で入れる。
数字が変わった。
四月一日、午前零時。
湊は接続を選んだ。
*
足の裏に床の硬さを感じた。
湊は立っていた。片足に体重を移すと、靴底が床を捉える。曲げた膝も、下ろした踵も、思ったとおりに動いた。
顔を上げる。
薄暗い部屋だった。足元には淡い灰色の石が敷かれ、その継ぎ目が前方へ続いている。壁際は暗く、天井は見えない。少し離れたところで、一台の機械だけが柔らかな光を受けていた。
黄金色をした古い型のスロットマシン。
まずそちらへ歩こうとして、自分の足音に思わず下を見た。
一歩、もう一歩。広い部屋の奥から、小さく音が返ってくる。
「……すごいな」
聞こえた声まで、いつもの自分だった。
《WORLD》。意識ごと仮想世界へ入り、そこで体を動かすフルダイブ型MMOゲームだ。
剣や魔法で魔物に挑む者もいれば、町に店を構える者もいる。現実にはない景色を見に出かけたり、友人と食卓を囲んだりするために訪れる人もいた。公開から20年近くが過ぎ、世界中の人々が暮らしの一部をここで営むようになった。
この世界で働いて得た金は、現実の生活費にもなる。仕事を覚え、品物を売り、誰かの依頼を引き受ける。そうして生計を立てる人も、今では珍しくない。
知っている。何度も調べたし、映像も見た。
それでも、足音までは知らなかった。
前髪が額に触れている。指で払えば、毛先が指の背をかすめた。湊はその手を一度握り、開いてから、今度は機械へ向かって歩いた。
近づくと、正面に淡い文字が浮かんだ。
旅人登録。
その下には、名前を記入する空欄がある。
現実からWORLDへ入る者は、旅人と呼ばれる。登録する名前は、前から決めていた。
「セト」
口にした名前が欄を埋めた。読み直し、間違いがないことを確かめて、指先で確認に触れる。
登録が完了しました、と声がした。
続いて、一冊の本が胸の前に現れた。差し出した手に載る前に止まり、宙に浮いている。厚みのある表紙には《旅人の書》と記されていた。
ガイドブックだ。
自分の能力や覚えた技能を確かめるための本で、呼び出し方も予習してある。けれど、実物が手の届くところに浮いていると、裏側まで見たくなった。
セトは少し横へ回り込み、本の背を眺めた。どこにも支えはない。下へ手を通してみてから、口元を緩める。
本をしまおうと意識すると、姿が消えた。それに続いて、機械の左手に明かりがともる。
壁際に、武具が並んでいた。
台の奥に槍が立てられ、隣には弓が掛かっている。端に置かれた大盾は、身をかがめれば体をすっぽり隠せそうだった。手前には何本かの剣と、小さな道具袋がある。
袋の脇の券を取り上げると、《初期武具引換券》と読めた。
ここから一つ、無料で選べる。
セトは槍を見上げた。長い柄の先に、細い穂先が光っている。離れたところから攻撃できるのはよさそうだが、狭い場所で持て余さずに使う自信はなかった。
大盾にも目を向けてから、手前の剣へ戻る。
一人で始めるのだから、まずは自分で攻められるものが欲しい。調べてきた候補も直剣だった。振るだけでなく、突いて使える。背丈を越える武器より、持ち歩く場所にも困らなそうだ。
飾りの少ない一本を手に取り、何もない床のほうへ切先を向けた。
思っていたよりも、先が重い。
柄を握り直し、肘を少し曲げて支える。画面の中では何度も剣を使った。けれど、これを振って何かに当てるには練習が要りそうだった。
切先を上げ、光を受けた刃を眺める。
「これにしよう」
券を台の差し込み口へ入れると、引き換えの完了を告げる声がした。
セトは直剣を鞘に収め、左の腰へ取り付けた。続いて道具袋を開けると、採取用のナイフと、ポーションの瓶が見える。中身を確かめて口を閉じ、こちらは右の腰へ下げた。
機械へ戻る数歩の間、鞘が脚に触れた。腰で留める位置を少し直す。
その重みを確かめながら、金色の機械の前に立った。
正面の小さな銘板には、《運命のスロット》とあった。
横一列に並ぶ窓は十個。その中に、数字を刻んだ円筒が一つずつ収まっている。窓を縁取る金属は、磨かれた角が白く光り、細かな彫り目には影がたまっていた。右側からは、丸い握りのついたレバーが突き出している。
写真で見るより大きい。十個の窓をいっぺんに見渡すには、半歩ほど下がったほうがよさそうだった。
ここで決まるのは、単なる記念品ではない。
同じ数字が横にいくつ続くかによって、この世界での力に差がつく。二つなら二揃い、三つなら三揃い。揃いが多いほど、大きな恩恵を得られる。
多くの人は、何も揃わずに始めるという。
セトも、そのつもりで仕事や装備を調べてきた。最初は一人で受けられる依頼から。必要なものを買う金まで宿代に使ってしまわないように、泊まる場所の相場も見た。
その途中で、少し困ったことになった。
宿を調べると、料理の写真も出てくる。料理から町の紹介へ進み、町の写真に橋が写っていれば、その先が気になる。気がつくと、初心者の仕事とは何の関係もない遠い土地を見ていた。
今の自分では近寄れない場所も、多い。
だから、恩恵をもらえるなら欲しい。まずは二つ。できれば三つくらい。
三つ揃うだけでも、百人に一人ほどだ。
「……十分、欲張ってるか」
呟きながらレバーを握ると、指の腹にひやりとした金属が触れた。
こんな感触まで、ある。
握りを持ち直し、セトは機械の前に足を据えた。
押し下げたレバーには重さがあった。途中から抵抗が強くなり、腕にも力を込める。最後まで引き切ると、内部で歯車の噛み合う音がした。
十個の円筒が、一斉に回り始めた。
窓の中を数字が流れていく。最初のうちは目で追えたものが、すぐに縦の線になった。手を離すと、レバーはゆっくり元の位置へ戻る。
セトは半歩下がった。
金属の触れ合う細かな音が重なっている。どの窓から止まるのか。セトの視線が、右へ左へ動いた。
左端の回転が少し遅くなる。数字の形が見え始め、一つ、二つと通り過ぎた。
かちり。
最初の窓に、0が止まった。
隣も速度を落とす。今度はそこだけを見ていた。
0。
「お」
揃った。小さく息を漏らす間に、三つ目が止まった。それも、0だった。
セトは思わず笑った。さっき口にした欲張りな願いが、そのまま目の前に並んでいる。これなら、最初に思っていたより――
四つ目の音がした。
0。
続いて五つ目。同じ数字だった。
笑いが引っ込んだ。機械へ身を寄せかけ、十個の窓が見えにくくなると気づいて、足を止める。
六つ目、七つ目が、続けて止まった。どちらも0だった。
もう、声は出なかった。
右端の三つだけが動いている。止まった窓へ目を戻したかったが、その間に次が止まるのが怖かった。八つ目の数字が、ゆっくりと下りてくる。
0。
音の数が減った。さっきまで重なっていた回転音が、今は二つに聞き分けられる。
セトは空いた右手を握りしめていた。
九つ目が止まる。0。
《一欠け》。王に、あと一つ届かなかった者。調べたときに覚えた呼び名が浮かび、すぐに消えた。最後の円筒は、まだ動いている。
十個すべてが揃う確率は、およそ十億分の一。
そこまで来た人間を、この世界では何と呼ぶのか。それも知っていた。
最後の窓を、数字が一つ通り過ぎた。
もう一つ。
かちり、と軽い音がした。
0000000000
機械の中が静かになった。
セトは、止まった数字を左から数え直した。途中で間違えた気がして、もう一度、今度は指を添えて数える。
十個あった。すべて、0だった。
窓の下に、新しい文字が浮かぶ。
《王樹》
それを見た瞬間、左の掌へ意識が向いた。
何も持っていない。なのに、ここへ火を灯せると分かった。掌から腕へと広げることも、消すことも。まだ一度も試していない動かし方が、自分の中にあった。
セトはそっと手を開いた。
細い指も、掌の線も、さっきと変わらない。
「僕が……王?」
自分の声が、がらんとした部屋に小さく返った。
返事をする者はいなかった。
目の前には十個の0が並び、もう一方の手にはレバーを引いたときの冷たさが残っていた。




