第六話 哀しい日のラブレター
冬の初め、紗季は帳面を探していた。
次の稽古で使う一節が、どこに書いてあるのか分からなかった。
床に鞄を広げ、古い台本を出し、ページをめくった。
ふと、日付が目に入った。
図書館へ行った日だった。
今日は、話せてよかった。
紗季はその先を読んだ。
自分の字なのに、久しぶりに聞く声のようだった。
うまく説明できなくても、話してよかった。
あの日、椅子をどちらへ向ければいいか迷った。
暖房が利きすぎて、途中で袖をまくった。
先生は、二杯目のお茶を注ぐ時、少しこぼした。
その時の、困った顔まで浮かんだ。
紗季は帳面を膝に置き、携帯を開いた。
修一とのやり取りは、先月のところで止まっていた。
彼からの返事を、読んだままにしていた。
どうして、こんなに経ってしまったのだろう。
入力欄に、久しぶりです、と書いた。
その後が続かず、消した。
今日は何か話せることがあっただろうか。
帳面の下の方に、修一の文章が書き写してあった。
でも、また話せると思って、帰ってきた。
紗季は、台所の流しにある、欠けた湯呑みを見た。
今朝、洗いながら、先生なら直せるのかと思った。
その時には、思っただけだった。
同じ晩、修一は引き出しを閉めかけていた。
仕事の領収書をしまおうとして、封筒が目に入った。
うまく話せなくなった日に。
自分で書いた文字だった。
封筒の端は、少し反っていた。
最近、便りが来なくなった。
修一も、何を送ればいいのか分からなくなっていた。
話してくれると言ったのに、と考えた夜がある。
その言葉を、そのまま送らずに済んだことだけを、よしとしていた。
封筒から、折った紙を出した。
寒いところだと、右手が痛むでしょう。
あの日、彼女は言った。
自分に会うために、電話を三つかけた。
そのことを何度も嬉しく思ったはずなのに、今夜の修一は、来ない便りばかり数えていた。
彼女の字へ、目を移した。
うまく説明できなくても、話してよかった。
修一は紙を机に置いた。
最後に交わした便りを開いた。
自分の返事は短かった。
あの時は仕事の電話が入り、後でゆっくり書こうと思っていた。
それきりだった。
修一は、その返事の後ろにある彼女の暮らしを、久しぶりに思った。
自分の知らない稽古場と、台所と、洗い終わらない茶碗。
携帯を取った時、画面が明るくなった。
《今日、朝、お茶碗を欠かしてしまいました》
写真が続いた。
青い線の入った湯呑みだった。
指が、欠けた縁を避けて添えられていた。
《こういうの、直せますか》
修一は息を吐いた。
指先で写真を大きくした。
《私には直せない。でも、直せる人を知ってる》
少し考え、もう一行足した。
《朝、それを見て、私を思い出したの?》
《はい》
すぐに返事が来た。
《夜には、図書館の日の帳面を読みました》
修一は机の紙を見た。
鉛筆で書いたところは、折り目に沿って薄くなっていた。
《私も今、読んでいたよ》
紗季はその返事を、帳面の横に置いた。
窓の外では、向かいの家の明かりが一つ消えた。
明日も、いつもの暮らしがある。
修一と次に会う日は、まだ決まっていない。
《また、お茶を飲みたいです》
送ってから、紗季は欠けた湯呑みを棚の手前に置いた。
修一は、冷えた自分の湯呑みを持って立ち上がった。
返事を考えながら、湯を沸かした。
会いたい人がいる。
けれど、何を話せばいいのか分からない。
言葉を探しているうちに日が過ぎて、ますます話しかけにくくなる。相手から届かない便りを数えながら、自分も送れていないことには、なかなか気づけない。
修一と紗季にも、そんな時間がありました。
この物語で二人が残したのは、次に会う日や、連絡の回数を決める約束ではありません。
うまく話せなかったことも含めて、あの日、話せてよかったという記録でした。
それでも、日々の暮らしの中では、寂しくなるし、返事も遅れます。一度分かり合えたからといって、その温かさを、いつでも同じように思い出せるわけではないのでしょう。
だからこそ、言葉にして残しておく。
哀しい日に読み返した時、自分の寂しさの向こうに、相手の暮らしがもう一度見えてくる。あの時、自分を気にかけてくれた人の声が聞こえる。
「幸せの処方箋」という題名には、そんな願いを込めました。
誰にでも効くものではないのかもしれません。
二人にとってさえ、読み返す日によって、響く一行は違う気がします。
それでも、欠けた湯呑みの写真を送ってみようと思えた。
その便りを受け取り、お湯を沸かす人がいた。
今は、そのくらいのところから、また話し始められたらと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
二人のこれからにも、もう少しお付き合いいただけましたら嬉しいです。
Stracchino




