第6話 マザー
動かぬ鎧の山のそばで、アルエットは膝をついた。
抱えていた真新しいブーツが地面に転がり落ちた。
洗いざらい打ち明けた。
1年前、人形の魔女の家で寝たきりの状態で目覚めてからの記憶しかないこと。
なぜ逃げ出したのか、一人では遠くへ行けないこと。
どれほど怖くて、心細かったか。
夜風が吹き抜け、谷の白い釣鐘草を揺らした。
返事はなかった。
アルエットは自分の無力さを恥じ、肩を落とした。
ユークリッドのように、この人もまた「魂の星座」へ逝ってしまったのか。
あるいは、自分のことなど、どうでもいいのかもしれない。
スカートを握りしめ、瞳に涙が滲んだ。
ユークリッドを呼び出したかったが、それはあまりに惨めだ。
必死な自分を罵り、頬を引っ張って星へ帰っていくだけだろう。
そう思うと、嗚咽混じりの笑みがこぼれ、袖で涙を拭った。
聞き慣れない声が夜を引き裂いた。
「あんたが人形の魔女? 立ちなさいよ。ドミニオンを頂きに来たわ」
立ち上がる気力も、否定する気力も残っていない。
辛うじて肩越しに振り返ると、紫色の膨らんだドレスを着た少女がいた。
つばの広い帽子には、大きなリボンに挟まれて操り人形やドールが乗っていた。
生意気な十代のような口調だが、人間ではなかった。
顔や関節に施された花のような艶と左右対称の線が、それを証明していた。
挑戦者の背後には、先日の白い熊が控えていた。
毛皮、爪、鼻、目、すべてが色を失っていた。血さえも透明なのだろう。
「正義の魔女」の使い魔となった生き物の末路だ。
決闘を見届けるために来たのだ。
挑戦者には決闘を要求する権利があり、ドミニオン保持者はその称号を守るか、放棄するかを選ばなければならない。
「あげるよ」
スカートの裾を見つめたまま、アルエットは呟いた。
「逆に、この手を外してほしい」
挑戦者の目がぴくりと動いた。
「人形」のドミニオンが、こんな弱々しく無気力な奴のものだなんて。
保持者がこれほど無様な振る舞いを見せるなど、前代未聞の冒涜だ。
願いを叶えてやろうと人形が威圧的に歩み寄るたび、木のぶつかる音が響いた。
カタ、カタ、カタ。
ひどく懐かしい音がした。
工房の音だ。闇の中のキャビネット。
受け入れるよう骨のように白い指を伸ばす、本物の「人形の魔女」。
彼女自身の関節の音。
もううんざりだった。何が起きようと受け入れるほうが楽だ。
そうすれば、自分を縛り付ける魔術の結び目も断ち切れるかもしれない。
確かに、序章の終わりだった。
鋭い風が谷を吹き抜け、彼女の目を見開かせた。
舞い上がった花びらが、土に落ちる前の涙を受け止める。
息を呑んで見ると、ブーツごと鎧が消えていた。
視界から消えたのは、隣に立つためだったのだ。
振り返ると、堂々と戦う構えを見せる彼の背中があった。
ほつれたスカーフが、彼女を守るように影を落とす。
彼は安心させるように一瞥し、前を向いた。
アルエットの胸が高鳴り、かつてないほど彼の名を知りたいと願った。
挑戦者は腕を組んだ。
「お母様、こいつらなら楽勝だわね!」
お母様?
白い熊が唸り声を上げて野原の中央へ歩み出たが、二人の間には入らなかった。
犬のような鳴き声を上げ、審判の準備ができたことを伝えた。
あとは決闘の条件を決めるだけだ。
アルエットは鎧のベルトを引っ張った。
「私のために戦わなくていいの! 降参するから」
彼は彼女の気持ちを理解していた。
つい数分前、自分は本物の人形の魔女ではないと墓前で泣いていた。
だがドミニオンの重さを考えれば、ドールが託したのには理由があるはずだ。
彼は左右を見回し、屈み込んで草をむしり取った。
まず自分を指差し、一文字ずつ綴っていた。
草が土に置かれるたび、アルエットは読み上げた。
「G……U」
暗闇の中でその判別を待ち、一つずつ頷いてから続けた。
「Y、O、T。……グィオット?」
大切な人から贈られた、宝物のような名前。
少女の顔が混乱、驚き、そして喜びに満ちた。
「わ、私、アルエット。『グィオット』があなたの名前? 読み方、合ってる?」
彼は頷いて一礼し、ドールの手を取った。
木の指を握りこませ、アルエットの掌に預けた。
どんなに望まぬものであろうと、人形の魔女はこのかけがえのない資産を彼女に貸しているのだ。
アルエットが彼と再び対峙する時まで、大切に扱うのが礼儀というものだろう。
彼女は頷き返し、グィオットを――そしてほんの少しだけ人形の魔女を――信じることにした。
「早くしなさいよ!」
挑戦者が野次を飛ばした。
グィオットは一呼吸置いてから、ゆっくりと立ち上がった。
多くの決闘は乱闘ではなく、知識や技術の披露として行われる。
だがアルエットには前者が欠けているため、実力行使しか選択肢はなかった。
「殺し合いなんてどう?」
アルエットは青ざめた。
「だめだよ!」
「じゃあ手足を切り落とすのは?」
「だめ!」
挑戦者は地団駄を踏んだ。
「なによ! 決闘で死ぬことなんてめったにないじゃない!」
「じゃあ何でやるの!?」
「全力出し切ってどっちが上かハッキリさせるためでしょ、バカ!」
「そ、それでもダメ!」
彼女はさらに激しく足を踏み鳴らした。
大量の木のタイルをぶちまけたような音がした。
「ドールってこんな弱虫だったわけ!? もう殺しちゃおうかな!」
それを聞いた熊が唸り、歯を剥き出しにして威嚇した。
少女は縮み上がり、冗談よと呟いた。
歴代の「正義の魔女」は魔女ドミナに秩序をもたらすことを使命とし、不当な暴力を重罪とみなしてきた。
双方が命を賭けると合意した場合は別だが。
ならばどう勝敗を決めるか?
アルエットは相手方の人形の手足を奪うことを提案した。
安全かつ、奪うのが難しい条件だ。
挑戦者は抗議しようと口を開いたが、凍り付いたように直立し、誰かの声に極限まで集中するように耳を澄ませた。
意識が戻ると、彼女は木の舌を出し、条件に同意した。
グィオットは自分の篭手とブーツを指差し、標的になることを申し出た。
アルエットはついに微笑んだ。彼への第一印象は正しかった。
「だめだよ。それ、私と人形たちがあなたのために作ったんだから!」
首があるべき場所を照れくさそうにさすり、彼は構えた。
挑戦者は舌打ちした。
「ちょっと? 武器は?」
谷に散らばる錆びた武器を拾うことなく、グィオットは肩をすくめた。
脇から熊が唸り、注意を引いた。
殺害禁止。重傷禁止。対魔女兵器の使用は違法。
違反すれば結果は無効。違反者は真珠の都にて訴追される可能性がある。
相手の人形の部位を先に奪った者が勝者。
賞品は「人形」のドミニオン。
「待って」
とアルエットが言った。
「じゃあ、私が勝ったら?」
「あ、気づいた! タダでやるつもりかと思ったのに!」
アルエットは挑戦者を睨みつけ、賞品として土下座でもさせてやろうかと考えた。
ドミニオンを持つ魔女は決闘を拒否できないが、延期や報酬の交渉は権利として認められていた。
何にすべきか? 外の世界で生きるには物資が最優先だが、戦後で通貨価値が変動しているかもしれない。
「そうね」アルエットは考えた。
「魔女ドミナの通貨で、大人二人が――」
グィオットは食事が必要だろうか? まあいい。
「大人二人が! 中流の上くらいの生活を――ええと、真珠の都で? 一年間送れるだけの額! 食費、家賃、光熱費込みで!」
挑戦者があんぐりと口を開ける一方、グィオットは顎当てを揺らして勢いよく振り向いた。
「何様のつもり!?」
「うるさい!」
命がけで演技をしながら、アルエットは言い放った。
「私は人形のま――」
息が詰まった。
吸おうとしても、叫ぼうとしても、言葉が出てこない。
奇妙な感覚だった。
「――魔女の、ドミニオン保持者よ。だから、えーっと、それに見合う額にしなさい」
野原の向こうで挑戦者が片眉を上げた。
「はあ!? デスマッチでもないのに! 一季節分よ!」
「えっと、三つ?」
「一つ半、それ以上は無理!」
正義の使い魔が鼻を鳴らした。
ドールは競争率が高く、称賛されるドミニオンだ。
報酬は保持者の時間を尊重し、有象無象の挑戦者を防ぐ手段でもある。
同時に、ハードルが理不尽であれば発展は望めない。
熊が下した裁定は「二季節分」。
相手の支払い能力の範囲内だ。
「受けて立つ!」
アルエットが宣言した。
人形少女が歯ぎしりする中、彼女とグィオットは互いに親指を立てた。
谷間に、上品で面白がるような女性の声が響いた。
「謹んでお受けしますわ。楽しんでらっしゃい、シンス」
声の主が誰か考える暇もなく、咆哮と共に決闘が始まった。
✦ ✦ ✦
シンスはニヤリと笑い、両手を頭上に掲げた。
レースの手袋の下で関節が紫の輪となって輝いた。
アルエットの足元から木の腕が生え、足首を掴んだ。
突進しようとしていたグィオットが足を止めた。
「私は平気。あの子に集中して!」
アルエットは気丈に振る舞った。大丈夫。
もっとひどい目に遭ってきた。これくらい何でもない。
彼女は左手を上げ、囁いた。
「助けて」
願いは聞き届けられた。
深紅のワイヤーが人形の手に巻き付き、地面から引きずり出した。
だが、単なる手首やマネキンを掘り起こすだけでは終わらなかった。
隆起した土から現れたのは、アルエットの背丈の三倍はある蛇のような節のある腕だった。
「引っかかった!」
シンスが紫の糸を召喚し、遠隔操作された腕がカチカチと音を立ててアルエットを囲むドーム状の檻となった。
十本の格子が、おもちゃを弄ぶ手のように迫った。
人形の魔女の手が動き出し、アルエットの腕を上げ、指を開かせた。
赤いワイヤーの帯が螺旋状に広がり、大蛇たちの手首にフックをかけ、縫うように絡みつき、互いを縛り上げた。
一本が動けば他が締まる。
赤いワイヤーが回転した。
貝殻の模様のように、不気味で、魅惑的で、数学的に。
あまりの凄まじさに呆然としたが、これは自分の戦いでもあると思い出した。
深呼吸し、大蛇たちが麻痺したような綱引きで自由を求めて身悶えする中、人形の手を握り拳にした。
アルエットは地面に体重をかけ、それらの重みを利用して指を閉じた。
刃のように鋭い赤のワイヤーが十本の腕すべてを切断し、木っ端微塵にした。
人形の魔女は反撃を画策した。
赤い閃光が野原を駆け、グィオットを追い越し、シンスを取り囲んだ。
彼女は息を呑み、障壁のような糸の格子を展開して攻撃を防いだ。
二色のワイヤーが全方向で引っ張り合い、火花を散らして金切り声を上げた。
どの角度でも糸は切れ、瞬いて消える光の残滓を残した。
一本の赤い糸が、はぐれたくもの巣のようにふわりと漂い、シンスの顔の横を疾走した。
警告として、自慢の髪が数本ハラリと落ちた。
シンスが向こう側で癇癪を起こしている間、アルエットは畏敬の念を抱いてドミニオンマークを見下ろした。
誰かが自分の手に手を重ね、傑作を描くように導いている感覚だった。
彼女は意識を引き戻した。
「手を封じなきゃ! 特に指を!」
グィオットは走りながら手を振って合図し、草と花びらを巻き上げながらシンスの糸を縫うように滑走した。
激怒したシンスは広げた腕を交差させ、地面と平行に引き離した。
紫の糸があやとりの形に伸び、レーザーのような網を発射した。
速度を落とさず、グィオットは顎に手を当てて思案するポーズをとった。
生身の人間ならバラバラになる距離まで網が迫ると、その手がヘルメットを放り上げた。
鎧の他のパーツも疾走中に分解し、重力に逆らって隙間をすり抜けた。
分厚い腰当てと胸当ての最外層が糸と擦れて白熱し、反対側で再び合体した。
スカーフが少しほつれた以外、彼は無傷で現れた。
「うっざ! なんで鉄屑があんな動きすんのよ!?」
シンスが叫び、糸を引き戻した。
グィオットは距離を詰めており、勝利は彼とアルエットにあるように見えた。
だが、彼女はクスクスと笑った。
谷に糸の雨が降り注ぎ、辺り一面を紫色に照らした。
糸の端は見えず、高く吊り上げられた光景は「魂の星座」との繋がりを模倣した。
古く重い布切れや錆びた武器が、地面からこすれ合う音を立てて浮き上がった。
ドールの糸が切断を試み、一瞬接触したがすり抜けた。
竜巻が発生し、アルエットは息を呑んだ。
シンスのワイヤーが谷を飛び交い、交差し、ループし、パズルの平和を探した。
旋風によって繋ぎ止められた剣、槍、欠けた鎧の嵐は、その中心に確実な破滅をもたらした。
人形の魔女の糸はアルエットに向かう飛来物を絡め取り逸らしたが、片手だけでは限界があった。
心配そうに振り返ったグィオットと目が合った。
「彼のところへ連れてって!」
太い赤いワイヤーが野原を横切り、グィオットの篭手に巻き付いた。
それを掴んでアルエットを引き寄せ、飛んでくる刃を弾き返した。
シンスはニヤリとした。
「ねえ、その鎧ここの出身? 最高! またお友達と遊べるわね!」
風が止み、すべての残骸が空中で静止してから地面に降りた。
その破片から、十数体の蘇った人間の兵士や魔女が立ち上がった。
首のない空っぽの人形たちは手足の多くを欠いていた。
浮遊する鎧と武器がそれを補い、脈打つ糸で縫い合わされていた。
グィオットは拳を握りしめたが、かつての戦友と戦うのを嫌がったからではない。
彼らや戦争に対する感情は、もっと複雑なものだった。
グィオットはアルエットの前に立った。
彼女はドールの手に手を重ねた。
人形の魔女がまだ動いていなかったのはそのためだった。
継ぎ接ぎだらけの敵は、何度でも再構築され、際限なく戦う構えだった。
確かにドールなら勝てるだろう。
アルエットのために、ドールは見捨てられた死者たちを概念ごと終わるまでズタズタに引き裂くに違いない。
それはシンスの魔術を無効化する。
アルエットはただ手を上げるだけでいい。
汚れ仕事は本物の人形の魔女に任せればいい。
しかし、ユークリッドの言葉を思い出した。
『君の親和性は「死」にある』
無数にある疑問のひとつに答える絶好の機会だった。
アルエットはグィオットの横につま先立ちし、死体と向き合った。
何を言えばいいのかわからなかったが、ある記憶が頭に浮かんだ。
魔女は見かけより単純。
呪文も詠唱もいらない。
だが自分のために、言葉の一つ一つに心を込めろ。
「さ、下がって。お願い。もう戦わなくていいの」
少女の声は震えていた。
不安による耳鳴りで、自分の声さえ聞こえなかった。
たとえうまくいっても、自分が死の魔女だと証明することになる。
それは何を意味する? その先には何がある?
試すこと自体が大きな間違いではないかと思い、左手を握りしめた。
木の指が、震える彼女の手を支えるように握り返した。
冷たい篭手が肩に置かれた。
死体から目を離さず、アルエットは努めて心を落ち着かせた。
救ってくれたのと同じように、グィオットを安心させたかった。
「みんな、眠りにつかなきゃ。でも……」
アルエットは新しいパートナーを見上げた。
「あなたは一緒に来てほしい。一人じゃ情けなくて、怖がりだからだけど」
すでに決めていたように、グィオットは頷いた。
二人が振り返ると、シンスが攻撃命令を喚いているにもかかわらず、兵士たちは立ち尽くしていた。
「彼らは死者よ、あなたの人形じゃない!」
アルエットは叫んだ。
彼女の言葉は真実だった。
シンスのワイヤーが消え、兵士たちはびくりと震えた。
全てを――戦争が終わった世界も、互いのことも、そしてこの決闘さえも――無視して、墓へと戻っていった。
成功した。ユークリッドは正しかった。
アルエットは肩の力を抜いた。
この瞬間、グィオットの存在がどれほど救いであるか、ほんの少ししか伝わらなかっただろう。
「はあ、もういいですわ! 今の戦いはただの遊びだし。余裕で勝てたんだから!」
季節の移ろい並みの早さで苛立ちを克服し、シンスは鼻を高くした。
「あんたってバカですわ。ほんっとうにバカ! さっき堂々と言っちゃったのに、まだ気づいてないなんて!」
アルエットの背筋に悪寒が走った。
「言っちゃった」と言うのはあれしかない。
「泣きなさい! 慈悲を乞いなさい! お母様の人形になって、ドミニオンを自ら差し出すのよ!」
シンスが唱えた。
「アルエット!」
誰も動かなかった。
アルエットは何の変化も感じなかった。
拳を握ったり開いたり、踵で地面を叩いたりしてみたが、正常だ。
何も起きなかった。
彼女とグィオットは顔を見合わせた。
白熱した決闘を無表情で見ていた熊でさえ、困惑して鼻を鳴らした。
最も狼狽しているシンスは、ネジが緩んだように顎を落とし、膝をガクガクさせていた。
平和を愛する心優しいグィオットは、これを好機と見て突進した。
右の篭手を胸当てに引き寄せ、握り拳を時計回りに回転させた。
「ごめん」(彼女のためというより、自分のための謝罪だ)と手話で伝え、シンスを地面に押し倒し、指を封じた。
呼応するように、赤いワイヤーが彼女の膝に巻き付き、引きちぎらんばかりに締め上げた。
「降参してくれる?」
アルエットは尋ねた。
「偽物! 偽物! あんたなんてインチキよ!」
シンスは身をよじって戦おうとした。
ドールが糸をきつく締め、アルエットはそれを止めなかった。
「およしなさい」
優雅な女性の声が命じた。
「格が違いましたわ。あなたがそれに気づかないこと自体、私の不徳の致すところね」
シンスという名の使い魔は動きを止め、歯ぎしりした。
「でもお母様! 人形の魔女になるためにずっと頑張ってきたのに! 不公平ですわ!」
他に人影はないとアルエットは思ったが、シンスの帽子に乗った人形と目が合った。
微動だにせず無表情だったが、どこか楽しげに見えた。
「あんたもインチキじゃない」
シンスに呟いた。
もし肌があったら、顔を真っ赤にしていただろう。
その女性は愛想よく降伏した。
白い光の波が野原を掃き、結果を承認した。
別途合意がない限り、報酬は72時間以内に調達される。
熊は不満げに唸り、寝るために横になった。
✦ ✦ ✦
「ごきげんよう。マザーと呼んでちょうだい」
代理の人形は挨拶した。
グィオットとアルエットが警戒を解かないのを見てクスクス笑った。
「正式な決闘以外でドミニオンを奪うなんて野暮な真似はしないわ。正義の魔女に目をつけられると厄介ですもの」
「マザー」は真名ではなかった。
魔女たちが呼ぶ「表の名」であり、自由に共有できるものだ。
ただし、二つの注意点がある。
一つ、これらの名前はその個人と密接に関連していなければならない。
表の名を使うことは、正体が露見するリスクを高める。
二つ、これらはあくまで遠回しに伝えられるニックネームだ。
「私の名前は〇〇です」「私は〇〇よ」と、アルエットがグィオットにしたように名乗ることはできない。
存在におけるその特権は、真名とドミニオンの称号を持つ者だけのものだ。
「で、なんで名前が効かなかったわけ!?」
解放されたシンスが飛び上がって喚いた。
「わ、わからない。私、魔女ですらないし」
アルエットは認めてから言葉を切った。
遅かれ早かれ知りたいことがあった。
言葉が出るか試すように、静かな声で言った。
「でも、死の魔女なの」
どういうわけか、どちらの発言も正しかった。
「奇妙ねえ」
マザーは思案した。
「人間ではないけれど、魔女とも言い難いあなた。それに、確実に死んでいるのに生きている鎧」
それを聞いてシンスはグィオットに舌を出し、彼は再び無駄な「ごめん」のサインを送った。
「まあ、あの子話せないのね。シンス、ペンと紙を貸してちょうだい」
「はあ!? あげるってこと?」
「ええ。原始人のように森から材料を調達することはないでしょ?」
「あー、持ってないですわ」
「あら、スクラップブックは?」
「で、でもあれ私の!」
マザーの人形がカタカタと鳴った。
シンスは悲鳴を上げ、帽子の下からピンクの花柄のノートを掘り出した。
膨れっ面で、後ろから破いたページと気に入ってないペンをグィオットに手渡した。
少女と鎧はついにコミュニケーション手段を得た。
彼が考え込んで顎当てをペンで叩き、書き始める間、アルエットは指をいじった。
熟考していた時間の割に、最初のメッセージは短かった。
彼女は期待に胸を膨らませ、几帳面な文字を読んだ。
『やあ、アルエット! 名前の綴り合ってる? ベルトとブーツ、ありがとう!』
シンスが片眉を上げ、マザーは笑った。
グィオットはピリオドだと堅苦しすぎるかと悩み、最後にビックリマークを描き足していたのだ。
「う、うん! 多分だけど」
彼女は答えた。
「どういたしまして! ほとんど人形たちがやったんだけどね」
次に何をすべきか、何を言うべきかわからず、内気な二人はもじもじした。
シンスが口を挟もうとしたが、マザーの人形が再び厳しく鳴ると縮こまった。
「本当に一緒に来てくれるの? 行き先とかわからないのに」
アルエットが地面の観察に忙しかったため、グィオットは紙を鼻先に近づけなければならなかった。
『迷惑じゃなければ、一緒に考えよう』
アルエットが微笑むと、ドールが彼女の目元を拭った。
少し走り書きをして、グィオットは再び紙を渡し、恥ずかしそうに肩を落とした。
『̶無̶視̶し̶て̶す̶み̶ま̶せ̶ん̶』̶
『̶謝̶罪̶を̶』̶
『もっと早く答えなくてごめんね』
「い、いいのよ! あなたから見れば、墓場を歩く変な魔女だったんだから」
彼の肩当てが跳ねた。それで思い出したようだ。
何をそんなに猛烈に書いているのかと覗き込んだが、数秒で彼女の顔が渋くなった。
そもそも彼女は人を信用しすぎるという論文だった。
もし彼が悪人だったら? 強盗や誘拐犯、あるいはアンデッドか呪われているか、その両方かもしれないし――
アルエットは彼の手を止めた。
「わかった、わかったから!」
グィオットは「わかってない」と言いたげな視線をした。
「人を見る目はあるつもりよ!」
都合により、ユークリッドのことは伏せられた。
✦ ✦ ✦
マザーはもう少しだけその時間を許してくれた。
「あら素敵。あなたもいつか王子様かお姫様が見つかるかもしれないわね」
「キモっ! ですわ!」
今のところ人形の魔女は片手だけだが、不屈かつ否定しがたい天才であることに変わりはなかった。
マザーが持てる全てを使っても、ドミニオンを奪える確率は五分五分といったところだった。
「さて」
アルエットの手が届かない空中でグィオットが不満を書き続けていると、マザーが口を開いた。
「鎧さん。死んだ時の年齢は?」
シンスに追い払われたアルエットは、目を細めて従った。
グィオットは手で二、そして七を作った。
「ずいぶん若いのね。ご両親は?」
グィオットは特に慎重に、丁寧な返事を書いた。
時折手を止めては、重みを損なわないよう簡潔に物語をまとめた。
数分書き続け、マザーに手紙を見せた。
彼女もまた、同じ時間をかけて言葉を吟味した。
やがて彼女は満足げに手を挙げた。
「行かせてあげましょう。ただし」
帽子の上の人形がぐったりと倒れた。
帽子の上の代理人から影が現れ、本体の何倍にも伸びた。
わずかに残った光を覆い隠し、闇は豪奢な羽根帽子、溢れるパール、官能的なワイヤーのペチコートをリボンで飾った貴婦人の姿へと融合した。
フリルのついた扇子が襟元を交差し、肩に置かれていた。
「もし話したことに一つでも嘘があったら」
影は面白そうに唇を尖らせて言った。
「私の人形にしてあげる。生まれてこなければよかったと思わせてあげるわ」
グィオットは震えもしない手で書いた。
『母について嘘をつくことは決してありません。
見逃していただき感謝します、マダム。あなたは恐ろしいほど魔女です。最大限の賛辞として』
固唾を呑んでやり取りを見ていたアルエットは、マザーがクスクス笑い、グィオットがお辞儀をするのを見て安堵のため息をついた。
マザーは声を落とし、内緒話のように言った。
「愛しい騎士さん。その子が何者であっても、傍にいる自信はおあり?」
グィオットはアルエットを見た。
彼女は何の話をしているのかとキョロキョロしていた。
彼の手は揺らがなかった。
『私は騎士ではないし、私たちは知人。そして偶然が生んだ旅の連れになる予定です。
彼女がこれまで見せてくれた通りの人なら、喜んでお供します』
影の表情が和らいだ。
「よろしい。でも、旅が終わる前に一度はあなたのお母様に会いに行きなさいな」
グィオットは胸当ての左側を掴み、頷いた。
彼が紙を篭手にしまうと、マザーはアルエットを手招きした。
シンスが膝裏を突き、無理やりお辞儀をさせた。
マザーが話し始めなければ、アルエットはこのちんちくりんを泥の中に突き飛ばしていただろう。
「アルエット、記憶を取り戻せるといいわね」
グィオットの手紙に触れ、彼女は言った。
「もしかしたら、あなたのお母様も無事を待っているかもしれないもの」
も? 出会った時と同じように、グィオットの思考が彼自身を捉えていたのだ。
「でも、もしそうでなければ、私がその役目を果たしてあげてもよくてよ。屋敷と私の心には、子供たちのための場所が無限にありますわ。私の人形になってくれさえすれば、ね」
マザーはシンスの嫉妬めいた文句を無視した。
影が優雅にカーテシーを行い、シンスはもう一度舌を出した。
「ごめんあそばせ、鎧さんと小さな死の魔女さん」
マザーは甘く囁いた。
「ああ、忘れるところだったわ――人形の魔女さんも」
忍び笑いが谷に響き渡り、二人は膨れ上がる虚空の中へと消えた。
星明かりが再び地上へと降り注いだ。
彼らが去った後、不思議なことが起きた。
魔女と使い魔に似ているが、どこか違う、生き生きとした二つの声が聞こえてきた。
遠い昔に忘れ去られた、夢の中で最も甘美な部分のようにこだました。
「もう、ママ! まだ戦いぶりを褒めてくれてないじゃない!」
「あらやだ、そうだったわね。素晴らしいショーだったわよ、ハニー。
あなたのような娘を持てて、ママは本当に、本当に幸せ者よ」
木のぶつかる音が止み、あり得ないほど具体的な音に取って代わられた。
アルエットとグィオットが同じものを思い描いたのは偶然ではなかった。
母のドレスのシンプルで風になびくスカートにしがみついて歩く、子供の頬に触れる布の感触だった。




