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口臭地獄  作者: 藤紫


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3/4

第3話 幸せな迷い人

 それから、男は、外へ出なくなった。

 扉に鍵はなく、窓も、その気になれば開けられた。ただ、開ける理由が、一つずつ、失われていった。


「少し休んでいてくださいね」

「うん」


 食事は、リーシャが匙で運んでくる。


「はい、あーん」


 男は、口を開ける。

 甘く腐った果実のような息が、匙越しに届く。もう、顔はしかめなかった。何も、感じなかった。

 味も、匂いも、いつの間にか、遠くへ行っていた。


「いい子ですね」


 リーシャが、嬉しそうに笑う。男も、笑い返した。

 笑う筋肉だけは、まだ動いた。


◇◇◇


 数日後、男は、部屋の外から声を聞いた。


「リーシャ、あの人は……」


 村人の声だった。


「まだ休んでいますよ」

「そうか……」

「心配しなくても大丈夫です」


 リーシャの声は、穏やかだった。


「私が、ちゃんとお世話をしていますから」


 足音が、遠ざかっていく。

 男は、扉に近づいた。会いたい、と言いかけて、やめた。

 部屋に戻ってきたリーシャが、先に口を開いた。


「私がいれば、他には何もいりませんから」


 その言葉を聞いた時、男は、ふと気づいた。

 ……これは、看病ではない。

 だが、気づいたところで、どうすればいいのか、分からなかった。

 開けようと思えば、扉は開く。けれど、その向こうには、誰もいない。誰も、会いに来ない。誰も、止めない。

 それに、扉の向こうには、リーシャもいない。

 男は、取っ手から手を離した。


 窓の木戸の隙間から、葉が色づき、落ち、やがて白いものが舞った。それがやみ、また、新しい緑が芽吹いた。

 誰も見舞いに来ない。連絡を取る手段もない。

 男は、もう日数を数えることをやめていた。


 ある日、水を飲もうと、盥に顔を映した。

 そこにいたのは、伸びきった髪と髭、落ちくぼんだ目をした、見知らぬ男だった。

 げっそりとこけた頬。

 それでも、まだ生きている。

 男は、しばらく、その顔を見つめていた。

 それから、無意識に、ベッドの縁に手を伸ばした。

 指が、勝手に動いた。

 ကူညီပါ

 彫り跡を、なぞっている。角が丸くなるまで削られた、深い線。

 意味は、今も分からない。分からないまま、何度も、なぞってきた。


 部屋の隅には、小さな木の匙が置かれたままだった。百年前の迷い人が使っていたという、古い匙。


「それは、あの方の匙です」


 いつの間にか、リーシャが、戸口に立っていた。


「大事にしてるんです。ずっと、そのまま」

「……そうですか」


 男は、匙を見つめた。

 百年前の迷い人も、これで、食事を与えられていたのだろうか。

 それとも、あの人も——。

 その先を、考えるのは、やめた。


「どうしました?」


 リーシャが、そばに来た。


「お腹が空きましたか?」

「……いや」

「では、少しだけ」


 リーシャは、匙を手に取った。


「はい、あーん」


 男は、口を開けた。

 もう、抵抗する気力もなかった。


◇◇◇


 その日の夕方、リーシャは、花を一輪持って、出かけていった。

 男は、窓の木戸の隙間から、その背中を見送った。

 彼女が向かった先は、森の入り口のほうだった。

 遠くに、何もない木が一本、見える。

 そのたもとだけが、綺麗に掃き清められていた。

 リーシャは、そこに、花を置いた。

 それから、しばらく、動かなかった。

 男は、その場所を知っていた。

 あの日、リーシャと一緒に通った道の、途中の木だ。

 嗚咽しながら、村を出ていきました。

 リーシャは、確かに、そう言った。

 男は、木戸の隙間から、目を離した。


 村の噂では。

 絶世の美女に甲斐甲斐しく看病される、幸せな迷い人。百年前の迷い人も、そうだったという。

 そして、今も。

 そういうことになっているらしい……。


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