第3話 幸せな迷い人
それから、男は、外へ出なくなった。
扉に鍵はなく、窓も、その気になれば開けられた。ただ、開ける理由が、一つずつ、失われていった。
「少し休んでいてくださいね」
「うん」
食事は、リーシャが匙で運んでくる。
「はい、あーん」
男は、口を開ける。
甘く腐った果実のような息が、匙越しに届く。もう、顔はしかめなかった。何も、感じなかった。
味も、匂いも、いつの間にか、遠くへ行っていた。
「いい子ですね」
リーシャが、嬉しそうに笑う。男も、笑い返した。
笑う筋肉だけは、まだ動いた。
◇◇◇
数日後、男は、部屋の外から声を聞いた。
「リーシャ、あの人は……」
村人の声だった。
「まだ休んでいますよ」
「そうか……」
「心配しなくても大丈夫です」
リーシャの声は、穏やかだった。
「私が、ちゃんとお世話をしていますから」
足音が、遠ざかっていく。
男は、扉に近づいた。会いたい、と言いかけて、やめた。
部屋に戻ってきたリーシャが、先に口を開いた。
「私がいれば、他には何もいりませんから」
その言葉を聞いた時、男は、ふと気づいた。
……これは、看病ではない。
だが、気づいたところで、どうすればいいのか、分からなかった。
開けようと思えば、扉は開く。けれど、その向こうには、誰もいない。誰も、会いに来ない。誰も、止めない。
それに、扉の向こうには、リーシャもいない。
男は、取っ手から手を離した。
窓の木戸の隙間から、葉が色づき、落ち、やがて白いものが舞った。それがやみ、また、新しい緑が芽吹いた。
誰も見舞いに来ない。連絡を取る手段もない。
男は、もう日数を数えることをやめていた。
ある日、水を飲もうと、盥に顔を映した。
そこにいたのは、伸びきった髪と髭、落ちくぼんだ目をした、見知らぬ男だった。
げっそりとこけた頬。
それでも、まだ生きている。
男は、しばらく、その顔を見つめていた。
それから、無意識に、ベッドの縁に手を伸ばした。
指が、勝手に動いた。
ကူညီပါ
彫り跡を、なぞっている。角が丸くなるまで削られた、深い線。
意味は、今も分からない。分からないまま、何度も、なぞってきた。
部屋の隅には、小さな木の匙が置かれたままだった。百年前の迷い人が使っていたという、古い匙。
「それは、あの方の匙です」
いつの間にか、リーシャが、戸口に立っていた。
「大事にしてるんです。ずっと、そのまま」
「……そうですか」
男は、匙を見つめた。
百年前の迷い人も、これで、食事を与えられていたのだろうか。
それとも、あの人も——。
その先を、考えるのは、やめた。
「どうしました?」
リーシャが、そばに来た。
「お腹が空きましたか?」
「……いや」
「では、少しだけ」
リーシャは、匙を手に取った。
「はい、あーん」
男は、口を開けた。
もう、抵抗する気力もなかった。
◇◇◇
その日の夕方、リーシャは、花を一輪持って、出かけていった。
男は、窓の木戸の隙間から、その背中を見送った。
彼女が向かった先は、森の入り口のほうだった。
遠くに、何もない木が一本、見える。
そのたもとだけが、綺麗に掃き清められていた。
リーシャは、そこに、花を置いた。
それから、しばらく、動かなかった。
男は、その場所を知っていた。
あの日、リーシャと一緒に通った道の、途中の木だ。
嗚咽しながら、村を出ていきました。
リーシャは、確かに、そう言った。
男は、木戸の隙間から、目を離した。
村の噂では。
絶世の美女に甲斐甲斐しく看病される、幸せな迷い人。百年前の迷い人も、そうだったという。
そして、今も。
そういうことになっているらしい……。




