第2話 いい子で、待っていてくださいね
翌朝、男は自分の部屋で目を覚ました。
熱はなかった。だが、体が重い。食欲もなかった。
「大丈夫です」
リーシャが、男の額に手を当てる。
「私がついていますから」
「いや、もう大丈夫ですから……」
「駄目です」
リーシャは、優しく笑った。
「昨日は、少し無理をさせてしまいましたね」
「いや、そういうわけじゃ……」
「しばらく、ここで休みましょう」
男は、窓の外を見た。朝の光が差し込んでいる。いつもと変わらない村の風景だった。
「……窓、開けてもいいですか?」
リーシャの手が、止まった。
「どうしてですか?」
「いや、ちょっと空気を入れ替えたくて」
「外は危険ですから」
「危険?」
「ええ。昨日のこともありますし」
リーシャは窓に歩み寄り、男が伸ばした手より先に、窓を閉めた。
「毒気が入りますからね」
「毒気って……」
「大丈夫ですよ」
彼女は、男のほうを振り返った。
「ここにいれば、何も心配はいりません」
男は、何も言えなかった。
◇◇◇
その日から、リーシャは男の世話をするようになった。
食事を運び、着替えを用意し、汗を拭く。
「少し休んでいてくださいね」
「いや、自分でできますから」
「駄目です。まだ病人なんですから」
そう言って、リーシャは嬉しそうに笑った。
優しい人だ、と男は思った。こんなに尽くされたことは、これまでの人生で一度もなかった。胸の奥が、じわりと温かくなる。
また、惚れ直していた。
食事は、リーシャが匙で運んでくる。
「はい、あーん」
「いや、自分で食べられます」
「駄目です。まだ病人なんですから」
匙を口元まで持ってこられるので、仕方なく口を開ける。
「熱いですから、フーフーしますね」
「え?」
「ふーっ」
「——っ!」
男の体が、硬直した。
甘く腐った果実のような息が、匙越しに、顔全体を包んだ。逃げ場がない。吸えば濃い。止めれば苦しい。
「どうしました?」
「い、いえ……」
「顔が赤いですよ?」
「大丈夫です」
「ふふ。私の顔、そんなに見つめて」
嬉しそうに頬を染めるリーシャ。
違う。そうじゃない。
だが、それを説明する勇気はなかった。
胸は温かい。鼻は、地獄だった。その二つが、同じ瞬間に起きている。男は、匙を咥えて、笑った。
◇◇◇
夜。寝返りを打った拍子に、男は壁際のベッドの縁に目を留めた。
木の板に、何かが彫られている。
ကူညီပါ
見たことのない文字だった。丸い曲線が連なっている。日本語でも、英語でも、中国語でもない。どこか遠い国の文字なのだろう、と男は思った。意味は、分からない。
指でなぞる。彫り跡は深く、何度も同じ場所を削ったように、角が丸くなっていた。
「ああ、それですか」
戸口から、リーシャの声がした。
「あの方が彫った、かわいい模様ですよ」
「……あの方?」
「百年前の方です。気に入っていて、そのままにしてあるんです」
リーシャは、愛おしそうに、その彫り跡を見た。
「かわいいでしょう?」
「……そう、ですね」
男は、指を離した。
なぜか、離したあとも、その形が指先に残っていた。
◇◇◇
数日が過ぎた。
食事のたびに、あの息が届いた。最初は吐き気がした。次第に、吐き気は鈍い痛みに変わり、やがて、何も感じなくなっていった。
慣れたのか、鼻が鈍ったのか、もう分からなかった
味も、いつからか、しなくなっていた。
ある朝、男はベッドから起き上がり、扉の前に立った。
外へ出るつもりはなかった。ただ、少し歩きたかった。
扉に手をかけた、その時、
「どこへ行くんですか?」
リーシャが、扉の前に立っていた。
「ちょっと、村を歩こうかと」
「まだ本調子ではないでしょう?」
「でも、ずっと寝ているのも……」
「駄目です」
今度は、笑っていなかった。
「あなたの体が大事だからです」
「……リーシャさん」
「もう少しだけ、私の言うことを聞いてくださいね」
そう言って、彼女は、男の肩に手を置いた。
力は込められていない。
それでも、男は、扉から離れた。
◇◇◇
その日の午後、リーシャは狩りに出かけた。
「すぐ戻りますからね。いい子で待っていてください」
彼女が出ていくとき、扉は閉まった。だが、鍵の音は、しなかった。
男は、しばらく扉を見つめていた。
それから、そっと手を伸ばした。
扉は、静かに開いた。
外の空気が、顔に当たった。久しぶりだった。冷たくて、澄んでいて、何の匂いもしなかった。
男は、歩き出した。
村を抜ける。すれ違う村人が、ちらりと男を見て、すぐに目を逸らした。誰も、声をかけない。誰も、止めない。
足が、森へ向かっていた。
どれくらい歩いただろう。息が上がり、膝が笑った。体力が、思っていたよりずっと落ちている。
遠くで、声がした。
「どこですか?」
リーシャの声だった。
男は、反射的に、大きな木の陰に身を隠した。
心臓が、うるさかった。息を殺す。
「どこに行ってしまったんですか……?」
足音が近づいてくる。男は、幹に背をつけ、目を閉じた。
足音は、男のすぐ近くを通り過ぎた。
そして、遠ざかっていった。
……助かった。
そう思った。そう思ったはずなのに、胸の奥が、すうっと冷えた。
足音が聞こえなくなる。森が、静かになる。
静寂の中で、男は、自分の口が動いているのに気づいた。
「……リーシャ」
小さな声だった。誰にも聞こえない、声。
返事は、なかった。
「……リーシャ」
少し、大きな声が出た。
それでも、返事はない。
男は、唇を噛んだ。それから、息を吸い込んだ。
「リーシャ!」
木々の間に、声が響いた。
しばらくして、足音が、駆け戻ってくる。
木の陰から顔を出すと、金髪が、木漏れ日の中で揺れていた。リーシャは、息を弾ませていた。
「……見つけた」
彼女は、泣き笑いのような顔で、男を見ていた。
「帰りましょう」
近づいてくる。息が、届いた。甘く腐った果実のような匂い。男は、顔をしかめなかった。
「うん」
男は、リーシャの手を取った。
◇◇◇
家へ戻ると、リーシャは何も言わなかった。
責めることも、問いただすこともなかった。ただ、男を寝床に座らせ、汗を拭き、水を飲ませた。
「ごめんなさい」
男が言うと、リーシャは首を振った。
「いいんですよ。無事で、よかった」
それから、彼女は、窓際に立った。
「これからは、鍵をかけたほうが、いいですか?」
男は、答えなかった。
リーシャは、少しだけ待ってから、寂しそうに笑った。
「……冗談です。かけませんよ」
彼女は、扉に向かった。出ていく直前、振り返る。
「いい子で、待っていてくださいね」
扉は、細く開いたまま、彼女の背中が、遠ざかっていった。
隙間から、外の風が、細く流れ込んでくる。
男は、その場に座ったまま、隙間を見つめていた。
開けようと思えば、もっと開けられる。
少しして、男は、ゆっくりと立ち上がった。
扉に歩み寄る。取っ手に、手をかける。
それから、扉を、ぴたりと閉めた。
男は、自分の手で、扉を閉めた。




