第1話 可愛らしい方
口臭地獄。男は、そんな地獄があるとは思いもしなかった。
◇◇◇
気づいたときには、見知らぬ森の中にいた。
「……ここ、どこだ?」
空を見上げる。知らない木々。知らない鳥の声。何が起きたのか考えようとした、その時、
ガサッ。
「……ん?」
茂みが揺れた。次の瞬間、緑色の巨体が飛び出してくる。
赤く濁った目。大きく開いた口。そこから覗く、鋭い牙。
逃げなければ。そう思ったが、足が動かない。獣が、身を低くする。
来る。
そう思った瞬間——
風を切る音がして、一本の矢が、獣の目に突き刺さった。
「……え?」
続けざまに、二本、三本。どれも寸分の狂いなく、急所を射抜いている。迷いのない、慣れた射だった。獣は苦しげに身をよじり、やがて低い唸り声を残して、森の奥へ逃げていった。
「助かった……?」
何が起きたのか、分からない。ただ、視線だけが自然と上を向いた。葉の隙間から、何かがこちらへ降りてくる。
編み上げのロングブーツ。
体の線に沿った革製の胸当て。
風をはらんだフード付きのマントが、着地の衝撃でふわりと膨らむ。
そのフードがはずれて出てきたのは、
森の果実を思わせる、みずみずしい桃色の頬。
悪戯っぽく細められた、新緑のような瞳。
絹糸のように細く、光を透かす金髪。
そして——
感情に合わせてピコピコと跳ねる、尖った長い耳。
エルフだ。
命を救われた。そんなことより先に、男の胸の奥で、何かが弾けた。
……惚れた。
一目で恋に落ちる、というのは、こういうことなのか。他人事のように、そんなことを考えていると、エルフがこちらへ歩いてくる。
「大丈夫ですか?」
「あ……はい」
鈴を転がすような声だった。そして彼女が、もう一歩、近づいた。
その時。
森の香りが、ふわりと届いた。木々と土の匂いの奥に、何かが長く放置されて発酵したような、甘くて重いものが混じっている。
なるほど。これがエルフの香り……!?
「……くっせぇぇ!」
「えっ?」
「あっ!」
しまった。声に出ていた。
「い、いえ! なんでもありません!」
だが遅かった。思考より先に、体が反応していた。男は顔を背け、込み上げてくるものを必死に飲み下す。息を止めると、目に涙が滲んできた。ついでに苦しくなって、頬が赤くなる。こ、口臭……
エルフの瞳が、わずかに揺れた。
「あらあら」
「……」
「可愛らしい方」
「えっ?」
「そんなに緊張なさらなくても、大丈夫ですよ」
「いや、そういうわけでは……」
「フフフッ」
エルフは、嬉しそうに笑った。
「では、少し離れてお話ししましょうか」
「お願いします」
即答だった。数歩離れたところで、エルフが振り返る。
「これくらいで、大丈夫ですか?」
「……はい」
ずいぶん楽になった。
「ところで」
彼女が、首をかしげる。
「こんなところで、どうされたのですか?」
「気づいたら、ここにいました」
「まあ」
エルフの表情が変わった。驚いたというより、何かに納得したような顔だった。
「迷い人、ですね」
「迷い人?」
「この聖なる森には、時折、そういう方が現れるんです」
「他にも、いるんですか?」
「今はいませんね」
エルフは、少しだけ目を伏せた。
「百年ほど前に、一人……」
「その人は、どうしたんです?」
「村で、幸せに暮らしていましたよ。私がお世話をして」
彼女の声が、少しだけ弾んだ気がした。男の気のせいかもしれない。
「……それで、その人は?」
「最後には」
彼女は、困ったように笑った。
「嗚咽しながら、村を出ていきました」
「……」
男は、聞き返せなかった。理由を尋ねる勇気もなかった。ただ、彼女の言い方が、まるで昔のことを懐かしむような響きだったことだけが、胸の奥に小さな棘のように残った。
風が吹き、エルフの金髪が揺れた。そして、また香りが漂う。
男は今度こそ、息を止めた。
◇◇◇
それから男は、エルフの村で暮らすことになった。エルフの名は、リーシャ。村長の姪だという。
村へ向かう道すがら、森の中で、リーシャが不意に足を止めた。
何もない、ただの木のたもとだった。そこだけが、綺麗に掃き清められ、一輪の花が置いてあった。
男が気に留めると、リーシャは笑顔のまま、歩く速さを変えなかった。
「……なんでもありませんよ」
村では、すれ違う村人たちが、ちらりと男を見て、すぐに目を逸らした。同情とも恐れともつかない、一瞬の目だった。男は、深く考えなかった。ただ、よそ者を警戒しているのだろうと思った。
リーシャが近づいてくる。男は笑顔を作る。息は吸わない。それが、村で暮らすための、最初の心得になった。
三日目。男は、三秒間、息を止められるようになった。
一週間後。風上に立つ技術を身につけた。
人間、慣れるものである。……慣れるしかない、とも言う。
ある日、男は意を決して尋ねた。
「リーシャさん」
「はい?」
「あの……皆さんは、歯を磨いたりしないんですか?」
「歯を?」
「はい」
リーシャは、きょとんとした。
「磨くんですか?」
「……はい」
「どうして?」
「どうしてって……」
男は困った。
「……汚れるからです」
「汚れたら、洗えばいいんですか?」
「! そうです」
「ふうん?」
リーシャは、自分の歯に舌を当てた。
「でも、別に困ってませんよ?」
「困ってない?」
「はい」
「口の中とか……」
「健康ですよ」
「そういうことじゃなくてですね」
「?」
リーシャは首をかしげた。長い耳も、ぴこ、と傾く。可愛い。可愛いのだ。ものすごく可愛い。だから困る。
「エルフは何百年も生きますから」
リーシャは笑った。
「歯が汚れていようが、傷んでいようが、そのうち生え変わりますし」
「生え変わる?」
「ええ」
「何年くらいで?」
「五十年か、六十年に一度くらいでしょうか」
「……それ、乳歯みたいなものですか?」
「乳歯? それはよく分かりませんが、そういうものですね」
リーシャは屈託なく笑った。
「だから、あまり気にしたことがないんです」
男は黙った。文化が違う。そういうことなのだろう。たぶん。
◇◇◇
それから男は、少しずつリーシャのことを知っていった。
朝は誰よりも早く起き、井戸の水を汲む。
弓の稽古では、的を外した男に、「筋がいいですよ」と根気よく付き合ってくれる。
木の実を差し出すときの、少し照れたような笑い方。
夜、村はずれで一人、星を見上げている後ろ姿。
男の中で、何かが静かに積み重なっていった。
二週間が経つ頃には、男の心は、すっかりリーシャに傾いていた。
好きだ。
この世界で一番魅力的で。そして、一番近づきがたい女性。
「あなたは、前の迷い人と違いますね」
ある晩、リーシャがぽつりと言った。
「そうですか?」
「ええ」
リーシャは、嬉しそうに笑った。
「あの人は、なんだかいつも辛そうでしたから」
「……そうですか」
「でも、あなたはちゃんと隣にいてくれる」
男は何も言えなかった。ただ、口の中に溜まった唾を、静かに飲み込んだ。
◇◇◇
満月の夜だった。村祭りの後、二人きりで、丘の上にいた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「一緒に踊ってくれて、嬉しかったです」
「俺もです」
しばらく、二人とも黙っていた。悪くない沈黙だった。
リーシャが、少しだけ顔を寄せてくる。
男の中で、警報が鳴った。だが、それ以上に強いものがあった。二週間かけて積み上げてきた想い。
「リーシャ」
「はい?」
「俺……あなたのことが、好きです」
リーシャの耳が、ぴこ、と跳ねた。
「……私も」
「え?」
「あなたのこと、好きですよ」
男は胸がいっぱいになり、笑った。リーシャも笑った。
そして、二人の顔が、ゆっくり近づいていく。
あと数センチ。あと少し。
リーシャが目を閉じ、そっと息を吐いた。
風向きが変わった。
祭りで飲んだ酒。焼いた肉。二週間分の耐性。
そのすべてを、甘く腐った果実のような、熱を帯びた息が押し流していった。
「——っ!」
男の顔から、血の気が引いた。
「どうしました?」
リーシャが目を開ける。
「ご、ごめん……!」
込み上げるものを、止められなかった。
「おええええっ!」
「きゃあああっ!」
満月の下。丘の上に、盛大な嘔吐音が響き渡った。
リーシャは、しばらく黙って、男を見つめていた。
やがて、いつものように微笑んだ。
「……大丈夫ですよ」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「前の方も、最初はそうでしたから……」
男は、顔を上げられなかった。




