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口臭地獄  作者: 藤紫


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第4話 あの方のいた日々

 森で人を拾ったのは、あの日が初めてでした。

 木の根もとに、見たことのない服を着た方が倒れていました。声をかけると、びくりと肩を震わせて、私の顔を見て、慌てて顔を背けました。

 フフフッ、恥ずかしがり屋の方なのですね。


 迷い人。この森には、ごくまれにそういう方が現れます。村の者は誰も近づこうとしません。それなら私が、と手を挙げました。

 弓の腕には自信がありましたが、人の世話は初めてでした。でも、楽しかったのです。

 朝は水を汲んで、あの方の部屋へ運ぶ。木の実を剥いて、匙で口へ運ぶ。

 あの方は、いつも少し困ったように笑いました。

 「ありがとう」と言われるたびに、胸の奥がぽっと温かくなりました。誰かに必要とされるというのは、こういうことなのだと、長く生きてきて初めて知りました。


◇◇◇


 あの夜、お祭りの帰りに、二人で丘の上に登りました。満月でした。

 あの方は、いつもより口数が少なくて、時々、私のほうを見ては、目を逸らしました。

 そのうち、意を決したように顔を上げて、


「あの……リーシャさん」

「はい?」

「実は、ずっと……」


 言いかけて、口をつぐんでしまいます。

 顔は真っ赤で、額には汗が浮かんでいました。

 ああ、と思いました。

 この方は、何かを伝えようとしてくれている。

 私は嬉しくて、にっこり笑いました。


「どうしましたか?」


 そうしたら、あの方は、急に顔色を失って、苦しそうに身を折ったのです。

 緊張なさったのですね。

 きっと、大事なことを言おうとしてくださったのでしょう。言葉にならないほどの。

 私は、胸がいっぱいになりました。


「大丈夫ですよ」


 背中をさすって、言いました。


「私も、同じ気持ちです」

「違っ……」


 あの方は、そう言いかけて、そのまま、また苦しそうに身を折りました。

 恥ずかしがり屋の方ですから。

 その夜から、私は、この方のことを、一生大切にしようと決めました。


◇◇◇


 翌朝、あの方は熱こそありませんでしたが、ひどく疲れた顔をしていました。昨夜のことで、気持ちが張りつめてしまったのでしょう。

 私は、お世話に専念することにしました。

 まず、窓を閉めました。冷たい夜気が体に障りますから。

 次に、部屋から出るのをやめていただきました。まだ足元がふらついていらしたので。

 村の方が様子を見に来たときは、私が戸口でお話ししました。「まだ休んでいます」と。

 それでも、戸を叩く人は、何度も来ました。


「もうやめなさい」


 何を、やめるのでしょう。私はただ、お世話をしているだけなのに。

 食事は、匙で運びました。熱いものは、息を吹きかけて冷ましました。

 あの方は、嬉しそうでした。……嬉しそうな顔を、していたはずです。


 あの方は、部屋の板に、よく何かを彫っていました。

 丸くて、かわいい模様でした。

 何を彫っているのか尋ねると、あの方は手を止めて、困ったように黙ってしまいます。だから、私が言いました。


「かわいいですね。ずっと、残しておきますね」


 そう言うと、あの方は、また彫りはじめました。

 きっと、私に見せたかったのでしょう。


◇◇◇


 あの日のことは、よく覚えていません。

 戸の外が騒がしくて、誰かが私の名前を呼んでいて、私は、少し、怒ってしまったかもしれません。

 気がつくと、戸が開いていて、あの方の姿はありませんでした。

 泣きながら、村を出ていったのです。

 どうして。私は、何も間違えていなかったのに。


 それから、長い冬が、何度か来ました。

 私は弓を持って森に入るようになりました。一本、二本、三本。外さないことだけが、私に残ったものでした。

 村の人たちは、私に話しかけなくなりました。それでいいのです。そっとしておいてほしかったのです。


 あの方が最後に通った木のたもとは、毎日掃いています。花を一輪、置きます。

 帰ってきたときに汚れていたら、悲しい思いをさせてしまうから。

 歯が生え変わる年が、二度巡りました。

 それでも、あの方は、帰ってきませんでした。


◇◇◇


 その日も、森にいました。

 茂みの向こうで、獣の唸る声がしました。

 枝の上から見下ろすと、見たことのない服の方が、へたりこんでいました。

 私は、迷わず矢をつがえました。

 間に合いました。

 獣が逃げていくのを見届けて、フードを外し、地面に降りました。


 あの方でした。

 ……いえ、違う方でした。

 それでも、同じでした。

 胸の奥が、ぽっと温かくなりました。


「大丈夫ですか?」


 その方は、息を止めて、顔を背けました。


「あらあら」


 私は、嬉しくなって、笑いました。


「可愛らしい方」

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