第37話 広がる風説
噂は、思いのほか早く広まっていった。人の口に上る話というのは、真実であるかどうかよりも、面白おかしく語れるかどうかの方が、時に重視されるものらしい。
「ねえ、聞いた? あの施設、実は結構危ないらしいわよ」
どこか興味本位な口調で、そんな噂話が交わされていた。
正面ゲート前の行列で、そんな会話が聞こえてくることが増えてきた。これまで当たり前のように賑わっていた光景に、わずかながらも影が差し始めている。噂という目に見えない脅威が、静かにこの施設を蝕み始めていた。
「本当に? わたし、楽しみにしてたのに……」
「噂だから、真偽のほどは分からないけど……。念のため、今日はやめておこうかしら」
その一言に、連れの友人も同調するように頷いた。
そうして列を離れていく客の姿も、ちらほらと見受けられるようになっていた。
これまで日を追うごとに膨れ上がってきた行列が、ほんのわずかとはいえ、目に見える形で減少している――その変化は、案内係を務めるスタッフたちの間にも、確かな不安を呼び起こしていた。目に見えない敵と戦う難しさを、誰もが肌で感じ始めていた。
その様子を、案内係として立っていたリクが、複雑な表情で見つめていた。開業当初から誰よりもこの施設の変化を見守ってきた彼にとって、行列の減少という現実は、決して見過ごせないものだった。
「なあエマ、最近、お客さんの数、心なしか減ってる気がしないか」
「うん……。わたしも気になってた。あの変な噂のせいだよね、きっと」
エマの表情にも、隠しきれない不安が浮かんでいた。
二人の会話に、ダンも渋い顔で加わった。
「くそ、誰だよそんな嘘広めてる奴。うちがどれだけ安全に気を配ってるか、知りもしないくせに」
ダンの声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
三人にとって、この施設は単なる職場ではなく、思い出の詰まった特別な場所だった。それだけに、根も葉もない中傷によって評判が傷つけられることに、強い憤りを覚えずにはいられなかった。
「わたしたち、何かできることないかな」
エマの呟きに、リクとダンも真剣な表情で頷いた。開業当初からの常連として、この施設の成長を誰よりも間近で見てきた三人にとって、ただ手をこまねいているだけの状況は、耐え難いものだった。
「よし、俺たちも実際にお客さんに声かけて、安心してもらえるよう説明していこうぜ」
リクの声には、決意が滲んでいた。
リクの提案に、二人も力強く頷いた。案内係としての役目を超えて、この施設を守りたいという想いが、三人の胸に確かに芽生えていた。
支配人室では、ゼノンとルナリアが、対応策の詳細を詰めていた。窓の外から聞こえてくる賑わいの声は、いつもと変わらないように見えたが、二人の表情には、確かな緊張感が漂っていた。
「安全記録の公開は、明日から実施する。開業からの全データを、正面ゲート脇の掲示板に貼り出そう」
ゼノンの決断は迅速だった。数字は嘘をつかない――その信念のもと、包み隠さず全てを公開するという判断には、これまでの誠実な運営に対する確かな自信が滲んでいた。
「それだけで足りますでしょうか。噂というのは、一度広まってしまうと、なかなか消えないものですわ」
ルナリアの懸念は、決して的外れなものではなかった。どれだけ事実を示したところで、一度植え付けられた不安は、簡単には拭い去れないことを、彼女は経験上よく理解していた。
「その通りだ。だから、もう一つ手を打つ」
「もう一つ、とは?」
「希望する客には、施設の安全設計を直接説明する見学ツアーを開放する。権限ウィンドウによる安全機構の仕組みも、可能な限り公開しよう」
その提案に、ルナリアは目を見開いた。これまで内部の技術情報は、慎重に管理されてきた領域だった。それをあえて公開するという判断には、確かな覚悟が伴っている。
「思い切った策ですわね。……でも、それだけの価値がある一手だと思いますわ」
その提案に、シルフが目を輝かせながら賛同した。
「それ、いいアイデアだね! 実際に仕組みを見てもらえれば、噂なんて一発で吹き飛ぶよ」
「ただし、企業秘密に関わる部分は伏せる必要がある。あくまで、安全性を証明するために必要な範囲に留めよう」
「了解。……それにしても、まさかこんな形で施設の裏側を公開することになるとはね」
シルフは苦笑しながらも、既に見学ツアーの構成を頭の中で組み立て始めているようだった。技術者としての彼女にとって、これは新たな挑戦のしがいがある課題でもあるのだろう。
「案内の順路はこう考えてるんだ。まず入口の魔導装置の仕組みをざっくり説明して、次にセーフティゾーンの転送機構を実演。最後に、これまでの安全記録を数字で見せる、って流れにしようと思う」
シルフは早速羊皮紙に図を書き込みながら、詳細な計画を語り始めた。単に噂を打ち消すためだけでなく、この施設の技術力そのものを誇示する機会として、彼女は前向きに捉えているようだった。
「面白い視点だな」
「でしょ! ピンチをチャンスに変えるのも、技術者の腕の見せ所ってやつだよ」
シルフの前向きな姿勢に、ゼノンは小さく頷いた。逆境にあってもなお、新たな可能性を見出そうとするその姿勢は、この施設全体に通じる強さの表れでもあった。
数日後、ロレンツが慌ただしく施設を訪れた。息を切らせながらも、その表情には強い使命感が滲んでいた。
「支配人殿! 噂の件、私の方でも対応を進めております!」
「ロレンツか。何か動きがあったのか」
「はい。各地の商人仲間に、正確な情報を広めるよう依頼しております。それに、実際にこの施設を訪れたことのある方々にも、体験談を語っていただくよう頼んで回っておりまして」
ロレンツの行動力には、単なる商売上の付き合いを超えた、確かな熱意が感じられた。彼にとってもこの施設は、既にかけがえのない大切な存在になっているのだろう。
ロレンツの精力的な動きに、ゼノンは静かに頭を下げた。
「助かる。……あんたには、いつも世話になりっぱなしだな」
「なんの、これも持ちつ持たれつというものです。この施設の発展は、私にとっても大切な商機なのですから」
ロレンツは屈託のない笑顔でそう言い切った。彼のその明るさが、緊迫した空気を和らげてくれるようだった。
ロレンツの飄々とした返しに、ゼノンは思わず口元を緩めた。損得勘定だけでなく、確かな信頼関係が、そこには築かれているようだった。
一方その頃、王立ギルドの一室では、ボルドーがある報告を受けていた。
「長官、ヴァルガス子爵が、深遠のアミューズメント・グラウンドに関する悪質な噂を流布しているとの情報が入っております」
その報告に、ボルドーは眉間に深い皺を刻んだ。
「……あの男、まだそんな真似をしているのか」
「いかがいたしましょう。放置すれば、我々ギルドが正式に支援を表明している施設への中傷ということにもなりかねません」
ボルドーはしばし考え込んだ。かつては自らもゼノンを冷遇した張本人だったが、視察団を派遣し、正式な協力関係を築いた今、その立場は以前とは大きく異なっている。
(あの若造の施設を貶めることは、もはやギルドの評判そのものを貶めることに等しい……)
かつての自分であれば、あるいはヴァルガスの行動を黙認していたかもしれない。だが今、ボルドーの脳裏をよぎるのは、そうした打算だけではなかった。あの若造が理不尽に追放されたことを、心のどこかでずっと悔いてきた自分がいる。その負い目が、今の判断を後押ししているのかもしれなかった。
「……ヴァルガスに、正式な警告を出せ。これ以上の妨害行為が続けば、ギルドとしても看過できないとな」
「畏まりました」
側近は一礼すると、静かに部屋を後にした。ボルドーは窓の外を見つめながら、静かに息をついた。かつての傲慢さは、今や自らの立場を守るための、慎重な判断へと変わりつつあった。
見学ツアーの初日、多くの客が興味津々な様子で参加を申し込んだ。予想を上回る反響に、受付を担当していたリクたちも、嬉しい悲鳴を上げていた。シルフが案内役を務め、権限ウィンドウによる安全機構の一端を、分かりやすく説明していく。
「ご覧の通り、挑戦者が危険な状態になった瞬間、自動的にセーフティゾーンへと転送される仕組みになっています。この技術は、開業当初から一貫して磨き続けてきたものです」
シルフの丁寧な説明に、参加者たちは感心した様子で頷いていた。
「本当に、こんなにしっかりした仕組みがあったんですね。噂は、やっぱりデマだったんだ」
参加者の一人がそう漏らすと、周囲からも同意の声が上がった。実際に目で見て確かめるという体験は、言葉だけの説明よりも、はるかに強い説得力を持っているようだった。その言葉を聞いたシルフは、心の中でそっと安堵の息をついた。技術者として積み重ねてきた努力が、こうして正しく理解されることほど、嬉しいことはなかった。
「それに、こうして裏側まで見せてくれる施設って、なかなかないですよね。隠すことなく、きちんと説明してくれる姿勢に、逆に信頼できるなって思いました」
別の参加者がそう付け加えると、周囲からも次々と共感の声が上がった。透明性を貫くというゼノンの判断は、単に噂を打ち消すだけでなく、むしろこれまで以上の信頼を勝ち取る結果に繋がりつつあるようだった。
その夜、支配人室に集まった仲間たちに、ゼノンは今日の成果を報告した。
「見学ツアー、初日から好評だったようだな」
「うん! 参加者みんな、納得した様子で帰っていったよ」
シルフは疲れた様子ながらも、達成感に満ちた表情でそう報告した。一日中案内役を務め通した彼女の声は、少し掠れていたが、その瞳には確かな充実感が輝いていた。
シルフの報告に、ルナリアも安堵の表情を浮かべた。
「これで、噂の勢いも少しずつ収まっていくといいのですけれど」
ルナリアの声には、確かな希望が滲んでいた。事実に基づいた地道な積み重ねこそが、この施設の何よりの武器なのだと、改めて実感しているようだった。
「ああ。一朝一夕には解決しないだろうが、地道に事実を積み重ねていくしかない」
ゼノンの言葉に、ガルムが力強く頷いた。
「そういうことなら、俺様も一肌脱ぐぜ。見学ツアーの中で、実際に俺が試練に挑む姿を見せるってのはどうだ? 安全性と本気の熱量、両方をまとめて分かってもらえるだろ」
ガルムの提案には、これまで培ってきた経験に裏打ちされた説得力があった。単なる仕組みの説明だけでなく、実際にこの目で見る挑戦の熱――それこそが、噂を打ち消す何よりの証拠になるはずだった。
その提案に、ゼノンは小さく笑みを浮かべた。
「悪くない案だ。頼めるか」
「任せとけ!」
ガルムは自信満々に胸を叩いた。彼にとって、この施設の危機は、自分の力を発揮する絶好の機会でもあるようだった。
その夜遅くまで、支配人室では見学ツアーの拡充案について話し合いが続いた。誰もが疲れを見せることなく、むしろ次々とアイデアを出し合い、この逆境をどう乗り越えるかを真剣に模索していた。
窓の外に広がる夜空を見上げながら、ゼノンは静かに思いを巡らせた。ヴァルガスの妨害は、確かに厄介な試練ではある。だが、この施設に集う仲間たちの結束と、これまで積み重ねてきた誠実な運営の実績があれば、必ず乗り越えられるはずだった。
仲間たちの結束は、この試練の中でむしろ強まっているようだった。理不尽な妨害に対しても、決して屈することなく、それぞれができることを着実に積み重ねていく――その姿勢こそが、この施設の何よりの強さだった。




