第38話 追い詰められた男
ヴァルガスの屋敷に、王立ギルドからの正式な書状が届いたのは、見学ツアーが評判を呼び始めた頃のことだった。
「子爵、王立ギルドより書状が届いております」
セバスチャンの声には、いつもと違う緊張の色が滲んでいた。封蝋に刻まれたギルドの紋章を見た瞬間、彼自身も嫌な予感を覚えていたのかもしれない。
セバスチャンが差し出した書状を、ヴァルガスは苛立たしげに引ったくるように受け取った。目を通すなり、その顔がみるみる紅潮していく。書状を持つ手は、抑えきれない怒りで小刻みに震えていた。
「なんだこれは……! 警告だと!? このヴァルガスに対して、警告を発するというのか!」
驚愕と怒りの入り混じった声が、屋敷中に響き渡った。長年、貴族としての矜持を誰よりも大切にしてきたヴァルガスにとって、この屈辱は到底受け入れがたいものだった。
書状には、深遠のアミューズメント・グラウンドに対する悪質な風説の流布について、これ以上の行為が続けば正式な処分も検討するという旨が、丁寧ながらも厳しい言葉で綴られていた。
差出人の署名には、ボルドーの名が記されている。かつては共に王立ギルドの中枢を担っていた仲間からの警告――それは、ヴァルガスにとって、これ以上ないほどの屈辱だった。
「ふざけるな……! あの若造の肩を持つとは、ギルドも地に落ちたものだ!」
ヴァルガスの怒声には、これまで積み重ねてきた理不尽な言い分が、そのまま滲み出ているようだった。自らの非を省みることなく、全てを他者のせいにする――その思考の歪みは、もはや修復不可能なところまで進んでいるのかもしれなかった。
ヴァルガスは書状を握りつぶし、床に叩きつけた。その形相には、これまでの苛立ちに加えて、明確な焦りの色が滲んでいた。
傍らで控えていたセバスチャンは、その様子を息を呑んで見つめていた。長年仕えてきた主が、これほどまでに自制を失う姿を見るのは、初めてのことだった。
「子爵、どうか落ち着いてくださいませ。ギルドを敵に回すことは、我々にとって何の得にもなりません」
セバスチャンは震える声を必死に絞り出しながら、主を諫めようとした。
セバスチャンの諫言に、ヴァルガスは苛立たしげに振り返った。
「黙れ! お前まで、あの若造の味方をするつもりか!」
ヴァルガスは吐き捨てるように叫んだ。長年の忠実な奉仕すら、もはや彼の目には正しく映らなくなっているようだった。
「そのようなつもりは毛頭ございません。ただ、このまま事を荒立てれば、子爵家そのものの立場が危うくなりかねないと、申し上げているのです」
セバスチャンは、震える声を必死に抑えながら訴えた。長年この家に仕えてきた彼にとって、子爵家の未来は、我が事のように大切なものだった。だからこそ、主の暴走を、なんとしても止めなければならなかった。
セバスチャンの言葉には、長年仕えてきた主への、切実な忠告が込められていた。だが、ヴァルガスの耳には、もはやその声すら届いていないようだった。
「立場が危うい、だと? 今更、何を守れというのだ。坑道は崩壊寸前、財政は火の車、そこに追い打ちをかけるように、ギルドからも見放されようとしている。……もう、失うものなど何もない」
その呟きには、これまでとは違う、危険な諦観が滲んでいた。
セバスチャンは、その言葉に背筋が凍る思いがした。何もかもを失う覚悟を決めた人間ほど、恐ろしいものはない。理性の箍が外れた主の姿に、彼は言いようのない不安を覚えずにはいられなかった。
「子爵……。どうか、思いとどまってくださいませ。今ならまだ、坑道を閉鎖し、静かに再起を図る道も残されております」
「静かに再起、だと? そんな悠長なことをしている間に、あの若造はますます名声を高めていくだろう。……もう、待てん」
ヴァルガスの声には、もはや理屈では説得できない、執念にも似た感情が宿っていた。
その夜、ヴァルガスは再び、あの商人を屋敷に呼び寄せていた。だが今度は、これまでとは違う種類の依頼を持ちかけていた。屋敷の灯りは深夜まで消えることなく、密談じみた空気が漂っていた。
「風説だけでは、埒が明かん。もっと確実な手段が必要だ」
ヴァルガスの声は、これまでとは明らかに違う、冷たい響きを帯びていた。もはや理性で歯止めをかけることのできない、危険な領域に足を踏み入れつつあることを、その声色が物語っているようだった。
「確実な手段、と申しますと……」
商人は恐る恐るそう尋ねた。これまでのやり取りの中で、既に嫌な予感を覚えていたのかもしれない。
商人の声には、明らかな警戒が滲んでいた。
「あの施設に、直接手を加える。……分かるな、何を言っているか」
その一言に、部屋の空気が一気に張り詰めた。もはや言葉による中傷の域を超えた、明確な犯罪行為への言及だった。
「そ、それは……。さすがにそこまでは、私の手に負えません。そのような話は、裏の世界の人間を頼るしかないでしょう」
商人は青ざめた顔で首を振った。噂を流すことと、直接的な妨害行為とでは、罪の重さがまるで違う。それは、彼自身が誰よりもよく理解していた。
「子爵様、どうかお考え直しを。噂を流すくらいなら、まだ商人としての範疇でございます。ですが、直接的な妨害となれば、これはもう犯罪です。私はそこまでお手伝いすることはできません」
商人の声には、明確な拒絶の色が滲んでいた。金のためなら多少の後ろ暗い仕事も厭わない彼であっても、さすがにこの一線だけは越えられないようだった。
「裏の世界の人間、か。……心当たりはあるか」
「……子爵様、本当にそこまでなさるおつもりですか。もし発覚すれば、貴族としての立場どころか、命そのものすら危うくなりかねません」
「構わん。……このまま緩やかに没落していくくらいなら、一か八かに賭けた方がマシだ」
その言葉には、貴族としての誇りも、これまでの分別も、もはや何一つ残されていないように聞こえた。ただひたすらに、自らを追い詰めた相手への復讐心だけが、彼を突き動かしているようだった。
その目には、もはや正常な判断力を失いつつある、危うい光が宿っていた。
一方その頃、深遠のアミューズメント・グラウンドでは、見学ツアーの評判の高まりとともに、噂による影響もほぼ収束しつつあった。連日の賑わいが戻り、行列にはいつもの活気が満ちている。
「支配人、今週の来場者数、ほぼ元の水準まで回復しましたわ」
ルナリアの報告に、ゼノンは静かに頷いた。
「見学ツアーの効果は大きかったな。透明性を重視した判断が、正しい方向に働いたということだろう」
ゼノンの声には、静かな手応えが滲んでいた。噂という見えない敵に対し、事実と誠実さで応じるという判断は、間違っていなかったのだと、改めて確信できる結果だった。
「ええ。……ですが、油断はできませんわ。ヴァルガス子爵が、これで大人しくなるとは思えません」
ルナリアの言葉に、ゼノンも同意するように頷いた。
「王立ギルドからの警告書状も届いたという話ですし、あの方の焦りは、むしろ増しているかもしれませんわね」
ルナリアの懸念に、ゼノンは腕を組んだ。ロレンツの情報網からも、ヴァルガスの領地が坑道の崩落続きで、いよいよ切羽詰まった状況にあるという報告が届いていた。追い詰められた人間の行動は、時として予測がつかない。
「追い詰められた人間ほど、何をしでかすか分からない。念のため、警戒は強めておこう」
ゼノンの声には、これまでにない緊張感が滲んでいた。相手が追い詰められれば追い詰められるほど、常識の範疇を超えた行動に出る可能性が高まる――それは、かつて自身が経験した理不尽な仕打ちからも、身に染みて理解していることだった。
「具体的には、どうなさいますの?」
「ガルムに、夜間の見回りを頼む。それと、シルフには、施設全体の監視体制を強化してもらう」
ゼノンは頭の中で素早く対策を組み立てながら、必要な指示を的確に打ち出していった。これまでの経験から、混乱した時こそ、冷静な指揮系統が何よりも重要だと、彼はよく理解していた。
ゼノンの指示に、ルナリアは頷きながら記録簿に書き込んでいった。慎重すぎるほどの備えではあったが、これまでの経緯を考えれば、決して過剰な対応ではないはずだった。
「これで、少しは安心ですわね」
「まだ油断はできないが、備えあれば憂いなしだ。……あとは、事態が悪化しないことを祈るばかりだな」
ゼノンの言葉に、ルナリアは静かに頷いた。
その夜、支配人室に集められた仲間たちに、ゼノンは警戒態勢の強化を伝えた。誰もが真剣な表情で、その言葉に耳を傾けていた。
「ヴァルガス子爵の焦りが、これまで以上に深刻化している可能性がある。念のため、警戒レベルを上げる」
「具体的に、何を警戒すればいいんだ?」
ガルムが真剣な表情で尋ねた。
ガルムの問いに、ゼノンは静かに答えた。その表情には、いつもの飄々とした様子とは違う、真剣な色が浮かんでいた。
「噂による妨害だけでなく、直接的な破壊工作の可能性も、視野に入れておく必要がある」
その言葉に、部屋の空気が一瞬にして張り詰めた。これまでの言葉による中傷とは、明らかに次元の違う脅威だ。誰もがその重さを、瞬時に理解したようだった。
その言葉に、シルフが表情を引き締めた。
「さすがにそこまではしないと思いたいけど……。念のため、警備システムの見直しも進めておくよ」
「頼む。あんたの技術があれば、不審な動きも早期に察知できるはずだ」
シルフは即座に頷き、頭の中で監視システムの設計図を組み立て始めているようだった。技術者としての彼女は、こうした緊急事態においてこそ、真価を発揮するのだろう。
ゼノンの信頼に応えるように、シルフは力強く頷いた。
「俺様は、夜通し見回りでも構わねえぜ。誰が来ようと、この施設は絶対に守ってみせる」
ガルムは大剣を担ぎ直しながら、力強くそう宣言した。剣聖と呼ばれた男の存在感は、それだけで大きな安心感を周囲に与えていた。
ガルムの頼もしい宣言に、ミシェルも柔らかく微笑んだ。
「厨房も、何かあればすぐに動けるよう、包丁を研いでおくわね」
ミシェルは冗談めかしてそう言ったが、その眼差しには確かな覚悟が宿っていた。この施設を守るためなら、自分にできることは何でもする――そんな強い意志が、そこには感じられた。
その物騒な冗談に、場の空気が少しだけ和らいだ。だが、その裏には、これから訪れるかもしれない試練への、確かな覚悟が滲んでいた。
シルフもまた、真剣な面持ちで頷いた。
「あたしも、監視用の魔石をもっと増やしておく。もし怪しい動きがあれば、すぐに気づけるようにね」
「頼もしい限りだな」
ゼノンの言葉に、シルフは得意げに胸を張った。「任せて、支配人。こういう時こそ、あたしの本領発揮だからね」
「みんな、ありがとう。……この施設を守れるのは、あんたたち一人ひとりの力だ」
その声には、確かな信頼が込められていた。
ゼノンの素直な感謝の言葉に、仲間たちは少し照れくさそうにしながらも、確かな誇りを胸に抱いているようだった。理不尽な追放から始まったこの物語が、ここまで多くの仲間との絆に支えられていることを、彼は改めて実感していた。
ゼノンの言葉に、その場にいた全員が、静かに頷いた。理不尽な追放から始まったこの物語は、今、これまでで最も大きな試練の入り口に立とうとしていた。夜の帳が下りた広場には、いつもと変わらぬ静けさが広がっていたが、その奥には、確かな緊張感が息づいていた。何が起きようとも、この仲間たちとなら乗り越えられる――ゼノンはそう確信しながら、静かに夜空を見上げた。




