第36話 崩れゆく領地
ヴァルガス子爵の領地、その中心部にそびえる旧ダンジョン「深淵の坑道」は、かつての威容を失いつつあった。かつては王立ギルドが管理する主要ダンジョンの一つとして名を馳せ、豊富な鉱脈と魔物の素材で莫大な富をもたらしてきた場所だった。だが今や、その面影はどこにもない。
「子爵、また崩落です! 第三坑道が完全に埋まりました!」
息を切らせて駆け込んできた管理者の報告に、ヴァルガスは苛立たしげに机を叩いた。彼の顔には、隠しきれない焦燥の色が浮かんでいた。
「またか! いい加減にしろ、この無能どもが!」
ヴァルガスは怒鳴った。
「申し訳ございません。ですが、これ以上の採掘は、坑道の構造自体が持ちません。魔物の間引きも限界を超えており、このままでは――」
管理者は必死に説明を続けようとしたが、その声はヴァルガスの耳には届いていないようだった。数字と利益しか目に入らない主の姿は、かつての領地経営の在り方そのものを象徴しているようでもあった。
「黙れ! 利益が出なければ意味がないのだ! 何としても稼働を続けろ!」
ヴァルガスの怒声に、管理者は震えながらも頭を下げるしかなかった。
かつては誇り高い坑道技師として名を馳せていたこの管理者も、今や日々崩落の報告に追われ、心身ともに疲弊しきっていた。だが、それを訴えたところで、ヴァルガスが聞く耳を持たないことは、既に痛いほど分かっていた。
その夜、屋敷の執務室で、ヴァルガスは一人、収支報告書を睨みつけていた。かつて莫大な利益を生み出していた「深淵の坑道」は、今や毎月赤字を垂れ流すだけの、無用の長物と化している。
「くそ……。あの若造さえ、あの若造さえいなければ……!」
ヴァルガスは呻くようにそう呟いた。
彼が口にする「あの若造」とは、言うまでもなくゼノンのことだった。三年前、無能扱いして追放した男が築き上げた施設は、今や国境を越えて評判を呼び、隣国からの正式な支援まで受けているという。
一方で、自らの領地は坑道の崩壊と赤字転落に苦しみ、日に日に困窮の色を深めている。この対照的な現実が、ヴァルガスの心を蝕んでいた。
思い返せば、ゼノンを追放した日、彼は自らの判断が正しいと、微塵も疑っていなかった。効率を求めぬ管理者など不要だと、周囲にも豪語していたはずだった。それが今や、その「不要」だったはずの男が、国境を越えるほどの評判を築き上げている。この現実を受け入れることは、ヴァルガスの矜持が到底許さなかった。
「なぜだ……。同じように領地を治めているというのに、なぜあの若造ばかりが評価される……!」
執事のセバスチャンが、静かに執務室へと入ってきた。彼は長年この屋敷に仕えてきた、忠実な老執事だった。
「子爵、今月の収支報告が届いております」
その声には、いつもより緊張の色が滲んでいた。
「見なくても分かる。どうせまた赤字なのだろう」
ヴァルガスは吐き捨てるようにそう言った。もはや報告書に目を通す気力すら、失いつつあるようだった。
「……その通りでございます。それどころか、坑道の維持費用だけで、既に領地全体の税収を上回っております」
その報告に、ヴァルガスは頭を抱えた。かつて贅を尽くした生活を送っていた彼にとって、この現実はあまりに受け入れがたいものだった。
「他に手立てはないのか。何でもいい、何か策を講じろ!」
その声には、これまで見せたことのない、切羽詰まった響きが滲んでいた。
「……恐れながら申し上げますと、坑道そのものを一時閉鎖し、被害の拡大を防ぐのが最善かと」
「閉鎖だと? そんなことをすれば、領地の収入源が完全に絶たれるではないか!」
「ですが、このまま無理に稼働を続ければ、いずれ大規模な崩落事故を引き起こし、作業員に死者が出る恐れも――」
「知ったことか! 金にならない人命など、二の次だ!」
その言葉に、セバスチャンは思わず息を呑んだ。長年仕えてきた主の変貌ぶりに、彼自身も戸惑いを隠せないようだった。
かつてのヴァルガスは、決して情け容赦のない人物ではなかった。むしろ、領民との対話を大切にする一面もあったはずだった。だが、坑道の崩壊と赤字転落という現実を前に、その余裕は跡形もなく消え失せているようだった。
「……畏まりました。ですが、せめて安全対策の予算だけは、確保させていただきたく存じます」
セバスチャンは食い下がるようにそう進言したが、ヴァルガスは苛立たしげに手を振った。
「好きにしろ。だが、坑道の稼働だけは、絶対に止めるな」
その命令に、セバスチャンは深々と頭を下げるしかなかった。主の判断に異を唱えることの難しさを、彼は改めて痛感していた。
数日後、ヴァルガスは、旧知の商人を屋敷に呼び寄せていた。この商人は、かつて坑道の運営で不正な取引に関わったこともある、いわくつきの人物だった。金のためなら、多少の後ろ暗い仕事も厭わない――そんな評判が、彼にはついて回っていた。
「例の件、進んでいるか」
「はい、子爵様。深遠のアミューズメント・グラウンドに関する噂を、あちこちで少しずつ広めております。『あの施設は、実は危険な事故が多発している』という内容で」
商人の報告に、ヴァルガスは満足げに頷いた。
「良い仕事だ。もっと広めろ。あの若造の評判に、少しでも傷をつけてやる」
ヴァルガスの声には、これまでの誇り高い領主としての矜持など、もはやどこにも残っていなかった。あるのはただ、自らの失墜を認められない、醜い執着だけだった。
「畏まりました。……ですが子爵様、このようなやり方は、いささか危険では? もし嘘だと発覚すれば――」
商人の声には、わずかな懸念が滲んでいた。
「案ずるな。噂というのは、真実かどうかなど関係ない。人々の記憶に残りさえすれば、それで十分なのだ」
その冷徹な理屈には、これまで積み上げてきたはずの領主としての矜持など、微塵も感じられなかった。手段を選ばずに相手を貶めようとするその姿勢は、かつて彼がゼノンを「無駄」と切り捨てた時の傲慢さと、どこか重なるものがあった。
ヴァルガスの卑劣な笑みに、商人はわずかに眉をひそめたが、それ以上何も言わなかった。金の力には逆らえない、という諦めが、その表情には滲んでいた。
一方その頃、深遠のアミューズメント・グラウンドでは、いつも通りの賑わいが続いていた。行列に並ぶ客たちの笑い声、観覧スタンドから響く歓声――日常の光景は、何一つ変わりないように見えた。だが、ルナリアはある報告を受け、わずかに眉をひそめていた。
「支配人、少々気になる噂が広まっているようですわ」
「噂?」
「ええ。『施設内で事故が多発している』という、根も葉もない話ですの。出所を辿ると、どうやら隣領の商人筋から発信されているようで」
ルナリアの報告には、はっきりとした苛立ちが滲んでいた。開業以来、安全性を何よりも大切にしてきたこの施設にとって、そうした根も葉もない中傷は、決して看過できるものではなかった。
ゼノンはその報告に、静かに目を細めた。
「隣領、というと……ヴァルガスの領地か」
ゼノンの声は、あくまで冷静だった。
「おそらくは。……あの方、随分と追い詰められているという話も耳にしておりますわ。坑道の崩落が相次ぎ、財政も火の車だとか」
ルナリアの声には、憐れみとも呆れともつかない複雑な色が滲んでいた。
ルナリアの言葉に、ゼノンは腕を組んだ。予想していたことではあったが、いよいよ具体的な妨害という形で、その焦りが表面化し始めたようだった。
「放っておくわけにもいかないな。だが、感情的に対応するつもりもない」
「どうなさるおつもりですの?」
「事実を、丁寧に示せばいい。噂に対抗する一番の武器は、揺るぎない実績と、透明性のある運営だ」
ゼノンの言葉には、動揺の色は微塵も見られなかった。むしろ、噂という卑劣な手段に訴えざるを得なくなった相手の焦りを、静かに見透かしているようでもあった。
「具体的には、どのような対策をお考えですの?」
「これまでの安全記録を、全て公開しよう。開業からの怪我人の統計、事故対応の履歴、全てを包み隠さず示す。それが、噂を打ち消す一番確実な方法だ」
ルナリアはその提案に、深く頷いた。
「賢明なご判断ですわ。隠し立てするよりも、堂々と事実を示す方が、かえって信頼を得られますものね」
ルナリアはそう言いながら、早速記録簿の整理に取り掛かった。開業からの日々を記した数々の記録は、この施設の歩みそのものを物語る、確かな財産だった。それを胸を張って公開できることこそ、これまで積み重ねてきた誠実な運営の証だった。
その夜、支配人室に集まった仲間たちに、ゼノンは今回の一件を共有した。いつもの賑やかな雰囲気とは違う、どこか張り詰めた空気が、部屋の中に漂っていた。
「妙な噂が流れているらしい。事故が多発している、という根拠のない話だ」
「マジかよ、そんな噂流されたら迷惑にも程があるだろ!」
ガルムが憤慨した様子で声を上げると、シルフも険しい表情で頷いた。
「うちの安全記録、ちゃんと数字で残してるのに。誰がそんな嘘広めてるんだろ」
シルフは憤慨した様子で、これまで蓄積してきた記録簿を手に取った。開業以来、彼女自身も心血を注いで管理してきた安全性の数値だ。それを根拠なく貶められることに、強い憤りを覚えているようだった。
「おそらく、ヴァルガス子爵の差し金だろう」
ゼノンの言葉に、その場の空気が一瞬張り詰めた。だが、彼はあえて冷静な口調で続けた。
「怒りに任せて反撃するつもりはない。事実を淡々と公開し、これまでの信頼を積み重ねていけばいい。噂は、いずれ事実の前に消えていくものだ」
その言葉には、これまでの経験に裏打ちされた確かな自信が滲んでいた。感情に流されず、常に理性的な判断を下せるからこそ、この施設はここまで大きく育ってきたのだろう。周囲の仲間たちも、その姿勢に改めて信頼を寄せているようだった。
その落ち着いた姿勢に、ミシェルが感心したように呟いた。
「あなた、本当にブレないのね。……でも、それがこの施設の強さなんでしょうね」
ガルムもまた、腕を組みながら頷いた。
「まあ、坊主がそう言うなら、俺様は黙って腕を磨いておくとするか。もし何か仕掛けてくるようなら、真っ先に相手してやるさ」
「頼もしい話だが、あくまで最終手段だ。まずは、正々堂々とした対応で乗り切る」
ゼノンの方針に、その場にいた全員が頷いた。理不尽な妨害に対して、同じように理不尽なやり方で応じるのではなく、あくまで自分たちの誠実さを貫く――それこそが、この施設がこれまで大切にしてきた在り方だった。
ミシェルもまた、厨房から漂う温かな湯気を背に、静かに微笑んだ。
「どんな嵐が来ようとも、うちの味は変わらないわ。それだけは、揺るぎない事実だもの」
その一言に、部屋の空気が少しだけ和らいだ。困難な状況にあってなお、それぞれが自分の役割を全うしようとする姿勢が、この施設全体の強さを支えているのだと、ゼノンは改めて実感していた。
深遠のアミューズメント・グラウンドを取り巻く空気は、これまでにない緊張感を帯び始めていた。だが、その中心にいるゼノンの姿勢は、いささかも揺らぐことはなかった。
窓の外に広がる夜の広場を見つめながら、ゼノンは静かに思いを巡らせていた。ヴァルガスの焦りは、いずれさらに大きな行動へと発展するかもしれない。だが、どのような形で妨害が仕掛けられようとも、これまで積み重ねてきた仲間たちとの絆と、揺るぎない誠実さがあれば、乗り越えられないはずはない。
理不尽な追放から始まったこの物語は、これから新たな試練の時を迎えようとしていた。




