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衰退世界の夢想蝶  作者: 小柚


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第2章(3)

 雨の日は暇だ。どうしようもなく暇だ。

 惰眠を貪るのにも飽きて、俺はようやく身を起こした。

 ばさり、と本が胸元から滑り落ちる。読みかけの推理小説だったか。拾い上げてぱらぱらとページをめくるが、すぐに諦めた。薄暗い室内で文字を追うのは、無駄に疲れる。

 あくびを噛み殺し、周囲を見回す。婆さんたちは相変わらずラジオにかじりついている。よく飽きないものだ。

 長雨のせいか、室内の空気はやけにもったりとしていた。湿った臭いが鼻につく。部屋の端に目をやると、緑色の小さなランプが点灯している。換気装置は正常運転中らしい。

 正常でこれかよ……。

 生物が密室で暮らす以上、仕方ないのはわかっている。だが、十数年間の快適な文明生活を覚えた体には、この湿り気はどうにも堪える。我慢と許容は違う。越えられない一線というものがある。

 今度ライズに改善提案でもしてみるか、と思う。だが同時に、面倒だな、とも思った。

 最近どうにも頭がぼんやりする。視界に薄い霧がかかったように、現実味がない。全部夢で、目が覚めれば昔の世界に戻っているんじゃないか——そんなことを考えることもある。

 もちろん、夢は一向に覚めない。

 いつから世界はこんなに曖昧になったんだろう。思い出せない。

 もう一度あくびをして、俺は重い腰を上げた。推理小説を脇に抱え、婆さんしかいない部屋を後にする。

 向かったのはいつもの図書室だ。薄暗い場所で読書をする物好きは少ない。だからここは、俺とイブのお気に入りの場所だった。

 図書室の扉の隙間から、わずかに光が漏れている。誰かいるらしい。イブかと一瞬期待したが、壁越しに聞こえる賑やかな声で違うと知る。

 扉を開けると、数人の姿が目に入った。青年組の連中だ。俺より十ほど年上の男女のグループ。普段は談話室を占拠している連中だが、今日はここらしい。

 居心地は良くなさそうだ。さっさと本を返して帰るか。

 そう思い、本棚の間に滑り込んだ。

 そのとき、女の甲高い声が響く。話が盛り上がっているらしい。外での武勇伝——奇妙な生物を見たとか、事故に巻き込まれたとか——たいした話ではないが、病弱で外に出られない女たちには刺激なのだろう。

 何か借りていくか、と背表紙を眺めていると、物陰からすっと人影が出た。

「うるさいですよ!」

 凛とした声が響く。

「くだらない話をするなら、ご自分の部屋か談話室に行ってくださいませんか」

 この棘のある物言いは、あいつしかいない。

「はあ?」

 苛立った声が返る。

「ここは学びの場所です。この事態を打開しようと努力する人のための場所です。何も考えていない方が邪魔していい場所ではない!」

 ああ……なんてことを言うんだ。

 本棚の陰から覗くと、ひょろりとした銀髪の少年が立っている。対峙するのは体格のいい男だ。よくあの食事でその体を維持できるものだと感心するほどの体格。

 男は一瞬きょとんとしたが、背後を見やる。仲間の女が真っ赤な顔でキューを睨んでいる。普段の温厚そうな顔からは想像できない形相だ。

 男の顔色が変わる。

 次の瞬間、キューの胸ぐらを掴み上げた。本がばたばたと床に落ちる。

「てめぇ何様だ!」

 軽い体は簡単に持ち上がり、爪先が空を踏む。

「てめぇら無駄なことばっかやって、俺たちの電力と食糧を食いつぶしてるくせに、偉そうなこと言ってんじゃねえ!」

 キューは何か言い返そうとするが、喉を締められ声にならない。

 男は一方的に怒鳴り続ける。

「てめぇらが来てから明かりは半分だ。換気装置もまともに動かねぇ部屋もある。娯楽はラジオと読書だけ? ふざけんなよ!」

 後ろで女が泣き出した。

 ……具体的に言われると、妙に刺さるな。

 俺もさっきの部屋の臭いを思い出して、少しだけ気分が悪くなる。

「世界を無茶苦茶にしたのはてめぇらだろうが! 責任も取らずに逃げてきて、まだ呪われた研究を続ける気か? この悪魔め!」

 追い出すぞ! 天日干しにしてやる!

 四対一の罵声。

 しかも大の大人が子供相手だ。

 俺はため息をついた。

 帰ったら、夢見が悪いな。

「あのう」

 おずおずと近づく。

「なんだ!」

 男の怒声が飛ぶ。

「あの……俺の部屋、近くて。その……婆ちゃんが」

 男の顔の赤みが薄れる。

「うちの婆ちゃんたち、心配症で。もし聞こえちゃったら……」

 聞こえるはずはない。それは男もわかっている。

 だが、その単語は充分だった。

 ——困ったときは、婆ちゃんのせいにしろ。

 ここで覚えた知恵のひとつだ。

 男は手を緩める。

 キューがどさりと床に落ちる。

 咳き込む彼を一瞥し、男たちは無言で図書室を出ていった。

 乱暴に閉められた扉のそばで、キューはまだ苦しそうに咳き込んでいた。

 ひ弱そうな体は、あの程度の暴力でも簡単に壊れてしまいそうだ。

 あまりに苦しそうなので、少し心配になる。

 サファーを呼んだほうがいいか、と考えかけたとき、咳はゆっくりとした深呼吸に変わった。

「……ユビグラム解析は、みなさんのための技術なのに」

 荒い息の合間から、かすれた声が落ちる。

「……知ってるよ」

 俺はため息まじりに答えた。

 不意に、キューの両目から涙がこぼれた。

 俺は気づかないふりをする。

「……私たちは、責任を取るべきだと思っています。でもその方法は、やはり……ユビグラム解析であるべきなんです……」

 言い切ると、散らばった本を拾い集め、よろめきながら立ち上がる。

 そのまま部屋を出ていった。

 ……もうちょっと肩の力を抜けよ。

 小さな背中にそう言ってやりたかった。

 お前が一人で気張ったところで、どうにもならない。

 敵ばかり作らないで、たまには談笑でもしてみろ。

 足元に一冊、本が落ちている。

 暗緑色の装丁が闇に紛れていた。

 拾ってぱらぱらとめくる。

 ……なんだこりゃ。

『ユビグラムと生物化学』

 わけがわからん。

 机の上に置き直す。

 ここの蔵書は幅広いが、半分以上は小難しい。

 奥の棚に並ぶ題名を眺めるだけで、軽い頭痛がした。

 キューはきっと、この棚にしか来ないんだろうな。

 真面目なやつだ。

 マグロみたいだ、とふと思う。

 泳ぎ続けないと死ぬらしい。

 ……天日干しにだけは気をつけろよ。

 人間の干物なんて、いくらライズでも喜ばない。


『今日から、この人たちを仲間に加えるよ。首都からいらっしゃったユビグラム解析師さんだよぉ』

 ライズが三人を紹介したのは一年前だ。

 ラジオで「ユビグラム解析師の逮捕」が報じられた直後だった。

 みんな察した。逃げてきたのだと。

 中年の女と、子ども二人。

 末端の研究者だろう。匿ってほしいだけだ。

 そう思って、受け入れた。

 だがライズの考えは違った。

 研究を続けさせた。

 そして彼女たちも、それを望んでいた。

 不安の声はあった。

 だがライズの決定だ。

 獣人でありながら頼りになるリーダーを、みな恐れつつ尊敬していた。

 ユビグラム解析は、生活を変えた。

 怪我も疫病も、サファーは治してしまう。

 培養肉を作り、消毒薬を合成し、カビも害虫も抑えた。

 この一年で死亡者は明らかに減った。

 閉鎖空間で一番怖いのは伝染病だ。

 “病院送り”が無事に戻ってきたとき、サファーは神の使いだと思われた。

 だが恩恵には慣れる。慣れれば普通になる。

 感謝は消え、欠陥だけが見える。

 “普通”を奪ったのもユビグラム。

 “普通”を返したのもユビグラム。

 差し引きゼロだと考える者も多い。

 生きるのが楽になれば、暇が生まれる。

 暇は不満の栄養源だ。

 サファーの無頓着も拍車をかけた。

 電力を使いすぎ、停電が起きる。

 研究のため、室温は二度上がり、照明は半減し、娯楽は制限された。

 彼らの目的は「長生き」ではない。

 もっと大きな目標――

 “世界を元に戻す方法”。

 本国で何年もかけて解けなかった問題が、この地下でどうにかなるのか。

 むしろ悪化するのではないか。

 不満が募るのは当然だった。

 それでも、サファーにもライズにも、面と向かって文句を言える者はいない。

 だがキューは例外だ。

 研究補助とはいえ、どれほど役に立っているかはわからない。

 なのにあの態度。批判が集中するのも無理はない。

 ……面倒にならなければいいが。

 本は借りずに帰ることにした。

 そろそろ配給の時間だ。

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