起ー【7】
雨の日は暇だ。どうしようもなく暇だ。俺は惰眠を貪るのにも飽きて、身を起こした。
ばさりと本が滑り落ちる。読みかけの推理小説だったか? 俺はそれをつまみあげてぱらぱらと続きを探すが、すぐに諦めた。薄暗い室内で文字を読むのは無駄に疲れるんだ。
あくびをかみ締めて、周りを見た。婆さん達はまだラジオに取り付いている。よく飽きないもんだと感心した。
長雨のせいだろう、室内の空気はやけにもったりとしていて、独特の臭いがたちこめている。部屋の端に目をやると、緑の小さなランプが点灯していた。そこには換気装置が取り付けられていて、正常運転していることを示している。
正常でもこう臭っちゃなぁ……。生物が密室に暮らしている以上仕方のないことなのだが、十数年間の快適な文明生活を味わった体には、どうにも受け付けない。我慢と許容は違う、越えられない一線があった。
どっかの機会にライズに改善提案でもしてみようかなと思うが、同時に面倒だなと思った。
最近どうにも頭がぼんやりする。視界に霧がかかったように周りに現実感がない。もしかしてこれは全部夢で、目が覚めたら昔のいつも通りの世界が広がってるんじゃないか、なんて思うこともあるが、残念ながら夢はまるで覚める気配を見せない。
いつから世界はこんなにぼんやりしてしまったんだろうか。思い出せない。
俺はあくびをもう一度かますと、重い腰を上げた。推理小説を取り上げると、婆さんしかいない部屋を後にした。
向かったのはいつもの図書室。薄暗い中、本を読もうなんて変わり者はあまりいないため、普段は誰もいない。だからこそ、俺とイブのお気に入りの場所となっている。
図書室からはわずかに明かりが漏れていて、人がいることを示していた。イブかもしれないと期待したが、壁越しの賑やかな様子に、どうやら違うようだとわかる。
扉を開けると数人の姿が見えた。青年組のやつらだ、と思った。彼らは俺より十くらい年上の男女グループで、普段は談話室を占拠してるイメージだが、今日はここに出張してきたようだ。どうも寛げる雰囲気じゃなさそうだし、本を返してさっさと帰ろうと思い本棚の間に滑り込んだ。
女の甲高い声にびくりとした。話が盛り上がってるようだ。男の外での武勇伝に、女が黄色い歓声を上げている。武勇伝と言っても、大したことのない、奇妙な生物を見た、事故に巻き込まれて死にかけた程度の話だが。確かあのグループの女ふたりはか弱くて、外には出ていないはず。だから男の外の話は、いくら他愛無いものでも興味深いんだろう。
せっかくだから何か借りていこうと思い、辺りを物色していると、物陰から何かが出てきた。他にも誰かが居たのかと思って顔を上げると、
「うるさいですよ!」
凛とした声が響いた。
「あなたがた、くだらない話をするならご自分の部屋か談話室にしてくださいませんか」
このトゲトゲしい言い回しは、奴だ。他にはいない。俺が呆れているところに、はあ? という苛立った声が聞こえた。
「くだらないって……」
「ここは学びの場所です、この事態を打開しようと努力する人のためのスペースです。あなたがたのような何も考えてない方が邪魔していい場所じゃないんです!」
ああ、なんて事を言うんだ。こいつ、誰にでも突っかかるんだな。俺はこっそり本棚の隅から覗き見る。ひょろっちい銀髪の子供が見えた。
対峙してるのは立派な体格の男。ここの食事でよくあの体が保てるな、と感心する程のガタイの良さだ。
男はきょとんとしていたようだが、静かに横に目線を送った。仲間の女のひとりが、顔を真っ赤にしてキューを睨んでいる。すんげえ顔してんな、俺は驚いた。普段の温厚そうな表情からは想像できない形相だった。
それを見た男は伝染するように顔色を変えると、キューの胸ぐらを乱暴に掴む。ばたばたと重そうな本が落下した。
「てめぇ何様のつもりだぁ?!」
軽い体は簡単に持ち上がり、爪先立ちになった足は奇妙なステップを踏んでいる。
「てめぇら無駄なことばっかやって、俺たちの電力と食糧を食いつぶしてるくせに……何偉そうなこと言ってんだよ!」
キューは反論したそうだったが、喉を締められていて言葉にならない。それをいいことに男は一方的に怒鳴り散らした。
「てめぇらが来てから明かりは半分だ、換気装置もまともに動かねぇ部屋もあんだぞ! 娯楽はラジオと読書以外禁止とか、馬鹿にしてんじゃねぇよ! てめぇらが電力を牛耳らなきゃなぁ、俺たちゃもっと人間的な生活できるんだよ。事態を打開? 悪くしてるだけじゃねえか!」
後ろの女が突然泣き出した。うん、具体的な愚痴を言われると妙にぐっと来るな。俺もさっきの部屋の臭いを思い出して泣けてきた。
「だいたい、世界を無茶苦茶にしたのはてめぇらだろうが! なのに責任も取らずに国から逃げてきて……それでまだ呪われた研究をしてるとか、許されるのか?! 許されるはずないだろ、この悪魔が! 責任取れないならせめて大人しくしてろよ! 追い出されてぇか?!」
そうだ! 追い出すぞ! 天日干しだ! 仲間が男に呼応して喚き立てた。四対一のバッシングは酷いものだった。しかも大の大人が子供一人を標的にしているわけで。
俺はため息をついた。ここで帰ったら夢見が悪そうだ。
「あのう」
おずおずと近づく。
「なんだ!」
男は俺にも怒鳴りつけてきやがる。こいつに味方をするようなら容赦しねえぞ、そんな圧力を感じた。
「あの、俺の部屋、近くて、その……婆ちゃんが」
ふっと顔の赤みが薄れるのを確認してから、俺は続ける。
「うちの婆ちゃんたち、心配症だから……もし聞こえちゃったら、その……」
男の目から、荒々しさが消える。
いくら近くても、聞こえるはずがないのはわかっているだろう。だけどその単語は、非常識な言動を気付かせるには充分な効果を示した。
″困ったときは、婆ちゃんのせいにしろ″。これは俺がここで覚えた知識のひとつだ。
男は手の力を緩め、どさりとキューは床に落ちる。むせ返る彼を一瞥すると、彼らは無言で図書室を後にした。
乱暴に閉められた扉のそばで、キューはまだ苦しそうに咳き込んでいる。いかにもひ弱そうな体は、あの程度の暴力でも簡単に壊れてしまいそうだ。
あまりに苦しそうなので、俺はちょっと心配になる。サファーを呼んできたほうがいいかなと思い始めたとき、咳は深呼吸に変わった。
「……ユビグラム解析は、みなさんのための技術なのに」
荒い息の合間に、かすれた呟きが聞こえる。俺はため息混じりに言った。
「……知ってるよ」
不意に、キューの両眼から涙が溢れる。俺は気付かない振りをした。キューは乱暴に涙をぬぐうと、さらに言葉を搾り出す。
「……ユビグラム解析師は、責任を取るべきだと思っています。でもその方法は、やはり……ユビグラム解析であるべきなんです……」
そこまで言うと、散らかった本を拾い集めて立ち上がる。そのまま彼はヨロヨロと部屋を後にした。
もうちょっと肩の力を抜けよ。小さな背中にそう言ってやりたかった。お前が気張ったところで、どうにもなりゃしないんだ。敵ばっか作っていないで……もっと気楽に、仲間と談笑でも楽しめよ。
足元に一冊、本が落ちているのに気付いた。暗緑色の装丁は闇に紛れて見えづらい。拾い忘れたのか。俺は取り上げてパラパラとめくる。
なんだこりゃ、わけわからん。表紙を見ると、『ユビグラムと生物化学』というタイトルだった。俺は辟易として本を机の上に置いた。
ここの蔵書は娯楽から専門書まで幅広いが、半分以上が小難しいやつだ。普段は行かない奥の棚に歩み寄る。読む気も起こらないようなタイトルだらけで、軽い頭痛がした。キューはきっとこの棚にしか来ないんだろうな。真面目なやつだ。
マグロみたいなやつだ、とふと思った。マグロは泳ぎ続けないと死んでしまうらしい。なんとも不憫な話だ。
天日干しにされないよう気をつけろよ。人間の干物なんていくらライズでも喜ばねえよ。
『今日から、この人たちを仲間に加えるよ。はるばる本国からいらっしゃったユビグラム解析師さんだよぉ』
ライズが俺たちに三人を紹介したのは、一年前のことだった。本国がユビグラム解析師を逮捕し始めている、とラジオから流れた矢先の出来事だった。
きっと国から逃げてきたんだ、とみんなが理解した。中年の女一人と、子供二人。ユビグラム解析師と言っても末端で、ただ政府の目から匿ってほしいだけだろうとみんな思っていたから、快く受け入れた。
だけど、ライズの考えは違った。ライズは彼女らに研究を続けさせた。彼女らもそれを望んでいるようだった。
仲間、特に婆ちゃんたちが不安がったが、ライズの決定だからとみんな不満を飲み込んだ。獣人だが頼りになるライズを、恐れると同時に尊敬していたから。
ユビグラム解析は俺たちの生活を一変させた。今まで怪我や疫病は、小さなものでも死に至る危険性があったが、サファーは大抵のものを治してしまう。長雨で食糧が尽きても、培養肉とかいうものを作ってくれた。消毒薬や殺虫剤もどこからか合成し、カビや害虫被害はほぼなくなった。この一年で仲間の死亡数は明らかに減った。
この閉鎖空間で一番怖いのは伝染病だ。強い感染源を持って帰ったものは、″病院″と称した近くの建物に閉じ込められる。初めてこの″病院送り″が帰ってきたときは、みんなサファーを神の使いだと思ったものだ。
だけど与えられる恩恵は、慣れていく。慣れればそれが普通になり、誰も感謝しなくなる。しかも数年前にはそれが普通だったんだ。俺たちから″普通″を奪ったユビグラム解析師が、また″普通″を俺たちに返してくれただけだと思うやつが多かった。次第に仲間たちは恩恵を棚にあげ、欠陥ばかりを指摘するようになった。
それは仕方がないことかもしれない。生きることが容易くなるにつれて、俺たちは暇になるからだ。暇は不満の栄養源だ。彼女らの無法な行動も、不満を加速させる原因だった。
マイペースなサファーは、研究に熱中するとすぐに周りが見えなくなる。電力の使いすぎで頻繁に停電を起こした。
ユビグラム解析は電気を使いユビグラムを操作する。ユビグラム研究のために、施設内温度は二度上がり、照明は半分に減らされ、無駄な娯楽は禁止された。俺たちが長生きするための研究なら文句も言えないが、やつらの目標はなにかもっと高いものらしい。『世界を元に戻す方法』とか、そんなレベルの目標だ。
本国の研究者が、何年も研究してわからなかったことが、こんな放棄区の地下で、女研究者ひとりでどうにかなるもんか。むしろもっと酷いことになるんじゃないか、と不平不満が募るのは当然の流れだった。
それでも、数々の恩恵を与えてくれたサファーと、それを指示したライズには面と向かって意見を言えるものはいない。
しかし、キューは例外だ。あいつは研究の補助をしているが、どの程度役に立っているかなどわからない。それなのにあの態度だ。あれじゃあ批判が集中するのも無理はない。今日は溜まった鬱憤が爆発した結果とも言えるだろう。
……面倒なことにならないといいがな。俺は本を借りずに帰ることにした。
そろそろ配給の時間だ。食糧を取りにいかないと。