起ー【6】
一ヶ月続いた日照りは、激しい雨により途切れた。これからしばらく雨天が続く。この地区の気候はここ一年このパターンだった。長い日照りの後、一週間程度の豪雨の繰り返し。
雨天の日は特に仕事がない。洪水の危険があるからなのだが、湿度が高いことも理由のひとつらしい。人は気温が高くても乾燥していればなんとか耐えられるのだが、湿度も高いとそうはいかない。俺たちの外出の可否は、気温と湿度から決められていた。
しばらく食料採集に行けないこの間は、一気に食事が質素になる。俺は倉庫番から今日の配給分を受け取って部屋に戻った。芋団子と肉団子がみっつずつ。芋はともかく、この肉団子は苦手だ。最近取り入れられた怪しげな技術を用いて作られた培養肉だった。犬の餌の缶詰めのような見た目で、味は内蔵を混ぜたような妙な苦味がある。これよりはあの幼虫の方が何倍も旨い。
「ばーちゃん、飯だぞ」
扉を開けると、狭い部屋の真ん中に二人の老婆が座り込んでいた。
「ばーちゃん、聞こえてんのか?」
俺は反応のない二人の間に割って入り、脇に団子を置いてやる。二人は熱心にラジオを聞いていた。
『……政府は、ユビグラム解析師が事態を引き起こしたという一部の見解に対して、真摯な姿勢で受け止め、彼らの処遇について有識者を集め……』
まだそんなの聞いてんのか。俺は眉をひそめると、二人から離れた場所に腰を下ろした。
老婆たちは飯に見向きもせずにラジオに聞き入っている。俺は寝転んで読書を始めた。適当に選んだ娯楽小説、読み進めるとどうやら推理物らしいことがわかった。
施設内は若者に対して老人、とくに老婆の比率が高い。何かあってもすぐに避難が出来ない彼らを補助するため、若い奴が同室で世話をすることになっている。俺はカルラとハナという二人の老婆を任されていた。二人はラジオが好きで、垂れ流しにされている本国の放送を毎日飽くことなく聞いている。
「チャフちゃん。これはユビグラム解析とかで作られたのよねぇ」
「ん?」
身を起こして見ると、カルラ婆が肉団子を手にしていた。
「らしいな」
俺は自分の肉団子に齧り付く。何とも言えない苦味が口内に広がった。
「不味いよな」
同意を求めたが、彼女が気にしているのはそういうことじゃないらしい。
「こんなもの食べてたら、天国に行けないんじゃないかねぇ」
隣で聞いていたハナ婆も、不安そうな顔で団子を見る。俺は思わず笑ってしまった。
「何言ってんだ、ばーちゃん。まだ天国なんか気にするのは早いって。とりあえず食えよ」
ケラケラ笑う俺に安心したのか、彼女たちは顔を見合わせた後、団子を口に運ぶ。俺は一気に口に含んで水で流し込んでしまった。
「でもねえ、本当にこんなことしていいのかねぇって不安になるのよ」
「ライズさんの決定だから、婆ちゃんたち何も言えんのだけど、あの人たちはやっぱり……」
婆さん達はごにょごにょと口ごもる。何が言いたいのかはなんとなくわかった。この婆さんたちは信心深い部類の人間だ。近代の科学技術に付いていけなかった一派の生き残りだ。
俺はこらえきれずにまた笑う。まだそんなことを言ってんのか、能天気なやつらだな。婆さんたちは俺の笑いの意味を理解していないらしい。良く分からないまま釣られて笑っていた。
世界はとっくに取り返しのつかない領域へ行っているんだ。今更俺たちが何を食おうが関係ないんだよ。まだどこかに救いがあると思っているのか。そう言ってやりたかったがやめておく。婆さんを絶望させたところで何も面白くない。
ここ十年の混乱は実のところ、明確な原因がある。というか、原因だけがわかっている。このことが、世界を絶望の底に追いやったと言える。原因不明なら、まだ希望も残っていたろうに。
「真実はひとつ、ユビグラムに書かれているように明らかだ」手元の小説の主人公がそんなことを言った。そうだな、明らかだな。俺は急にバカバカしくなって本を閉じた。
ごろんと仰向けに転がる。コンクリートの天井に顔のような模様を見つけて気味悪く思った。俺なんか見張ってんなよ、何も出ないぞ。そう毒づいて目を閉じた。
俺の生まれるはるか昔、この世界には″神様″がいた。不意に、両親から聞いた昔話が頭を過る。両親はかなり信心深い部類だった。婆さんどもとは比べ物にならないほど。
本国には教会という神様を崇める団体があり、そこの偉い人たちは神様に選ばれた人たちで、不思議な力が使えた。それは奇跡とか魔法とか呼ばれていた。傷を治したり、火や光を出したり、そんな小さな奇跡だったが、世界中が神を信じてありがたがった。
でもいつからか、傷を治したり火を出したりなんて誰でもできるようになった。医者とか科学者とか呼ばれる人たちは、人間なりの方法で神の奇跡よりすごいことをやってのけた。だんだんと神様は要らなくなった。
神が完全に居なくなったのは、″ユビグラム″が発表された時だった。『世界はユビグラムという暗号で構成されている』とかいう論文から全ては始まった。それは『ユビグラムは一つ上の次元に存在し、世界の全てを書き表している。それを解読し、人為的に書き換えることで、ないものを作り出したり、逆に消したりできるはずだ』という内容のものだった。
実際にユビグラムを用いて、神の奇跡を証明してみせたのはクラウジウスという博士だった。『魔法というのはユビグラムを書き換える能力に他ならず、神の力などではない』。クラウジウスは、神がいないことを証明した。
パラダイムの転換というやつだろうか。世界にユビグラムはあっという間に浸透した。科学だけでなく、医療や農業、スポーツ界や娯楽小説に到るまで、全てにユビグラムは応用されていった。みんなユビグラムを学びたがり、ユビグラムを扱う科学者を″ユビグラム解析師″と呼び尊敬した。
ユビグラムの解読が進み、人は生命まで作り出せるようになった。人造人間が生まれる、という記事が新聞の一面を飾った。不治の病はほとんどなくなった。人の寿命は何百年にもなるとまで言われた。そんな時だったか。
生前、俺の父親は、静かな怒りを目に浮かべて語った。
十年前、ユビグラムに異変が起こった。ユビグラムは広大すぎて、まだ人類には未解読の領域がたくさんあった。ある日、その未解読領域が一挙に書き換えられたのだ。とても人間のできる技ではなかった。
″世界の冷房のスイッチが切られた″、このユビグラム書き換えは、そう表現された。スイッチを切ったのは神だと父は言った。教会の人間は各地で騒ぎ立てた。すべては、ユビグラム解析師の行き過ぎた行為へ怒った神の仕業なのだと。
ユビグラム解析師は反論できなかった。皮肉にも、一度は神の存在を否定したユビグラムが、逆に神の存在を証明してしまったわけだ。
教会は権力を取り戻し、神の怒りを鎮めよと叫んでいる。政府は今までユビグラム解析を推し進めていたこともあって、対応に困ってオロオロするだけ。教会とユビグラム解析師の立場は完全に逆転して、現在に至る。
俺はゆっくり目を開けた。天井には相変わらず顔が張り付いている。気持ち悪いから、後で削っておこうと心に決めた。
神がいるかいないかは、俺にとってはどっちでもいい。両親がいなくなって、俺は独自の考えを巡らせた。水路の中で腐って行く母を見て、俺は思った。
もし神がいたとして、これを引き起こしたのが神だとしても、だからなんだっていうんだ。神の怒りを鎮める? どうやって?
ユビグラム解析師に怒っている? ユビグラム解析をしなければ許されるのか? 果たしてそうだろうか。
この災害は、全世界に及び、ユビグラム解析とおよそ縁のない動植物にまで滅びを与えている。彼らが罪を犯しただろうか、神さまは彼らにもお怒りなんだろうか。そんなわけないだろう。
もし神がいたとして、この災害を起こした理由があるとしても、それは″罰″だとか″お怒り″だとか、そういう次元のものじゃないように思う。
″飽きれ果ててしまった″、そんな感じじゃないだろうか。この世界に飽きた。もう要らなくなった。だから捨てよう。そのくらいのノリじゃないのか。
そんな中、俺たちに何ができるって言うんだ。ゴミ箱に捨てられたゴミを、わざわざ掘り返して見たりはしないだろう。もう何をやったって世界は滅ぶんだ。
「チャフちゃん。婆ちゃんお団子食べたよ。いつもありがとうね」
「おう。しっかり食って、お互い長生きしようぜ」
カルラ婆も、ハナ婆も、涙を浮かべて笑った。
天国というのがあるのかないのかは知らないが、婆さん達が団子を食べるのを自重したくらいで何か変わるはずがない。神さまはどうせ見てやしねえよ。
だから、婆ちゃん。わざわざ餓死なんて辛い死に方をするもんじゃない。もっと安らかで、穏やかな、幸せな死に方を目指そうぜ。
団子だけじゃどうにも腹が減る。俺は本を被って目を閉じた。ラジオの声が耳に届く。
『……人類最大の危機を食い止めるために、我々は力を尽くして……』
やめろよ、無駄なカロリーを使うなよ。熱く語るその声はひどく耳障りだった。