起ー【3】
俺が向かったのは小さな図書室だった。扉の横のスイッチをいじると、申し訳程度の明かりが灯る。椅子に腰掛けてぼうとしていると、程なくしてイブがやってきた。
「ごめんごめん、おまたせ〜」
彼女は俺の横を素通りして本棚のほうへ向かう。しばらく本を吟味した後に、分厚い図鑑を抱えて戻ってきた。
俺は机上のランプを点す。さすがに天井の弱い照明だけでは本は読めない。イブは俺の向かいに座ると、俺にも見えるように横向きに本を広げた。
「ねぇ、チャフ。次はどんな生物が出てくると思う?」
目の前にグロテスクな写真が現れる。さっきの蜘蛛のような毒々しい色をしたトカゲやらカエルやらが描かれたページが、めまぐるしく捲られた。
「そんなの知るかよ。ライズに聞けよ」
「もちろん聞くけど、ちょっとはわたしたちも考えたほうがいいと思うの」
本のタイトルをちらりと確認する。熱帯の有毒生物、と書かれていた。
「見たことあるやついた?」
「俺が見たことあったらお前も見てるだろ」
「そっか」
イブは納得して、図鑑を自分のほうに向ける。
「やっぱり、あの蜘蛛と同じ生息地のやつかなあ」
イブの熱心な呟きを聞きながら、俺は似たような図鑑を本棚から引っ張り出してきた。熱帯雨林に棲む生き物、というタイトルだった。ぱらりとめくると、気持ちの悪いハエが写っていて思わずのけぞった。ヒトクイバエ。活動気温、四十〜五十度で最も活発。説明文を読んでさらにゾッとした。
今のヨギ区の平均気温は、ちょうどそのくらいだった。数年前にはかろうじて四季があり、冬になると少しは気温も下がったものだが、今は一年を通して高温の日が続いている。しかもその気温は年々上昇を続けているのだ。
「六十度を超えたそうだな」
キューの発言を思い出して、俺は呟いた。
「どこまで上がっちゃうんだろうね」
イブも暗い声で呟いた。
″冷房のスイッチを切ったように″、メディアはそう表現した。気温が上がり出したのは十年前、あまりにも唐突な始まりだった。その年も翌年も最高気温を更新し続けた。世界の冷房のスイッチが切られたのだ、どこかの有識者がそう言ったら、みんながそう言うようになった。
生態系は崩れ、見たことのない生物が現れるようになった。見慣れた動植物はほとんど姿を消した。たぶん彼らのうち、生き長らえているのはこの地下基地に運良く潜り込めた鼠など小動物だけだろう。
ふと悪寒を感じて顔を上げる。ギギ、ギギギ、と本棚が奇声をあげ始める。地震だとすぐに理解した。
ガガガガガ、と大きな横揺れが始まった。イブが悲鳴を上げてうずくまっている。俺はイブを抱き寄せて机の下に潜り込んだ。横揺れは縦揺れに変わったりしながらしばらく続く。ぱらぱらと天井から粉塵が舞い落ちるのを見て、イブはさらに金切り声をあげた。「大丈夫、大丈夫」と言ってやるが、彼女に聞こえてるかどうかはわからない。
永遠に続くかと思われる長い揺れだったが、次第に治まっていった。なんだ、大したことなかったな。物足りなく思った自分に苦笑する。慣れというのは恐ろしい。
「止んだ」
震えるイブに、そう伝える。俺が机を出ようとすると、彼女は必死の形相でしがみついた。
「行こう。上に集まらなきゃな」
声が出ないのか、彼女はこくこく頷くだけだった。
狭い一階には、すでにぎっしりと人が詰まっていた。階段の下にまであふれていて、上には登れない。
大地震など異常が起きたときは、ここに集まって、みなの安否確認をすることになっている。基地の全員が集まる機会はこの時くらいだ。
「リーダー、イブとチャフも来ました」
近くにいた男が大声で報告する。
「了解です」
上で女の声がした。
「現在五十七名です」
「来てない人いるー?」
「サファーさんとキューと、ノギスが来てません」
またあいつらか、と辺りがざわついた。
「下の人、見て来てくれない?」
ライズの声だ。ざわついた後、視線が俺に集まる。まあこの状況だと、当然か。
「行ってきます」
俺は投げやりにそう怒鳴ると、イブを近くの女性に預け、アリの巣に引き返した。
この基地は丈夫だ。これまで幾度も地震にさらされてきたが、一つとして潰れた部屋はない。もともとの耐震構造に加え、ライズが地震の度に弱くなった場所を補強させているからだ。あのとぼけた喋り方を除けば、あいつは本当に優秀なやつだ。
サファーの部屋にたどり着く。中はしんとしている。ノックをしたが反応がない。もう一度ノックしようとしたが、非常時なんだぞ、と思い直して俺は扉を開けた。
「サファーさん、いますか」
人気がない。奥の部屋か。薄暗い中でもずいぶん物が散乱しているのがわかる。俺は物を踏まないようにして慎重に横断する。扉を目の前にしてふと視線を上げると、視界の端に何かを捉えた。
「うわあああ!」
思わず叫んでしまった。すぐそばに人の顔があったのだ。暗闇にぼんやりと白い顔が浮かんでいる。
「の、ノギスじゃねぇか、びっくりさせんな」
ばくばくと騒ぐ心臓をおさえて俺は言った。この部屋には三人の住人がいる。この三人目をついうっかり失念していた。
「サファーとキューは、奥?」
怖々聞くと、ノギスは頷いた。黒い髪と黒いワンピースの少女。死人のように白く無表情な顔だけが周囲から浮き上がっているように見える。失礼な話だが、不気味だ。俺は彼女から視線を離すと、奥の部屋に乗り込んだ。
「サファーさん」
ふたりは無事だった。無事どころか、なにやらふたりで盛り上がっていて俺には見向きもしない。
「すみません」
散らかった紙を踏みつけながら近付く。二人は機械から排出され続ける紙を熱心に見つめて話し込んでいた。
「チャフくんだー、どしたのー?」
サファーがやっと気が付いて、こちらを向く。キューは露骨に嫌そうな顔をした。いちいちムカつくやつだ。
「さっきの地震……」
「そう、地震!」
俺の発言に被せて、サファーはいきなり叫ぶ。
「地震がわかったのよ!」
俺の手を取り、振り回した。さらに「暗号の解析が……」とかなんとか口走りながら子供のようにはしゃいでいる。おいおい、おばさん、大丈夫か。表情に出てしまったんだろう、キューが引きはがすようにサファーを取り返した。
「先生、解析の続きを」
「うん。ごめんね、チャフくん。もうちょっとでわかるから、今は邪魔しないでくれるかな?」
邪魔って。俺はあっけに取られた。『地震が起こったら一階に集まって全員の安否確認』というのはここのルールだ。みんな迷惑してるのに、こいつらときたら。俺は内心苛立ちながら聞いた。
「わかるって、なにが」
サファーは振り返らずに答えた。小さな声だったが、確かにこう聞こえた。
「……地震の、スイッチ」