第1章(2)
「ひどい話だよねぇ」
薄暗い道をとぼとぼ歩きながら、イブが呟く。
「何が」
「さっきの話だよ」
ふと彼女の顔を見ると、可愛く頬を膨らませていた。
「サファー先生、別に急いでなかったじゃない。キューくんもお兄ちゃんもおかしなこと言うよね」
ああ、そのことか。
仕事を終えた解放感のせいで、俺はもうどうでもよくなっていた。
「どうせあのガキが騒いだんだろ。ライズはそれを伝えただけだ」
「だろうね、もう。余計疲れちゃう」
イブがため息を吐いたので、俺もつられて息を吐く。
だいたい、上からの命令なんてそんなもんだ。
人を介すと話が変わる。
「蜘蛛を欲しがってたのは本当みたいだから、いいじゃねぇか」
徒労でなければ、それでいい。
そう言うと、イブは満足げに微笑んだ。
「そうだね。サファー先生、きっといい薬作ってくれるよ」
先週、仲間のひとりが毒にやられた。
拳ほどの大きさの蜘蛛。
噛まれた男は、腫れが喉元まで広がり、窒息死した。
熱帯種の毒蜘蛛。
本来この地方にいるはずのない生物だ。
解毒には毒が要る。
だから捕れ――。
今回の仕事は、それだけの理由だった。
「でも簡単に捕れたよね。お兄ちゃんってやっぱりすごい」
“お兄ちゃん”とはライズのことだ。
獣人のライズと、丸い耳のイブ。
初めは本当に兄妹か疑ったが、赤毛と金色の瞳はよく似ている。
「あいつ、あの蜘蛛捕って食ったことあるんじゃねぇかな」
「何言ってるの。失礼だなぁ」
口を尖らせるイブに、しまったと思った。
彼女は獣人への偏見をひどく嫌っている。
獣人とは、よそから流れ着いた漂流民。
“凶暴”“異質”――そんな言葉で括られ、差別を受けてきた種族だ。
「冗談だ。悪い」
謝ると、イブの機嫌はすぐに直った。
「お兄ちゃんはすごいよ。なんでも知ってるんだから」
見習わなきゃと意気込むイブは、かなりのお兄ちゃん子だ。
兄を自慢してる時の彼女は、とても誇らしげだ。俺は一人っ子だったから、なんとなく羨ましかった。
地上への階段を上ると、違うチームが帰ってきているのが見えた。
新たな仕事を言いつけられる時間でもない。
俺たちは地下に引き返すことにした。
洗浄室に向かい、イブと別れる。
「ねぇ、まだ時間早いし、部屋に戻らなくていいでしょ? また勉強付き合ってよ」
別れ際に上目遣いでそう言われ、俺は「わかったよ」と返事をした。
洗浄室には浴室がある。とはいえ、シャワーすらない。桶に張った水に洗剤を溶かし、それをタオルに含ませて簡単に全身を拭くだけ。最後にざぶりと頭から桶の水を被って終了。
着替えは共通のものが畳んであるから、それを使う。
入り口に出ると、イブはまだのようだった。
女ってのはどうしてこうも時間がかかるのかな。できることなんてほとんど無いだろうに。
他のチームのやつらがどやどやと地下に降りてきた。狭いし、ここで待つのは迷惑だろう。
俺は先に目的地に向かうことにした。
俺がイブと出会ったのは五年前。
ヨギ区が“放棄区”に指定された日だった。
「只今を以って、ヨギ区を放棄区に指定する」
抑揚のないラジオ音声。
大人たちは泣き、怒り、逃げ、やがて呆然とした。
当時十二歳だった俺にも、意味はわかった。
――国に捨てられた。
放棄区とは、インフラ停止、支援打ち切り。
住むのは自由だが、生きるも死ぬも自己責任。
急激な気温上昇や天災を受け、苦しむ政府は末端を切り離すことで延命を図った。
ヨギ区は津波と暴風雨の果てに、切り捨てられた。
多くが去り、弱い者だけが残った。
孤児、怪我人、老人が百人ほど。
その中で、ひとりの獣人が立ち上がる。
ライズだ。
区民を集め、施設を割り振り、電力を管理し、仕事を与えた。
太陽光設備だけは、皮肉にも残されていた。
俺は被災孤児だった。
両親は津波で死んだ。
どうでもいいと思って、残った。
イブとは、その頃からの仲だ。




