第9章(4)
よろめいた拍子に、踵が何かにぶつかる。
振り返ると、井戸のような円形の塀があった。
表面には、スズメバチの巣のような模様が走っている。
すぐ脇には瘤が細く連なってできた木が生えており、透明な糸が垂れ下がっている。
俺はその先端を見ようとして、空洞に視線を流す。
「そうだ、良いことを思いついた」
背後でリバルの声が聞こえた。
良いこと? 不穏なフレーズに寒気を感じ、振り返ろうとしたその時。
「……?!」
俺の体は、落ちていた。強い力で肩を押された。井戸の縁へ手を伸ばしたが、一瞬遅かった。
深い穴だった。
風が両脇を抜けていく。
辺りは真っ暗闇で、入り口らしき白い丸が空に浮かんでいる。
手を伸ばし、何かを掴もうとしたが、何も掴めない。
白い光はどんどん遠ざかり、いつの間にか月のような大きさにまで小さくなっていた。
どこまで墜ちるんだ。底に激突するかもしれない。衝撃に備え、身を固くしたものの、案外それは穏やかに訪れた。
俺はふわりと着地した。厚い空気のクッションに受け止められたようだった。
着地? 着地と言っていいんだろうか。両手をついた地面は真っ黒で、周囲も真っ暗。何故か自分の体は、ライトが当たってるみたいに鮮やかだった。
「君のことは、よくわからない。一体何を望んでいるやら……」
――せっかく、我が元まで到達できたというのに。
上方から、リバルの声が響く。
「とりあえず、望みを叶えてやろう。それはプレゼントだ。好きに使うといい」
何かが放り込まれた音がした。見ると、そこには透明な板が落ちている。手のひらくらいの大きさの、コンピュータのようだった。
望みって何だろう。
叶えてやるとはどういうことか。
俺は憎しみを感じていた。リバルやシフト博士に怒りをぶつけたいと思っていたが、それを叶えてくれるのか?
暗闇に目が慣れてきて、目の前に何かがうごめいているのが見える。
俺がいるのは高台の上で、少し下の広野に何か黄色いものが流れている。
次第にそれらの輪郭は明瞭になっていく。
「……?!」
俺は、自分の目を疑った。
だって、こんなの、信じられるか……?
そこには、俺がいた。
くすんだ金髪をボサボサにした、冴えない顔をした、痩せぎすの男。鏡なんてほとんど見ないから、忘れかけていたが確かに俺だ。俺がいる。
しかも、何人とか何十人とかいう騒ぎではない。何百、何千もの俺がそこにはいて、見渡す限りの俺の海が出来上がっていた。
これは、どういうことなんだ。
『私からのプレゼントだ』
あいつ、どういうつもりなんだ。
透明なコンピュータを拾い上げる。それは空気のように軽く、人肌のように生温い。
透明なディスプレイを通して見ると、俺の海はキラキラした星砂の浜に変わる。
いや、これは砂じゃない。目を凝らしてみると、それらの一つ一つが記号であることがわかる。
ひと繋がりの記号の糸。丸まった金色の毛玉のように絡み合っている。
まさか。とある答えに行き着いて、全身に冷たい汗が滲む。
一番近くにいる俺に、ディスプレイを向けてみる。粒は拡大され、画面全体に記号群が映し出された。
これは、俺のユビグラムだ。
俺が憎んで止まない、欠陥ユビグラムだ。
まさか、これを自分で……いじってみろというのか。
「嘘だろ……?」
力なく膝をつく。
冷たくも、固くもない暗闇に手を落とす。
確かに、それを望んでいた。
だけど俺は……知らないうちに勝手に修正して欲しかったんだ。
記号の読み方なんてわからない。
そもそも″具体的にどうなりたいか″だってよくわかっていない。
俺はただ、善良で、利口で、筋が通った人間にして欲しいだけだ。
そしてイブに許されて、天国で再会できると心から信じたい。それだけなのに。
「無理だ、俺には無理だ!」
叫んだが、声は闇に飲まれて消えていく。
遥か遠い月には、声は届かない。
「出してくれ、頼むから出してくれ! 俺はこんなこと望んでない……」
返事はない。俺の叫びを聞いているのは、目の前にいる無数の俺だけだった。
彼らは震えていた。同じように叫んでみたり、頭を抱えてうずくまっていたり。
俺はだんだんと、冷ややかな気持ちになっていた。
俺の中の一人が、泣きわめいていたからだ。
顔をくちゃくちゃにして、情けない声で、幼児のように泣きわめいている。
「……おい、お前」
俺の周囲の俺たちが、何人かこちらを見上げる。
「何、泣いてやがるんだ」
怯えきった俺たちが逃げていき、泣きわめく俺が一人残される。泣くのに夢中で、声が聞こえていないらしい。
「イブが死んだ時だって、お前、ほとんど泣かなかったじゃねえか」
それなのに、どうして今は泣いている。
大したことじゃないだろう。
イブが死んだことに比べたら、全然大したことじゃないだろう。
俺はディスプレイをそいつに向けた。
どれだ、どれがその情けないスイッチなんだ?
切ってやる、切り取ってやる。
二度とそんな姿を晒せないようにしてやる!
俺はキーボードを叩いた。いくつかの記号が選択される。その後決定キーらしい大きなボタンを叩く。
どうだ、どうなる?
泣き喚いていた俺は、ぴたりと泣くのをやめた。
そして、震え出した。
異常なほどの震え方だった。ガクガクと頭を揺らして、震える手で顔面を、両眼を覆い隠し……ぷつりと糸が切れるように倒れた。
叫び声が聞こえる。
誰が叫んでるのやらわからない。
散り散りになった俺たちが叫んでいるのか。
ばくばくと鳴る心臓を押さえながら、浅い息を繰り返した。
倒れた俺の顔面は赤く膨れ上がり、両眼が飛び出て転がっている。
俺はコンピュータを地面に落とした。
何だよこれ。何を変えたらこうなったんだ。
わからない。わけがわからない。
こんなの無理だろ。どうやったら望む自分になれるというんだ。
いくら無限に時間があっても、出来る気がしない。
俺は後悔していた。リバルに反抗したことを、後悔していた。
そんな中――
助けてくれと声がした。
一人の俺が、命乞いをしている。
膝をついて、恐怖に引き攣った顔で、俺を見上げている。
「やめろ……」
声が、漏れた。
びくと身体を震わせて、さらに数人が膝をついている。
「やめろ……やめろ…………」
俺ってやつは、どこまでクズなんだ。
そんなに生き残りたいのか、そんな醜態をさらしてまで。
俺の機嫌を損ねたことを察した俺たちは、互いに責任の擦り付けあいを始める。
醜い、なんだこいつらは。醜い、醜すぎる。
俺はコンピュータを拾い上げ、かざした。
どいつもこいつも同じ記号群。どいつもこいつも欠陥品。
俺は順番に記号を消してやった。わずかにずらしながら、一文字ずつ。
そして、様子を伺った。
奇声をあげるやつがいた。泡を吹いて倒れるやつがいた。
しかし大半の俺たちはなにも変化がないらしく、相変わらず罵りあっている。
一文字程度では、大して影響はないんだな。
そう判断した俺は、徐々に冷静になっていく。
どうせ助けは来ない。もう帰るところも、行くところもない。
なら、いいじゃないか。俺の欠陥を直せるチャンスじゃないか。
俺は目の前の事象を受け入れることにした。
コンピュータを構えて、新たに記号を消していく。
次はかなりの変化が見られた。苦しそうにもがく俺たちに、俺は舌打ちをした。
全然だめだ、ここはいじったら駄目な領域なんだ。もっと別の場所……いや、消すんじゃなくて、違う記号に変えるとか、その方がいいのか?
見るに耐えない姿に変貌していく俺たちだが、画面を通して見ればただの記号だ。気にすることはない。
腹は減らない。眠くもない。時間はたっぷりあるんだ。見つけてやる、理想の俺を。
待ってろよ、イブ……立派になった俺を見せてやるから。




