第9章(1)
『……さよ、起きなさい……』
耳元で声がする。
『いつまで寝ているの……』
懐かしい、母親の声のようだった。
――うう、眠いんだ。眠らせてくれよ、母さん。
疲れてるんだ、俺。母さんがいなくなってから、いろいろあって……。
世界はどんどんおかしくなるし、リーダーにはこき使われるし……。
今、やっと終わったんだ。
俺の仕事は終わった。
久しぶりに、ゆっくり休めるんだ。
だから、邪魔しないでくれよ。
――わっ、なにすんだ、くすぐったい、やめろ、わかった、わかった、起きるから……!
俺は、ゆっくりと目を開く。まぶたが強く張り付いていて、ずいぶん長く眠っていたことを窺わせた。
視界には何か白いものが映っていた。何だろうと見つめていると、それは目の前に迫ってきて、ピンク色の舌を……。
「わあああ!!」
俺は跳ね起きる。そして目の前にいる物体を改めて確認した。
犬だ。それも、小型犬。なんだ、驚かせるなよ。
胸をなでおろしたところで、顔面の不快感に気付く。
手をやると、頬がヌメっている。
こいつ、顔を舐めてやがったな、べろんべろんと……。
白い小型犬は、舌を垂れ下げたまま、大きな緑の目で俺を見上げ、こう言った。
「わあ、起きた、起きました!」
鳴き声かと思うほどのキンキン声だった。
だが――確かに、喋った。
犬は満面の笑みを浮かべて、さらに言う。
「おはようございます! おはようございます! ようこそ、兄弟、ようこそ!」
四本足で、飛んだり跳ねたり回ったり、全身で喜びを表現している。
俺は頭が混乱するばかりで、呆然とそれを見ているしかなかった。
「ホウコクしなくちゃです! リバルにホウコクしなくちゃです! リバル、リバル!」
キャンキャンと吠えて、チビ犬は暗闇に駆け出して行った。
何だったんだ、あれ……。
やがて辺りは静寂に包まれる。俺は周りを見渡した。
薄暗い空間に、ポコポコと岩のようなものが生えている。他には何もない。
いや、何かいる。目を凝らすと、岩陰に人が倒れているのが見える。近寄ってみると、それがよく見知った人物だとわかった。
「……ノギス……ノギス!」
うつ伏せに倒れている少女を揺さぶる。すると、予期せぬ方向からうめき声が聞こえてきた。
「リーダー……」
向けた視線の先には、よく見慣れた赤毛がいた。
なんだ、みんないるのか。
ホッとしたのも束の間。
身を起こしたライズがバカ笑いを始めて、安堵の気持ちが四散する。
「助かった! ぼくたちは、助かったんだよ!」
そっか、俺たちは妙な実験を受けたんだっけ。ようやく頭がはっきりしてきて、気を失う前のことを思い出す。
それで、どうなったんだ? 本当に助かっちまったのか?
ノギスがもぞもぞと動き出す。
顔を上げた彼女は、ゆっくりと辺りを見渡し、上目使いに俺を見る。
「ここはどこだ」と尋ねているようだ。
さて、知らないなと首を傾げる。
「じゃあ、探索してみようか」
ライズは立ち上がり、散歩にでも出掛けるような足取りで歩き出した。
……さっきまで死にかけてたやつとは思えないな。
俺は呆れてしまったが、ふと気が付く。
″さっき″というのは語弊があるか。俺たちが実際にどのくらい眠っていたのかは、まだわかっていないんだから。
歩き始めて、辺りが涼しいことに気がついた。
涼しいというか……ちょうどいい気温だ。暑くもなく寒くもない。世界が壊れて以来、感じたことのない心地良さだった。
程なくして、サファーとキューも発見できた。同じように岩のそばに倒れていた。彼らも実験の成功に喜んだが、果てなく広がる謎空間を見てすぐに不安な面持ちに変わる。
「不安がってもしょうがないでしょ。とりあえず歩いてみようよ」
ライズの促しで、俺たちは散策を再開した。
薄暗さに慣れてきて、次第に辺りがよく見渡せるようになる。といっても、そこらには岩しかない。そしてその岩のように思えたものは、岩というよりスズメバチの巣みたいな物だとわかる。
木を連想させる縞模様の材質で、瘤状に盛り上がったオブジェ。表面には小さな穴がポコポコと空いていて、中に何か住んでいそうで気色悪い。
手がかりでも見つからないかと思い、傍にあった小ぶりなオブジェを叩いたり穴を覗いたり耳をすませたりしてみたが、何の情報も得られなかった。
「ここには食べ物はあるんでしょうか、水も……」
キューが弱々しく聞いてくる。一同は首を傾げるばかりだった。とりあえず今のところ腹は空いていない、喉も乾いていない。
「そんな心配は後でいいんじゃないかな」
オブジェを調べ飽きた様子のライズが、再び前進を始めようとしたとき。
遠巻きからキャンキャンとあの犬の声が聞こえた。こちらに近付いているようだ。
「いた! いた! 遅いです! 遅いです!」
犬が発する甲高い声に、俺以外は驚いているようだ。チビ犬は到着するなりキャンキャンと鳴きながら俺たちの周りをぐるぐる回る。
「早く、早く、こちらに、はや……きゅっ」
「?!」
鬱陶しく吠え立てる犬。急に鳴き声が止んだと思ったら……ライズがむんずと首を掴んで持ち上げていた。
「なんだろうねぇ、この犬」
「ちょ、ライズさん、可哀相だよ〜」
ほんと、何やってんだこいつ。
ライズは捕まえた獲物を目の高さまで持ち上げ観察を始める。
「ぎゅう、くるし、くるし、です……」
「喋れるんだ。変わった犬だねぇ」
「が、害はなさそうですし、離してあげては?」
「わからないよ、噛み付いてくるかもしれない。病気を移されるかもしれない。犬は怖いよ?」
何だよ。……同族嫌悪か?
ライズは汚いものでも見るように犬を見遣って言った。
「ここはどこなんだい? 教えてくれるかなぁ」
「きゅ……案内、案内する……です、リバルの……ところ……」
「リバル?」
さっきもそのフレーズを聞いた。人名だろうか?
「リバルは……ワタシのおかあさん、みんなの、おかあさん…………」
ライズの手が緩んだらしい、犬は不意に落下した。軽い体は地面に打ち付けられバウンドし、無様に転がった。
「大丈夫?!」
サファーがすぐさま駆け寄って助け起こす。犬はけほけほ咳き込んでいたが、怪我はしていないようだ。
「きみの飼い主がいるのか。そいつは是非会ってみたいな」
こいつ……薄々気が付いてはいたが、下衆なやつだな。可哀想な子犬はよろめきながら立ち上がると、泣き出しそうな震え声で言った。
「案内するです……ぐす、いじめないでください……」
「大丈夫だよ、大丈夫。お姉さんが守ってあげるから」
サファーに頭を撫でられて、少し落ち着いたようだ。犬はふらつきながら先導をはじめる。




