第8章(4)
「……二〇四〇年二月七日、きみは空を見上げたかい?」
「……二月七日?」
二つ目の踊り場で声をかけられ、俺は一瞬、思考が止まる。
二、三度息をついて、ようやくその日付の意味を思い出した。
「“スイッチが切られた”とかいう日ですか?」
その日、空に何かあったというのか。
記憶を探るが、何も引っかからない。
「あれを見ていないって言うの? あの巨大なクモの巣を」
「クモの巣?」
覚えがない。
ライズは焦点の合わない目で正面を見つめ、怯えを滲ませていた。
熱でおかしくなったのか?
だが彼は、妙に澄んだ声で続けた。
「二月七日、空にクモの巣が張った。日を遮ったそれは、海にも地面にも写った。フラノールは、巣にかかった蝶みたいだったよ」
「……へえ。そりゃすごいですね。見てみたかったや」
つい茶化してしまう。
俺たちの国フラノールは蝶のような形をしている。だから“蝶の国”と呼ばれていた。
そんな異様な光景があったなら、ニュースにならないはずがない。
「なぜか、あれはカメラに写らなかった。だから騒ぎにもならなかった」
俺の疑問を読んだように、ライズは言う。
「そのクモの巣が映ったのは一瞬なんですか?」
「数時間、続いたかな……」
「じゃあ、見れた人は運が良かったんですね」
「……運が、良かった?」
声の質が変わった。
「あんなもの、見えない方が良かったんだ! ぼくはこの十年間、生きた心地がしなかったよ」
肩を掴む指が食い込む。
「次にあれが空に映る日が、この世の終わり。そう思いながら毎日を過ごす……地獄だった」
ぶるぶると震えるその姿は、俺が見てきた能天気なリーダーの姿とは重ならない。
「忘れようと思ったよ。何度も。何も知らずに、余生を過ごしたいと……何度も」
そんなにも恐ろしいことか?
俺は地上への階段に足をかけながら、冷ややかに聞いていた。
空に変な模様が出ただけだろ?
しかし、想像と実物とは違う。
俺はすぐに、ライズを嘲ったことを後悔することになる。
「なんだ、これ……」
地上の階段を登る途中で、俺はすでに異様さに気付いていた。
赤い。窓から差し込む光で、室内が赤く染まっている。
夕日? 違う。夕日のような橙ではなく、血のような赤、緋色だ。
――この先には、行かない方がいい。
森の中で感じたあの気持ちの悪さ。あれと同じものを感じながら、俺は階段を登り続ける。
そして、一階の床が見えてきたとき。
ついに見てしまった。窓の外の光景を。
それは、異様な光景だった。
赤く染まった空に、千切れ雲が放射状に並んでいる。
その雲は、花火のようであり、波紋のようでもあり……クモの巣のようでもあった。
「う、わあああああ!!」
耳元で叫び声が上がる。肩が軽くなったと思ったら、次いで階段を落ちる音が響いた。
――なんだ、これは。
真っ赤な空を呆然と見上げる。
異常なことが起こっているのだけは確かだ。
スイッチが切られた合図? そんな馬鹿な。
しかし、そう信じさせるに充分すぎる光景だった。
『ライズは、海を見てるんだよ』
いつだったか、そう教えてくれた子供の言葉を思い出す。
違う、ライズは空を見ていたんだ。これを見逃さないために、ずっと空を見ていたんだ。
天からの最後通知が、まだ出ていないことを確かめるために。
ずっと、飽きもせず、空を眺めていたんだ。
「滅ぶ、滅ぶよ。ついに、滅ぶんだ……」
階下から、弱々しい声がする。
笑ってんだか、泣いてんだか、よくわからない。
呆然と外を眺めていた俺は、前方から何か迫って来るのに気付いた。
灰色の壁、チラチラと小さな虫が蠢いているような壁面……近づくにつれ、それが、舞い上げられた車やアスファルトや標識だと気づいた時、俺は階下に飛び込んでいた。
バキバキと、背後でものすごい音が通り過ぎる。丸まった背中に、瓦礫が降り積もるのを感じた。
「竜巻だ。逃げましょう……」
傍に転がっていたライズを担ぎ、階段まで移動する。歩くよう促すが、頭でも打ったのか、ライズはなかなか立ち上がってくれない。
スイッチが切られた? 一体何の? 誰の手で? これから何が起こるんだ?
地響き、建物が破壊される音。
背筋を這い上がる氷塊が、俺を急かす。
早く、早く、逃げろ。
どこに? サファーの所だよ!
足がもつれて倒れ込む。畜生、重いんだよ、こいつは。見捨てて駆け出したい気持ちを押さえつけながら、再び背負い直す。
何度もそれを繰り返し、俺たちはなんとか研究室まで行き着いた。
「どうしたんですか?」
扉を開けるなり、折り重なるように倒れ込んだ俺たちを三人が怪訝そうに見る。
いつの間に回復したのか、ライズは俺を押し退けるように立ち上がり、機械の上に立つサファーのもとへ向かった。
「すぐに実験を始める。もう時間がない」
「え、でも……」
うろたえるサファーだが、ライズに二、三言怒鳴られると頭を下げて承諾した。
「犬だ、犬しかない、犬だよ」
「わかった、わかったから……でも、まず試運転をさせて。すぐに人体実験なんて怖くてできないよ」
半泣きになっているサファーは、こちらに向けて手招きする。視界の端で、何かが身じろぎするのが映った。
「おいで、ノギス……」
いつの間にか、俺の横にノギスがいた。彼女は相変わらず無表情ながら、戸惑っているように見える。
「どうしたの、ノギス?」
ノギスは一歩も動こうとしない。サファーは不思議そうな顔をして、今度は強い口調で言った。
「はやく来るの! お仕事だよ。一体どうしたっていうの」
″どうした″って、決まっているじゃないか、そんなこと。
身をこわばらせる少女を見て、俺は思った。
怖がってんだよ。こんな訳のわからない実験の試験体にされるんだぞ、怖いに決まってるだろ。
こいつら、この後に及んでまだ……ノギスを人形扱いしようって言うのか。
「行きましょう、ノギス」
キューの促しに、ようやくノギスの足が動く。その重い足取りは、悲痛で見ていられなかった。
「待てよ」
声が響いた。
自分の声だと気づいたのは、ほんの一瞬遅れてからだった。
全員の視線が俺に集まる。
何言ってんだと自分でも思ったが、俺の口は止まらなかった。
「どうして、いつもノギスなんだよ……」
「チャフくん……」
俺の足は勝手に動いて、ノギスを引きずるキューより先に、サファーの足元に辿り着く。
「俺にしろよ。お前ら、別に試験できれば誰でもいいんだろ……俺で実験すればいいじゃねえか」
「な、何言ってるの?」
「ノギスで実験するんなら、その前に俺でやれって言ってんだよ!」
「そんな、無理だよ……」
「何で無理なんだ、ノギスにはできるくせに」
俺がどうして怒っているのか、理解できないらしい。そうだろうな、お前の中ではノギスは人形なんだもんな。ユビグラムでそう決まってるんだもんな。
「どうせみんな死ぬんだ、誰から始めたって同じだろ!」
「そんなことないよ。明らかな失敗が起きたら、次の人では修正できるもの」
「じゃあお前らの前に、俺とノギスで二回調整ができるわけだ、願ったり叶ったりじゃねえか!」
一歩も引かない俺に困り果てて、サファーはライズの方を見た。ライズは頭痛がするのか、頭を押さえてフラフラしながら怒鳴る。
「どっちでもいいから! 早くしろ!」
どうやら、許可が下りてしまったようだ。サファーは辛そうな顔で俺を誘導する。
何だよ、その顔は。
どうしてその顔を、ノギスに向けてやらないんだ。
「せ、先生……」
か細い声に振り返ると、あっけに取られた間抜け面のキューと、ノギスが見えた。
ノギスは相変わらず無表情で、俺の行動をどう思っているのかは謎だ。
まだあどけない顔、華奢な体。
ノギスの製作者は、どうしてこんな少女の姿を模したんだろう。こんな庇護欲を掻き立てる姿に。
これで最後になるかもしれない。別れの挨拶の代わりに笑顔を向けてやると、彼女は少し表情を歪めた気がした。
機械の奥に、蟻地獄のように逆円錐に窪んだ場所があった。その中心のカプセルに入れと指示される。鉄製の扉を開くと、中は真っ暗で何もない。
扉を閉めると、すぐにガタッと固定される音がした。俺はその場にへたり込む。
馬鹿なことをしたもんだ。成り行きに任せておけば助かったかもしれないのに。
機械音が耳に触る。俺は、頭を抱えて項垂れた。
こんな奇怪な実験、成功するわけがない。愚かなシフト博士はチリになって消えたんだ。そして俺たちもみんなチリになって死ぬ。
待っていても死ぬ、世界は滅ぶ。
緋色の空、ライズの怯えた声が蘇ってくる。
やつの発言の真否は不明だが、いずれにせよ異常事態が起こっているのは間違いない。このまま待っていたら間違いなく死ぬ。
同じ死ぬなら、せめて成り行きじゃなくて、自分を納得させたいんだ。
いたいけな少女を犠牲にしてから死ぬより……。
今までみんなを救ってきたあの少女を。救われるべき存在を。かばって死ぬほうが、いいじゃないか。
なあ、イブ、どうだ。
俺は、少しは贖罪できたかな。
お前の所に行けるかな。
ぶぅんという音が大きくなり、冷気が流れ込む。気圧が変わったらしく、鼓膜が悲鳴を上げる。
今更ながら恐怖がこみ上げてきた。
この実験は、痛いのか、苦しいのか、すぐ終わるのか、長く続くのか。せめてそのくらいは聞いておけばよかった。
機械音に共鳴して、筋肉が痙攣を始める。体が異様なほど熱を持ち始める。熱い、なんだこれ、熱いぞ。
俺は後悔し始めていた。
やめろ、これ以上熱くなったら死んじまう。
熱い、痛い、熱い。
渾身の力を込めて、壁を叩く。
やめろ、やっぱり嫌だ、死にたくない!
開けろ、開けろ!
ドン、ドン、ドン。
熱い、痛い、アツイ、イタイ、イタイ
助けてくれ、イブ…… …… ……
…… ……
……




