第8章(2)
そこには、小難しい内容がびっしりと書かれていた。
『生物と無生物の境界については長く議論されてきた。恒常性の維持、外界からの明確な隔離、魂の存在など、生物の定義としていくつもの提案がなされている。
しかし近年、ユビグラム解析の登場により、新たな仮説が提唱された』
――それは「接頭詞」の存在だ。
接頭詞とは、ユビグラム配列の先頭にある特殊な三つ組のことらしい。
生物と分類される個体のユビグラム配列は、すべて同じ三つの記号から始まっている。
それは――
“クラフト・クラフト・クラフト”。
『不可解なことに、この接頭詞は生物が死を迎えた瞬間に忽然と消え去る。
そこから、接頭詞は生命を示す配列であるという仮説が生まれた。
本稿ではさらに一歩踏み込み、新たな仮説を提示したい』
「……“次元”の規定?」
俺の視線を追うように、ライズがその箇所を読み上げた。
「なんのことやら、さっぱりだねぇ」
ルークのぼやきに、みな無言で頷く。
だがキューだけは身を乗り出し、続きを読み進めた。
「――“次元”とは世界の階層を指す。その階層を接頭詞がコードしているのではないか。
つまり接頭詞とは、その次元に属する生物であることを示す標識ではないか――」
キューはそこで言葉を失った。
続く一文は、俺にすら意味がわかるほど危険だった。
『この仮説が正しければ、生物は異なる次元へ移行できる可能性を秘めている。
私の接頭詞を、ひとつ上の次元を示す接頭詞へ書き換えれば――
ユビグラムを操る神に邂逅できるのではないか』
――我々も神になれるのではないか。
重い沈黙が落ちる。
「いやぁ……これはまた、ずいぶんとマッドだねぇ」
ルークの軽口も、どこか引きつっていた。
「こんな研究、聞いたことがありません。博士の論文はすべて読みましたが、一度も……」
キューの声は震えている。
「最もやりたかった研究なら、表に出さず進めていた可能性はあります」
レムがメガネのフレームを持ち上げてそう言うと、みんな神妙に頷いた。
そしていまだ荷をあさっているサファーに注目する。
彼女の周りには、白い紙の山が築かれていた。あんな紙束をどこにしまっていたのか。その中から、きっちり紐で綴じられた十冊を長机に並べる。
「接頭詞だったんだよ、シフトくんが言いたかったのは」
紙にはびっしりと暗号が書かれていた。サファーはカラーペンを取り出し、はじめのみっつを丸で囲った。
「ここに十体のユビグラムがある。これらはみんな接頭詞が変えられているの。見て」
確かに、はじめのみっつの記号が、全部違う。略号は全く覚えていないため、なにを意味しているのかはわからない。
目を泳がせるとプリントの端に、手書きの字が添えられているのに気付く。
試験番号、実験動物の種類、試験日。
全ての紙束に記されている。
「犬がどうとか、言ってなかったっけ?」
ライズのつぶやきに、みんなの視線が一斉に動いた。「犬」と表記された紙束はすぐに見つかる。
ナンバー七十八、試験日二〇四〇年一月二十三日。接頭詞は…「グロウ・グロウ・クラフト」
ごくりと喉が鳴る音がした。
「″ぼくは犬だと思うんです″……か」
ライズが呟いたのは、手紙に書かれていた言葉だ。始め読んだときは意味がわからなかったが、今ならその意図が読み取れる。
博士は、神の次元へ至る接頭詞を、この三つ組だと断定したんだ。
そして、消えた。この世界から、消えた。
「博士は、自分の接頭詞を書き換えて、この世界からどこかへ消えた。そういうことでしょうか……」
「そんなことが可能なんですか?」
問われたサファーは腕を組み、答える。
「可能、だよ……理屈では、可能」
声を震わせながら、彼女は語った。
接頭詞を変える試みは、今までにされてきた。
接頭詞をいじると、生体は大抵死んでしまう。
だけど、ある組み合わせでは忽然と姿を消す……。
「それがどこに消えているかについては、誰も立証していない。立証する術がない。だからこの研究はここ二十年、全く進んでいなかったの」
たとえシフトの仮説が正しいとして、どんな世界に行けるというのか。
そこは俺たちが暮らせる世界なのか。
接頭詞の組み合わせは無数にある。
シフトは犬を選んだようだけど、その根拠は?
シフトはそこへ行って助かったのか。
「さっぱりわからない。わからないことだらけ」
サファーは珍しく取り乱していた。
彼女にわからないのなら、俺たちにわかるはずもない。
どうしようもない空気が流れていたとき、ライズが徐ろにペンを取った。
「博士が何故犬を選んだか。それは示せるよ」
近くの紙を引き寄せ、裏の白紙に線を書く。
長い直線に点を打ち、上に文字を書き始める。
三十八年七月、鶏、三十八年九月、ラット、三十八年十一月、兎……。
どうやら、年表のようだった。試験日の順に直線上に点を打ち、年月と種類を書き込む。
ライズは三十九年十一月、猿、四十年一月、犬と続けたあと、星マークを書き込んだ。そしてその上には四十年二月七日と記入した。
「この日付は?」
「スイッチが切られた日、だよ」
「……切られた日?」
そうだったっけ。俺は首を傾げる。
確か十年前と記憶していたが、明確な日付までは知らない。
どうやら疑問に感じたのは俺だけでないらしく、みな一様にいぶかしげな顔をしていた。
「ニュースが出たのは、夏頃じゃなかったですか」
「異常気象で猛暑になって……ユビグラムが大幅に変えられたことと、異常気象に関連があると言われ始めたのはもっと後ですよ」
次々と反論を口にする仲間たちの中心で、ライズは目を丸くしていた。
「きみたちは、誰も見ていなかったの? あの光景を」
あの光景? 俺たちは顔を見合わせる。
ライズは心外な様子で、深い溜め息をついた。
「……まあいいや。とにかくシフト博士は、神の元に動物が送られたなら、何らかの反応があると思っていた」
彼は年表の各点をペンで指していく。
「二ヶ月ごとにサンプルを送った。そして様子を見た。
――そしたら四十年二月七日、天からのメッセージが届いたわけだ」
彼は星のマークを指してから、前の点に戻る。
「反応までに、どの位の期間を要するのかわからない。だから遡って十件を候補にあげた。
犬に決めたのは、『神様の反応は早い』と予想したからだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
狼狽した声が話を遮った。
「ライズさんは、シフト博士の研究のせいで世界がこんなことになったと仰りたいんですか?」
「そうだよ。神様がお怒りに、ていうのはあながち間違いじゃなかったんだねぇ」
「そんな……」
キューは絶句する。尊敬していた、博士の罪。
それは彼の世界を百八十度変えてしまうほどの事実なんだろう。
力なく項垂れる姿は、それを物語っていた。
ライズの話は、俺の頭にもガツンと一撃を食らわした。
なんだよ、それ……。
シフトという異常者は、『神になりたい』とかいう目的のために、神にちょっかいを出したのか。
それで世界がめちゃくちゃになった。
しかも本人はどこかに逃亡済み。世界の混乱について、知りもしない。
「まあともかく、ぼくたちが助かる可能性は示されたね」
ライズは満足げにペンを置く。
「接頭詞、シフト博士は犬を選んだみたいだけど、ぼくたちも同じものを選ぶ必要はないよ。よく考えようね」




