起ー【1】
赤茶けた草原地帯に、一本の枯れ木が立っていた。なんの変哲もない枯れ木。その影に、息を潜めてしゃがんでいた。
俺は石だ。石は呼吸なんてしない。意識すると呼吸が乱れて苦しくなる。俺はゆっくり深呼吸をした。
石は汗もかかない。しかしムンとした熱気の中、汗が背中を伝うのを感じる。
結局俺は、石になりたくてもなれない。その不甲斐なさに心の中で歯噛みをしながらも、俺は目の前に意識を集中し続けた。
視線の先にはまばらに生えた草に隠れて、穴があった。中には、鼠の死体が転がっている。この熱気の中、それは腐りはじめて臭気を放っていた。
来た。心臓が縮み上がった。視界に鮮やかな色を捉えた俺は、そっと剣を構える。
俺は石じゃない。機械だ。正確に、確実に、これを振り下ろすだけの機械。
極彩色のモノが穴に近付く。長い八本の足を器用に曲げながら穴に収納されていく。
まだだ、完全に入ってから……。心臓が高鳴り、汗が額から噴き出す。くそ、オイル漏れかよ。俺は機械にもなれないなと自嘲した。
機械じゃなくとも、仕事はこなせる。俺は考え直した。
俺はハンターだ。ハンターは人間だ。息もすりゃあ汗も出る。その考えに満足した俺は、獲物が穴に完全に隠れるのを確認して、腕を振りおろした。
確かな手応え。剣先は見事に穴の中央をとらえた。両手で柄を掴み、ぐりぐりと押し込む。獲物が穴から這い出てくる様子はない。
やった。俺は安堵の息を漏らすと、向かいの木陰に手を振った。勢い良く立ち上がる影。大きなシャベルと麻袋を抱えた少女が突進するようにやってきた。
「イブ、ここだ」
剣の刺さった場所を示すと、彼女は地面にシャベルを突き刺す。深く蹴り込んで穴の周囲を大きく抉りとると、俺が広げた麻袋にそれを放り込む。
袋に殺虫スプレーを吹きこんでしばらく待つ。流石にこれで絶命しただろう。剣を引き抜くと、先にべっとりと紫の液体がこびりついていた。革手袋をはめた手で丹念に清掃し、使った布やらを麻袋に放り込んだ。
「やったねチャフ! 任務完了!」
ハイタッチを要求している様子だったので受けてやる。ぱしんと小気味よい音が響いた。
「もう、暑くて死にそう。早く帰ろうよー」
俺はその提案に全面的に同意する。開放感に浸るのは後でいい。麻袋を背負うと、先を行く少女に続いて歩み出した。
草原地帯を下り、荒れた区域に踏み入る。瓦礫やら木片やら、砂利やら泥やらごちゃごちゃにかき混ぜられたような地面をよたよた進むと、住宅地にたどり着く。
住宅地といえど、人気はない。主の居なくなった家屋をすり抜けて、俺たちは小高い丘に上る。そこには、立派な門と、頑丈そうな塀があった。
門をくぐると、内側にはレンガ造りの背の高い建物が幾つか並んでいる。枯れ果てた並木道をしばらく進むと左手に小さなコンクリート製の建物があった。
俺たちは迷いなくその殺風景な建物に向かい、重たい金属製の扉を開け放つ。さわっと心地よい冷気が足元を吹き抜けた。
「おかえりなさい」
いくつかの声に出迎えられる。ここは違う世界のように涼しいな。俺は外の熱気が入らないよう急いで扉を閉めた。
中は十畳ほどの小さな空間が広がる。声の主は、一つしかないソファに群がるように座る子供達だった。
俺たちは適当に返事をしながら、奥の机へ向かった。
「リーダー、任務完了しました」
イブが溌剌とした声で告げる。窓の外を見ていた赤毛の男が、ゆっくり振り返った。
「おかえりぃ、よく釣れた?」
「うん。チャフが一発で仕留めてくれたよ!」
「そっかあ、さすがだねぇ」
にんまりと目を細めて、男は俺を見た。褒めているんだろうが、こいつが言うと小馬鹿にされてるようにしか思えない。
こいつが、今日俺たちにネズミの肉での『釣り』を命じた男だ。ライズという名前の、長身の男。歳はいくつくらいだろう、目の下にくっきりと浮き上がった隈のようなシミが、老けたようにも見せ、また若くも見せた。
「ぼくの言った通りだったでしょ? あの蜘蛛は腐ったネズミが大好物なんだ。人間のにおいなんて気にならなくなるほどね。ぼくが焼き魚のにおいに敏感なのと、同じ事だねぇ」
人より幾分長い耳をぴょこぴょこさせて、ライズはさらに目を細めた。焼き魚の妄想でもしているんだろうか。先端だけ毛の生えた尾をゆらゆら振って機嫌が良いことを示している。
奇妙な静寂が流れた。
「で、この獲物、どうすればいい?」
俺が乱暴に言うと、彼はゆったりとした動作で階段を指差す。
「サファーが地下で待ってるからぁ、早く届けてあげて」
すんごく待ってたよ、すんごく、と間延びした口調で続ける。待たせてるのは俺たちのせいだと言わんばかりの態度に、俺はムッとする。
今、さらに待たせてるのはお前のマイペースな言動のせいだぞ。どっと疲労を感じて、俺は無言で階段へ向かう。早く終わらせて涼みたい。
「急いで届けてくるね」
イブは律儀に返事をして、俺の後ろに付いてきた。
地下は上よりさらにひんやりとしていた。最低限の明かりしかないため、辺りは暗い。俺たちは、あちこち分岐した迷路のような廊下を進む。
十畳ほどしかない地上と比べて地下はやたら広く入り組んでいる。アリの巣みたい、と当初は面白がったものだが、今はただ面倒なだけだ。
俺たちは迷うことなく道を辿り、ひとつの扉の前にたどり着いた。ノックしようと手を伸ばした瞬間、扉が自動的に開く。
予期しない動作に、避けるのが遅れた。指に鋭い痛みが走る。
「!!!!」
「大丈夫?!」
言葉にならない悲鳴をあげた俺に、イブが慌てて駆け寄る。対して、ドア越しに聞こえたのは至って事務的な声だった。
「あっ、すいません」
悪びれた様子のないその声に、わざとやりやがったな、と思う。声の主は改めてドアを開け放つと、再び事務的な口調で言った。
「お待ちしていました。どうぞ」
どうやら、詫びはさっきの一言だけで終わってしまったらしい。じんじん痛む指とやりきれない気持ちを腹に抱えて、俺は部屋に踏み入った。
「遅いですよ」
面を合わせた部屋の住人は、謝るどころかご立腹だった。
「お約束の期限から十五分も遅れています。困ります、こういうの」
俺より頭一つ分小さい少年が、満面に不快の色を浮かべてのたまう。十五分か、それならライズの話に付き合わなけりゃ間に合ったかな、と考え始めて俺はかぶりを振る。
いや、違うだろ、そういうことじゃないだろ。
「十五分くらい良いじゃない。別に緊急の仕事じゃなかったよね?」
そうだよ、俺が言いたかったのもそれだ。俺の合意とは対照的に、相手はさらに不満そうな顔をすると、イブにずいと詰め寄った。
「そういう姿勢が困るって言ってるんです。どんな仕事であれ迅速にこなしていただかないと、どこでしわ寄せが来るかわかったものじゃない。いいですか……」
少年は深呼吸をひとつして、言葉を切った。やばい、と俺は思った。これはこいつの癖、説教モードに切り替わる合図だ。
「先生の研究が滞りなく行われることが、僕たちが生き残る唯一の道なのですよ。今の状況が、一刻の猶予もないことはいくら楽観的なあなたがたでもわかっているでしょうが……」
やっぱり始まってしまった。ヒートアップしてしまうともう止まらない。声変わりしていない高音でまくしたてられる言葉には、なにか得体のしれない恐怖を感じる。幼少期のトラウマだろうか、それとも人類に共通する防衛本能の一種だろうか。
「……本日の最高気温、聞きましたか、ついに六十度の大台に突入したそうですよ。六十度ですよ、六十度! 生きていけませんよ、とんでもない話です……」
きっちり切りそろえられた銀髪を振り乱し熱弁は続く。ああ、そういやあ今日は暑かったな。痺れ始めた頭で考える。
こいつ、こんな涼しい部屋にずっといたくせに良く知ってるじゃないか。外に引きずり出してやりたい気持ちに駆られたが、それは後々のお楽しみに取っておこうと思った。
「聞いてるんですか、チャフさん。私が思うに、あなたのような人間が一番問題なんですよ。あなたのような無気力な人間が全体の指揮に及ぼす影響は……」
いつの間にか、矛先が俺の態度に向かっているようだ。いつものことなので、腹立たしい気持ちも起きない。適当に相槌を打ちながら聞き流す。
説教モードもこの話題まで来ると佳境だ。さて、なんの話から始まったんだっけなと考え始めた頃、奥の部屋から声がした。
「キューくーん?? 誰か来てるのー?」
銀髪の小僧はぴたりと話をやめると、大声で答える。
「先生、蜘蛛ですよ、蜘蛛」
「蜘蛛?」
素っ頓狂な声とともに、ドアが蹴り開けられた。現れたのは、歩く紙の山……ではなく、紙の山を埋もれるように抱えて歩く白衣の女。彼女は、器用に足でドアを閉めると、もう一度とぼけた声で言った。
「蜘蛛??」
「捕獲を依頼していた奴ですよ、先週犠牲者が一人出た」
「ああ!」
ようやく合点がいったらしい。ばらばらと白い山を崩しながら、俺たちに視線を向ける。
「ありがとう、早かったね! そこに置いといてくれる?」
女は分厚いメガネの奥から、満面の笑顔を見せる。俺は麻袋の口を縛り直して机に置いた。なんか、話が違うじゃねぇか、と銀髪を睨みつけるが、小僧は素知らぬ顔でそっぽを向きやがる。
「ごめんね、いまちょっと忙しくて。キューくん借りるね。あとでお礼に行くから戻っていいよ」
メガネの女はやんわりとそう告げると、キューの前に紙束をぶちまけ座り込んだ。この女が忙しいと言うなら本当に忙しいんだろう。俺たちは一礼してから、そっと部屋を後にした。