第6章(5)
気付けば、俺は薄暗い部屋にいた。
椅子に座っているらしい。
横を見ると、長机と、赤い頭。
正面にイブが座り、図鑑を熱心に読んでいる。
……図書室だ。
俺たちの、いつもの場所。
「イブ……」
なあに、と彼女は顔を上げる。
何か話したいことがあったはずだ。
そうだ、ライズが――
「お前の言ってたこと、本当だったな」
私が? と首を傾げる。
「ここを出るんだって。お前、言ってたろ。あいつ、どこかへ行く気がするって」
うん、ひどいよねぇ、お兄ちゃん。
ぷう、と頬を膨らませる。俺はその仕草が好きだった。つついてやりたいとか思いつつ、なかなか実行できないでいた。
「付いて来ないかと言われたんだ」
俺がそう呟くと、イブは頬を萎ませてキョトンとする。
……どうするの?
「どうしようかなあ」
俺は机に突っ伏して、微睡み始めた。
「お前言ってたろ、ライズを助けてあげてって……だから俺さあ……」
……行くの?
「うん……行こうかなと。だってさ、ここにいてもお前、いないし……」
…………。
「イブ?」
黙ってしまった彼女に、不安感がこみ上げる。慌てて顔を上げた先には、俯くイブがいた。
……行くんだ? お兄ちゃんと、行くんだ?
「だってお前、助けてあげてって……」
……行くんだ? 私を置いて行くんだ?
泣いているのか、ポタポタと液体を垂らす。慰めようと手を伸ばしたとき、腐臭がツンと鼻を刺した。
……どうして、私を置いて行くの。どうして、どうして、どうして。
イブの全身から、ドロドロと液体が流れ落ちる。俺は悲鳴をあげた。だけど何故だか体は硬直して動かない。
「お前も連れて行きたかった、連れて行きたかったんだ!」
……嘘! 嘘! 助けに来てくれなかったじゃない、嘘つき! 嘘つき!
嘘じゃない、嘘じゃない、俺は本当に……。
イブはぐちゃぐちゃに溶けた腕をこちらに伸ばす。俺は覚悟を決めて目を閉じた。
しかし、次の瞬間。ぽふっと頭に柔らかいものが触れる。
え、と声を漏らして、前を見る。
すると、目の前のイブは溶けてなんかいなかった。優しい笑みを湛えて、俺の頭を撫でていた。
「……イブ……?」
彼女は、応えない。ただ笑顔で頭を撫で続けた。
「……」
俺はなんだか心地良くて、そのままふわりと意識を浮上させる。
「う……?」
頭に違和感を覚えて、目が覚めた。
もぞもぞと撫でられている感触がある。
あれは夢の中の出来事じゃなかったのか?
華奢な腕が見えた。黒い布が掛かる膝を辿って行くと、すっかり見慣れてしまった顔があった。
「ノギス……?」
黒髪の少女が、無表情で俺の頭を撫でていた。
「何やってんだ……」
身を起こそうとして、頭痛に見舞われた。脈打つような激しい頭痛だった。
なんだよ、熱か? 傷口に菌でも入ったか……。
押さえつけられるように寝かされ、額に冷たいタオルを当てられる。
俺は大人しく横たわり、ぼんやりと彼女を眺めた。
相変わらず、何を考えてるのかわからない。
どうしてこんなに熱心に俺の看病を続けるのか。サファーに言い付けられたんだろうか? それにしたって、過保護すぎるだろう。頭なんか撫でて……。
ふと黒い瞳と視線が合った。俺は恥ずかしくなって目を逸らした。
「お前、ずっといたのか? 部屋に帰らなくて大丈夫なのかよ……」
彼女は応えない。
そういえば、声を聞いたことがないな。もしかして、喋れないのかもしれない。俺は思い切って尋ねてみた。
「なあ、お前……言葉はわかるんだろ? なのに、喋れないのか?」
ノギスは首を傾げたあと、わずかに頷く。
「痛覚がないとか、感情がないとか、言ってたな……声も取られちゃってんのか」
また、ゆっくり頷いた。
「……そっか」
俺は視線を天井に向ける。
……どういうつもりで撫でていたのかは知らないが。
夢の中の光景が頭をよぎる。
多分あの時から、頭を撫でていたんだな。あのおかげで、見ていた悪夢がいい夢に変わったんだ。
きっと俺はうなされていたんだろう。苦しんでいる俺を見て、そんな行動を自然と取ったのだとしたら……。
ノギスに痛覚がないなんて、本当だろうか。ふと疑問が浮かんだ。
痛みがわからない奴に、他人の痛みがわかるものか?
『……ノギスは、一般的なヒト型ユビグラムを再現した実験体で……』
ユビグラム解析師は、ヒトをコードするユビグラムの解析に成功し、人造人間を作り上げるまでに至った。
『……痛覚や感情を示すユビグラム領域は除去していて、何も感じないの』
あんだけ堂々と語ったんだから、充分な根拠があるんだろうな。
しかし。本当に、そうなのか?
本当に、ノギスに感情がないと言えるのか?
人間は腕を失ったとき、あるはずのない腕の痛みに苦しむことがあるという。その原因は定かではないが、違う部位に痛覚が移ってしまった結果とかなんとか。図書室の本で、読んだ気がする。
ユビグラム解析師は神じゃない。ユビグラムがもしヒトの全てを書き表していたとしても、彼らがその全てを理解できているとは思えない。
感情回路を除去されたノギスに別の回路ができていないと、本当に言えるのか?
もしかしたらノギスは、俺たちが感知できない痛みに苦しんでいるのかもしれない。
感情を表に出す経路だけ閉ざされて、内側では地獄のような苦痛に苛まれているのかも。
人間からしたら、何を感じているのかわからない動物達のように。ノギスでなければわからない何かがあるのかもしれない。
「なあ、ノギス……。お前も、行くのか?」
首を傾げる彼女。まあ、行くに決まってるよな。サファーたちが行くんなら。
『……無意味な動物実験をしなくても良くなったの……』
悲痛な声が、脳裏をかすめた。
ノギスは身を呈して、動物実験から動物たちを、そして俺たちを守っているのかもな。
今も彼女は苦しんでいる俺を労わって、一睡もせずにここにいる。
「ヒト型ユビグラム完全再現体」、か。
もし人類に救われるべき者がいるとしたら、他でもないこのノギスなのかもしれない。
神を怒らせたユビグラム解析が生み出したのが、神に愛されるべき人間とは……なんとも皮肉な話だ。
頭痛は依然として治まらない。俺は目を瞑って、ただひたすらに痛みと格闘した。
俺が気付かないうちに、また静かに夜が明けていく。




