第6章(4)
「なにやってるんですか」
ぴた、ぴた。
「馬鹿じゃないですか、あなた」
湿った綿がこめかみに押し当てられるたび、激痛が走る。思わずうめいた俺に、綿の動きがわずかに止まった。
「自分でやったんでしょう。我慢してください。爪って雑菌の溜まり場なんですよ」
「知ってるよ……」
投げやりに返すと、キューは短くため息をついて作業を再開した。
「じゃあ我慢してください。病気になりたくなければね」
うるせえ。努力してんだよ、これでも。
睨みつけても、あっさり受け流される。相変わらず癪に障るやつだ。
ここは地下三階の最奥、サファーの研究室手前の準備室のような部屋。
ライズに連れられて、俺はここへ放り込まれた。
「この人、見苦しいからなんとかしてあげて」
顔を見るなり、ゴキブリでも見つけたみたいな悲鳴を上げたキューのことは一生忘れない。
「自暴自棄になっちゃ駄目だよ、チャフくん」
机に向かったまま、ルークが言う。
「諦めたら終わりだよ。希望は常に持たなきゃ。まだ若いんだから」
消毒が終わり、ノギスが包帯をキューに手渡す。顎から頭頂部にかけてぐるぐる巻かれる。余った布を切り落とし、処置は終了。
終始、手荒だ。
まあ、文句を言える立場じゃない。
「できた」
ルークが小さく呟き、手首をひらりと振る。
紙切れが舞い、床へ落ちる。紙飛行機だ。
「リーダーみたいに飛ばないなあ」
ルークがひょこひょこと回収に向かう。書棚の指人形を狙ったらしい。
「もっと手首を使わなきゃ。折り方も下手」
本から顔を上げて、ライズが呟く。彼は小さな明かりの下で読書をしていた。何を読んでるのか、タイトルは見えない。
ふと時計が目に付いた。短針が十二時を指している。空気的に、たぶん夜だろう。
これは何の集まりだ。
真夜中に紙飛行機大会、というわけでもあるまい。
部屋を見回していると、肩を叩かれた。見ると、ノギスが俺に何かを差し出している。
肉団子だ。そういえば、ずっと何も食べてなかった。思い出したように腹の虫が鳴く。
「ありがとう」
相変わらず食欲はなかったが、食べることにした。慣れ親しんだ苦味が広がる。よっぽど空腹だったのか、旨いと思ってしまった。
室内は静かだ。微かにラジオの音声と、奥の部屋から機械の排気音が響く。そしてルークが紙切れと格闘する独り言が虚しく反響していた。
処置が終わった俺は用済みか?
帰れとも、ここにいろとも言われず。
指示待ちの癖が抜けない。自分で動く気力もない。
所在なくそわそわしていると、廊下から異音が聞こえた。ペタペタと足音が近寄って来る。
「リーダー! やりました!」
勢いよく扉が開き、飛び込んできたのはロミとレム。ロミは正面にいた俺と目が合うと、あ、と表情を強ばらせ、松葉杖を脇に入れた。
「いいんだよ、彼は今日から仲間だから。報告して」
「は、はい」
ライズにそう言われると、ロミは両足でしっかりと直立し、敬礼のようなポーズをとる。
「無事、開通しました。先十キロ障害物なしです」
「そう。よくやってくれたね」
「いえ、遅くなりましてすみませんでした。明日からは補給所の設置に取り掛かります」
「うん。今日はゆっくり休みなよ」
ビシ、と敬礼を決めて、ロミとレムは部屋を後にした。
開通? なんの話だろう。
その前に、ロミは足を負傷しているんじゃなかったのか。
負傷してるフリをしていた? 何故だ。
疑問符をたくさん浮かべて周りを見るのだが、何の説明もない。
ライズは手元のラジオをいじっている。地下三階ともなると、放送はほぼ雑音だ。それでも、奇跡的に受信できるポイントがあるらしい。わずかに言葉が聞こえてくる。
『……区に、指定、……ました。ルノ区が、……放棄、津波が……復興の見込みが、……』
「良い事は続くものだねぇ」
ライズはにやりと邪悪に笑う。
「追い風だよぉ。ぼくたちの門出は近いねぇ」
いやあ、ついに、ついにですねぇ、などとルークも手を震わせて呟いている。
「私、先生にお知らせしてきます!」
キューまでも、興奮気味に立ち上がった。
一体何が始まるんだ? 門出? まさか、こいつらは。
今まで俺を無視していたようだったライズが、突然こちらに目を向けた。
「そろそろ興味が出てきたかな、ぼくたちに」
にやついた顔が、無駄に神経を逆撫でする。
気になるに決まっている。みんなが寝静まった真夜中にこそこそ集まって、何を企んでいるんだ。
俺は、慎重に口を開いた。
「……ここを出るつもりなんですか?」
「うん? まあ、そうだね。相変わらず察しがいい」
あっけらかんと、とんでもないことを言う。
ここを出る?
出て、どこへ行く?
外は地獄だ。何時間も滞在できない。ここだって安全とは言えないが、少なくとも冷房はある。外へ出るなんて、無意味に寿命を縮めるだけだ。
「どうして、そんな危険なことを……」
「危険?」
ライズは目を丸くした。
そして次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「危険、危険ねぇ……」
笑いすぎて涙まで浮かべている。
俺はただ呆然と立ち尽くす。
ひとしきり笑ったあと、ぴたりと止まる。
その切り替わりが、ぞっとするほど早い。
「外は危険で、ここは安全だって思ってるわけだ」
「え……」
安全とまでは、と思いかけたが、ふと気付く。
実際のところ、俺は安心感を抱いていなかったか?
同じ境遇の仲間がいて、繰り返される日々。目が覚めて、地上に向かえばイブがいて、一緒に仕事に行く。そんな生活が永遠に続くのだと、漠然と思っていた。
何故そう思っていたかというと、他でもない。
ライズが、リーダーが暢気に笑っていたから。
「ここが安全で安心な家だと思ってるんでしょ?」
そのライズが、挑戦的な目で俺に言い放つ。ばーちゃんが聞いたら卒倒しそうな台詞を。
「ぼくは一度も思ったことはないね。何か起こったら、すぐにこんなところは壊れちゃうんだ」
天災、飢饉、伝染病、暴動……あっけないものだよ。
そう言いながら、だんだん笑みが消えていく。
やがて彼はノギスのような無表情になりながら呟いた。
「ここはね、吹き溜まりなんだよ。嵐の中に偶然できた、小さな小さな吹き溜まり」
――でもね、こんな小さな吹き溜まりでも。
もう先がない人に、安らかな死を与えてあげることくらいはできる。
「ここは言わばお墓だよ、ぼくが彼らのために作ってあげたお墓」
「リーダー……」
ルークが気遣うような視線を向ける。
重い空気が流れる中、ライズは突然拳を机に叩きつけた。
「墓、墓なんだよ、ここは墓。それ以上でも、以下でもない!」
顔を上げた彼は、再び野心溢れる笑みを張り付かせていた。
「この世界にはまだ、死よりも面白いものがあるんだよ。ぼくたちはそれを見に行く……」
「…………」
笑っていると思ったのに、次の瞬間には鋭い眼光で虚空を睨む。こんなにくるくる表情が変わるライズは初めてだ。
「このまま、大人しく死んでやるものか。コケにされたままだと気分が悪い。そうでしょ?」
ドスの効いた声が腹に響く。俺は口を挟めずに、ただ観賞するだけだった。
今のライズは、まるで感情をむき出しにした獣だ。
彼は最後に、ニンマリと笑ってみせた。それは五年間俺たちに見せ続けた、リーダーの余裕溢れる微笑みだった。
「チャフ。きみもおいでよ、連れて行ってあげよう……きみが望むなら、だけど」
どうして安心感を覚えてしまうんだろう。
得体が知れないのに、こいつの笑みには不思議な魔力があった。
こいつに付いて行けば大丈夫。そんな気持ちにさせられる。
「きみがここで、より良い死を妄想しながら一生を終えたいというのなら、無理は言わないけどね」
考えておいてね、と言う言葉を区切りに、俺は先ほどまでいた個室へと帰された。詳しい話はまだ聞かせられないと言うことだろうか。
特にすることもないので、とりあえず布団に入る。同時に、今まで大人しかった肩の傷が痛み出した。
なんだよ、今それどころじゃねえんだよ、静かにしろよ。
同調するように始まった耳鳴りと、痛み出した頭を抱えて寝転がる。
……なあ、イブ。あいつら、出ていくんだってよ。
……お前が言った通りだな。
俺は数日前にイブと交わした会話を思い出していた。あれは数日前なんだよな、信じられないことに。
『……きみが望むなら……』
ひどい言い方だ。
仕事だ、付いてこい、と命令してくれればいいのに。
俺にはもう、望みなんてない。
そんなこと、わかるだろ。
灯りがゆらゆら明滅する。
ロウソクみたいに。
それを見つめながら、俺の意識はゆっくりと沈んでいく。




