第5章(4)
入院ってのは、こんな感じだったのかな。
白いベッドに、ベージュのカーテン。白い壁を直線で区切る窓の向こうには、街の賑やかな風景が広がっている――。
そんな「入院」のイメージとは似ても似つかない地下の一室で、療養中の俺はふとそんなことを考えた。
「チャフちゃん、大変だったねぇ。大丈夫かい?」
シブレットが帰ったあと、ひょっこり現れたのはリチア婆ちゃんだった。カルラやハナじゃなく、なぜか彼女ひとりだ。
「どうして若い子から居なくなっちゃうかねぇ。婆ちゃんなら、いつだって代わりになるのに……」
そう言って、はらはらと涙をこぼす。
俺の前で、見せつけるように泣くなよ……。
俺は黙って顔を伏せた。
正常だった世界。イメージ通りの入院をしていた頃も、こんなふうに思いがけない客が来たんだろうか。
次に来たのが、ひどかった。
珍客中の珍客。激レア種と言ってもいい。
「こんにちは」
柔らかい女の声。
暗がりから現れた姿に、心臓が凍った。
「お加減いかがかしら」
上品に腰を下ろしたのは、反省室出のお騒がせ女、サリーだった。
「大変でしたね。あなたの話を聞いたとき、私、涙が止まらなくて……同じような不幸でしたから」
目尻に指を当てる仕草が、わざとらしくて鳥肌が立つ。
「私、あなたとなら分かり合える気がして……」
潤んだ瞳から目を逸らす。
そりゃあ気のせいだ、と言ってやりたかったが、面倒なのでやめた。
何しに来たんだ。
サリーは落ち着きなく視線を泳がせる。目がギラついていて怖い。青年組にいたころの、物腰柔らかな印象はどこへやらだ。
沈黙が落ちる。
「あの……あなたにお知らせしたいことがあって」
のろのろと顔を上げると、彼女の瞳は一層ぎらついていた。
「聞きました? あなたが運ばれてきた時のこと……」
声をひそめ、背後を気にする仕草がいやに芝居がかっている。
「ちょっとした騒動があったんです。シブレットがリーダーを殴ったって、聞いてません?」
「えっ」
俺が反応すると、サリーは嬉しそうに身を乗り出した。
「あなたを担いで帰ってきたシブレットを見て、リーダーが言ったんですよ。『どうして拾ってきたの?』って。ひどくないですか?」
ヒステリックにまくしたてる。
「妹さんが亡くなったって聞いても、『そう』の一言で終わらせたんですよ。あの人、おかしいわ!」
人間の血が通っていない。獣人だからだ。
あなたを見る冷ややかな目を、見せてあげたかったわ。
そう語る彼女は、妙に生き生きしている。
「シブレットが殴ったとき、すかっとしたわ。本当に、みんな怒っていたんだもの」
まあ、シブレットならあり得る。
俺はその光景を思い浮かべた。さっき来たあいつらは、そんな態度を微塵も見せなかったが――俺を気遣ってくれたんだろう。
それに比べて、この女は。
「危険な森に行かせるなんて頭おかしいわ。ニールだって、イブだって、殺したのはライズよ。あいつの指示のせい。
ねえ、あなたと私でみんなを説得しましょうよ。リーダーを変えた方がいいって。私たちが言えば、説得力があるわ」
それが目的か。
話が見えた瞬間、急にどうでもよくなった。
少なくともお前に説得力はねえよ。
枕元のラジオを手に取る。
ラジオは嫌いだが、この女の話よりはマシかもしれない。
俺はスイッチを入れ、ボリュームを上げた。
『……巨大な虫獣による人身被害が全国的に多発しています。本日お集まりいただいた方々で議論を――』
随分タイムリーだな。
巨獣被害は、どうやら俺たちだけの話じゃないらしい。
「……」
サリーの顔が鬼のように歪む。
乱暴に立ち上がり、怒りを足音に乗せて部屋を出ていった。
あの女は、どうにかしてライズを悪者にしたいらしい。
ラジオのボリュームを落とすと、反比例するように思考が膨らんでいく。
誰かに責任があると思い込み、誰かを恨むことで心が軽くなるのなら……それは一種の防衛反応なのだろう。
生き延びるための、やむを得ない選択。
現にサリーは生き生きしている。
見ていて腹が立つほどに。
俺の中で、喪失感がじわじわと膨らんだ。油断すれば、すぐに溢れ出しそうになる。
だって、イブはもういない。
今まで俺は、イブがいたから生きていられた。
俺が生きる理由も、死ぬ理由も、イブなしでは成立しない。
では今の俺は、生きているのか、死んでいるのか……。
背中がぞわりと粟立つ。
犬熊から逃げて丸まっていたときと同じ感覚だった。
俺から広がるのは「無」。
生きる理由も、死ぬ理由もない、ただ空白だけの世界。
どうして、こんなことになったんだ。
サリーの言う通り、ライズが悪いのか?
いや、それはあまりにも短絡的だ。
あいつがリーダーになったのは五年前。
周囲が不甲斐ないから、仕方なく立ち上がった素人だ。
指示が悪かった?
完璧な指示を出せる人間じゃないことくらい、わかるだろう。
むしろ、今まで立派に務めてくれていたことに感謝すべきだ。
それに、森での収穫は必要不可欠だ。
危険があるからといって即中止などできるはずがない。
「どうして拾ってきたの」と言ったという話も、至極当然だ。
イブがいない場所に、俺の居場所があるはずがない。
それをライズは理解していたのだろう。
俺だけ拾って帰れば、不幸が増えるだけだ。
サリーのように壊れる可能性もある。
そう考えるのは、むしろ冷静だ。
妹が死んだのに悲しんでいない――なんてのは、あの女の妄想だ。
あいつは感情が薄いだけだ。
サリーの目で、ライズの感情が読み取れるわけがない。
あの、ほんの一瞬の曇り。
あれが奴なりの精一杯の悲しみだったのではないか。
もしライズが泣き崩れていたら?
サリーは「頼りない」と言っただろう。
俺には、ライズに責任を押しつけることはできない。
なら、誰ならいい。
俺を拾って帰ったシブレットか?
いっそ放置してくれれば、俺は今ごろイブと一緒に土に還れたのに。
……いや、流石にそれは逆恨みだ。
それを言うなら、シブレットが来たときに息絶えていなかった俺が悪いのだろう。
ぐるぐる回る思考を掻きむしる。
なんて非生産的だ。カロリーの無駄だ。
そういえば飯を食っていない。
腹が減ったな。
『……巨獣たちは、どうして人を襲うんですかねぇ……遺体は半壊したり、全壊したり様々ですが、仕留めた巨獣の胃には人間が消化された跡がないって話じゃないですか』
『……遺体が引きずられて投げられたり、子獣の玩具になっているという目撃例もあります。もしかしたら、憎しみからくるものかもしれませんね……』
『人間を憎んでいる? ……まさか、人間を殺せば世界が元に戻るとか考えていないでしょうなぁ……はは、まさか、バカげた話です……』
気を紛らすために、放送に耳を傾ける。
「人間を殺せば、世界が元に戻る」か……。確かに、それが一番の策かもしれないな。
もし本当に神さまがお怒りなら、怒りを鎮めるにはそれしかないだろうよ。
『……次のテーマですが、各国のユビグラム解析師の扱いについて。隣国ではユビグラム解析師の処刑が始まったそうですが。我が国も行うべきですかね……』
『私は賛成です、神のお怒りを鎮めるために、大々的に……古式に則った、罪人を神に捧げる儀式、あれ、なんて言いましたっけ……あの方式で…………』
またくだらない話を。放送を止める。
ラジオを枕元へ放り、天井を見上げた。
あいつら、自分たちが巨獣と同じことを言っているとわかっているのか。
むしろ巨獣のほうが理にかなっている。
ユビグラムの恩恵を享受し尽くした末に、今さら善人ぶるつもりか。
「無能」を「善良」と言い換える図々しさ。
吐き気がする。
こういう話を聞くと、犬熊を憎む気が失せる。
犬熊だけじゃない。
人間以外は、みな被害者だ。
被害者が加害者を憎むのは当然だろう。
イブじゃなくてもよかっただろう、とは思う。
だが、それを言っても意味はない。
俺たちが奴らの区別がつかないように、奴らも俺たちを区別できない。
同じ人間だ、憎むべき、敵……。




